月謝と謝儀について



【月謝を払うという行為の大切さ】

●月謝は商取引の対価ではない

 月謝という理念の上で重要なのは、月謝は一種の「謝礼」であるので、これは列記とした「謝儀」である。また「月謝を払う」という行為は、「身分確認の為」の厳粛(げんしゅく/おごそかで、心が引きしまるさま)な行為である。
 したがって月謝の理念は、商店の顧客と、道場に通う道場生がそれと同じであるという事ではない。また道場の月謝と云う考え方は、商取引における対価でないから、領収書の発行もない。こうした区別をハッキリと認識したいものである。

 毎月、威儀を正し、謝意を表わすのであるから、己の置かれた立場を忘れずに居るという行為でもある。したがって月謝というのは、商い行為の対価ではないことは明白である。月謝は月謝であって、それを受ける側の手当てや、まして給与でもない。また、毎月定期的に行われているからと言って、それは謝儀であって、手当てや資金を得ているという性質のものではない。

 しかし昨今の道場は、月謝の姿が一変した。
 学習塾やその他の稽古事と同じように、月謝袋などが用意され、道場に子供を通わせる父母や当人が、受領印などを要求する習慣があるが、これは本来、習う側の作法としては間違いである。

 かつて、古人は「熨斗袋」(のしぶくろ/熨斗と水引をつけ、金銭を差し出す時に用いる手製の紙袋)に金銀あるいは紅白の瑞引(みずひき/水引)を掛け、衣服を改めて、師匠の前に出(い)でて、両手で差し出すのが作法であった。
 しかし今日は、こうしたかつての作法が忘れ去られ、こうした作法は廃れてしまった。

「熨斗袋」のいろいろ。本来月謝を納める際は、服装を糺し、金銀あるいは紅白の瑞引を掛け、熨斗袋に納めてそれを差し出す作法があったが、今日はこうした事が忘れ去れらた。

 さて月謝であるが、毎月規則正しく、決まった日に納めるというのが正しい姿である。
 しかし一方で、門人でありながら月謝を納めない人がいる。こうした人は、武術を商い行為と看做(みなす)すところがあり、二ヵ月も三ヵ月も不払いのまま、無届けで過ごす人もいるようである。

 しかしこうした人は、自らが人格の低い事を雄弁に物語った人であり、非礼なのは勿論の事であるが、心の中には、感謝の念が存在せず、世の中の礼儀と常識を知らない、恥ずべき人も少なくない。恥辱に対する意識が鈍感なのである。
 武術修行は、こうしたところにも人格が現われるので、修行者自らが、自分の在(あ)り方を正し、また自らも襟を糺(ただ)すべきである。

 またこうした人が、道場内で増え始めると、道場主は門人に技法を教えるどころか、運営維持のため、金策に走り回らなければならなくなり、二重の迷惑を掛ける事になるので、特に注意したい。
 日本は伝統武術を保護する中国などと違って、伝統武術を継承し、その伝統を後世に伝える場合も、小規模な組織は、総て自前で誂(あつら)えて運営しなければならない。また、税制上の優遇措置もなく、道場生は商店の顧客として扱われ、ひとり頭(あたま)、幾らの税金が掛かる。
 更には、道場の建物を維持する為の、定期的なメンテナンスや修繕費も、道場主の個人の僅かな資金力に委(ゆだ)ねられ、この小さな運営資金で、壁を塗り替え、時代にあった設備を整え、古くなった水道管を張り替え、台風や地震の時には、被害を受ければ屋根や屋根天井や壁などの修繕も、殆ど自己資金の、手出しで行わなければならない。

 あるいは誰かが不注意で、便所の便器の中に、掃除中に時計や汚物などを落とせば、それを修理する為に、配水管ごとやり変えなければならない大工事となる。
 以上の工事における修繕費が、数千円や数万円で済むという事はあり得ず、安くとも数十万円から、時には数百万円以上も掛かると云うのは、想像に難しくないだろう。
 つまり故意でなかったにしろ、結局その後始末や、尻拭いをするのは道場主と云う事になり、しかし道場主は、この実情を不払い者に語ったり、それを理由に月謝を値上げしたり、今迄の不払いを厳しく取り立てることはない。ただ、門人の人格と品格を、第三者の観察眼で、黙って見ているだけである。
 しかし一方で、不払い、放置と云う、迷惑を平然として掛け、非礼な人に限って、弁舌爽やかな武道論をぶち、「道」だの「心」だのを言っているのであるから、全く呆れるばかりである。

 少なくとも、武術を習っていると言う誇りを持ち、「道」を掲げる以上は、「恥辱」と云う意識に対し、武術家は敏感でありたいものである。自分の「身分」を確認した上で、こういう類にならないように、自分自身を戒め、思い上がらないことが肝腎である。
 また武術の世界での、謝礼というものは、商業取引における「対価」でないので、この部分を混同しないようにしておかなければならない。

 かつて曽川和翁宗家が、少年時代、初代の山下芳衛宗家に師事して修行していた頃、月謝のお金を裸で渡したところ、先師(せんし/山下宗家に畏敬の念を込めてそう呼称した)は烈火の如く激怒し、大変に叱られたと言う話がある。それ以降、月謝は封筒に入れて、直接師匠に手渡すのではなく、一旦、道場の神棚に揚げて、感謝の意を表わすという大事を悟ったという。
 また当時、入門したばかりのある人が、月謝を渡し、領収書を求めたところ、これに山下宗家が大変に激怒され、その人は、人格未熟として、即、稽古差し止めになったそうである。月謝は、商い行為のそれと違うからだ。

 月謝(謝儀の性格を持つもの)とはそうしたものであり、この点が、スポーツクラブなどの、月々の資金として掻き集める会費とは、大きく異なっているのである。



【自動払込利用申込書の記入の仕方】
 尚道館の月謝は毎月、月初5日に、郵便局の「自動払込」にて郵便貯金通帳より徴集される。
 郵便局の「自動払込利用申込書」の記入の仕方は次の通りである。




●特待生制度について

 尚道館では、内弟子・外弟子を問わず、経済的貧困の事情のある者に対しては、援助の対象とし、「特待生」として優遇し、経済的困窮の度合い如何に関わらず、入門希望者本人の人格並びに品格が優秀と認められた者に限っては、この制度を適用し、金銭事情に関係なく修行ができるようになっている。

 その基準は次の通りである。

経済的金銭的事情があり、しかし入門を熱望し、修行の志ある者は割引またはそれ以上の減額の対象とする。
三人以上の兄弟姉妹で入門し、その他の教育費など嵩んで難儀している家庭の子弟については、二人分の月謝のみを納める。
児童養護施設などから通う18歳未満の未成年者で、施設などから給付される小遣い銭に余裕の無い者は、半額または全額を免除する。
母子家庭や父子家庭の子弟で、家庭生活に経済的な余裕の無い場合は、減額の対象にする。
高等学校あるいは大学、その他の専門学校生で、親許から離れ生活をしている者で、経済的に困窮している者は減額の対象にする。

 但し、これはあくまで自分の招いた自己責任の規定外とする。
 喩えば、「貧困」や「経済的困窮」を、自分の建てたマイホームや自家用車、あるいはその他の借り入れローンの債務に、経済的困窮を挙げる者がいるが、これは自分の生活に対する見通しの甘さを物語ったもので、こうしたものは自己責任の範囲で処理すべきものであり、我が流はこうした者に対しては、援助の手を差し伸べない。
 自分の手取り給与内で生活できず、生活費を街金から借りたり、マイホームの支払の為の支払でその他の金融機関から借り入れを起こし、これで賄うという姿は健全でなく、その人が、如何に自分の生活にだらしないかを物語った証拠である。こうした無知な浪費癖のある者に、援助の手は差し伸べない。こうした事情以外とする。

 さて、経済的な事情があり、「特待生」を希望する者は、減額後の料金を、同じく月初5日に、郵便局の「自動払込」にて郵便貯金通帳より徴集される。
 但し、特待生に限り、この期間の減額された計算を行い、学校を卒業し社会人として収入を得るようになった場合、あるいは経済的貧困から脱出した場合は、特待生期間の減額された料金を月割り計算して尚道館に納めるものとする。
 特待生とは、尚道館より「世話になった門人」であり、「恩を受けた門人」の事である。

 「世話になった」「恩を受けた」と、口先だけで唱えるのは「人間のクズ」であり、真当(ほんとう)の武人たらんとすれば、この世話になった時期、恩を受けた時期の減額の総計算をして、それを忘れず、成功の暁(あかつき)には、これを総て返済すると言う心構えがあってこそ、誠の武士道の実践者であり、この時期の世話になり、恩を受けた事に、本当に感謝するならば、当然、金銭で返す事のできるものは返すべきである。

 もし、こうした事を怠ったり、「世話になった」「恩を受けた」と、口先だけで唱えるならば、その人間の人格と品格はそれ止まりの、低いものであり、この程度の考えしか持たない人間に成り下がるのである。
 経済的困窮から、特待生を希望する者は、特にこの事を肝に銘じて頂きたい。
 「何だ、あいつはその程度の人間か……」と思われる恥辱(ちじょく)に対し、特に敏感であって欲しいと願う次第である。
 また、この気概の無い者は特待生として、門人になる資格がない。

 人の世話をしても、出来るだけ人の世話にならないことが人生を生きて行く上での鉄則であり、他人に絶対に借りを作らないと言う気持ちが事が大切である。