病気と共棲するという、もう一つの考え方
 近代、特に進歩を遂げたと称する現代医学は、抗生物質の乱用に眼に余るものがあります。
 抗生物質は、体内に侵入した病原菌を撲滅するために開発された薬品ですが、このベースはカビや放線菌・細菌によって作られたもので、他の微生物の繁殖を抑制します。

 この物質は、他にも制癌作用を持つ特異性があり、ペニシリンが1941年再発見されて以来、これに続いて、ストレプトマイシン・クロロマイセチン・テトラサイクリン・トリコマイシンなどの多数の物質が発見されました。
 こうした物質は特効性があるため、治療現場では多く使用され、一方において副作用が起こっていることも、また事実です。

 抗生物質の使用思想には、「皆殺しの理論」が貫かれていて、人間を中心にして考える、人間本位の発想が先行しています。
 しかしこれは、宇宙全体から見れば、人間のみのご都合主義であり、実際には細菌といえども、生存する権利があるのではと、考えることが出来ないでしょうか。
 生物生存の平等法則は、特定の権力階級に与えられているものだけではなく、末端にも等しく適用されなければなりません。
 「特権階級の、特権階級のための、特権階級の生存」であってはならないのです。

 生存する、等しく生きるということは、何人にも適用され、如何なる生物であろうとも、それは平等であるべきだと考えます。
 したがって平等思想というものは、人間界だけによらず、動物の世界でも、微生物の世界でも、これを認め、お互いが「共棲」するという次元に至って、初めて平等思想は本物になるのではないでしょうか。

 約二千五百年前に説かれた釈迦の教えは、「万物は総て平等に生存する権利を有する」というものでした。これこそが、真の平等思想であり、宇宙の真理と確信します。
 しかし現代医学の医療現場を見てみますと、抗生物質の乱用により、差別思想が先行しており、ガン化した異常細胞は手術により切除するか、抗癌剤を用いて完全に撲滅させるという、皆殺しの理論で医療が進められています。
 また、ガンでなくても、例えば胃潰瘍の人までが、胃に病巣があるからと言って、胃を四分の三とか、二分の一を切除して、胃の一部を邪魔物扱いする治療が行われています。
 本来の医学は、命に極めて危険のある場合、止むおえず病巣部を切除しなければならない緊急の場合もありましょうが、慢性病においては、一時的な異常細胞を、再び善導して正常細胞に戻す技術こそ、真の医学であり、切除したり、攻撃をしないで修復するという治療法が開発されるべきだと思います。

 現代科学の産物は、豊かさと便利さと、その快適さの中に人間を誘いましたが、その反動として、食品公害や、農薬公害、騒音公害、地球汚染、オゾン層の破壊など、様々な悪因縁を結び付け、現代人を病める哺乳動物へと作り替えています。こうした事の、最大の原因は、総て差別思想に起因していると言えましょう。
 結局、人類は近代に民主主義という政治的理念の中で、「平等」という権利を勝ち取ったのですが、この平等は、単に「表皮」の部分だけの平等であり、法に守られた「基本的人権の平等」という、巧妙な権力者の搾取を忘れてはなりません。

 特に戦後教育の中で受けた、民主主義の中の平等教育は、その根本原理が「法の下での万民の平等」であり、貧富の差の平等を禁止したり、強弱の平等を禁止してはいないのです。
 むしろ民主主義とは、「エゴイズム」を露にすることで、他との競争原理において、強弱を決着させ、何人かの強者を選別しておいて、その中から個人勝ち抜きの選挙を行い、選挙の当選者が、人民のリーダーとなって群れを率いるという、原理から出来ており、これはとりもなおさず、個人主義のエゴイズムを全面に打ち出した弱肉強食のシステムといえます。

 民主主義下においては、常に弱い者は淘汰され、抹殺される運命にあり、個人も企業もこの原理の中で凌ぎを削り、自身の保身を賭けて奔走しているという現実があるのです。
 したがって最終的には、「自分だけがよければ、他人はどうなっても」という、悪しき個人主義に変貌します。こうした悪しき個人主義、エゴイズムの中の、一体何処に「平等」が存在するのでしょうか。
 「敵は徹底的に叩けばよい」「自分だけが濡れ手に粟で、儲かりさえすればよい」「他人の被害は、我が方の得」と言わんばかりに、奔走に明け暮れます。
 公害の根本的な原因は、実はこの中に存在したのではないでしょうか。

 これまでを振り返れば、こうしたエゴイズムの中で、実際に農家でも、自家用の野菜や農作物には一切農薬を使わず、市場へ出荷する農作物には、形や色を着けるために、ふんだんに農薬を使い、見た目だけをモットーに、平気で他人にはこうした有害物質を食べさせるという農業従事者がいます。
 また養殖業者の中にも、薬漬けの餌を散布して養殖のハマチや、市場に鯛を出荷しておいて、自分や家族の食べる魚は天然物に徹底的にこだわるという人がいます。
 工場経営者や、化学薬品を扱う企業を経営する人の中には、工場廃棄物を自らの責任において処理することもなく、夜陰に乗じて河川に投棄して、自社の利益を貪る輩も少なくありません。

 公害監視の眼は徐々に厳しさを増していますが、実は、こうした心無い経営者に鉄槌を下せるほど、現行法は、法の整備を整えておらず、公害基準値というものを設けたために、そのすれすれで免れるといった、巧妙な手に出て、法を躱(かわ)している企業を少なくありません。
 製粉やインスタント食品メーカーの殆どは、この類でしょう。

 こうして考えてみると、自己中心的な思想が変わらない限り、公害問題は、数・量・質の面において、そのスケールが二乗の放物線の跳ね上がりのように巨大化し、個人格差は経済においても、エゴイズムにおいても、持てる者と持てない者、強い者と弱い者、トップクラス対ミドルクラス、そして人間対生物というふうに格差を大きくして、招来される諸問題は、楽観を許さない大きな脅威となっていくことでしょう。

 さて、細菌学(細菌の種類および性質を研究する学問。パスツール・コッホなどによって発達し、現在は医学・農学方面に応用)において、細菌や病害虫のような邪魔物は、総て皆殺しにして、撲滅すればそれでよいという考え方は全く通用しません。抗生物質や農薬を用いて彼等の撲滅を図ろうとすれば、彼等も負けておらず、反撃に転じます。この際、必ず抵抗力を着けるという条件反射が起こり、その抵抗力は二乗化することが明らかになっています。

 そのため、人間は更にこれを上回る、強力な抗生物質や農薬の開発を研究しなければならない必要性に追い込まれます。
 そしてついには、抗生物質や農薬の害が、無視できないほど強力になってきており、例えば、ガン細胞を殆ど死滅させることに成功はしたが、肝腎な人間は死んでしまったという現実が起こります。

 今日、多くの癌患者が、医者の薦めで切除手術に踏み切り、あるいはコバルト療法や遺伝子療法を治療を受けて、結局、結果的にはいい結果が得られなかったというのは、こうした事が原因で死亡しているという側面があります。
 つまり、同じガンでありながら、一方は一切の治療を受けず、自然食療法で十年も二十年も生き続け、もう一方は医者の薦めで多額の金を出し、最先端の現代医療を受けながら、その生存率は、術後半年未満で60%、一年後には30%、そして五年後には、その殆どが死に絶えると云う現実があります。
 これから考えますと、むしろ、ガンと共棲した方が長い寿命が継続できるということが分かります。
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