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自他共栄と自他同根

 人は自分自身を尊ぶ心を、そのまま他人に及ぼしてこそ、この世は尊敬に光りに包まれます。
 慈悲に包まれた雨の一滴は、野山の名前のない野花や雑草にまで、恵みの雨として降り注ぎます。ここに自他共栄と自他同根の原点があります。

 自分自身を尊ぶその究極は、己を他人の為に捧
(ささ)げる事にあります。ここに他人を尊ぶ事と、自らを尊ぶ事の同一意識があり、一如の、境目のない絶対境があります。
 そして、捧げ尽くして、己が何も無くなった時、一切が一体化して己となり、また天地が同根となります。

 自分自身の利己的な「私」を捨てる事を「無私」と言います。また、己の我
(が)を捨てた境地を「捨我」と言います。

 さて、人は、自分を案外、粗末に扱っています。自分を大切に扱っている人は、殆どいません。この世にたった一つしかない、一番大切な自分を粗末にして、逆に、着る物や物財、自家用車やマイホームばかりを大事にします。

 自分を大事にすることを忘れ、自分を甘やかせる事ばかりに専念します。他人に厳しく、自分に甘いのが自分を大事にしていると錯覚している人がいますが、それは大きな誤りです。
 そして、自分に甘い人は、案外、自分を粗末に扱い、毎日、不摂生を繰り替えして、自分自身を享楽の中に埋もれさせようとします。

 概ねは、自分に寛大で、他人には厳しい要求を突き付けます。
 何とかして、楽をし、辛い仕事は他人に任せて、自分は辛い仕事から逃避を企てます。そして自分だけ、旨い物を食べたい、楽をしたいと願います。

 恐れ、怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、羨望、不平不満の心は、ただそれだけで細かく独立しているのではなく、総ては同じ発信源から派生しています。それが一切の病気を招き寄せ、それを我が身に被っているのです。
 生活を困窮させ、不幸を呼び寄せ、事業不振に陥るのは、自分自身が呼び寄せた想念に過ぎません。

 自分の幸せを願う如く、他人の幸せを願い、他人の爲に祈りを捧げることこそ、自分自身に祈りを捧げる自他同一意識であり、この同一性によって、己を空
(むな)しゅうすれば、大きな躍進と、向上ならびに完成が、やがては自分の方へ、宝として摺(す)り寄って来ます。
 そして、その宝とは、実は自分自身の事なのです。

 地獄と極楽の両方を見て来た人の話によれば、双方は、どちらも非常に似ていると言います。双方とも似たような現象が起こっていて、どちらも大勢が大鍋を囲み、鍋の中の御馳走
(ごちそう)を、長い箸(はし)で食べているというのです。

 地獄では、その長い箸で食べ物を挟み、それを自分の口の中に運ぼうとします。しかし、箸が長い為、自分の口の中に運ぼうとするのですが、箸が長過ぎて他人の箸と絡まり、中々自分の口の中に、食べ物を入れることが出来ません。また、こうした事で、周りの者と争いになり、お互いの非難と怒号が錯綜して、この光景は喧騒
(けんそう)たる有様でした。

 ところが極楽では、この長い箸を旨く利用して、食べ物を摘
(つま)み、自分の口の中にではなく、対面する人の口の中に、お互いが運び合っているのです。お互いが感謝の気持ちで、「有難う」の言葉を交わし、お互いが交互に口の中に食べ物を運んでやっているのです。

 同じ環境に居ながら、自分の事を抜きにして、相手の事を思い、相手に譲歩して、歓喜を齎
(もたら)すことで満足し、したがって、自他同根の集団ですから、相手の口の中に運んでやって「有難う」と言われ、また自分も相手から、自分の口に運んでもらって「有難う」と、感謝の気持ちを述べあっているのです。
 こうしてお互いは、本来なら隣同士で絡まる長い箸を、このように上手に遣
(つか)い、お互いに感謝し、歓喜に満ち溢れているのです。

 分かち合って食べれば、「人よし、我よし」になって、人の口に食べ物を運べば、また人からも自分の口に食べ物を運んでもらえるのです。また、これが「分かち合った食べる」これまでの日本人の人生観でした。そして、これこそが『光明思想』の原点でした。

 ところが、分かち合って食べる事を忘れてしまった現代の日本人は、民主主義下のエゴイズムで、資本主義の競争原理の中に与
(く)されて、「自分だけよければ他はどうなっても良い」という悪しき個人主義に陥って、日本古来からの「大和」の精神を失ってしまいました。
 そして、ここに争いの種の元凶があるのです。

 まず、他人を祈念することから始めようではありませんか。
 何故ならば、他人は自分自身の反映であり、鏡に映った自分であり、魂的には大海の一滴から発した同根の根元に行き着くからです。




●祈り念ずること

 私たちは病気になる事を嫌います。したがって病気は、天からの有り難い囁(ささや)き、あるいは通信と言う事を知りません。それどころが、病気になった事を呪います。

 そして最後には「苦しい時の神頼み」となって、占い師や祈祷師、あるいは新興宗教の病気治しの勧めに応じて入信し、挙句の果てに、不動産や預貯金を総べて召し上げられて、身包(みぐる)み剥(は)がれると言う結末は、何とも惨めな限りです。その上、病気治しのご利益は期待できず、一文無しになった挙げ句、死を待つばかりの哀れな、短い余生が残るだけとなります。
 そして「苦しい時の神頼み」の他力本願では効果を奏しません。更に、こうした愚行の大きな誤りは、「祈り」を「自分に向けて祈った」という間違いにあります。
 
 祈りと言うものは、自分の為に、「病気を治して下さい」等と祈るものではありません。
 これは「働ける躰(からだ)を持ちながら働きもせず、困窮生活から脱出できる運を下さい」「楽で大金の貰える仕事を世話して下さい」「不勉強でも偉く慣れるようにして下さい」「ギャンブルで勝たせてもらって、大金持ちにして下さい」「毎日遊んで暮らせて、贅沢(ぜいたく)できる大金が入るようにして下さい」等と、自分の都合ばかりをお願いしているようなものです。また、こうした祈りが、聞き届けられるはずがありません。

 本当の祈りとは「自分の為」でなく、「他人の為」に祈るのです。如何なる逆境に立たされても、困窮する厳しい境遇にあっても、希望を失わず、安易な神頼みをせず、富者を妬(ねた)まず、他人の非を咎(とが)めず、逆境の苦しい時代を辛抱強く耐え忍び、病気の苦痛に敢(あ)えて甘受する姿勢こそ、本当の「祈り」であり、反省と再起を祈願して「愛する想念」をもって、ひたすら祈念すれば、やがて悪因縁に繋(つな)がる未浄化霊は、自分の非を悟り離れて行って、やがては高級霊に導かれて昇華へと向かうのです。

 つまり「困窮状態とは何か」と言うと、一種の悪想念から起こった憑衣現象であり、この場合、憑霊が取り憑(つ)いている場合が少なくないからです。
 サラ金やクレジットカードの借金地獄で苦しんでいる人の多くは、憑衣されて借金を繰り返している場合が少なくなく、借金による生活と、その支払いによる自転車操業で、サラ・クレ地獄を経験させられているのです。

 世の中には、人の力や科学の力では、どうにもならならない事があります。そうした時に、仕方ないから、最後の願望として、これに縋(すが)る祈りが神頼みですが、自分に都合の言い様に働くものでもありません。

 祈念とは、祈りの専意(ある物事に心を集中すること)の表現ですから、何故、自分がこのように苦しめられるのか、その原因を突き詰めて探し出し、素直に、謙虚な心で反省をしなければなりません。この反省こそが自他の境目をなくす、「愛する想念」へと変貌(へんぼう)して行くのです。

 これまでの日本の近代史を振り返って、敗戦当時から現代までを見て来ますと、日本人は敗戦直後の欠乏生活をひたすら耐え忍び、昭和30年代には未曾有の高度経済成長を成し遂げました。それを基盤に、近年には世界でも有数な経済大国へと伸(の)し上がりました。
 そして経済成長と共に、医療技術や科学技術も発達し、豊かで、便利で、快適な生活が出来るようになりましたが、その一方で、物質文明の進歩に反比例して、自殺やノイローゼ、神経症や薬物依存、あるいは精神分裂病やアル中患者が増加し始め、現代人は必ずしも幸せであるとは言い難い実情にあります。

 それに輪を掛けて、今日では金銭感覚の甘さから、借金漬けになってしまうサラ・クレ地獄が出現し、あまりにも金や物を追う生活をした為に、疲弊(ひへい)する現実が生まれました。
 人々は、みな疲れ、迷い、困惑し、心身が病み、苦しみや悩みに蝕まれ、明日は、将来は、どうなるのかという不安に満ちた、一喜一憂の生活を送っている人が少なくありません。医学が発達しても、未(いま)だに原因不明の病気が多く、現代医学は、病名の名前付けだけは医療検査機器のお陰で多くの名前が作り出されていますが、その治療となると、遅々として有効な手立てがないと言うのが実情です。

 現代医学は著しい進歩を遂げました。医療制度も随分と発達しました。しかし、その恩恵に浴しているのは、主として細菌によって起こる伝染病や急性疾患だけであって、いわゆる内因性疾患である、いろいろな慢性病や成人病は、あまり效果が期待できないと言うのが現実です。

 また、人間関係でも、相互間の人倫が乱れ、三角関係や四角関係で苦しみ、借金漬けの借金地獄で苦しみ、さりとて、ただ運が悪い等と称して、諦めの人生を選択している人も少なくありません。
 同じ人間でありながら、人は決して平等ではなく、生まれながらにして幸運に恵まれた人もいれば、不幸に苛(さい)なまされている人もいます。この差は、一体どこからくるのでしょうか。
 人間として生まれ、人生を修行しているのですから、同じ人間として生まれて来たのなら、自分のいたらなさを速やかに反省して、悪い想念は消去して、「愛の想念」だけで、豊かな経験を積みながら、円滑な人生を送りたいものです。

 そしてこの愛の想念こそ、「他人の為に祈念すること」なのです。
 愛を行う人が健康を害したり、難病・奇病に取り憑かれたり、生活して行く為の必要最低限度の金銭や物資に困ると言う事は絶対に有り得ないのです。

 ところが愛の想念を持ちながらも、貧乏して居る人が居ます。
 「あの人は慈愛深いのに、貧乏をしている」とか「ボランティア活動を積極的に行っているのに、経済的に窮乏(きゅうぼう)している」等という事例がありますが、どうしてこのような事が起こるのかと言いますと、「慈愛深い」「愛を実践している」「奉仕に打ち込んでいる」と言っても、これは本当の「愛の想念」から出た、それではないからです。

 それは見せ掛けの愛であり、内実は利己的な愛や奉仕活動であり、一種の売名行為を企てている人は、それが真物(ほんもの)でない為、窮乏(きゅうぼう)すると言う現象が起こるのです。また、一方で金持ちを蔑視(べつし)したり、金銭や物財に嫌悪を抱く潜在志向がありますと、これが即、自分自身に反映されて悪しき印象を作り出してしまうのです。

 地獄に墜(お)ちるのも墜ちないないのも、あるいは地獄に止まるのもそこから這い上がるのも、総(す)べて自分自身の想念であり、「愛の想念」を抱けるか、否かにかかっているのです。愛の想念を抱く為には、自分自身に願いを求めて祈念するのではなく、他人の為に、心から祈る事が最も良い方法なのです。



●運命の力

 運命と言うのは、自分の外にあると錯覚しがちです。そして多くの人が、その力は、実は自分の裡側(うちがわ)にあると言う事を知りません。これを知らない為に、神社に詣でて「苦しい時の神頼み」をしてみたり、祈祷師に何か悪い霊がついていると脅(おど)されたり、占い師に助言を求めて、自分自身の選択肢を、全く心無い第三者に委ねてしまいます。何と言う愚かな行為でしょうか。

 そもそも「運命」と言うのは、自らが作り出した想念に他なりません。自分自身の想念に応じて、顕(あらわ)れた非実在界の幻(まぼろし)が、事象となって現れたものであり、非独立の幻現象を「運命」と呼んでいるに過ぎないのです。
 したがって、それ事態では独立した実態はなく、これはあくまで肉の視野で確認できる虚像に過ぎません。こうした「運命」と言うものが、非実在界に現れる場合は、私たちの想念と決して無関係ではないのです。
 つまり、外界にあるものは、内界(想念)の忠実な反映事象であり、幸運として非実在界に現れるか、不運として非実在界に現れるかは、私たちの抱く想念によって決定されるのです。



●あなたが富として受け取る事のできるのは、あなたが与えたものだけである

 「他に与える想念」が、実は「他から受け取ることのできる事象」を招来(しょうらい)させます。そして、その受け取る量は、あなたが与えた同じ量だけです。小さく与えれば小さく与えられ、大きく与えれば大きく与えられます。また、精一杯に与えれば、他からも精一杯に与えられます。

 しかし他から与えられるのは、同じ種類の物とは限りません。別の形となって、与えられる場合もあります。
 喩(たと)えば、あなたが人に対して親切を与えたとしますと、次には親切となって返ってくる事もありますが、この親切が営業上の利益として、形を変えて与えられる事もあります。また、危うい所を間一髪(かんいっぱつ)で助けられる事もあります。しかし、あなたが受け取る事のできる量は、自分が与えた同じ量だけなのです。

 キリスト教などで言う、「求めよ、さらば与えられん」ではないのです。最初に与える事によって、次に今度は受け取れるのであって、自分の求めに応じて、与えられると言うものではないのです。最初に求めても、何も与えられるものはありません。

 まずは、恵まれない人への寄附(きふ)でも、聖職者への布施でも、見知らぬ人への親切でも、笑顔でも、優しい気持ちでも、何か他人の為にこうした気持ちを与えますと、これは廻(まわ)り巡って自分に返って来て、「善いメグリ」の恩恵を受けるのです。

 ちなみに「メグリ」は、「善いメグリ」と「兇(わる)いメグリ」があり、善い事をすれば善い事が、悪い事をすれば悪い事が、やがて自分に跳ね返って来ます。これらは総べて想念の為(な)せる技です。