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●結婚と血

 「血」について考えてみましょう。
 ここで言う血は、血縁・血族の「血」のことです。
 人は誰でも両親を持っています。そしてその両親も、また両親を持っています。これを遡(さかのぼ)れば先祖は膨大な数に上ります。膨大な数の血液縁者がいることになります。

 しかし大抵の場合、血族として解る範囲は親兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟くらいであり、祖父母の兄弟等になると解らない場合が多いようです。これは家系図があったとしても、家系図は直系しか記してないので、遡り、こうした縁者を探すことは困難を極めます。

 さて、現時点に自分が居るとして、その自分が生まれてくるには、四代前までの曾々祖父母の代に遡ったとして、少なくとも自身が存在する必要十分条件は、自分の前に三十人の先祖がいなければ、自分はこの世に存在しないことになります。

アダムとイブ。その血に観る子孫の流れ。そしてこの血の中には、既に陽性と陰性の宿業の因縁を引く保菌者が居る。

 ところが三代前に結婚した男女が一組はいたとましょう。次にその男女の間で、五人の子供が生まれたとしましょう。その五人の子供を、各々五人産んだとすれば、現時点では、百二十五人の血縁者がいることになります。まさにアダムとイブを彷彿(ほうふつ)とさせます。

 これはあくまで、三代前の曾祖父母には兄弟がいなかったとして考えた場合です。
 もし、兄弟がいてこの人達が一切死ぬ事なく、無事に四十代前後までに子供を作り了(お)えたとしてしてです。こうした仮定の上に子供が出来たとすれば、現在では六百二十五人の血族がいることになります。しかし、あくまでも計算の上でのことです。

 ところがこうした計算の上であっても、相当数の血族がいることは確かです。
 喩(たと)えば今、同じ電車に乗って、偶然(一期一会であっても、本来偶然はあり得ないのだが)に両隣の席に座り合わせた人が居たとしましょう。
 隣同士は面識がない為、お互に瞭(あきらか)に他人であるという意識を持ちます。それはお互が血族でないことから、血に関する興味を抱かないし、単に一時期、「隣同士だった」というだけに過ぎず、電車を降りてしまえば、今迄まで隣同士だったということすら忘れてしまいます。

 しかしある日、ひょんなことから、お互いが血について興味を持ち、先祖を遡(さかのぼ)り始めたとしましょう。
 やがて祖父母に辿り着き、曾祖父母に辿り着き、曾々祖父母に辿り着いたとき、曾々祖父母は同じだったということが有り得ます。それはかつて、自分の不倫相手であったり、会社の同僚であったり、あるいはひょっとすると、自分の愛する妻だったかも知れません。

 現代社会において、血は複雑に混じっています。更に、血縁とは遠い雑種を繰り返えします。
 したがって三代前、四代前の血が同じだったとしても、医学的には何ら支障はありません。悪影響を齎(もたら)すことはないのです。
 血は時代が下がれば、拡散するものです。途中で新しい血が混じり、雑種を繰り返すことで、人間は遺伝子の組み替えが行われ、大昔の過去の忌まわしい罪の昇華(しょうか)が行われているのです。かつての悪人は、血を複雑に混ぜ合わせることで、自分の血統の罪を軽くし、また善人は悪人の血を混ぜ合わせることで、悪人の血を忌まわしい事件から解き放ちます。

 サンスクリット文字で顕(あら)わされた梵語(ぼんご)に「赤」を顕(あら)わす「ルジラ」と言う言葉があります。また、このルジラは「血液」を顕わす意味をも含んでいます。
 人間は雑種を繰り返えしますが、子は、孫は、曾孫は、同じ血の配布を受ける生き物です。子は両親から血の配布を受け、子は結婚して孫へと血を配布します。問題はこの血の配布過程に生じる因縁です。

 人間は雑種を繰り返えします。雑種の繰り返す過程、配布を繰り返す過程に、殺人者の血を貰うこともありましょうし、また自殺者の血を貰うこともあります。
 精神医学者ローンブローゾは、「生来性犯罪者」という説を唱えました。ローンブローゾの仮説によると、犯罪は社会環境が生むのではなく、同じ血縁者の「生来性」が、「犯罪を生む」という説を上げています。これはまさに、キリスト教の「予定説」を彷彿(ほうふつ)とさせます。

 ローンブローゾの仮説によると、犯罪を犯す者は、最初から予(あらかじ)め犯罪者として「予定」されていて、その血縁的な「相」(人相や骨格、体型や仕種)によって、それが決定されていると主張しました。
 これはマフィアやアメリカギャング等の血縁を辿れば一目瞭然であり、彼等の『相』(物にあらわれた吉・凶、また善・悪、更にはそれを見ること)には、血縁的な血生臭い残虐性が含まれています。

 今日では、犯罪は社会環境が生むものだということになっています。しかし犯罪多発地域に棲(す)みながら、犯罪に手を染めないも人もいます。
 逆に、そうした環境には程遠い距離に置きながら、犯罪に手を染める者もいます。中には、日本では最高学府の頂点学閥の東大を出ておきながら、犯罪者になる者もいます。
 つまり教育における知的能力と、人格は一致しないということであり、また知的能力は理性とも一致しないということです。

 キリスト教は、律法によって性悪説で生まれた人間を、教育することで性善説に導く事が出来るとしました。しかし、予定説でこれを解釈するならば、性悪は悪人の要素を予定され、性善は善人の要素を予定された結果だということもなります。
 予定された以上、これを後で変えるということは出来きません。如何なる教育を施しても、悪人を善人には変えることが出来ません。これは結果を決定する「予定説」であるからです。

 この考え方から行くと、現在、犯罪心理学からは否定されてしまったローンブローゾの「生来性犯罪者説」は、再び有力な力を帯びてきます。
 善人であるから犯罪を犯さないのではなく、犯罪を犯さないから善人なのであり、悪人であるから犯罪を犯すのではなく、犯罪を犯すから悪人なのです。これは原因と結果が逆になった《逆因果律》です。

 結論が先に来て、原因は後に来る。これが「予定説」です。これこそが最も大切な認識課題です。

 今日では、犯罪心理学において、犯罪の原因は遺伝子に関与して、幼児期の生活環境あるいは人生の境遇においてのみ、人を犯罪に追いやるのだとしています。

 しかし、果たしてそうでしょうか。
 今日では否定されてしまったローンブローゾの「生来性犯罪者説」に掲げる『相』に、一致した犯罪者は幾らでも居ます。最初から予(あらかじ)め予定され、犯罪を起こす為に生まれてきた人間は、幾らでも居るではありませんか。

 好戦的で、争いを好み、ストリート・ファイターや用心棒を自称し、平気で人を殴ったり、刺したり、盗みを働いたり、強姦を働いたり、強盗を働いたり、挙句の果てには殺すという、生まれながらにして、犯罪を背負った貌(かお)は、凶悪犯人に多く見る事が出来、彼等には理知的な面は一切感じられれません。こうした者は、犯罪地域に行かなくても、巷間(こうかん)の夜の巷の至る処で見る事が出来ます。



●血が反応する犯罪陰性保菌者

 「類は友を呼ぶ」という言葉があります。しかし「類が友を呼ぶ」のではなく、同種の脳が惹(ひ)き合い、脳が反応して「類が類を呼ぶ」のです。こうした類は、やがて同類項で群れます。マフィアやギャングは、こうした群れの犯罪世界の人種ではなかったのでしょうか。
 要するに犯罪集団が群れるというのは、一種の「血」から起こるものです。
 同じ血を持つ者は、その血の中に、同じ感情と血気が流れています。

 では、犯罪は集団だけに限るのでしょうか。
 否、「個」にも存在します。
 それが「血」の因縁からなる現世の事象です。

 自殺者、他殺者並びに変死者の出る家系は、不思議とこうした者が子孫にも出ています。自殺と他殺は裏表であり、自殺者の多い家には他殺者も居て、また他殺者の多い家には自殺者も居るのです。また変死もこれに帰属します。そしてこうした家系を調べると、執念深かい人が多く、その分、性欲が強く、夜の風俗に出入りしたり、複数の不倫の相手を抱えていることが多いようです。
 こういう者の「食性」は肉食中心であり、動蛋白を好んで食する食生活の習慣を持っています。したがって、思考的には弱肉強食です。「力」を崇拝します。

 また、こうした相手と関係して、子供が生まれた場合、この子供は、その殆どが犯罪者のコースを辿っています。これが《類は類を呼ぶ法則》の所以です。
 生きながらにして修羅界の因縁を持ち、闘争に明け暮れます。戦争犯罪者も革命家もこうした因縁によって出現します。犯罪保菌者を次の世に送出す為に、男女は意識が惹(ひ)き合い、脳が反応してしまうのです。そして黒い血が、どこまでも関係しているのです。
 また、この血は、教育で教化出来るものではありません。それは知育と道義が比例していない事からも窺(うかが)えます。

 日本の最高学閥と言われる東大出の秀才の中にも、一定の割り合いで犯罪を働く者はいますし、国家一種を合格したキャリア官僚の中にも、贈収賄事件に手を染めるクズはいます。教育だけで血を教化できない事実が、ここにあります。
 そして、人間の抱える「血」には、同時に「業」(ごう/その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき)も抱えているのです。黒い血は、子に、孫に、曾孫にと受け継がれていきます。血の中に業が棲(す)むのです。
 不幸現象は、こうした黒い血、業の血の保菌者と関係したとき、自分の持つ血は呪われて、次世代の保菌者を作るのです。

 さて、血は呼び合うものです。
 三代前、四代前に先祖がこうした保菌者である場合、二代目には血の業(ごう)が現われなくても、自分に現われることがありますし、また自分に現われなくても、子に現われることがあります。子供の非行はこうして起こり、今日の少年犯罪の多くはこれに起因します。
 強盗殺人や放火殺人や猟奇殺人を犯す家系は、こうした黒い血の保菌者同士が呼び合い、後世において結ばれて、予定された結果を顕在化(げんざいか)したに過ぎません。呪われた血は、業によって呼び合うものなのです。
 姻戚という行為で呼び合った血は、やがて正体を顕(あら)わします。

 「人間は災いである」とは、パウロの言葉です。禍根は人間に課せられた宿業(しょくごう)です。
 アメリカ史上最も有名な犯罪者家系ジューク一族は、血族540人のうち、140人が犯罪受刑者になっています。常習窃盗犯60人、売春婦50人、生活不能者180人となっており、米合衆国政府がジューク一族の犯罪捜査の為に使った犯罪捜査費用は、1800年代前半だけで、何と130万ドルに上ると言われています。
 それから約30年後の1830年代、ジュークの血族は2000人に及び、そのうち171人が凶悪犯罪者で、売春婦が300人弱。生活不能者は200余人にも上ったと言われます。そしてその後の捜査には200万ドルが費やされました。

 ここに一つのデータがあります。
 犯罪家系の犯罪率は約10%であり、百人中十人が犯罪者でした。つまり十人に一人が犯罪者であるということになります。
 では四代前の先祖に遡(さかのぼ)り、この中には、自分が生まれる為には三十人の先祖が必要になるので、三十人の中には三人の犯罪陰性保菌者が居ることになります。この陰性保菌者同士が婚姻の組み合わせによって、男女が鉢合せになり、子供が生まれれば、この子供は社会環境とは全く関係無く、犯罪者となるのです。呪われた血とはそういうものであり、先祖の犯したことは必ずコピーされて、後世に転写されるのです。

 結婚というものは、単に恋愛感情のみに趨(はし)り、その結果から生み出されるものは、幸福よりは不幸の方が遥かに多いと言えるでしょう。
 恋愛が始まった。それはある意味で10%の確率で、同時に不幸を背負ったことになります。それは既に、脳が惹き合い、その犯罪保菌の反応が始まっているからです。そして陰性の場合は表面化しませんが、陽性の場合は表面化して現世の犯罪者となる確率が非常に大きくなるのです。



●日本伝統の結婚式の意義の崩壊

 日本の法律に従えば、今日、結婚式の意義を強調したり、重視することは、宗教的な儀式と無関係になっている為、これを見い出すことは不可能になっています。
 法的に解釈すれば、結婚をする男女は区役所に行って、形式的に一枚の婚姻届を提出すれば、ただそれだけで総てが完了してしまうからです。

 そして今や、日本の伝統的な結婚儀式であった神前結婚も、単なる空虚な宗教的形式の成り下がり、空虚な存在となってしまいました。
 また、こうした事が、安易に犯罪保菌者の数を殖やしていると言う、現代社会の断面を垣間見ることになります。

 若い世代の、現代日本人の男女は、自分自身がキリスト教徒でもないのに、キリスト教会で結婚式を挙げたがります。新婦は花嫁衣裳の白いガウンを着て、普段は聞き慣れないウエディングマーチに耳を傾け、そこから何か新しい意義を汲み取ろうとします。また新郎は、花嫁遠出を絡ませ、何も知らずに祭壇へと進みでます。
 しかし、これこそが、現代日本人の若者達の精神構造であり、この構造の中に、精神的貧しさが宿っており、そこに大いなる空虚が存在していると言う証拠が明確になります。

 こうした空虚の中から生まれた保菌者の血は、必ず禍根を引きずることになり、次世代で表面化されることが少なくありません。

 それは日本伝統の結婚式の意義と、キリスト教会で言う結婚式の意義とは全く違うからです。特に、西欧のようなキリスト教的宗教国家は、結婚の原点を「神との契約」に求めます。
 神との契約は、新郎新婦がお互に末永く将来を共に暮らすことを誓い合うのではなく、神を介して、新郎が神への誓いをし、また新婦が神への誓いをするのであって、これを理解しないで結婚の儀式を行なった場合、以後発生する様々な出来事は、この時点に於いて仕掛けられたと言うべきです。結婚式の意義自体が、既に間違っているのですから、ボタンの掛け違えのように、後々まで悪影響が顕(あら)われて来ます。それは、やがて生まれるであろう、子供にです。

 そのよき例が青少年犯罪であり、犯罪保菌者の因子は、この結婚式の儀式の時点に於いて、仕掛けられたと言うべきでしょう。特に新郎新婦の無知が、キリスト教会の実情を知らずに、宗教的な意義を間違ってしまいますと、ここには犯罪保菌者の血が浮上して来ます。

 少年犯罪者を持つ親の多くは、過去にこうした無知を冒したことがあるはずで、これが起因しています。そして後ろ指を指され、現在も、その種の刈り取りを一生涯かかって作業する、それに追われる人生を歩まねばならなく作(な)るです。
 陰性保菌者の血を安易に考えている夫婦の無知は、不可視の出来事であるだけに、非常に危険な物を持っています。

 更に、恋愛結婚から発展して結婚に至った場合、保菌者同士の血の惹き合いですから、結婚式の意義は最初から崩壊しており、犯罪保菌者の血の要素が、こうした所にも絡み合い、この「無知」にこそ、落とし穴が派生していることを忘れてはならないのです。
 またこうして、無知同士が結びついた結婚は、必ず倦怠期が発生して、不倫を冒す場合が少なくないのです。無知イコール不幸現象の実態が此処にあります。



●血から起こる不幸の回避

 不運・不幸を解消する研究として重要なのは、現世の現象は、相対現象なので必ず相手が存在するということです。その場合、自分は加害者なのか、被害者なのかと言うことを認識しなければなりません。

 したがって結婚は、相性とか恋愛感情だけで済まされる人間行為ではありません。遺伝や血統も考えておかなければならないのです。遺伝は病気と密接な関係を持ち、血統は犯罪性と関係を持ち、不幸はそこから多くの発生するからです。
 しかし、世の女性の多くは、愚かにも西洋占星術やその他の占い、あるいは大道易者に、結婚しようとする相手のこと(特に相性)を、こうした類に観(み)てもらう場合が少なくありません。気軽に観てもらったり、あるいは気軽に訊けるのは便利なのですが、相性だけを考えれば、結婚を前提としなければ、相性の良い相手など何処にでも居るのです。

 問題は結婚を前提とし、その「見通し」と「時期」と「嫁に行く方角」(九星気学で言う方位ではない)なのです。これを無視して、相性だけで相手を選ぶと、以後取り替えしのつかない事態に陥るのです。こうした思考の持ち主は、最初から希薄な人生しか送れないように、神が予め予定説の中から、篩(ふるい)に掛けて振るい落とした人なのです。
 したがってこうした人の結婚の生活は、やがて家庭不和になり、家庭崩壊が起こり、最後は一家離散ということになる要素を持っている場合が少なくありません。

 また恋愛の場合、今日のようにアメリカ流の自由恋愛(肉体関係を伴う)が一般的に常識となり、かつての日本人女性の切なる願いであった、「処女のまま嫁に行く」ことが「乙女の憧れ」と考えられていた時代の思考は古いのもとされ、十代にして処女喪失することが当り前のようになってきています。特にマスコミは、これを常識として一般大衆にその意識を植え付け、「女性に十代半ばにして処女を失うことを常識」として宣伝する傾向があります。

 今日のこうした現実の裏には「婚前交渉」という忌まわしい不運予備症候群が存在し、人工流産という堕胎手術の悪因が、既に、不運不幸の構造を形作っているのです。
 事実、二回以上、堕胎を繰り解している女性の躰からは、はっきりと《死臭》が漂っています。
 そして結婚後に子供を出産し、その出産した子供以前に人工流産を平気でやった、男女の子供には非行化に趨(はし)る少年少女が少なくありません。

 青少年犯罪に関与する家庭の子弟は、必ずこうした堕胎手術の形跡が両親にあり、家庭崩壊に陥る親子断絶の現実も、こうした事に起因します。

 また恋愛が、不倫から始まっている場合、要注意なのは、昼間、まだ太陽が輝く時間に、ラブホテルで性交遊戯の享楽行為するという愚行を冒すことです。これこそが不幸の種を植え付ける、そのままの行為だからです。これが喩え子供を作らぬセックス遊戯であっても、良いはずがありません。こうした昼間に関係した経験を持つ男女には、彼等が子をもうけて親となった時、その余韻(よいん)が犯罪者予備軍の保菌を引き寄せてしまい、子供は非行に走る確率が高くなります。そして少年犯罪の低年齢化は、実は婚前交渉と言う、ここにその起因があるのです。

 「不倫・イコール・セックス遊戯」という図式は、元凶への第一歩であり、こうした際に妊娠した場合、人工流産であっても、あるいは流産(生み流し/妊娠第二十四週未満の胎児が母体から娩出されることで、児は未熟で分娩時生命があっても生存の可能性は殆どない)であっても、運勢的に衰退の方向に向かい、第四期から末期(「希望への哲学」のページの各期運命症候群を参照)までの運命症候群に陥ってしまいます。不倫も同様です。
 姦淫は戒められるべきものであるからです。キリストはこの事を厳しく指摘し、既に「心に姦淫を抱いただけで、実際に性交渉しなくとも、その者は既に姦淫している」と、厳しく指摘しました。
 したがって、現実に性交渉をする不倫の愛は運気を下げ、人格を下げ、霊格を下げて、その人の生涯に憑(つ)き纏(まと)います。

 では一体、何が憑(つ)き纏(まと)うのでしょうか。
 先に説明した「黒い血」です。保菌者の血です。
 その人が陰性保菌者であっても、その血は脈々と流れており、受け継がれ、相手を探す場合、それは相性(性格的感覚的感情的、男女の生れた年・月・日ならびに五行(ごぎよう)や干支・十二宮を含む)という、「一種のトリック」によって惹(ひ)き合わされます。出逢いや遭遇時期は、極めて偶然と寄寓(きぐう)を装っていますが、これは偶然や奇遇ではなく、必然的な、予(あらかじ)め予定された予定説によって惹(ひ)き合わされることになります。現世と言う非実在界は、結果が先で、原因は後であることに注意して下さい。

 何度でも繰り返し、言います。
 「類は類を呼ぶ」事実を念頭に置いて下さい。
 保菌者はお互いを呼び合い、脳が反応して惹き合うからです。
 それは恰度(ちょうど)、麻薬患者が、人ゴミの中から、誰が麻薬の売人であるか即座に探し出すように……です。
 これは直感から起こります。見知らぬ赤の他人でも、同類項の脳が反応するからです。
 麻薬患者の麻薬を求めようとする脳から発する同種を探す吸引力は、巷間を屯(たむろ)する大勢の中から、本能的に売人を探すと言います。これが、類は類を呼ぶメカニズムです。



●不倫に奔るメカニズム

 《類は類を呼ぶ法則》の、まさにこの構造で、不倫も行われているのです。お互いが呼び求める脳の反応により、お互いの本能が呼び求めた結果、男女関係がふしだらな方向へと発展します。だから不倫という、頭に描いた形が現実として現れ、姦淫に至るのです。これこそが予定説なのです。
 宇宙は整然とした秩序で運営されています。この秩序を破壊することを、人倫に背(そむ)く行為として「不倫」というのです。こうしたものは公(おおやけ)に自慢出来るものでもなく、人目を忍んでふしだらな愛人関係を形成しなければなりません。

 不倫を働こうと常々思い描いている男女は、既婚・未婚に関わらず、その深層心理は「淫姦」が心の闇の部分を支配しています。隙(すき)あらばと言う、その隙間を探して、切っ掛けとなるチャンスを窺(うかが)っています。だから「脳が惹(ひ)き合うメカニズム」として、ふしだらな姦淫へと発展します。惹き合うから不倫に走り、不倫を想念しているから姦淫に至るのです。この姦淫こそが、まさに予定説なのです。

 これは的中ではないのでしょうか。
 一目惚れ。恋愛。恋に落ちた。相手が未婚あるいは既婚と関係なく実行される。これは予定説。予定説以外にありえません。

 お互いが頭に描いた想念が、結果として「姦淫」という形で現れ、それを実現する為に、恋愛と言う原因が発生しているのです。これこそが結果があって、結果に沿った原因が発生する予定説です。

 結果は不倫。原因は恋愛。双方あるいは、どちらかが既婚者であれば、その行き着く先は不倫。これは紛れもない事実です。これこそが《予定説》です。
 惹(ひ)かれた原因は相性。何となく惹かれた。魅せられた。頭は足りなかったが、プロポーションは素晴しかった。頭は足りなかったが、性交には強かった。享楽を満喫した、男も女も。肌は素晴しかった。触れると吸い付くようだ。魅せられる、あるいは魅せられた。男女が互いに魅せられ、そこに溺れる。こうした一連のプロセスを、昨今は「相性」というようです。

 結果→原因の順に並ぶ、これは紛れもなく予定説。為(な)るべくして為った。何と恐ろしい「予定」が、人間には「予(あらかじ)め」設定されているではありませんか。

 事の始まりは平凡に始まります。平凡は結果を盛り上げる為ですから、結果の現実化を目指して、具現される結果から、次に原因に向かう、ただこれだけの、数直線上の出来事なのです。
 そして、この恋愛が結果的に幸運なのか、不運なのか、未婚者であるならば、それは結婚をし、時を隔ててみなければ誰にも分かりません。結果は既に「予定」されているのです。

 また既婚者の場合は、結果は最悪のコースを辿りますから、結果は未婚者の恋愛に比べて、更に悲惨です。姦淫によって運気が下がるばかりでなく、身も心もズタズタに切り裂かれ、霊的にはその波調を粗くして、霊格を下げ、保菌者予備軍に編成されてしまいます。

 しかし、血の保菌者は何処にでもいます。心の中に、密かに隙(すき)あらばと、男女を問わず、誰もが窺い、姦淫の想念を抱いているからです。だから、逆に警戒すべき認識です。その為には「予定」を予見する「見通し」というものが必要になってきます。