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●捨てるべきもの捨てる

 人間の迷いは、捨てるべきものを、いつまでも後生大事に持ち続け、それを惜しむ時に、結果的には不幸となります。
 真珠湾奇襲作戦において、幻(まぼろし)の第三次攻撃はかくしてなされませんでした。虎の子の四隻の機動部隊を惜しんだからです。この批判は、太平洋を挟んだアメリカ側にもあります。

 真珠湾奇襲攻撃の立案メンバーであった、第一航空艦隊の作戦主任参謀・源田実(当時中佐)は、戦後、戦犯に問われ、「汝はハワイ攻撃を後悔しているか?」と米検事に問われました。
 源田は「ノー」と答えました。この源田の態度は、アメリカ人に強い印象を与えました。
 その後、暫(しばら)くして源田は「オー・イエス」と追言したのです。
 そして「われわれはもう一度、第三次攻撃を決行しなかったことに深く後悔している!」と答えました。

 日本海軍は何故、この時、第三次攻撃を加えなかったのでしょうか。
 戦争史家の間で、一般的にはその責任が、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将にあるとされています。
 南雲は、もともと、あまりに投機性の高い真珠湾奇襲攻撃には最初から反対でしたが、命令により、やむなく機動部隊の指揮官として真珠湾まで向かったのであり、彼の危惧(きぐ)とは裏腹に、奇襲作戦は予想以上に大成功したのでした。

 奇襲作戦の前後二回の攻撃で、ハワイのアメリカ太平洋艦隊は空母を残し、全滅状態となりました。これに対して日本側は、31隻の空母護衛艦隊と、6隻の大型空母を含む艦隊は無疵(むきず)であり、航空機の損害が29機という軽傷にとどまっていました。無想だにしない大戦果であったのです。

 この大戦果を前に、南雲司令長官も、参謀長の草鹿龍之助少将も、これで充分と考え、これ以上の勝利を求めませんでした。しかしこの大戦果は、軍艦に対しての戦果であって、軍事施設や航空母艦に対しては、殆ど討ち洩したという形に終わっていました。
 南雲と草鹿の頭の中には、敵を壊滅させたのであるから、もうこれ以上望まないという安堵(あんど)があり、深追いを避けたのです。
 ここにも、当時の日本海軍軍人の中で、太平洋戦争が「皇国の興廃を賭けた戦争」という戦争観が存在しなかったこと如実に現しています。

 南雲と草鹿は、前後二回の攻撃の大戦果で、英雄になる道を選択します。そして日本はこの時点で、敗北の坂を転げ落ちることになる禍根を招き寄せるのです。
 真珠湾攻撃の実行部隊の最高首脳であった二人の海軍高級軍人は、無疵の機動部隊を安全に日本に連れ帰ることだけが、その後の任務となってしまいます。

 この奇襲作戦の図上演習は、連合艦隊旗艦であった戦艦長門の甲板上で行われ、シュミレーションにおいてはアメリカ軍の反撃を受けて、虎の子の大型空母二隻が撃沈されることになっていました。しかし結果は予想を上回って、敵を全滅させながら、こちらが無疵(むきず)とあっては天にも昇る気持ちになったなったに違いありません。

 こうした心理状態の中で、果たして勇気ある決断を下し、もう一度と、第三次攻撃を決行する勇気は、とても湧いてこないはずです。もう一度、怖い思いをして、虎の尻尾を踏む必要なないと考えるのが、凡将の常です。
 後は、無事に連れて帰ることだけが残り、英雄になることだけでした。また凡将ほど、有頂天に舞い上がり、英雄視され、勲章を貰(もら)う事ばかり考えるようです。

 ところが、こうした中にも勇気ある意見具申をした者がいました。第二航空戦隊司令官・山口多聞少将です。
 彼は「第三次攻撃を加えるべきだ」と繰り返し進言し、航空艦隊司令部に意見具申しましたが、こうした勇気ある意見具申は空しく却下されてしまいました。

 旗艦赤城以下、31隻の艦隊はハワイを後にし、日本へ向かいます。敗戦の坂道を転げ落ちる帰路とも知らず……。
 この決定に山本五十六は不満であったと言います。
 理由はアメリカ機動部隊の空母を討ち洩したからだと言うことです。空母を一隻の撃沈させていないことに危惧を抱いたという言います。こうした事が、戦争史家の間では通り相場になっています。
 しかし、果たして山本は、航空機の重要性を本当に心の底から認めていたのでしょうか。

 真珠湾攻撃を振り返った場合、南雲長官に対する第一航空艦隊司令部への批判は大きいようですが、こと、山本五十六の責任となると、戦中・戦後を通じて、その責任に対する批判は殆どありません。この責任の張本人は、南雲長官より、むしろ連合艦隊司令長官・山本五十六の責任であるはずです。
 そして山本の最大の戦争責任は、自身に戦争目的が存在せず、最も重大な時期に勇気ある決断が出来なかったことです。

 それは偏(ひとえ)に、捨てるべきものを惜しみ、自己の保身と英雄としての自己顕示欲が、脳裡(のうり)を過(よぎ)ったことに回帰されるのではないでしょうか。
 戦争は、私たちに多くの教訓を教えています。しかし日本国民は戦争を忌(い)まわしいもの、避けなければならないものとして、これを研究し、調査して、非を非として明確にすることまでを嫌う風潮があります。総て忌まわしいものには蓋(ふた)をして、封じる考え方が最優先するようです。

 しかし謙虚に歴史を学ぶ姿勢を失えば、これこそが亡国であり、こうした中に反省と、建設に至る糸口は見い出せないのです。

 戦史には多くの教訓が秘められていると言います。しかしこの教訓は、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で、勝ち進んでいるように思えている場合、率直に現在を判断する反省材料の根源を見い出す原動力にはなりません。安易に、今の勝ちに奢(おご)り、敵を侮(あなど)り、本当の自分の見失ってしまうところに、この恐ろしさがあります。

 太平洋戦争を振返って見た場合、日本人の、ペリーの砲艦外交以降、欧米流の右回りの拡散・膨張思想に取り込まれてしまって、これまでの日本的な精神や霊的神性は悉々(ことごと)く失われてしまったと言ってよいでしょう。
 そして太平洋戦争初頭の、ハワイ真珠湾に始まり、一見勝ち進んでいるかのように思えた、緒戦(しょせん)の華々しさとは打って代わり、ミッドウェー作戦を起点として、一気に逆転され、日本はこれより、列島そのものが焦土と化す、道を選択するのです。

 物事が順調の運んでいる間の、現実に対してどう取り組むか、あるいは現実の変化に対してどう修正するかということは、非常に難しい事であり、ミッドウェー作戦が失敗した大きな要因は、ここにあります。

 また、この作戦を敗因に追い込んでしまった理由としては、アリュウシャン作戦の追加までを含む、戦争目的の不確実性であり、緒戦(しょせん)の華々しい勝ち戦の奢(おご)りの余韻(よいん)を引きずっていることは否めません。そして更に付け加えれば、攻撃一本槍を重視した割には、アメリカ海軍の過小評価や、索敵重視の戦争思想が抜け落ちていたのです。
 ミッドウェーの大失敗の種は、既に真珠湾攻撃の際の、捨てるべきものを捨てずに、後々まで後生大事に温存した、戦艦巨砲主義の、「戦艦大和」をダラダラとい温存した事に、その禍根があったのではないでしょうか。



●見えざる手の正体

 戦術は戦闘実行上の方策であり、一個の戦闘における戦闘力の使用法を明確にし、一般には戦略に従属します。また戦略は戦術より、広範な作戦計画をたて、各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法です。更に、主要な敵とそれに対応すべき味方との配置を定めることを言うのです。

 さて、人間の行動には不思議な、何者かが操る眼に見えない力が働きます。少なくとも、凡夫にはそう映ります。これこそが方位の恐るべき不可視力、つまり見えざる手なのです。

 この不可視力は人間の体調や思考能力、あるいは資金力の有無に関係無く、行動する方角(九星気学の方位とは異なる)に働くのです。
 そしてこの力は人知で考える以上の大きな力を有しているので、喩(たと)え、科学的な情報分析を行い、客観的な条件と共に主観的な条件も加味し、あらゆる知識を集結させて、万全な注意を払ったにもかかわらず、日取りを間違えば、結果が予想外に思わしくなかったり、あるいは完敗に終わったという結末を招くことがあるのです。
 これは占い等とは異なる、歴(れっき)とした中国的な物理学であるからです。

 この眼に見えぬ不思議な力は、いわば「運命に関与する力」であり、この根源に「予定説」が据え付けられていると言っても過言ではありません。
 人間が行動するには、そのアクションにおいて、総て方角があります。人体から一種の波動は出ているからです。その人が行動する方角の良し悪しで、結果が良かったり悪かったりするのです。また単に行動は、左右いずれかの旋回によって押し出される為、その動きが右旋なのか、左旋なのかで結果も違ったことになります。人体の波動が、その場所の磁場と関わり合いを持つからです。

 こうした行動の、不運を招いた結果を歴史上の戦史から探せば、「ミッドウェー作戦」ほど、この敗北例を如実にするものはないでしょう。
 太平洋戦争時、ミッドウェー海戦ほど大敗北を期した戦はありませんでした。日本はこの作戦によって、空母四隻の虎の子を失い、これまでとは一変して、破局への道を突き進むことになります。

 1942年6月、日米両軍の攻防の中心になったのは、ハワイのホノルルから2000キロに位置していたミッドウェー島でした。
 この島は直径約10キロの珊瑚礁(さんごしょう)で囲まれた、南部にイースタン島とサンド島という小さな島で、これらの島には飛行場やアメリカ海軍の潜水艦の前進基地がありました。ここにはアメリカ軍の2000名の守備兵と、陸上爆撃機B17十九機、それに戦闘機など併せて百十五機が駐在しており、二十隻の潜水艦が200キロから400キロの半径で東に向けて散開していました。

 同年の6月4日、日本海軍連合艦隊は、まずアリューシャンのダッチハーバーを攻撃し、続いてその方面のアメリカ軍の注意を引き付けておいて、6月5日に旗艦「赤城」からなる南雲機動部隊(第一航空艦隊・南雲忠一中将麾下の航空母艦四隻)がミッドウェーを空襲し、6月7日、占領部隊がミッドウェー島に上陸するという作戦を立案しました。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将は旗艦「大和」に乗って、南雲機動部隊の西方約550キロに位置し、作戦を指揮する体制をとっていました。
 山本長官率いる主力艦隊は旗艦「大和」の他に「常陸」「長門」「伊勢」「日向」「扶桑」「城山」の戦艦群に、小型空母の「鳳翔」が控えており、また、攻略部隊の護衛には戦艦「金剛」「比叡」を主力に多数の巡洋艦や駆逐艦が同行していました。更に南雲機動部隊の護衛には、戦艦「榛名」「霧島」、巡洋艦「利根」「筑摩」を含む駆逐艦群が護衛に当たっていました。

 そして、ここで問題になるのは、山本長官の乗った戦艦「大和」のいる位置です。
 「大和」以下巨大戦艦群には、アウトレンジ戦法が可能な巨砲を備えています。特に、「大和」の18インチ(約46センチ)の主砲は43キロの射程距離を有する得意な性能を持ち、また「長門」もこれに準ずるアウトレンジ超戦艦でした。これをミッドウェー島を砲撃する艦砲射撃に遣えば、絶大な威力を発揮したはずですが、どうしたことけか、これは実現には至りませんでした。

 この理由として、ミッドウェー島には陸上機が駐屯(ちゅうとん)していることだったのです。それに襲われたら、戦艦とて一溜まりもない、そう司令部は踏んでいたのです。そこで南雲機動部隊にミッドウェー島を叩かせる。こんな思考によって、ハワイ方面からアメリカ空母艦隊が出てきたらこれと決戦するという作戦を立案したのでした。
 そして作戦立案の主体は「アメリカ空母艦隊は必ず出てくる」という主旨のもとに、練られた作戦だったのです。

 ところがこの作戦の根底には、日本海軍の戦術思想である、空母より戦艦を大事にする戦艦巨砲主義の思想が横たわっていました。
 本来ならば柱島(はしらじま)に居残ったりせず、「大和」以下の戦艦群は、南雲機動部隊と行動を共にするべきだったのです。550キロも離れたところで、イザというとき間に合わないことは明白なのです。

 もし「大和」以下の戦艦群が機動部隊と行動を共にしていれば、アメリカ側の攻撃を受けたとしても、分散させるには十分な威力があったはずです。そして元々超弩級戦艦「大和」はアウトレンジ作戦を想定して造られた巨大戦艦であり、アメリカ艦隊の大砲の届かないところから、一方的に砲弾を浴びせることが出来るということが可能であったはずです。

 艦隊決戦の場合、命中弾を浴びせるには、双方の戦艦同士が接近しなければなりません。しかし55口径(18センチ砲)という巨砲を搭載し、速力33ノットで高速走航が可能な巨大戦艦なら一方的に撃ち捲り、アメリカ海軍の最強砲の45口径(16センチ砲。その射程距離は35キロ止り)より有利であったことは明白です。
 ところがこうした考えは、最終的には利用されずに終わりました。ここに日本海軍の崩壊の暗示がありました。

 5日午前1時30分、ミッドウェー海戦は日本側によって火蓋が切られました。しかしこの作戦は敵を侮り、過小評価したところに、もう一つの悲劇があったのです。それに加えて、連合艦隊司令長官の山本五十六の強引な性格が、二重写しになりました。戦う前から、戦わずして負けている要因があったのです。

 そしてこの海戦を侮り、楽観視して見ていたのは、この作戦の指揮に当たった連合艦隊も、海軍司令部作戦課も同様でした。
 戦いを交える以前から、海軍司令部では祝杯の用意が整えられていたと言います。全く馬鹿げた話です。

 この間に軍令部には南雲機動部隊の悲報が届きました。
 空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾を受け、大火災を起こしたという急報でした。しかしこの時点では、四隻の空母のうち「飛龍」は健在であり、突撃して「我攻撃に成功セリ」の報せを打電するが、やがて敵の猛攻撃を受け、力尽きて「飛龍被爆大火災」を報じて沈没します。

 これら沈んだ四隻の空母は、無敵攻撃空母の異名をとる日本海軍きっての秘蔵っ子であり、また虎の子でした。
 四隻総てが速力30ノット以上を誇る最新鋭艦で、真珠湾を皮切りに南太平洋やインド洋を巡航し、日本海軍の積極的な作戦を実行するには願ってもない虎の子でした。それを一挙に四隻も失ったのですから、この衝撃は日本海軍にとっては大きなものでした。
 以降、日本海軍は積極的な作戦が立てられなくなり、陸海軍とも消極的な作戦に終始するのです。そして海軍の立てたミッドウェー作戦は、陸軍の数々の負け戦を総合しても、まだ余りある無謀な作戦だったのです。

 この作戦は緻密な戦争技術者の頭脳で練られた、万全を期した作戦でありましたが、この作戦は大敗北を期し、白村江の戦い(661年から二年間戦った軍事行動。日本はこれに大敗北をする)を彷佛(ほうふつ)とさせ山本五十六の責任であり、以後、山本はガダルカナルやニューギニアの数々の悲惨な「負け戦」を展開します。

 結局、海軍の無謀な作戦が、陸軍までもを無謀な作戦に引き摺(ず)り込み、日本の運命を大きく衰退させたと言うべきでしょう。そして、この結果から、多くの戦史史家が結論付けている、海軍の「善玉説」に対し、陸軍の「悪玉説」は、以上の理由により、その根拠が崩れてしまうのです。
 日本の運命を大きく変えて行った大東亜戦争は、その一つ一つの戦いが、大きく運に左右されたとみるべきです。戦争というものは、ほんの小さな運の働きで、どちらかが有利になるのです。

 例えば、その時刻に雲が出た、風が吹いた、雨に見舞われた、あるいは命令が一箇所だけ届かなかった等で、それが「上手の手から水が漏れる」式で勝敗に決定的な差が生じます。人知の超えたところで運が左右するのです。少なくとも凡夫には、そう映ります。

 また運というものは、確率から言っても開戦当初、敵味方双方にも《五分五分に働く法則》があります。しかしこれで勝利を得る方は、決して体力があり、経済力がある方ばかりとは限りません。小が大を倒すことすらあり得るのです。

 では、こうした情況下で、小が大を倒す原動力は、一体どこにあるのでしょうか。
 やはり裏側の目に見えない部分には運という、人知では計ることの出来ない何かが働いていると言えましょう。これが非実在界の現実です。しかし実在界の現実は、「幻夢」の現象ですから、想念がこうしたものも作り上げていることになります。

 さて、この運を裏側から透視すれば、予め予定された計画に従って具現化した、あるべき結果の現象と見ることが出来ないでしょうか。これが結果から見る、原因です。
 そうすると預言(よげん)は確実な的中率を持ちます。何故なら、そうなることは最初から決まっているのだから、そのように動いて行くのです。つまりなるべくしてなる結果が、最初の原因をつくっていることになります。これこそが決定論の最たるものではないでしょうか。