精神障害と霊障
精神病の正体は「己に迷う」ということが発端

 「人間には、本来精神病は存在しない」と断言したのは、木村裕昭医学博士である。
 しかし実際問題として、精神病を患う人は後を絶たない。その発生率は1%未満と言われるが、確かに1%の確率で、精神病患者が増え続ける傾向にあることも、また事実なのである。

 時代の流れが急テンポになり、毎日が目紛しく変化する今日、この流れについて行けなくなったり、競争原理の中で、戦いに敗れて無気力になったりして、負け組の烙印(らくいん)を押された人の中には、「潰された自我」の持ち主になって没落して行く。

 また、受験シーズンになると、今でこそ、テレビや新聞では騒がれないようになったが、受験に苦しんでの自殺や家庭内暴力や非行へと走る青少年は、未(いま)だに後を絶たない。また、借金を苦にしての、一家心中も同じであり、資本主義の競争原理は、益々、持つ者と持たさざる者の格差を広げ、深刻な社会現象を作り上げている。こうした事を考えると、人間は「迷える存在」であり、生きとし生けるものの宿業を生まれながらに背負わされた生き物であると言う事が分かる。

 さて、こうした実情下、病気と言う現象は、恢復(かいふく)すると、「治る」といいう言葉を使うが、病気が治る現象は、すなわち、その人が所有する悪想念が改まって、自他を発生させない「愛の想念」に変わるから、「治る」のであって、自分の考え方の間違いを「直す」から「治る」という現象が起こるのである。そして、実は「治る」は、今までの間違っていた考え方が「直る」のであって、考え方を「愛の想念」によって一新すれば、「治る」という現象が起こるのである。

 「治る」は「直る」であり、その発端(ほったん)は「迷える自我」であった。迷える自我が「世間様の目」を気にして、曲がった考えと先入観が先行し、この結果、「自我が潰される」と言う現象が起こったのである。

 こうした「潰された自我」を恢復させる為には、薬や、電気ショック(本来犯罪者の自白を迫る為の拷問としてイタリアの医師によって考案されたものであるが、これが精神病治療として効果を得る結果が出て、麻酔術との組み合わせによって、精神病を治療できるとしている。効果は大きいといわれる反面、ショック死する患者も後を絶たない)などの特別な方法をとって、心の深層部に潜む憑衣や、憑霊のカタマリを根こそぎ抉(えぐ)り取る事はできない。

 いま何故、現在のような結果が出ているかという、現実を見詰めることが大事である。心に歪みを与えてしまった状態で「己に迷う自我」の救済をする事は出来ない。自分の間違いに気付く事であり、これが先決問題なのである。これなくして、薬や特別な方法を用いて、これを完治させる事は出来ないのである。

 精神障害者と言われる人の多くは、今日で言う「統合失調症」と言う名前を、誰もが等しく名付けられ、その中には鬱病であったり、自閉症であったり、家庭内暴力であったり、登校拒否であったり、あるいはアル中や薬物障害であったりと、様々な人がいる。

 また、こうした人の多くは、医師の投薬によって、植物人間にされたり、言語障害(抗うつ剤等の投与によって口の周りが白くなり、呂律が廻らなくなって言葉が明確に喋れない状態)や神経麻痺に陥っている人の居る事も、また事実なのである。そして、更には、強度の人間不信に陥って、強迫神経症に陥っている人も少なくない。

 この人たちの多くは、潰れされた自我に加えて、「ある事が心の深層部に、こびりついて離れない」という、脅迫観念があり、それは極端な高所恐怖症や、狭い空間での閉所恐怖症、赤面恐怖症、動物恐怖症、疾病恐怖症(最近ではガン恐怖症が目立つ)など種々あり、こうした分野の障害が精神科医や心理学者らに委ねられている。

 時代が、高度な物質文明化する一方で、大衆社会も高度化し、高度大衆社会を迎えた。しかしハイテク化の恩恵の裏に、こうした無数の犠牲者が、心を徘破壊して精神障害を起こしているのも、また事実である。
 この病気の発生率は、1%から1.6%へと迫る勢いで、日本も、アメリカ並の精神病大国へと突き進んでいる。

 そして一度、統合失調症等という病名を頂戴すると、長期に亙(わた)り、様々な抗うつ剤をはじめとする薬物を投与され、また患者自身も、やがては自分が精神病であると言う事を自覚してしまうことになり、憑衣・憑霊現象からの解放は期待できなくなる。
 生きる屍(しかばね)を余儀無くされるのである。

 しかし、非実在世界における人間現象において、木村裕昭医学博士が言うように、「精神病は本体存在しない」と言うのが本当なのである。
 ただ環境や境遇における、自分を取り囲む人間関係の中で、偏見があり、自分自身にそうした「世間様の目」に対する、偏見に打ち勝つ強さと、自由・自在な心の鍛練をしていないと、やがてはそれに敗れ、その隙(すき)に憑衣・憑霊現象が起こる。

 現在、こうした精神障害は増加の一途にあり、増加したまま定着に向かう傾向が顕(あら)われ、精神分裂病や、現代型ノイローゼは、巨大な培地になることが予想される。

 一つの、人間不信から起こった「潰れた自我」は、今日のように社会が複雑化し、多様化する現実の中で、その精神状態は、不安定化すればするほど、激化状態の方向に向かう。そして懸念されるのが、分裂病の神経症化であり、神経症の分裂病化である。

 いま精神医学上で、分裂病とも神経症とも決めかねる神経内科系の病者が殖(ふ)え始めている。不定愁訴症候群と言う自律神経失調症と思われていた、神経系障害はやがて精神分裂症外へと移行する危険性を孕(はら)んでいる。木の芽が吹きはじめる季節の変わり目には、欝状態や神経症を背負い込んでいる人は、怒りっぽくなり、攻撃的あるいは好戦的となる。あるいは些細な事で激怒し、争う事を好む人種となる。性格粗暴者と言う人間は、大体こうした精神状態にあり、常に他人に危害を加える危険な状態にあるのである。

 しかし、鬱陶しい梅雨の時期を向かえると、今度は、人が変わったように温和しくなり、沈み込んだ状態となる。これは、季節の変わり目に起る「躁」と「鬱」の周期的な変化である。
 こうした病者の環境や境遇を見てみると、彼等と、周囲との疎通性(そつうせい)は悪くないのにも関わらず、更には言動も、外面的には、何ら問題がないように見えながら、実は激しい劣等感や、不安感や孤独感、あるいは離人症(りじんしょう)に陥っている人がいる。

 この中でも最近、特に目立つのが離人症である。都市型社会が進行している為、隣人からの煩雑しさを逃れようとする心の葛藤(かつとう)である。これは心の中に、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の力があって、その選択に迷う状態を指し、「葛藤」の字からも窺えるように、葛(かずら)や藤のツルがもつれからむ態(さま)を顕わすのである。

 離人症とは、他人の接する事によって起る人間関係の摩擦を排除しようとする意識から起る。また自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的な繋(つな)がりを実感しえない精神状態の病者を指す。人格感喪失という心因性が見られ、人と接する事に恐怖を覚え、その心因反応(psychogene Reaktion)として、 欲求不満や葛藤等の心理的・精神的病因によって起こる精神障害あるいは神経症および心因性精神病を含む、こうした病因を持つ人が、現代社会では増加しているのである。

 この離人症は、アメリカでは1930年代の世界大恐慌を前後として発生し、アメリカの中産階級だった経営者の殆どは、1929年の10月24日(俗に言う暗黒の木曜日)の経営的破綻(はたん)状態から、この病因とともに、人間嫌いの精神障害を同時に背負い込んでしまったのである。

 また平成初期、バブル崩壊以降の日本でも、依然として長引く不況の最中(さなか)、経営不振や倒産に追い込まれる中小企業の経営者の中にも、こうした病気が徐々に現れるようになった。

 確かに現代医学は、この百年ばかりの一世紀の間に、医療機器、検査技術、麻酔技術、手術方法やそのテクニック等は目覚ましい発達をおさめた。
 日本は医療制度に於いても、世界に類のない国民皆保険国家となり、誰でもいつでも、医師の治療が受けられるようになった。病院内の医療設備も薬店も製薬会社も世界第一位の数を誇っている。

 ところが、こうした好条件にもかかわらず、患者の数は減るどころか、益々増加の一途を辿っている。どうしてこんな奇妙な現象が起るのであろうか。
 本来医学の発達は、種々の病気を根絶に向かわせる目的をもっていたのではなかったか。しかしこの目的は、科学が発達したと言う「自称の時代」においても、種々の病気は改善傾向に向かうどころか、益々悪化すると言う、逆方向へと向かいつつある。

 現代医学は、一個の人格を有する人間を、患者として見立てる時、人間としてではなく、「故障した部品」として扱おうとする。その象徴的な医療技術が臓器移植である。口では「人命の大切さ」を豪語しながら、そのくせ、人間が持つ人格を尊厳したり、その魂に対し、畏敬(いけい)の念を以って、これに接している医学者は少ないようである。

 そして寄寓にも、霊障と言われる「ガン疾患」や「精神分裂病」等の病気を扱っている医学者が、他の医科の群を抜いて、非常に大きく売上を伸していると言う現実は、何とも皮肉なものである。
 何処の精神病院も、何処の精神科・神経科のクリニックが予約待ちで一杯になっている現状が、これを如実に物語っている。

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