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●目的論に立った歴史的背景

 目的論(teleology)を歴史のあらゆる箇所から見つける事が出来きます。目的論は逆因果律であるから予定説(predestiation)とは同義であり、神の予定から結果が導き出されています。つまり戦争で言えば、勝つ戦争と負ける戦争です。これは予(あらかじ)め、勝つ事が決定された、あるいは負ける事が決定されたという決定論に帰着されます。

 例えば、既に述べたように日露戦争時の「日本海海戦」と、太平洋戦争(正しくは日本が側から見て「大東亜戦争」というが)開戦時の「真珠湾攻撃」の双方の違いです。

 両者は「Z旗」を掲げながらも、その戦争目的が大いに異なっていました。前者は戦争目的を持っているのに対し、後者はそれが全くなかったということです。目的がないのですから、結果が「このように予定されていた」と結論を出す事が出来ないのです。そして決定論すら存在せず、予定説すら信じていなかったのです。
 あるいは孔子の説いた「天命」すら、信じてはいなかったかも知れません。

 真珠湾奇襲作戦は、あろうことか偶然に偶然が重なったという(実際には予期しない「偶然」と言うのはあり得ず、仕組まれた事が偶然のように映る)、驚きの作戦で、これが日米両国の率直な意見であったのではなかったのでしょうか。仕掛けた本人ですら、予想外のことであったに違いありません。あまりにも手筈(てはず)通りに、うまく行き過ぎたからです。

 さて、運命学者は、人が運で好調を極める時、単に「見えざらざる力で操られている」あるいは「ご先祖様の御加護」等と言います。
 またクリスチャンですら、予定説を信じず、「神の御加護があられますように」等と、加護願望の祈りを捧げます。

 しかし好調に恵まれ、幸運に恵まれるのはこうした祈りや願い事や、偶然に映る結び付きが度重なった現象は、奇遇的なものでなく、まして先祖の加護が聞き届けられた、というものではありません。偶然という不安定な、気紛れは度々起こるものでないし、また先祖は、子孫の願いを簡単に聞き入れてくれるほど、あの世で救われているとは思い難いのです。
 したがって最初から決定されていた、予定説に則って、事が運ばれたと見るべきなのです。
 そこで恰好の材料うになるのが、日本海海戦と真珠湾攻撃でした。この二つの戦闘には、人間の運命模様が盛り込まれてた歴史的モデルといえましょう。



●狭き門より入れ

 「マタイ伝」にはこうあります。

  狭き門より入れ。
  滅びにいたる門は大きく、
  その路(みち)は広く、
  之(これ)より入る者多し。
  生命にいたる門は狭く、
  その路は細く、
  之を見い出すもの少なし。(「マタイ伝」第七章13〜14)

 生命に生き拔くその門は、狭く、入りにくく、また苦しく、痛く、更には醜い。それが酷ければ酷いだけ、しっかりと足を踏みしめなければならない。そして門の固い扉を、力強く押し開く事だと説きます。

 扉の開かれた向こうには、歓喜の世界が目前に迫っています。苦難は幸福に繋(つな)がる狭き門なのです。不運・不幸をこれに置き換えれば、更にはっきりしてきます。

 不幸とは、実に醜いものなのです。しかしこの醜さに耐えて、生命に至る門を押し開かねばならないのです。そして路(みち)が細ければ細い程、注意深くそれを探さなければならないのです。幸福とは、こうして探すものなのです。
 人間の人生のとって、何時(いつ)のときにか、A・Bいずれかの路の選択肢を迫られることがあります。
 一人の人間にA・Bのいずれかの二つの路があったとして、これを同時に進み、その結果を後で比較するということはできません。絶対に不可能なのです。これこそが「現実」です。

 時空に制約される人間社会は、絶対的制約というものがあって、これこそが予め定められた決定論であり、繰り返しますが、決定された事を人知では覆えす事が出来ないのです。
 ではこうした局面に遭遇した場合、どうすればよいのでしょうか。

 さて、このナゾ解きに迫りましょう。
 最初はAの路を進もうとして、この準備にかかっていましたが、種々なる事情からBを選択してしまったとします。そして条件は、Aの路は広く、Bの路は細かったとしましょう。またAの方がBより楽で、快適で、豊かで、華々(はなばな)しく見えたとしましょう。
 しかし何らかの事情、あるいは何らかの理由で、Aがこれを選択できなかった場合、これを果たして不運といい、不幸といえるでしょうか。

 不運・不幸の因縁は、Bを選択したとして、「自分はあの時、Aを選択しておけばよかった。そしたら今頃は……」と帰らぬ繰り言(愚痴)を、あれこれと並べ立てることに起因します。
 「迷い」という現実は、実にこういうことを言っているのです。

 即ち「迷い」とは、この場合のAの路は、自分が実際に歩いた路でないにもかかわらず、そこから架空の幻影が出てきているということです。そうした架空の想念が、現在自分の歩いているBという路の困難さに悲鳴を上げ、現実逃避を企てる逃げ道に遣(つか)われ、「Aを歩いていれば……」と、嘆きを洩らすのです。

 しかしAを本当に選択していたら、今の困難は解消され、実際に楽で、快適で、豊かで、華々しく歩むことができたでしょうか。
 否、悪くこそなれ、断じて良くはなかったはずです。

 これは詰まるところ、Aという幻影に憧(あこが)れるからであって、これこそが「真の迷い」というものです。
 その挙句、もしBから迂回(うかい)して、再びAに舞い戻ろうとすれば、今まで歩いていたBの路より、もっと結果は酷くなるのです。それは「天」が与えた路を拒否し、努力を怠った報いとして、不運・不幸の悪想念の現象が、非実在界に具現化されるのです。
 実に不幸現象の実態は、ここに由来します。
 狭き門より入れ。これは実に見事な真理を表わしている諌言です。
 また大きな門は滅びに至る。これも能(よ)く真理を表わしたものと言えましょう。



●信ずることの意味

 人間は「憂い」を所有する生き物です。
 では、憂いの根源は何でしょうか。
 人は、「危うい」から憂うのでありません。「信じる」ことが出来ないから、憂うのです。憂えるから物事は成就しないのです。憂えるから失敗するのです。

 病気でも、憂えるから「恐れ」が起こり、恐れがいつまでも病気を長引かせ、重くしてしまうのです。事業にしても、生活にしても、憂えるから困窮(こんきゅう)し、憂えるから「見通し」が立たなくなるのです。
 そして憂いの根源は、「信じる」ことが出来ないと言うところに、結局は帰着します。

 人生は、人が人を信じることから成り立っています。信じることが出来なければ、世の中は乱れ始めます。今日の世の中の乱れは、人が人を信じることが出来なくなったことに起因します。
 また悪人を善人に導く唯一つの道は、「信ずる」ことにあります。一般的には悪人だから信じることが出来ないと言うのが世俗の習慣になっているようですが、悪人だから信ずるのです。信ずれば、悪は働かなくなるのです。

 信ずるから悪をしないのです。信ずる心は、それが転じてやがては「愛」となります。「愛の想念」こそ、「信ずる」ことの原点なのです。
 信ずることは、また「祈り」に通じます。「祈り」は、自他離別の狭い心を解き放ち、信念を確立します。これは大宇宙の玄理の、信念と一致します。したがってあなたが、人の為に祈る時、その信念は既に成就しているのです。



●信ずると言う「まごころ」を教えた陽明学

 陽明学とは、明代の王陽明(おうようめい)が唱えた儒学です。陽明は、最初朱子学の性即理説に対して心即理説を唱え、後に致良知説、晩年には無善無悪説を唱えました。朱子学が明代に入って形骸化したのを批判しつつ、明代の社会的現実に即応する理(知行合一や事上磨練など)をうち立てようとして陽明学が興ります。そして、経典の権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などの新思潮が生れ、更に日本では陽明学派をなして行きます。

 日本では、中江藤樹(なかえとうじゅ)を中興の祖とする、日本陽明学派です。
 熊沢蕃山、三輪執斎、佐久間象山・高井鴻山ら、また大塩中斎(平八郎)、吉田松陰らに受け入れられ、幕府の権威の相対であった朱子学に対して、革命的な知行合一や事上磨練(じじょうまれん)が倒幕運動の原動力となり、まがりなりにも日本は、歴史の中で近代を迎えることになります。思想的根底の中で日本陽明学派のなした業績は非常に大きなものがあります。

 幕末当時の日本が欧米列強に対して、意の儘(まま)に日本を植民地化させないと奮戦したのは、吉田松陰の『海防論』に寄るところが大きく、幕藩イデオロギーが増幅されて、封建体制を終焉(しゅうえん)させたことは周知の通りです。

 しかしながら、『海防論』の背後には、松陰独自の「諌幕論」(時代の実情を知らせ、幕府に対して日本の置かれた立場を示し、幕藩体制を諌める)が流れており、彼は毛利家や幕府に非がある場合は、諌主、諌幕の為に「一誠兆人を感ぜしめ」と言い、誠(まごころ)を尽くして、それに感じない者はいないという信念を持っていました。こうした事が多くの後輩を育成し、概ね高杉晋作、久坂玄瑞(げんずい)、吉田稔麿(としまろ)、入江九一らの松下村塾の四天王と謂(い)われた人々は、松陰の「まごころ」に感化された人達でした。

 信じるという事は、理論上で、あるいは口先だけで唱えるのではなく、それを行い、生涯貫いてこそ大きな意味があるのです。

 人は、縄を以て縛り、肉体の自由を奪うことは出来ますが、縄を以てしても奪うことの出来ないものが精神であり、「まごころ」です。そして人の心を縛り付けるものがあるとするならば、それは「まごころ」に貫かれた「信」であり、前漢の歴史家であった司馬遷(しばせん)の『史記』には、「士は己を信ずる(知る)人のために死す」とあります。

 人の世の、人と人の交わりの根源は「信」であり、「信」こそが大事をなす原動力なのです。
 信ずるところに神が現われ、信ずるところに「まごころ」が生まれます。信ずれば物事は成就し、憂い、疑えば物事は崩れるのです。

 物事は旨く運ばないから、希望を失うものではありません。希望を失うから、物事は成就しないのです。見掛けがよく見えたり、貧弱に見えるのは表皮の部分の変化であり、非実在界の一時の気紛れです。この見せ掛けに、多くの人々は眼を奪われ易い習性があります。見せ掛けに眼を奪われるということは「まごころ」の欠如であり、心眼と見識の低さばかりでなく、根本的には信念を失っているからなのです。

 信ずれば、もうそれだけで、あなたの志は成就されたのです。信ずる事こそ、まさに「愛の想念」であり、悪も善も(事の善悪は人間世界のもので、絶対善や絶対悪でない)超越し、それが自他一体の意識をつくるのです。