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●利己主義者は不平不満を語り、利他主義者は未来を語る

 私たちは「現在」と言う、「今の連続」の中の環境や境遇に取り巻かれています。
 この環境や境遇は非実在界のものですが、いつまでも不平や不満を言い続けるならば、私たちは霊的に退化するばかりでなく、周囲には不調和で暗鬱(あんうつ)な事象ばかりが出現します。

 人間は絶対愛や絶対善を忘れた時、私たちの周りには暗欝(あんうつ)で混沌(こんとん)とした不安の影が忍び寄ります。私たちの周りにあるものは、その環境から、私たちが作り出した想念が反映されているに過ぎません。この反映は幻(なぼろし)であり、非実在界の虚像なのです。

 しかし愚者は、いつまでもこうした幻の虚像に向かって、不平不満を言い、愚痴(ぐち)をぶつけて、自分のしている行為が「暖簾(のれん)に腕押し」という事実に全く気付きません。そして、これが何よりも「自身の人生の徒労」であることにも気付かないのです。
 不幸現象に苛(さい)なまされている多くの人は、時間を無駄に浪費するばかりでなく、実は「進化」と言う人生修行の最重要課題を見落としているのです。

 そして、今の環境や境遇を良くし、金銭や物財に窮乏(きゅうぼう)しない為には、まず最良の方法として「自己の想念を快適化」することなのです。つまり自他の区別なく、同格・同等・同価値の意識で「愛する想念」で、自らを覆(おお)う事なのです。

 これ以外の方法(祈祷や占いの助言など)で、一時的に何らかの方法を用いて、今いる環境や境遇から逃れる事に成功したっとしても、内部に潜在する想念を「愛する想念」に改良しない限り、やはり、いつかは前の環境や境遇に引き戻されて、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻り、再び相応した環境や境遇が作り出されてしまうのです。

 また、方位や日取りを信奉して気にする人が居ますが、こうしたものは、非実在界の虚像であり、幾ら良い方位をとっても、日取りを選んでも、あるいは改名しても、某(なにがし)かのお札(ふだ)や御符(ごふ)を頂いて、これを熱心に拝んでいても、これが自分の為に行われている限り、一時的に善くなったとしても、再び旧の木阿弥に戻ります。これは一時的な措置でしかないからです。
 自分の想念からなる真理が理解できなければ、こうした他力本願の神頼みを、何度繰り替えしてみても、決して好転するはずはないのです。

 本来、実在界と言うのは、愛・善・慈悲・智慧・無限の富・完全調和・完全円満・永久不変に則した幸福界の事であり、始めなき始めから、終わりなき終わりまで、永久に生き続ける世界の事で、これは非実在界の現世とは大いに異なるところです。
 現世では天変地異が起こり、戦争が蜂起(ほうき)し、事故や怪我の不幸現象が蔓延(まんえん)していますが、これは多数の人類の集積された悪想念が、相応の形として反映され、事象に顕(あらわ)れたものに過ぎません。

 作出の起因は、総べて自分自身の裡側(うちがわ)にあり、これが現象界で生活する上で、私たちに関与している事を、絶対に忘れてはならないのです。これは絶対真理ですから、現象界及び現象界で起ってることは、総ての事物、総ての事象が、最初から実体の無いものであり、自己の想念によって、美しくもなり、あるいは醜くもなるのです。

 そうしたものが克明に現れるのが「顔」です。顔は、時として「貌」(かお)の字で現されます。
 貌とは、「変貌」の「貌」であり、これは常に変わる事を意味します。
 では、どのような変わり方をするのかと言いますと、貌とは、一種の脳での思考の変型であり、貌を観相学(人相学)では「第二の脳」という言葉で呼ぶ事があります。思慮深い人は思慮深い貌に、浅はかな人は痴呆(ちほう)のような顔になります。これは年齢と共に克明に現れて来て、十代前半からその姿を現わし、十代後半には、すっかり出来上がってしまいます。
 見識眼の鋭い人は、こうした変貌する「カオ」を観察して、その内部に隠れる脳の一部を読み取っているのです。そして、この「脳」すらも、想念が「思考」という形態を以て作り上げているのです。

 自己の想念は、自分の組み立て方で、如何様(いかよう)にも変化し、自由に創造し、変転し、消滅させる事が出来るのです。こうした事を如実に感知できれば、この現象界の如何なる事物や事象に囚(とら)われる事なく、かといって現在事象として起こっている非実在界の現象を強いて無視する事もなく、また軽視する事もなく、自由な境地に到達できるのです。
 したがって、想念と言う現象を知り尽くしておく事が非常に重要になって来ます。心像化現象の総てが此処(ここ)に帰着するのです。



●万物は流転する

 古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(Herakleitos/前535頃〜前475頃)は、「万物は流転する」という命題を掲げ、これを真理としました。
 ヘラクレイトスによれば、「万物は根源的実体である火の変化したもので、永遠の生成消滅のうちにあるが(万物流転)、この生滅は相互に転化しあう相対立するものの緊張的調和によって、不変の秩序(logos/ロゴスのことで概念や言語野理性を指す)を示す」と説きました。

 現象界の事物や事象は、その総てが目紛しく形を変えると共に、現れては消え、消えては現れる事を繰り返していると説き、しかし、このようなものが永久不変に実在するとは認められず、「万物は流転する」とは、最もよく言い当てた言葉です。

 現象界の非実在界の人間が、想念のみによって作り出した実体の無い幻象世界とは、現象界に現れる現象人間は肉体・幽体・霊体の合成体であり、私たち人間が、想念のみによって作り出した実体の無い虚像体です。
 そして、この幻の現象界には顕界・幽界・霊界という合成体が非実在のものとして想念から作り出され、総ては想念から決定されたものです。

 現象界には事物、事象、事件、出来事、環境、境遇等が想念によって作り出され、私たちの想念に相応しい形として具現されります。そしてこれらは、次から次へと目紛しく変化を遂げ、流転します。
 時代の移り変わりも、流行やファッションの傾向も、何一つとして「これだ」と決定する真理はなく、次々と古くなっては新しくなり、今まで新しいと思っていたものは、やがて古いものになってしまいます。これが万物は流転する現実です。そして「流転」は、その止まる事を知りません。



●悪想念が創り出す様々な不幸現象

 悪想念が生じた場合、これにいつまでも囚われ過ぎてはなりません。また、こうした悪想念を必死になって無理に消そうとか、消滅させてやろうとかの、悪想念自体を、ムキになって取り払おうとしてはなりません。自然に任せるのが一番であり、これに無理に逆らって、解決を急ぐと、却(かえ)って悪想念を心の潜在層に強く焼きつける結果となり、こうした遣(や)り方は感心できるものではありません。

 こうした悪想念を効果的に消去する方法は、悪想念とは反対の、善想念を積極的にイメージして抱く事であり、ここで善想念がイメージされると言う事は、悪想念が存在しないと言う事であり、善想念だけに覆われて、悪想念は心の中に入り込む余地を失います。

 喩(たと)えば、「妬み心」が生じた時は「祝福の心」を想念としてイメージし、「奪う心」が生じた時は「与える心」を、「憎む心」には「思いやりの心」を、「好戦的な心」ま芽生えた時は「平和を願う心」を、「疑う心」が生じた時は「信じる心」を、「利己的な心」には「利他的な心」をと、その時の悪想念に応じて抱き返す事なのです。
 更に総じて、最も効果が大きいのは「愛する想念」を持ち、自他一体の意識をもって、自分と他人は同格で、同等で、同価値であるという善想念の源泉に帰り着く事なのです。

 「愛のない」想念は、今は幾ら裕福でも、病気と言う不幸現象が起こったり、飛行機事故や交通事故の災難、また天変地異や大型台風等の災害の犠牲者となってしまいます。人生半ばにして斃(たお)れる、こうした不幸現象の犠牲者は、率直に言うと、極めてエゴイズムで、利己的であり、自分だけとければと言う個人主義を満喫している人達です。

 こうした人は、その多くが「事故死」や「変死」と言う死に方で人生の結末を迎えます。こうした死に方すら、想念として潜在意識の中に刻み込まれていますから、こうした人は、最終的には、どうしても「事故死」や「変死」で人生の幕を引きます。いわゆるこれが「横死」です。

 このよき例は、ある医学部の大学教授が、ガンを恐れる余り、今までの喫煙の習慣を一切辞めてしまい、外に出る時はマスクをして、食事には気を使って、焦(こ)げたものは一切摂らず、パンの耳までも捨てて食べないようにしていました。お茶を飲む時も、食道癌や咽喉癌になるのを恐れ、微温湯を飲んだり、肝臓癌になるのを恐れ、アルコール類を避けたり、胃癌になるのを恐れ、コーヒーやその他の刺激物を避けていました。

 こうしてガンを神経質なくらい警戒し、ガンになる要因を総べて取り除いて行ったのですが、この医学部教授は皮肉な事にガンで斃(たお)れ、抗癌剤の投与で次第に自然治癒力を失い、とうとうガンで死んでしまいました。
 これこそ「恐れるものは皆来る」を地で行くようなものであり、やはりこれも想念の為(な)せる技だったのです。この医学部教授は、ガンに恐怖心を抱き、その恐怖心が悪想念を描いて、ついにはガンで斃れると言う結末を招いてしまったのです。

 ガンで死ぬ多くの人は、独断と偏見の強いワンマン型の人に見られ、その死にざまは、余りにも無慙(むざん)です。抗癌剤を打たれ、コバルト照射を当てられて、遺伝子療法や摘出手術をしても、その甲斐がなく、他の箇所に転移していて、医者の言の「末期で手後れでした」の言葉を信用しつつ、人生を閉じる事になります。そして遺族も、この言を簡単に信用してしまいます。

 ちなみにガンは、早期発見と言いますが、早期発見とは、その症状の中で「ゼロ期」の段階のものを言うのであって、「初期」「中期」「末期」等の状態に至っては既に「手後れ」であり、早期発見の状態ではありません。したがって、「初期」の状態も、医者の言にすれば「手後れ」という状態に入ります。
 ガンは紛れもなく、想念の齎(もたら)す浮上・消滅の、消えたり現れたりする現象であり、これは現世が、非実在界の最たるものであると言う事実を克明に物語っている一つです。
 そしてガンで斃(たお)れる多くの人は、自分の「愛の想念」の欠如に気付く事もなく、一巻の終わりの人生を閉じる事になります。



●悪想念を善想念に置き換える方法

 さて、ここまで説明しますと、「では、その悪想念を反対の善想念に置き換えるにはどうしたら良いか」とか、あるいは「一体愛する想念とは何か」という、疑問を持つ人も多いと思います。更には「自分の技量から、愛する想念等とは、チャンチャラおかしくて、これは中々恥ずかしくて簡単にできるものではない」等と、諦めに似た嘆きを洩(も)らす人もいるます。
 そのような人に対して、次の善処策を講じると良いと思います。

 それは、過去において、心に抱いた悪想念を総てのノート等に書き出し、想念をノートに移し変える事によって、次に、「このような悪想念を抱いて、本当に悪うございました」あるいは「あの時は、つい思い上がって暴言を吐いてしまいました。これを反省して悪想念は抱かないようにします」等の、事細かな反省文を書き、最後にこれを封印し、心からの詫状を一札入れて、「これまでの数々の悪想念を書き写したこのノートは、消却する事により、自分が有していた悪想念は消却と共に消滅します。今後は一切の悪想念を抱かず、心より改心して慈愛深い、人を愛する心を養って行きます」と、心に強く念じながら、この数々の悪想念が書き出されたノートを消却します。

 これによって、これまで心の中に溜まっていた悪想念が一掃されます。
 悪想念は、これに相応した悪現象を生み出します。この悪現象は自分及び自分の周囲に必ず現れるものであり、これが様々な不幸現象として自分やその家族を悩ませます。自分が病気になったり家族の中で病人が出たり、不慮の事故に遭遇したり、事件に巻き込まれて被害者になったり、あるいは正統防衛が講じて加害者になったり、更には命を失うような最悪の事故に見舞われたりします。

 こうした不幸現象が、自分の心の裡側に「姦淫」のような、男女の不正な交わりを描いただけでも悪想念が起こり、あるいは姦淫の実行犯として、妻以外の女性、夫以外の男性、同性愛、結婚前の婚前交渉、罪の呵責のない処女喪失等の不倫な情事は、悪想念の巣窟となります。

 不倫をして、何も現象が現れなかった、あるいは性交渉を愛情の一種として考え方をする人は、必ずその報いを受ける事は必定です。今、現れないのしても近い将来、悪想念の反映は、我が身に降り掛かって来ます。また、こうした不幸現象を、いつまでもダラダラと続けていると、必ずそれは自分に反映されます。
 現に、男性の前立腺肥大症をはじめとして、前立腺癌、睾丸癌、陰茎癌、尿道癌、膀胱癌等を患い、また女性では子宮筋腫や膣炎を始めとして、股関節亜脱臼や子宮癌、腔癌、乳癌、膀胱癌、尿道癌等の、生殖器の弱ったところにガンが発生します。

 何故ならば、「ガン」は悪現象の最たるもものであり、その他にも「姦淫罪」に当たる強制猥褻(わいせつ)罪・強姦罪・淫行勧誘罪等の、個人の性的自由を侵害する犯罪を犯した場合も、こうした生殖器にガンが現れたり、もっと弱い不可の部分の箇所にガンが飛び火をして行きます。お金目当ての女性の売春も、こうした不幸現象を招き入れます。
 したがって何らかの形で、悪想念を抱く行為を行った場合は、直ちに上記に述べたいずれかの方法をもって消滅させておかねばなりません。



●あなたは見知らぬ、全く赤の他人の為に祈りを捧げた事があるだろうか

 「祈り」とは、善想念の根源であり、逆に不安、悩み、苦しみ、怖れ、悶絶、恐慌、失望、絶望、地獄願望等の自己の肉の視界でこれらを捉えた場合、これらは非実在界の幻の現象であると悟って、消去すると同時に、己の心の裡側には同価値一体の愛の想念をイメージせねばなりません。同価値一体は、これまで何度も繰り返すように、絶対善であり、絶対愛の源泉となります。

 現象世界では、肉眼をもって見れば、様々な不幸現象が次から次へと起こります。不幸な事件も発生すれば、不幸な事故も発生します。「恐れるものは皆来る」の喩(たと)えから、恐怖心を抱いた途端(とたん)に、事件や事故が起こります。

 喩(たと)えば、「この飛行機は乱気流に巻き込まれて墜落するのでは?」と言う疑いと悪想念を抱けば、その飛行機は大惨事を起こすような事故に発展しますし、今日は何だか少し体調が悪いが、仕事なので仕方なく車を運転して仕事に出かける時、「事故に遭わねばいいが……」等の悪想念を抱けば、必ず命を起こすような大事故へと繋(つな)がります。
 そしてこうした不幸現象は、一見すると、私たちの想念や言動に何の関係もなく、突然、私たちを襲って来るように見えますが、これまで何度も繰り返した通り、現象界における現象や事象や出来事は、私たちが所有する想念通りに、あるいは私たちが悪想念に反応して現れる仮現の幻に過ぎません。

 端的に述べるならば、大富豪も極貧も、幻の世界の出来事であり、想念と過去の消去できなかった悪想念が因縁として現れ、現世に具現されたに過ぎません。したがってこうした貧富の格差も、個々に独立して実在するものでもなければ、また、それらが私たちとは無関係に、偶然に存在していると言うものでもありません。

 更には、一個人の力では如何ともし難いと思える大災難や大事故に巻き込まれ、被害を受け多様な場合でも、その場の人達の殆どが、大災難や大事故発生に関わる類似の想念群が集合された時、大きな事故や大災害が発生して、巻き込まれるのであって、逆に、その人が類似の想念を所有しない範囲外に居る時は、大事故や大災難を免れることができます。

 喩えば、事故に繋(つな)がるような悪想念を抱かなかった場合、その人は必ず事前に事故の範囲外に出ています。また、範囲内に居ても、何らかの操作が作動して、その人だけは事故の被害から免れる事ができるのです。

 空飛ぶ飛行機では、その中に居た人が、幾ら世界最強の格闘家であったとしても、落ちる飛行機の中では何の防禦(ぼうぎょ)能力も発揮しません。本来、防禦能力を発揮する場合は、落ちる飛行機には搭乗させないであろうし、時間的にズレ等が生じて離発着が出来なくなって、飛行機に故障箇所が発見させる等の待機処置がとられます。

 大事故や大災難が起こる所には、自己の意思や想念に隨(したが)って、侵入していった、あるいは大事故や大災難が起こる所から、自らの意思や想念に隨って、その場から退去しなかったと考える方が正しいのです。不幸の事故や災難に遭遇しない為には、こうした不幸現象を発生させる原因になる悪想念や類似の想念を絶対に抱かない事なのです。

 そして不幸にして、大惨事に巻き込まれた場合は、自分の為にではなく、他人の為に心から祈りを捧げることが、こうした場所から生還できる唯一の方法なのです。

 祈りは「愛する想念」の発動を促します。一心に、自分以外の他人の為に心から祈りを捧げます。「自分はどうなっても構いませんから、どうか私以外の人を助けて下さい……」と、心から祈りを捧げます。
 こうする事によって、悪想念から派生する自他差別認識や自他離別認識が解除され、非実在界の幻から撤退できる空間を開いてくれるのです。事実、『旧約聖書』(出エジプト記)の中では、モーセがこれを遣(つか)っているではありませんか。