相談回答集について


《癒しの杜の会》主宰  曽川 和翁(米国イオンド大学教授・哲学博士・医事評論家)


 これまで《癒しの杜の会》に寄せられた会員の手紙やメールによる声の実際と、会員談室宛に送られて来た質問相談などに対し、回答した内容を更に明確にしたものです。
 そしてこれには、相談やそれ等の質問応答に対し、以下のような補足説明を加えましたので、これを充分にお読み頂き、これ等を念頭に置いて、ご理解頂だければと思います。

 さて、多くの日本人は、人間の棲(す)む「この世」、つまり現象人間界が、因果応報(いんがおうほう)によって、様々な現象が起ると信じています。
 例えば、善い事を行えば「善い結果」が生じ、悪業(あくぎょう)を働けば「悪い報(むく)い」があるというような、過去における善悪の業(ごう)に応じて、「今日の結果がある」というような考え方に支配されています。

 しかし、果たしてそうでしょうか。
 それは、「善い行い」や「悪い行い」を人間側の判断で解釈しているからです。

 現在に現象化する幸・不幸の果報(かほう)は、果たして過去の「原因」が、現在の業(ごう)に応じて、未来に果報を生ずるという「結果」を生み出しているのでしょうか。そして、多くの人は安易に考える、原因があるから、それに応じて結果が生ずると、自然科学から導かれる弁証法的公式に当て嵌めて、以上の考えを結論付けます。
 しかしこれは、早計でなないでしょうか。

 私たちは長らく、資本主義社会や科学万能主義の考え方に汚染されて、物質的かつ唯物的思考を優先させて来ました。ところがこうした思考法は、暗礁(あんしょう)に乗り上げて、行き詰まりを見せ始めました。それを雄弁に物語るものが、地球汚染や自然破壊等です。
 人類は二十世紀に於いて、二度も大きな戦争を行い、戦争を背景とした科学力で科学万能主義を打ち立てました。そしてこの恩恵に誰もが浴したのです。豊かで、便利で、快適な生活空間の追求は、その一方で地球汚染やオゾン層破壊等に繋(つな)がって行きました。

 この結果、表面化したのが、近年に見る大型台風や巨大地震や大津波の発生です。こうした現実を見つめると、必ずしも、物質至上主義が大自然を支配し、管理していると言う事が疑わしくなって来るのです。

 これは唯物史観的に、あるいは唯物弁証法的に、現象人間界を、一種の自然科学の目で見詰めてみると、必ずしもそうではないと言う事が分かります。その奥に霊的世界は控えている事は分かります。

 例えばそれは、精神病等に見られます。
 精神病は、他の慢性を伴う内因性疾患や、緊急を要する外科的な疾患とは、全く異なるからです。発病する病因や変質が、患者自体の体内に、その原因となるべきものが、生まれながらにして、何処にも存在してないのです。際立った肉体不調がないにも関わらず、ある日、突然、病変が発生するのです。
 今日でも、一体こうした要因が、何処に存在するのか明確な回答が出来ていません。

 そして現在では、「統合失調症」といわれる病気は、ガン疾患に続く、あるいはそれに匹敵するくらいの、大変な不治の病であるという事なのです。
 ここに唯物弁証法を用いて、その物質的「物指し」で、この病気を計ろうとしても、自然界において、認識されうる運動発展の一般法則(弁証法的唯物論を説く自然弁証法)は、悉々(ことごと)くが適応しないのです。つまり一般法則の弁証法的手順に従うと、原因が結果を生じると言う論理が成り立たなくなってしまうのです。
 それは不可視世界のものが、隙間を覆うような形で深く絡んでいるようにも見えます。

 日本人の宗教観は、仏教に染み入った考え方をします。
 因果応報を、必ず、その原因から、因果応報という結果が生じる「因果律の理(ことわり)」を何処までも信じています。つまり善い事をすれば「善い結果」が生じ、悪い事をすれば「悪い報い」が顕(あら)われるという早計的かつ近視眼的な考え方をします。

 しかし一方に於いて、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーMax Weber/1864〜1920)の指摘する、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で展開されるキリスト教の《予定説》なる考え方があり、今日の資本主義の発展に、キリスト教的な発想が大いに関与している事が明白にされています。

 それは、人間の善行や悪業は、「神が予(あらかじ)め選別し、以前から予定した」と言うのです。善い事をしたから善い結果が生まれるのではなく、善い結果に至る人は、善い事をする原因を最初から持っているので、善い事をするのだ、という風にです。

 これは神が予め、善い事をする人と、そうでない人を選別したというのです。善い事をする人は、その過程に於て、一時的に出来心で悪い事をしても、本来は善ですから、結果的には善行を為(な)し、悪い事をする人は、一時的に気紛(きまぐ)れで善い事をしても、結果的には悪い事をするというのです。ここに「選ばれし者」と「そうでない者」とを選別する定義が横たわっています。

 つまり《予定説》から考えると、神の恩恵は、予め、「救われる人」と、「そうでない人」を選別したと言うのです。神の恩恵が与えられる人は救済され、「永遠の命」を得て、逆に、神の恩恵を与えられなかった人は、「永遠の死」があるのみとされるのです。
 そして原因が結果を生むのではなく、結果から原因が派生するという、運命のメカニズムを強調しているのです。

 では、いつからそう決められたのでしょうか。
 それは、宇宙が開闢(かいびゃく)した時に、予め、神によって決められていると言うのです。

 この点が、仏教の因果応報の意志決定とは全く異なる処です。
 《予定説》は、原因と結果が逆転する「逆因果律」なのです。
 しかし仏教は、原因から結果が生じると言う輪廻転生(りんねてんせい)と、因果律から展開される宗教観ですから、《予定説》で考えると、日本人なら誰でも、奇妙な感覚を受けてしまうのです。

 ここで因果応報が逆転する霊界の話を致しましょう。
 これは霊界の入口にある霊幽界・精霊域での話です。この世界の構造は三重構造からなり、死者はこの最下位部分から霊界に至るとされています。

 ある人の死で、秋の夕暮れ時を思わせる霊幽界・精霊域に、一人の男が遣って来ました。その人は一代で理財を築き上げた大富豪です。彼は極貧から、自分一代で身を起こし、後に大成功をおさめた大実業家でした。
 この人は、晩年、一大発心(ほっしん)して、社会事業や慈善事業に力を入れ、また、多額の寄付金を恵まれない人達に寄附します。自分の晩年の人生を善行で飾ろうとします。

 また、一切の欲を離れて融通無碍(ゆうずうむげ)の世界に入り、仏道に帰依(きえ)し、坐禅に打ち込み、禅宗の師家からは「空」の悟りを得て、その印可を頂きます。人生を恙(つつが)無く全うし、成功者として人々から英雄として、熱い尊敬の眼差しを受けた人でした。ところがガンを発病し、摘出手術の甲斐もなく、その後一週間程で、呆気(あっけ)無く死んでしまいます。

 坐禅三昧(ざぜんざんまい)の時は、空(くう)の境地に辿(たど)り着き、「生死一如(せいしいちにょ)」を悟り、現象界が作り上げた地獄も極楽も、人間の心の影が幻想したものだと悟り、「自分は地獄とは無縁だ」と自信を持っていました。

 ところがこの大富豪は、自分は極楽に通じる霊界ではなく、一等も、二等もランクの低い、秋の日の夕暮れ時を思わせる、薄暗い霊幽界(精霊域)に来てしまいました。そして自分が何故、此処に来てしまったのか不満でなりません。

 何故こうした最階位の場所に、何故自分が居るか、その事を声を大にして、ここに集まった大勢の死者の霊に不満の念を投げ付けます。その声は、次第に大きくなりますが、これに耳を傾ける者は誰一人としておりません。

 彼は自分の歩んだ過去を反芻(はんすう)します。
 自分は、社会を善くする為に、社会事業や慈善事業に力を入れ、多額の寄付金を恵まれない人達に寄附したのに、何故かと大不満です。坐禅にも打ち込み、「空」を悟ったではないかとこぼします。
 ところが「空」を悟ったはずの、この大富豪が行った先は、皮肉にも、極楽に通じる霊界ではなく、地獄に真っ逆さまに直行する霊幽界の、暗い翳(かげり)りのある精霊域だったのです。

 確かにこの大富豪は、晩年、一切の欲を離れ、社会事業や慈善事業に力を入れ、ボランティア活動を積極的に参加して自身でNPO法人nonprofit organization/行政・企業とは別に社会的活動をする非営利の民間組織)まで組織し、また恵まれない人に対しは、惜しみなく巨額な寄附を行います。

 ところが、若い頃の草創期の事業家としての彼は、中々のやり手である一方、随分と人を泣かせ、金の為に人を陥れ、数え切れない怨恨を集めていたのです。無数の恨みや、怨念が取り憑(つ)いていたのです。その唸(ねん)が、彼を地獄に直行させる重量となって伸(の)し掛かり、地獄に落ちて行ったのでした。

 この人の場合、地獄への直行が結果ですから、それに相応しい原因が以前から予(あらかじ)め予定されていたのです。晩年は物欲を離れ、善行に打ち込みますが、これは単なる「付焼刃」に過ぎませんでした。これを一種の「気紛れ」と、神は見たのです。

 また、こういう話もあります。
 聖書の中に出てくる、遊女の「石責(いしぜ)め」の話を皆さんは御存じでしょうか
 あの有名な、イエスが「罪を犯していない者があれば、石を投げよ」といった、マグダラのマリアの話です。
 「石責め」【註】この時代の石責めの処刑は、民衆の娯楽であった。罪人の死刑執行は民衆の手で行われたのである)のセレモニーに集まった人々は、イエスからこう問われて、自分には人を裁く資格がない事を悟って、一人去り、二人去りしていきます。人々が去った広場には、イエスとマリアだけが残されます。
 後に彼女は悔(く)い改めて、イエスの足を洗い、自らの髪で、濡れたイエスの足を拭いたと言います。

 人は、心の中には、いつも罪の意識があり、だからこそ、本当に人を裁く資格がない事に気付いた人達は、皆この場を立ち去ったのです。これは後に、パウロが「ローマ人への手紙」で証明してみせます。

 パウロは言います。
 「人間は罪人である」と。「総(すべ)ての人間は罪人であって、一人も例外はない」と。
 これはキリスト教の人間観です。つまりこの人間観は、まさに「その通りだ」と認識する人間観なのです。

 「ローマ人への手紙」(第三章、10〜12)には、「義人なし、一人だになし、善を為(な)すものなし、一人だになし」という偈(げ)に纏(まと)められて有名です。

 世の中には、自分勝手な正義感を振り回して、善人に成り済まし、自分より大きな罪を犯す者を悪人と決め付け、その反面、自分の罪からは眼を反(そ)らして、あたかも自分が正義の使者に成り変わって、善行の看板を掲げ、安易にマスコミの尻馬に乗って、その真相もはっきりしないまま(例えば田中角栄が首班と目された容儀で、その真相も不明確のまま、一人の政治家を葬った「ロッキード事件」のように)、罵詈雑言(ばりぞうごん)を敵対関係にある人に投げる進歩的文化人も少なくありません。

 これこそが、人間が「争う構造」の基本原理であり、「闘争するメカニズム」は自分を善、他人を悪と一蹴(いっしゅう)する事から始まります。したがって、総(すべ)ては偽善者であり、罪人であるとしているのです。
 そして《予定説》は、かくのごとき条件付きです。

 それは「善を行う人間のみが救われて、悪を為(な)すものは永遠に救われず、永遠の死があるのみだ」と結論付けている事です。

 しかし一方で《予定説》に従えば、人間は総てが罪人であるから、もし、救われるにしても、一人も居ない事になります。善人が救われるのであるから、この世には、善人など一人も居ない事になります。また、救われる人など、一人も居ない事になります。

 では、本当に救われる人は、一人も居ないのでしょうか。
 否、居ます。
 それは「予(あらかじ)め神が選んだ人だ」と言うのです。

 したがって、「神は、予定した人々を救済し、善き事をなさしめたもう」と言うのです。
 つまり、此処でも結果が先にあって、原因が後になっているのです。これこそが《予定説》の最も重要なところです。これは仏教的に見ると、まさに「逆因果律」なのです。

 ちなみに、キリストの贖罪(しょくざい)の死は、「選ばれし者」だけのものなのです。キリストの死によって、罪の状態から脱出出来るのは、「選ばれし者」だけであり、それ以外は、永遠の死が予定されていると言われるのです。
 一般に信じられている贖罪(atonement)は、正しくありません。

 日本人が信じているキリスト教での贖罪は、自らでは贖(あがな)う事のできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが、十字架の死によって贖い、神と人との和解を果したと信じている人が少なくありませんが、「選ばれし者」だけが、その罪過を許されるのです。したがって日本人が信じている贖罪は誤りがあるのです。敬虔(けいけん)な日本人クリスチャンにおいても、この重大な意味を取り違え、《予定説》に於ては明確な回答が出せません。
 あの、敬虔なクリスチャンとして有名な、内村鑑三(札幌農学校出身で、教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。教育勅語への敬礼を拒みいわゆる不敬事件を起し、また非戦論を唱道した。1861〜1930)すら、この《予定説》に至っては、『キリスト教問答』(1905年に発刊。この時代、《予定説》を信じるクリスチャンは殆ど居なかった)の中で苦悶(くもん)し、明確な回答が出せずに苦慮しています。

 「神は人類を贖(あがな)うために、その子を遣わし給うたと人々は言う」

 しかしこれは、イエス・キリストの真意ではありません。
 神が一人息子を遣わしもうたのは、全人類の罪を贖う為ではありませんでした。
 元々は、予め予定された、選ばれた者だけが救われ、その罪を贖うと言う事だったのです。恐るべき「神の決断」と言う他ありません。そしてこれこそが、《予定説》なのです。
 遊女をしていたマグダラのマリアは、お金の為に売春婦をしながらも、救われるのです。では何故、救われるのか。それは神が予め予定した事だったからです。

 また、インドの古い説話に、ある寺院の前に遊廓(ゆうかく)があって、毎日毎日、遊女が客を引いていた、という話が出て来ます。それを僧侶が見て、「身を売るような事をしたら、色情因縁(しきじょういんねん)で、恐ろしい地獄に落ちる」と説教したのです。

 その説教を聞いて、遊女は悲しそうな顔をしました。
 そして、こう言うのです。
 「例え地獄に落ちても、今の私には、こうして生きることより、他に道はありません」

 僧侶は何とかして、彼女を遊女の世界から足を洗うように勧め、彼女が客を引く度に、石を一つずつ山門に積んでいって、それが山のようになると、僧侶は「お前の罪は、こんなに大きくなった」と、その罪の大きさを罵(ののし)り、「お前の行く所は地獄しかないぞ」と、人を裁くような事を言ったんです。

 やがて歳月が流れ、遊女も僧侶も死んで、遊女の行った先は極楽で、僧侶の行った先は地獄だったという話があります。
 どうして遊女が極楽に行って、僧侶が地獄に落ちたか、あなたはこの謎解きが出来るでしょうか。

 これ等の話は、総てが、因果応報の原因が結果を作ると言う事ではなく、《予定説》から出発していて、結果が原因を派生させると言う、「運命のメカニズム」になっている事に気付きます。病気などの不幸現象の一切も、総てこの中に包含されているのです。そしてこれが、この世から、あの世へと連続していると言う事なのです。
 この事を、よく頭に置いておかないと、これからの相談者の声に対する、質問応答は見えなくなります。

 私たち日本人は、人間の運命を考える時、その運命の中に決定論とも言うべき《予定説》が横たわっている事に気付かず、これを見逃して来ました。
 歴史を振り返れば、日本ほどキリスト教が伸展した国はありませんでした。戦国時代末期に続いて、明治時代には西欧化の波に乗るようにして、キリスト教が爆発的な勢いで日本中に伸展していきました。
 ところが、キリスト教の根本原理である《予定説》には殆どのクリスチャンが、見逃し、気付く事がありませんでした。
 内村鑑三ですら、自らの意図で、キリスト教布教の為に仕組んだシナリオにおいて、《予定説》の恐るべき存在を見逃していたのです。

 質問者は《予定説》を捉えて、内村に鋭く迫りました。
 「あらかじめ予定したとは、神は不公平ではないか!」と。
 これに答えて、内村は苦し紛(まぎ)れに、こう吐露(とろ)します。

 「もし、不公平をもって神を責めますのならば、同じように天然(てんねん)をも責めなければなりますまい。(中略)ある婦人は美人として生まれ、他の婦人は醜婦(しゅうふ)として生まれて来たか、生まれつき何の罪ありて、蛇は人に嫌われ、鳩は人に愛せられるか、これを思えば天然の不公平もまたはなはだしいではありませんか」(『キリスト教問答』より)

 
内村の結論として、「神も不公平だが、大自然も不公平であり、したがって不公平である事を人間の意志やレベルで、とやかく責められない」という事と、同じことになります。これは、突き詰めれば、「オレも嘘つきだが、お前もオレ以上に大嘘つきではないか」という、自他離別の想念になっていきます。

 私たち日本人の考え方は、正・不正の識別を宗教観や道徳観と、別に存在するものとして考えて来ました。ところが正・不正は、神とは別々に存在するものではなかったのです。ここに《予定説》のもう一つの見方があるのです。
 自他同根の観点で人生をとられれば、またその見方も変わったものになる筈です。
 そして、現象人間界において、「偶然」と言う現象は何一つ起りません。総べて、宇宙開闢(かいびゃく)以来の「必然の法則」で動かされていると言うのが、現象人間界の正体なのです。
 「偶然に○○が起った」というのは、あくまでも言葉の綾(あや)に過ぎないのです。現象人間界では、総てが起るべきして起っているのです。

 したがって病気も怪我も自己も事件などの不幸現象も、総てが起るべきして起っているのです。これを「偶然」の一言で片付けてはなりません。人間は、もっと謙虚になるべき因縁を背負わされているのです。

 現象人間界を、《予定説》と言うキリスト教の教義から切り離して観(み)て行くと、そこにはこれまで、日本人が見る事が出来なかった、「運命の逆説」が様々な角度から見えて来ます。霊的世界の視点も、《予定説》に包含されていると言えます。
 そして私たちが真摯(しんし)に反芻(はんすう)しなければならない事は、「人間の躰と言う構造に振り返り、これが何で出来ているか」という事です。

 私たちは、資本主義の物質的唯物論によって、科学万能主義を擡頭(たいとう)において、豊かさと快適さ便利さを追求して来ましたが、実はこの思想が、自然破壊に繋がるものだったのです。
 食生活における「食」の誤りは、私たちの衣・食・住までもを誤らせました。そして人間の生活を豊かにするという道を、多くを作り、多くを収穫する事によって達成されると考え違いをして来ました。その考え違いが、地球汚染や大自然の破壊へと繋がっていったのです。

 自然を破壊する事ほど、容易(たやす)い事はありません。しかし、一度破壊された自然は復元する事は不可能です。
 今こそ、人類はこれまでの「食」の誤りに気付き、これを糺(ただ)さなければなりません。人間は、思い上がった人知を退け、その出しゃばった身を退け、謙虚に、自然が豊かになる事によって、以降の人間の営みも達成されていくと言う事に気付かねばならないのです。これが出来れば、現象人間界で起る様々な不幸現象も減少していく筈なのです。

 不幸現象は、一切食の誤りから起る。食を誤ったからその結果として不幸現象が起るのではなく、最初に不幸現象と言う災いが人類の頭上に乗っていて、その災いが食の誤りを齎(もたら)すというのです。
 私たち日本人は、仏教や儒教の影響により、因果応報を基準にして物事を判断し、思考します。ところが《予定説》は、原因と結果が逆になり、「逆因果律」になっている事に注意しなければなりません。これこそが《予定説》の基本的な考え方です。

 「食」を誤ったから、その結果として、不幸現象が起こっているというのではなく、不幸現象はそもそも「食の誤り」という原因を導き、それは最初から決定されたもので、ここには救われて永遠の命を貰う人と、永遠の死を貰う人とに別れるという、決定論的な運命が根底に流れています。
 したがって、自分の運命は、運命学によって知る事が出来ても、「運命そのものは変える事が出来ない」と言う論理が成り立ちます。

 運命は変えられない……。
 自分の定まった運命を完全に変える事が出来るかどうか……此処が問題になってきます。
 運命学を扱う職業占い師は多く存在します。また未来展望を霊視で占う霊能者も存在します。あるいは念力で変化を齎したり、祈祷(きとう)する事で未来予測をたてる職業祈祷師も居ます。
 また占いを依頼する人は、運命を変える事より、自分の欲望を満足させる方法や、恋愛関係等に対して、願望成就をさせる方法等が主体で、「自分の力で、自分の人生そのものを変える」という事は、あまり問題にしません。
 つまり、単刀直入に言うと、「運命だから諦めなさい」ということなのです。あるいは「運命の陰陽の支配から、人間は逃れられない」と言います。

 こうした「諦め」が存在する一方、運命物のHOW TO書籍が巷間(こうかん)に出回り、「運命を切り開く」とか、「運命を変える」などというものがありますが、これ等の多くは、自己暗示で潜在意識を動かしたり、自己を英雄に仕立てて拡大する方法や、人格改造法等の自己変革を用いて、少なくとも変わったように思わせたり、自己の暗示によって変わったと確信させるものばかりです。この類(たぐい)は、具体的な運命転換の方法ではなく、思考や生活パターンを変える事により、教条的に運命が変わったように見せ掛けるような、アドバイス法で話の内容が展開されています。

 つまり要約すると、先ず第一に、自己暗示によって自己が尊大化し、拡大した自己こそ主人公と思い込む事によって一種の英雄を作り上げ、この英雄と我が身を重ね合わせる事で、英雄の威力を発揮させようと企てます。
 次に自己を規制して行動パターンを変え、行動パターンが変わる事により、生活様式が変わり、その生活様式が変わった事が、実は人生が変わったのだと言う、錯覚を植え付ける事が主体であり、根本的に見れば、ちっとも自分の人生も、運命も変わっていない事に気付ます。

 また、占い等にしても、九星気学や四柱推命などで、自分の生年月日や星廻りを観(み)て、その境遇がどのようなものであるか、性質がどの位置に属するかは、ある程度予測する事が出来ますが、運命そのものを変える転換法にはなっていません。単に「予測し、知るだけのもの」なのです。方位にしても同じ事が言えます。悪い方位に行って悪いものを背負って帰って来るのでは、実に情けない限りです、

 自己意識を変え、強烈な変革をもって自己を拡大したところで、その実行下には、厳しい自己規制を敷かなければなりません。その結果、一時的に成功を納めても、次の願望は成就しないという周期的な波に襲われます。この波に襲われば、忽(たちま)ちのうちに転落し、幾つかの願望が成就したけれども、トータル的に見れば、代償や犧牲も少なくなく、結果として、「人生の貸借対照表(バランスシート)はプラス・マイナス=ゼロだったと言う事も少なくありません。

 要するに、「徳」がないと、このように運命の現実の周期(七年ごとに繰り返す波、九年ごとに繰り返す波)や、正反の陰陽に流され、結局、運命転換を図っても、自分のあらかじめ予定された、自分の運命路線から一歩も抜け出すことができないのです。この「抜け出せない」という処に、「徳」のない多くの人民は、どうしても運命の陰陽に流されて、その支配を受け、その儘(まま)の《予定説》通りの運命を迎えると言う事になります。
 本来の不幸現象の禍根は、「徳のなさ」という、此処に存在しているのです。

 したがって、運命転換に自己願望や、欲望や野望が付き纏(まと)った場合、どうしても予定された運命の陰陽に流されて、一歩も自分の運命の決定からは抜けだせなくなってしまうのです。
 結局、運命学を学び、自分の運命を知っても、既に決定されてしまった、そこからは一歩もぬけ出せません。
 また、自己暗示にしても、外来暗示にしても、それは体内の感覚器官のトレーニング法であり、根本的に運命を変えると言うものではありません。

 人間の過去の因縁から起る、現世に具現された出来事の一切は、幸・不幸も、自分が求めた結果であると言う事になってしまいます。しかし、これで諦めてしまっては、「禍福は天命の命ずるところであり、自分ではどうにもならぬ」という結論を出してしまって、結局は俗人の詰まらぬ議論で終ってしまいます。

 そこで完全に運命が変わる転換法を知らねばならないのです。
 それは食物による運命転換法です。水野南北先生の顕わした書に『南北相法極意』があります。これは食事法による運命改善の方法です。
 水野南北先生は、宝暦から天保(江戸時代中期の1760年代から1840年代)に活躍された観相学の大家で、その当時、大阪にあっては、一千人以上の弟子を抱え、名人と称されました。

 『南北相法極意』によりますと、「来年、病弱にして短命と判(はん)ぜし者にして、朝夕飲食を慎みたるがために、心身健(すこ)やかに長寿を保てる者また少なからず」とあります。
 これは「食」が、人間の定まった吉凶禍福の運命すらも、変えてしまうと言う事を顕わしています。
 《癒しの杜の会》では、「食」の事情を改善し、改めれば、今あなたが抱えている不幸現象が、段々小さくなっていくと言う事を啓蒙して、その活動を展開している組織なのです。あなたも、現在の間違いだらけの現代栄養学(戦後アメリカから持ち込まれた学問で、栄養素の代謝・所要量・過不足による病態、食品の種類・組成・調理法、疾患時の食事などについて研究する学問。しかし、人間の躰(からだ)は生命体であり、カロリー計算やケミカルスコア等から得られたデータを許に、機械と同一視しているところにこの学問の間違いがある。現在アメリカでは下火である)の非に、一刻も早く気付いて下さい。

 このコーナーでは、全国からお寄せ頂いた方々の質問や相談に回答した「回答集」を掲示しております。あなたの探す、類似した答が見つかりますれば幸いに思う次第です。
 なお、お寄せ頂いた様々な相談による回答に対し、補足説明を加え、詳細な内容を追加し、同じ様な相談と、その回答に対し、少しでもお役に立てばと言う願いを込めて編集しました。