道場憲章 10



第八条 指導員・師範・皆伝師範の資格・役職・地位


1.指導員(准指導員・指導員)
 指導員には、「准指導員」と「指導員」がある。
 また指導員以上(准師範・師範・皆伝師範を含む)の取得については、宗家一親等会員(志友会員で講習会等に参加し、宗家一親等の契約をしている者)または教伝を受ける門人であることが定められる。


准指導員
 准指導員は弐段以上の段位を持ち、初心者並びに有級者を対象に、その指導が可能であると判断された者に、これを許可して、資格を与えるとともに、その地位も与えている。

・資格:宗家に替わり、後進者を指導する事が出来、その指導に際し、月謝を徴集する事を許可している。
 なお、第四級までの昇級希望者に対し、宗家に成り代わって門人の昇級審査を代行し、あるいは門人の中から優秀者を推薦する事が出来る。
・役職:師範または支部長の代理を行い、その指導を行う事が出来る。役職は支部分会指導代理を呼称できる。
・地位:「指導員」の地位が宗家より認可される。
・免許の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。


指導員
 正指導員は参段以上の段位を持ち、既に准指導員資格を取得して、更に「奥」の指導が出来る者に、その資格と地位を与えている。
 したがって道統である、宗家の思想と教えに一致し、その崇高(すうこう)な教えを、世に広める為という目的を持つ。

・資格:宗家に代わり、後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。
 なお、第壱級までの昇級希望者に対し、宗家に成り代わって、道場生の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。
・役職:師範または支部長の代理を行い、その指導を行う事が出来る。役職は支部分会長を呼称できる。
・地位:「指導員」の地位が宗家より認可される。
・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。



2.師範
 師範には「准師範」「師範」「皆伝師範」の三種の師範号がある。


准師範
 准師範は「教授代理」である。
 四段以上の段位を持ち、指導員を三年以上経験した者。
 但し教伝を受ける門人の場合は「目録」以上の資格を必要とする。


・資格:宗家に代わり、准師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。
 なお、級位全般ならびに初段補から弐段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り変わって道場生の昇級審査を代行し、あるいは門人の優秀者を推薦する事が出来る。
・役職:支部指導を行い、副支部長を呼称できる。また支部長・道場長を呼称できる。
・地位:「准師範教授代理」の地位が宗家より認可される。
・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。


師範
 師範には「練士号」と「教士号」がある。
 練士号は五段以上の段位を持ち、准師範を八年以上経験した者。
 教士号は、六段以上の段位を持ち、五年以上経験した者。

・資格:宗家に代わり、師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。
 なお、級位全般ならびに初段補から参段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り代わって道場生の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。
・役職:練士号/地区本部の指導を行い、支部長・道場長を呼称できる。
    教士号/方面指導部長の称号で総支部を補佐する事が出来る。
・地位:「練士号」あるいは「教士号」の地位が宗家より認可される。
・免許(昇級・昇段)の発行権:なし。伝承に於ては「不完全相伝」である。


皆伝師範
 皆伝師範には「皆伝上級教士号」と「皆伝範士号」がある。
 皆伝上級教士号は、七段以上の段位を持ち、正師範教士号を十年以上経験した者。
 皆伝範士号は、八段以上の段位を持ち、皆伝上級教士号を八年以上経験した者。

・資格:宗家に替わり、皆伝師範として後進者を指導する事が出来、その指導に際し、支部傘下で月謝を徴集する事を許可している。
なお、級位全般ならびに初段補から五段までの昇級・昇段希望者に対し、宗家に成り変わって門人の昇級審査を代行し、あるいは推薦する事が出来る。
 また准指導員補以上の資格取得希望者に対し、宗家および総本部尚道館に推挙ならびに推薦する事が出来る。
・役職:方面指導部長の称号で総支部を総括する事が出来る。     
 皆伝範士号/各方面指導部長を総括し、宗家代理を職務とする。
・地位:「皆伝上級教士号」あるいは「皆伝範士号」の地位が宗家より認可される。
・免許昇級・昇段)の発行権:なし。そ伝承に於ては「不完全相伝」である。

 
但し、級位全般並びに初段までの免状発行に当たり、宗家の名においてその発行が許可される。
 また、皆伝師範のうち「範士号」を持つ者に限り、「完全相伝」
(一子相伝と同格の意味をもつ)を伝承し、総本部尚道館に対し、寄附や寄贈などを行って分家を申し出る事が出来る。


 
【註】指導員並びに上部の師範資格は、総(すべ)て、わが流に於ては「不完全相伝」であり、「完全相伝」と異なり、自らの師範名をもって、段位書並びに級位書を発行する、一切の発行権はもたない。
 また、宗家以外の名を以て、上記の免状を発行する事は出来ない。



3.指導員号・師範号の拝綬式と印伝式
 各免状の授与を受ける場合は、古来より「拝綬式(はいじゅしき)が執(と)り行われてきた。拝綬を受ける拝綬者は、決して無視できない儀式である。
 御事典により執り行われる。
 「拝綬式」と「お披露目」は古来より日本武術伝承の儀式であり、拝綬式と共に師範帯を、わが師匠から締めて貰(もら)うものであり、わが流においては、これまでこうした儀式をせずに、帯と紙切れを、金だけ払って郵送で貰えばいいと考えるものが大半であった。誠に情けない限りである。武術の「道」というものは、商行為の対価と違うのである。
 今後はこの点を大いに反省し、日本の古くからの伝統に回帰すると共に、この伝統を後世に伝える義務を負うものとする。

 免許の拝綬・綬章に対し、儀式を行うが、これを無視することは出来ない。
 無視する者は、拝綬式をせず、お披露目もせず、いつ師範になったか、いつ指導員になったかの不明な人間であり、こうした行動の不可解と考え方の違いは、後々まで祟(たた)るものである。また、伎倆(ぎりょう)があっても、人格的ならびに品格的な域は、「まだまだ」であり、その資格がないと言うことであろう。

 さて、拝綬式は「拝師の礼」とも謂(い)われ、それぞれの免許のランクに合わせた「印伝」を受けることで、また、これは厳粛かつ神聖なものである。免許を許された時は、慎(つつし)んでこれを受け、子弟関係に絆(きずな)を明確にすることである。更に、「宗家一親等会員」として、名誉とその誇りを持つ事は当然である。
 一切は事前の御事典による。

 本来、お披露目と言うものは、事前に郵便などで「何月何日に○○参段が右の日時に遵(したが)って、拝綬式を行います」という「お触れ」を出し、それに従って拝綬式を執り行うものである。その場合、出席者の多い少ないの有無は関わらず、拝綬式が執り行われる。それに対しては、あらかじめ「お触れ書き」を出し、右の日時を指定するものである。
 「お触れ書き」の目的は、世話になった自分の直接の師匠や、先輩各位に対し、お礼を述べて回ることが含まれ、「今日の自分」が存在していることへの感謝でもある。

 つまり、免許状を頂くに際し、これを祝って貰う人を募り、また自分は免許状をこの度頂いたと言うことを、まず文章で、前もって告げることである。そして、頭を低くし、恭(うやうや)しく、更には感謝が込められていなければならない。
 免許を頂いた時の儀礼の趣旨は、「世話になった人達の謝恩」の意味が込められていなければならない。

 この「謝恩」に対し、古人は師匠筋や先輩筋、更には同僚を招いて、一席設けることが古来よりの慣(なら)わしとされた。今日では、必ずしも古法通りの謝礼を行う必要はないであろうが、しかし、せめて口頭による挨拶ぐらいは最低限度の心得として、決して等閑(なおざり)にするべきものではないであろう。


【拝綬式・印伝式の形を踏む事について】
 人間は自分で生きているようで、実は「人に凭(もた)れ掛かって生きている生き物」である。
 「今日の自分が在(あ)る」と言うことは、単に自分の努力によるものばかりではない。人が関与している影響の方が大きい。環境にも作用された事実は否(いな)めることができず、人によって自分が存続してきたとも言える。こうしたものへ有形無形の感謝を顕(あら)わすことが、拝綬式や印伝式の中には含まれている。

 ところが古来よりの伝統である、こうした「形」を無視する不届きな考え方もあるようだが、「伝統からなる形」は、決して無視するべきものではない。何故ならば、現世の物質界において、物質の象徴である形を踏むと謂(い)う行為は、何よりも大事な儀式であるからだ。
 人間と動物の違いは、人間は「儀式をする」というその行いの中に、動物と一線を画するところがあるからだ。儀式をしなければ、人間は動物の日常と、何ら変わりない生き物になってしまう。人間と動物の日常の違いは、この儀式をするか、しないかによる。

 人間の儀式は「神に通じる儀式」である。したがって、この儀式を「神祀(かみまつ)り」という。儀式の大事が薄れつつある現代、神祀りの根本を成す神体などの偶像崇拝は、厳しく戒めると言うのが現代の風潮のようである。
 ところが、物質一辺倒の世の中でありながら、神を偶像崇拝化する戒めというのも、また訝
(おか)しなもので、この根本には物質に対峙(たいじ)する唯心論的な戒めであるようにも思われる。

 しかし、物質界と謂
(い)われるところにとって、ある形式を執(と)って神を祀ると言うのは必要なことである。精神世界における実体には、本来形式など無いが、肉体を持ち、更には未熟な霊的神性を持っている、発展途上の段階にある人間は、「心の持ちよう」だけで、生命力を発揮すると謂うことは難しいし、志(こころざし)もその念だけでは成就し難い。また、その想いだけで、「力」への変換を容易にすることも難しいであろう。何かの媒体が要(い)るのである。これが「神祀り」の行為である。

 「力」というものは、容易に顕
(あら)われ難い存在なのである。その為に、現世にあっては「形を踏む」という筋道が大事になる。また、この「形を踏む」という行為は、厳粛(げんしゅく)かつ静穏な雰囲気の中で、整然と行われることが大事である。

 したがって、拝綬式・印伝式やお披露目の実行日は、日取り的には、人が集まれる日曜や祝日の方がよいだろう。大勢からの祝福を得る為である。祝福を受けると謂うことこそ、儀式の重要課題である。
 いわゆる簡単に言えば、結婚式などの儀式に似たもので、免状取得は個人的なものでなく、公(おおやけ)のものとなる。したがって、「公」である以上、その資格を得たと言うことはそれだけ重い責任も生まれ、また自分自身の指導者としての自覚も生まれるものである。それは大勢の祝福によって生じるものであろう。

 お披露目は、拝綬式・印伝式に参加する者と、そこに集まった人間とで執り行われるもので、一人以上の参集者を有し、またその場に参集した人により、「免除取得授与の証人になって貰う」という事になる。

 お披露目は予算に応じて大小の形があるが、小を挙げるならば、拝綬式に集まって貰った人に酒食を振る舞う、その程度のものでよく、予算も経済状況に応じて、道場(普通、道場で行う場合は、場所の借り賃代として、細やかな謝礼を包む)で、近所の寿司屋から寿司の大鉢をとり、参集者全員でビールで乾杯と言う簡易な方法もあるし、大は何処かのホテルを借り切って、盛大に行う事も出来る。小規模で行うなら、一万円程度で済むであろうし、大規模で行うなら結婚式くらいの金は懸(かか)ろう。

 これは拝綬者その人の「志」であるので、宴(うたげ)の大小の形や規模は問わない。問題は拝綬者の取り囲む環境の、暖かい祝福の度合いである。
 また、拝綬式を行う拝綬者は、斎戒沐浴さいかいもくよく/「沐」は髪を洗う、「浴」は滝の水などの聖水で躰(からだ)を洗うの意味で、心を清め身を洗うことをいう)をし、身を浄め、紋付き袴に服装を正し、正装をもって授章されることが古来よりの慣例(しきたり)とされている。しかし今日では、道衣などで受ける簡素の形でも許されている。ただし、これは紋付・羽織・袴を持たない外国人に限られることであり、やはり日本人は、せめて自前で紋付袴くらいは揃えておいて、正装にて拝綬式に臨むのが「道」を踏み行う者の努めであろう。

 問題は、慎(つつし)んで恭(うやうや)しく、畏敬の念を持ち、拝綬・印伝に対し「虞(おそ)れを抱く」と言うことである。ここが、「金で紙切れを買う」という蔑視(べっし)の意識を離れ、この恭しさが自身を一等も二等も、崇高な存在として引き上げるのである。拝綬・印伝を受けた者に魂が入り、それが本物となるのである。したがって、それは今後の「大いなる自信」になるのである。また、「毅然(きぜん)とした態度」も、此処に宿るのである。

 さて、「拝綬式」を実行するに当たり、拝綬者は次の形を踏んでこれに臨まなければならない。それは次の通りである。

【拝綬者の拝綬式までに行わなければならない5つの行い────御事典の大事】
心構えの儀(自分が免許を授かるに当たり、その心構えを確認し、また性交を慎み、性欲を鎮めること)
斎戒沐浴(さいかいもくよく)の儀(心の不浄を浄める意で、飲食や行動・動作を慎んで、心身を清めること)
産土神(うぶすなのかみ)詣での儀(自分の生まれ育った土地の守り神に対し、感謝の気持ちを捧げる。総本部尚道館に於ては、西郷派大東流の発祥の地・八幡東区の豊山八幡神社、近所の小倉南区の産土の須賀神社、門司区の和布刈(めかり)神社などが充(あ)てられる)
感謝の儀を執り行う為の感謝状を作成すること(自分が此処まで段階に立ち得たことへの感謝と、自分をこの段階までに引き上げた人への感謝状の提出である。特に、自分の直接の師や先輩に対しての感謝や、それを遠巻きに見守ってきた宗家への感謝は非常に大事なことである。「恩を返す」という意味が含まれる)
免許を受けることへの「お触れ書き」の通知。(「恩を返す」の最大の下準備は、「お触れ書き」を出して、直接の師匠や同僚、後輩らに、拝綬式の日時を知らせ、それに集まってもらうことである。

 以上の5つの行いは、拝綬者にとって非常に大事であり、自分の取り巻きと、道場での環境を確認する上で大事であり、こうした事を確認することにより、「人情の機微(きび)」と言うものが生まれるのである。また、これこそが人間と動物を隔てる、一線を画する行為であると言えよう。

 拝綬者は免許を貰うことへの「驕(おご)りの心」を捨てなければならない。免許を授かったことを慎んで再認識し、自分の頭を低くすることが大事である。
 世の中には、師範免許や免許皆伝を貰うと忽(たちま)ち驕りに趨(はし)る者がいるが、こうした驕りは堅く慎まなければならない。免許を授かったことで、決して思い上がってはならないのである。同僚や後進者のよき手本となるように、何ごとも自分から率先し、「人の手本となる」ことが大事である。

 したがって、自分は他と隔絶した高い所にあり、質が違うのだと思い上がる意識は完全に消滅させねければならない。
 「免許を得る」という儀式は、これから以降の自分の「新しい生まれ変わり」を認識するもので、その「生まれ変わり」の趣旨は、人の手本となり、驕る事なく、頭を低くして人格と品格とに、更に磨きを掛けると謂うことを意味するものである。これを間違うと、師範や指導員と謂う立場を利用して、自己の才能や権勢などに得意になり、あるいは行事(夏季合宿セミナー、春と秋の講習会、指導会議など)の開催にあたっては「愚かしい社長出勤」をして、同僚や後進者から、「何だ、あいつは師範面しあがって」とか「責任的な立場にある者が、実はこの程度の人間だったのか」と、陰口を叩かれたり、蔑(さげす)まれることになる。
 また、それだけ、「公」と立場は重いと謂うことである。そして、此処に「慎む」原点がある。

紋付き袴で受ける免許状拝綬式の模様。わが流では、自前の紋付袴による拝綬を原則とする。ここに「格」というものが生まれるからである。
道衣で受ける免許状拝綬式の模様。この形式での拝綬が許されるのは、特に外国人である場合に、特別に許されるもので、それ以外は認められていない。


【拝綬式ならびにお披露目の式次第】

拝綬式取り行いの儀(司会者であり、普通これは道場の「幹事長」などの役職がある者が行う)
拝綬者の感謝の儀(免状を貰う者がこれまでの修行に対して感謝を述べる)
免許状の授与(直接宗家から手渡しで貰う)
拝綬における帯締めの儀(宗家が直接拝綬者に帯を締めてやる儀式)
子弟の契り盃の儀(酒杯に酒を受け、最初師匠が呑み、残りの半分を拝綬者が呑む。そしてここで呑んだ盃は貰って帰り、神棚に備える。これにより宗家と直接「一親等」の繋がりになり、永遠の子弟関係が結ばれる)
門人代表祝辞の儀(門人代表として成人の部よりの代表者と、少年の部の代表者がそれぞれ祝辞を述べる)
宗家の祝辞の儀
拝綬者の抱負の儀(拝綬者が指導者になったことの抱負を述べ、また斯道に邁進する事を誓う)ここまでで、拝綬の儀は完了する。
披露宴(拝綬式に集まった者からの祝辞や祝杯を受ける)

 武術や武道と言われるものは、「道」を柱にした心の拠(よ)り所である。そこには師と門人の関係があり、また先輩や同僚との関係があり、更には後輩で形作られる関係が存在している。この環境が良好な場合、その人の伎倆も精神性も共に伸びていくのである。

 しかし、こうした環境を無視し、独(ひと)り善(よ)がりの武術観や道場観を勝手気侭に歩いていては、その人の人格も品位も廃(すた)ると言うものである。また、郵便で送り付けてもらった師範帯は哭(な)くと言うものである。

 かつての慣例は、その代々が受け継がれるから伝統と言うものが生まれるのである。そして、伝統を支えていく為には、多くの人の手が関係し、日本民族が伝えてきた風習・制度・思想など、特にそれらの中心をなす精神的在り方は、後世に正しく受け継がれていくべきものである。
 地道な自分一人の日々精進も、陰ではこうした人達と深く関係しながら、自分の修行が行われていると言うことを忘れてはならない。



4.色帯・黒帯の資格授与と役職の任命
 各級位の資格取得ならびに各段位資格取得は、その免許発行権が宗家の名に於いて発行するもであり、宗家以外の名を以て、上記の免状を発行する事は出来ない。これは各指導員資格、各師範資格とも同じであり、以上の資格は宗家の名を以て発行される。

 また、役職に於ては、宗家の名を以て任命され、勝手に偽りの役職を名乗ったり、自己宣伝あるいは自己誇張の為に、例えば「最高師範」「総師範」「師範部長」などの偽った名称を用いたり、任命されない者が「館長」と「道場長」の役職の違いも知らず、これを取り違えて「館長」などの役職や肩書きを用いる事は出来ない。

 わが流における役職の序列は、次の通りである。
 宗家を最高権威に頂き、わが流の普及地域を各方面ごとに区切り、その方面指導地域の長を「方面指導部長」と言う。また方面指導部長は、地区本部長あるいは総支部長を兼務する事が出来る。あるいは宗家の許しを得て、配下に同職の役員を置く事が出来る。

 次に指導方面地域には地区本部麾下の道場が存在し、師範以上
(正師範ならびに皆伝師範)の資格で運営する道場運営者の地位を「館長」、また、師範以下(准師範ならびに正師範)の資格で運営する支部運営者の地位を「道場長」あるいは「支部長」とする。
 次に、指導員や准指導員で運営する「分会」があり、この役職を「分会長」という。
 以上はいずれも各師範資格、各指導員資格の取得者に限り、方面指導部長の許で道場運営をする事が出来る。

 なお、宗家は総本部・尚道館の館長を兼務し、方面指導部長ならびに各地区本部役職員を教化・指導する最高責任者であり最高指導者である。




5.昇級・昇段の授与と推挙
 また、准師範以上の資格を持つ者は、宗家の審査に成り代り、代行人として、門人の昇級推薦、あるいは級位を授与する事が出来る。
 次に、師範以上の資格を持つ者は、参段までの昇段希望者に対し、その指導と、段位の推薦を、宗家に代わって代行し、それを授与する事が出来る。
 但し、皆伝師範範士を除き、総べて推薦の範囲であり「推挙」の形を取る。



6.正・補、指導員並びに各師範資格者の解任
 上記の資格者の任期は半永久的であるが、宗家一親等会員並びに門人の義務を怠ったり、わが流を退会(退会は破門と同じ扱いを受ける)し、あるいは直接破門あるいは絶縁の宣告を受けた者は、一切の段位並びにその全資格を失う。同時に役職並びに地位一切も失う。有資格ならびに段位の一切は、返上しなければならない。

 また宗家から直伝を授け、現在正式に宗家一親等会員並びに門人資格者と認められる者は、わが「西郷派大東流合気武術伝承系図」に名を列ねる者達であり、それ以外の者(辞めた者を含む)は、当方とは一切関係ないので御注意願いたい。また、わが流の名を以て、以降、道場活動を行う事は出来ない。
 万一、この禁に触れた場合、刑事罰を受けるので、これについても十分に注意されたし。
 更に本門を退会(本門は退会者は破門と同じ扱いをする)したり、破門あるいは絶縁になった場合、その瞬間に段位剥脱の上、一切の資格を失う。



7.階級騙詐
 わが流では自分の階級を偽る事を「階級騙詐」という。
 あるいは昇級試験に合格せず、また、昇段試験に合格せず、勝手に色帯をしたり、黒帯をしたりの誤れる行為を言い、騙詐(へんさ)行為を難く戒めるものである。
 これは黒帯の資格を得ず、黒帯を締めたり、袴の着用(ただし、女子に対し入門三ヵ月以上を経た者は、希望により、この着用を許している)が許されていないのに袴を着用し、他人に対し自己を誇張し、騙り、偽って見栄を切る事を言う。

 わが流に限らず、昨今一番多いのが、演武会やその他の大会に、自分の階級を偽り、黒帯を締めて出場したり、あるいは無資格で或るにもかかわらず、その他の色帯を締めて自己の階級を偽る事である。階級騙詐は人間として非常に恥ずかしい行為であり、「武を語る資格」は全く無いものである。
 こうした階級騙詐を行った場合、わが流は即刻破門あるいは絶縁を申し渡している。詳細については、「破門」あるいは「絶縁」の項を参照の事。



8.役職騙詐
 任命された役職や肩書きを偽る事を、「役職騙詐」という。
 わが流において、館長の資格がないのに館長職を名乗ったり、師範の資格がないのに師範を名乗る行為を役職騙詐と言い、こうした騙詐を行う事を厳しく禁止している。
 また、役職付きになるのは黒帯以上であるが、黒帯の身分を占めながら、全く「語るに墜(お)ちた行為」と言うべきである。
 こうした役職騙詐を行った場合、わが流は即刻破門あるいは絶縁を申し渡している。詳細については、「破門」あるいは「絶縁」の項を参照の事。