精神障害と霊障
現代の前頭葉未発達現象
 前頭葉未発達から多発する犯罪は、現代では跡を絶たない。
 最高学府の出身者でも、犯罪構成率は非常に高くなってきている。
  本来人間に施される教育は、善悪の非を提示し、それを行ってよいものか、否かを教示する目的で開始された。教育の目的は、教え育てることであり、知能を身に付け、望ましい姿に人間を変化させ、価値を実現する活動をもって、教育は実施されたものである。

  だが、教育は、今その原点を見失い、人間に他から意図をもって働きかける「教育行為」を、知的レベルの優位者に預け、この優位者によって社会が運営される社会構造を作った。この構造の欠点を側面から凝視すれば、必ずしも知的レベルとモラルがイコールではない事を物語る。知的レベルの高い人間でも、犯罪に手を染める事が明確となる。

 さて、刑法上から考えて、加害者が極刑を存続させる理由は様々である。そしてその理由は、加害者の行為を悪業化し、被害者はその悪業に侵食されて、言語に尽くし難い不利益を被ったと、正当化する根拠は実に多い。
 つまり、死刑を極刑として、これを課す様々な理由は、処罰や懲罰と言う概念が、国家権力と宗教に結びつくものであった。処罰や懲罰を概念として、処刑を実行すると言う根拠は、これを決定する国家と宗教に由来している。

 特にアメリカの場合は、キリスト教国家であるから、この概念は非常に強かった。そして処罰や懲罰に、国家と宗教が関与した場合、法に違反した人間を捌き、それに処罰を加え、処刑すると言う行為は、神聖な目的を果たすものと信じられて来た。

 しかし時代が民主主義と言うものに取って代られ、「個人的人権」と云う言葉が大衆間に根付くと、加害者にも人権があると言う論理から、加害者を一方的に処刑する事は文明社会に相応しくないとする意見が湧き起ってきた。この意見が有識者の権威に結びつき、進歩的文化人と称する権威筋によって、加害者の人権擁護が叫ばれ、被害者の人権より、加害者の人権を重んずると言う逆転現象が見られるようになった。

 この「個人的人権」という隠れ簑(みの)の裏には、個人主義(individualism)の実像が見て取れ、個人を一個の貴重な立脚点と見做し、社会や集団も、個人の集合と考え、それらの利益に優先させて、個人の意義を認める態度を最優先させると言う、不可解な社会矛盾を派生させた。
 したがって「加害者にも人権がある」と言う理由は以上によるものである。

 では、この現象を何処から、一番最初に派生したのか。それは、ルネサンスおよび宗教改革期における個人的・人格的価値の発見という原点に、個人的人権の「貴重性」が存在するように見える。
 個人が、個人として自覚し、それを認識する場合、個人は、時として人間以上の存在になる。
  それは例えば、戦争に赴き、より多くの敵兵を殺し、シルバー・スター勲章のような、近代軍隊組織の栄誉を受けた場合である。こうした勲章の授与者の裏には、必ずこの側面に敵兵個人とその家族の多くの犠牲者が存在しなければならない。

 個人が、高く社会から表彰されると言う現象は、社会の近代化の進行に伴って、市民社会が普及するという次元に至って派生した。
  この派生した以降の社会現象としては、俗に言う、利己主義(egoism)と同一視される落とし穴があるが、根本的には、個物すなわち個別的存在を真に実体的なものとして第一義的に考える思想とは別物である。

  また類似したものに、自由主義(liberalism)と言うものがあるが、個人の思想・言論の自由、信教の自由を擁護するものであり、個人主義は、本来利己主義とも別物であり、自由主義とも別物扱いされるべきものである。
 しかし、これが「自由」の名を以て猛威を振るった時、世の中は犯罪によって、乱れに乱れる。それは如実に秩序の崩壊に繋がるからである。

 現代社会は法秩序という概念が、進歩的文化人によって歪曲されていると言う現実がある。
 彼等は異口同音にして、人権を取り上げ、平等意識の中から、あらゆるものを「等しく擁護する」と言う歪んだ論理を打ち立ている。この論理こそが文明的な近代に相応しい、人間の在り方だと嘯(うそぶ)く。

 しかし現代という時代にあって、人間は秩序を形成する必要はあっても、その社会構造が、必ずしも文明的であると言う必要はない。この二つの事柄を取り違えると、その後、深刻な問題が発生する事は火を見るより明らかである。

 犯罪によってその犧牲になった人や、その家族は事件発生後、大きなダメージを受ける。
  犯罪に遭遇し、仮に生き残ったとしても、その後の後遺症は相当なものであろう。心身ともに大きなダメージを受け、再起不能状態に陥るには明白である。そして万一、加害者が軽い刑で済んだ場合あるいは無罪になった場合は、このダメージは被害者や、その家族に致命的なダメージを与え、人間の持つ本来の霊的神性が軽視されれば、この人は霊障によって狂う以外ないであろう。

 世の権威筋は、手に触れられ、目に見える現象のみを科学の現象と捕らえ、それ以外を、霊性を無視した架空現象あるいは抽象物と捕らえるだろう。抽象物には実体が伴わない為に、その確証を提示する事が難しい。確証を提示する事が出来なければ、加害者が被害者に対する犯罪行為もなかったことになってしまう。

 こうした結論が導き出され、判決が降った場合、殺されてものを言えなくなった被害者や、その家族の無念は相当なものであろう。
 そして被害者や、その家族の以降の人生は、精神障害と言う暗澹(あんたん)たる「迷宮」に彷徨(さまよ)い込む事になる。

 人間の生きる現象人間界において、「目には目を、歯には歯を」という、ハムラビ法典的な「やられたら、やり返す」という仇討(あだう)ちの意図を包含する処刑は、将来的にも廃れる事はないと考えられる。一方、処刑が廃止される方向にないならば、処刑に数は増加し、犯罪がこれまでにも増して、増加の一途を辿るであろうと考えられる根拠は幾らでもある。

 これから世界の人口は、益々爆発的に増加の一途を辿るであろう。
  人口が増えれば、不完全な人間が「他を犧牲にして生きる」のであるから、そこには加害者と被害者の関係が絶対に消えない宿命を作る。

  「人間は災いである」とは、パウロの残した言葉である。災いを齎(もたら)す人間が、地球に君臨し、前頭葉未発達な、人類になりきれない亜人類で生きる限り、この世から災いは消える事がなく、また犯罪も消える事がないであろう。そして犯罪と言う災いは、古代期より、現代の方が圧倒的に増えて居る事は確かである。

 この増加によって、生命の価値は益々下がり、中でも、人間の生命は時の権力者によって、軽視されて行く事だろう。まさに顕微鏡下に見える、微生物の如き存在として。

 また、生命軽視の現象として、胎児の堕胎手術(霊的に見て堕胎は明らかに殺人行為。妊娠中絶女性が鬱病になるのは堕胎が原因)が挙げられ、人口抑制は、堕胎の増加に繋がるであろう。この堕胎の増加は何を物語るか!

 これは人命軽視であり、一般大衆のその他大勢を「微生物視」する政策であると言える。これは「科学」と言う名の下に、不可視現象の非科学(dogma/独断的な宗教意見と見下す、非体系的存在)を、権威筋に豪語させる事であり、霊的神性が軽視される実情へと繋がるであろう。霊的現象が軽視されれば、手に触れられるものや、目で確認できるもの以外の不可視世界の実体を、科学根拠のない媒体と看做し、可視世界のものを最優先する社会構造が生まれるであろう。

 その結果どうなるか。

 心の不可視世界に依存する、精神性や霊的神性と言ったものは総て否定され、同時に、人命の軽視は、益々拍車が掛かるであろう。今日の文明思考はこうした現象を明白に物語っている。文明を優先する思考は、快適で、豊かで、便利であるが、その反面、微生物としての大衆実験に、大衆が微生物の如き、犧牲を強いられる社会構造でもある。これは、原子力発電所や公害を垂れ流す企業の近隣に済む住民の如し。放射脳汚染や公害汚染によって被害を受けた、被害者の魂は、果たして報われたか。
 顕微鏡下の微生物として、扱われたのではなかったか。

 罪の無い人間の命が、為政者の欲望と、人口抑制の為に軽視されたり、奪われるとするならば、犯罪によって殺される被害者の命等、どれほどの価値があろうと言うのであろうか。
 同時に、ことの詳細が明らかになり、加害者が犯罪者として動かぬ証拠を突き付けられ、裁判に至って、その判決が下される場合、犯罪者の命も、加害者同様の扱いを受ける事は明白であろう。つまり、加害者とて、社会不適合の烙印(らくいん)を押され、法の下に抹殺される運命を辿るのである。

 将来の暗示から、ある種の預言や、宗教の教典に振り返れば、ハルマゲドンと言う、核戦争を暗示する世界最終戦争が暗示されている。この最終戦争に生き残る人間がいたとすれば、やはり彼等は、何等かの犯罪者に対し、処罰の軋轢(あつれき)を加えるであろう。

 もし生き残った人間が、僅かに二、三百人としても、そこに残った生命は非常に貴重な物になるであろうが、だからと言って、犯罪を犯した者に、処罰や懲罰は無くなるとは、考え難い。また、刑も軽くなる事はないであろう。

 もし、こうした現実が起った場合、実際問題として、社会の財政には、刑務所を管理する役人を雇うだけの余裕はないであろうし、また、殺人等を犯し、終身刑を言い渡されたとしても、その囚人を無期懲役期間、食わしていける財政余裕は皆無と考える事ができる。犯罪者に無駄飯を食わす程、未来の国家は、食糧事情が豊かでないのだ。

 人命は大切と言われた時代は、とうの昔に過ぎ去り、人命軽視が常識化された世界では、人間は、誰であろうと、残り少ない貴重な資源を、無駄にすると言う事は許されないであろう。

 こうした考えで近未来を見つめると、現代社会は、犯罪による被害者も、犯罪を犯した加害者も、同じ数直線上の上に結び付けられ、将来に於ては、同じ扱を受けると言う事が暗示されている。
  現代の病んだ一面を、浮き彫りにする暗示であるが、この「病み」の元凶は、精神障害に直結する危険性を孕(はら)んでおり、新たな精神障害の発生率を、今より更に増幅させていると言う現実に、多くの懸念が残される。
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