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●科学技術の奴隸になる医療現場

 二十世紀における科学技術の発達は、目を見張るものがあります。そして、その中枢をなすものは、まぎれもなくコンピュータでした。
 しかし一方で、自然環境を人間自らの手で変化させつつ、その生活の基盤はこれまで自らが開発した機械文明の上に、更に胡座(あぐら)をかき続ける事でした。その上、コンピュータは日進月歩の勢いで怪物かしつつあります。情報処理と言う、一方的な機能処理ばかりでなく、思考し、判断し、行動すると言う分野も開発されつつあります。

 機械に、脳の力が備わり、その思考が、人間の討ち込む天文学的な資料に基づき、その進化の速度は、人間の数万倍あるいは数億倍以上の速度で急速に進化しつつあります。特にコンピュータは、「間違いをしない」と言う概念のうちに成り立ち、「正確さ」や「瞬速さ」を極め、この部分は、いずれ人間にとって代わるのではないかと言う脅威の影がちらつきます。
 「間違いをしない」「正確さ」「瞬速さ」を誇る概念は、やがてその通りに実行されると言う事を意味し、もし端末機に打ち込む情報をインプットする側の、人間に過ちがあった場合、この結果はどのようになって顕(あら)われるのでしょうか。

 インプットと、その情況判断は、しょせん生身の人間の力に委(ゆだ)ねられ、もし人間側の情況判断が間違っている場合、その実行は「正確」に、「間違いなく」「即時に」その通りの結果が齎(もたら)されます。
 人間社会において、「便利さ」は尽きるともない「欲望」に等しく、便利さを求めて人間は益々、膨張・拡散の方向に向かって突き進むことでしょう。そして、その結果どうなるのでしようか。
 ここには哲学など存在しない、機械に依存した「盲目の科学」が存在する事だけなのです。

 昨今、医療現場で起っている医療ミスは、盲目の科学から起った「便利さ」の追求でした。
 『パウロのローマ人への手紙』には、こうあります。
 「義人が居ない、一人も居ない。悟る者が居ない、神を求める者が居ない。みな道に迷って、みな腐り果てた。善を行う者が居ない、一人も居ない」(「ローマ人への手紙」第三章10〜12)
 この事は、「義人なし、一人だになし、善のなす者なし、一人だになし」という件(くだり)でも有名です。

 ここで語られている「善」とは、何でしょうか。
 この「善」は、何も宗教的な行為である「善」とは異質のものです。単に「善き事をする」という因果応報から発する道徳的概念ではありません。もっと日常的な、人間の行為であり、「忠誠」あるいは「誠実」を現したものです。義務を果たすと言った、意味にもとる事が出来ます。
 普段は無関係な、何者かに、「信頼する」と言う心情も善であり、だからこそ「裏切らない」と言う事が「善」にもなるのです。

 現代は、義理人情の欠けた「せち辛い世の中」だけに、約束事を守らない人間は実に多いですし、誇大宣伝によって、他力本願型の無知な人間の惹(ひ)き寄せたり、実行するべき事を不履行したり、あるいは意識的無意識的に関わらず、過失を働くと言う人間が少なくありません。
 過失は個人のみに関わらず、いまや集団や組織にもあり、あらゆる所で、「人災」と断言できるような事件や事故が、次々に起こっています。医療現場で起っている多くの事故も、大半は「人災」による過失です。

 医療ミスを指摘し、あるいは判定し、調査する団体に「医療事故調査委員会」があります。
 医療過誤は、単純なミスから生ずるものもあれば、未熟な医師自身の臨床判断と、適切な処置の遅れによって生ずるものもです。そして医療過誤は、診療科を問わず、医療機関の設立主体や規模の大小を問わず、医療という、一般人には分りにくく、高度な論理が要求され、複雑で、専門的ななシステムの中で、いつでも起こりうる危険性を孕(はら)んでいます。

 常にその背後には、日本の医療が抱える構造的問題や、医学教育の問題があることも指摘せざるを得ません。こうした現実の中で、医療ミスが毎日どこかの病院で確実に発生しているのです。
 その一方で、現在厚生労働省が認可する新薬は、一年間に約60〜70種程度と言われています。この新薬の売り込みは苛烈(かれつ)で、資本主義の競争原理に従って売り込み合戦が展開されますが、これは新薬と言っても、単刀直入に言えば、車のモデルチェンジと全く同じで、これまでのものと殆ど変わりなく、毒性や副作用が強くて、効果が低いものが少なくありません。

 そこで、本当は殆ど効果が薄く、効き目が小さいのですが、「効いた」と思わせる為には、局部的な症状を抑制する働きを示さねばならないのです。その為には、薬理作用の非常に強いものを遣います。
 一例をあげるなら、抗生物質antibiotics/ かびや放線菌・細菌によって作られ、他の微生物を抑制し、または制癌作用を持つ物質で、ストレプトマイシン・クロロマイセチン・テトラサイクリン・トリコマイシン等多数発見され、現在では医薬以外にも、の農業用の農薬や食品保存剤にも使用されている。一方、使用後の毒性と副作用の有毒性をもつ)や副腎皮質ホルモン(脳下垂体前葉から分泌され、副腎皮質の発達と機能とを刺激するホルモン。39個のアミノ酸から成るペプチドで、コルチコトロピンまたはACTHと呼ばれ、特にコルチゾールの分泌を促す)です。これらは局部的には実に良く効きますが、使用後に、遣(つか)わねばよかったと言う悔悟の念と、激しい副作用に襲われます。そして副作用を直す為に、再び薬が遣われます。これが「医原病」という病気です。

 医原病は、医師の診断治療行為によって、患者にあらたにひき起こされる疾病および疾病状態を指します。本来は医師の不適切な言動、説明不足、または患者の誤解、自己暗示などによる心因的異常を指しますが、広義には医療に基づく、種々の副作用・後遺症をも含む病気を指します。

 サリドマイドがそうであり、慢性腎炎やリューマチの薬のクロロキンchloroquine/抗マラリア剤・抗炎症剤として第二次大戦中アメリカで開発された薬剤で、慢性関節リウマチ・エリテマトーデスなどにも用いられたが、頭痛・胃腸障害などの副作用があり、特に長期使用すると重い視覚障害を来す。現在製造中止。クロロキン網膜症が特に有名で、クロロキンの長期服用により網膜色素上皮細胞と視細胞がおかされ、夜盲症に始まり、中心暗点を生じ拡大して視力障害を来す疾患だった)などがそれであり、この薬で失明する人も少なくありませんでした。また、キノホルムchinoform/防腐・殺菌剤。創面・潰瘍などに外用するほかアメーバ赤痢・細菌性下痢などの治療に用いたが、スモンの原因とされた為わが国では1970年製造したが現在は販売停止。スモン(subacute myelo-optico-neuropathy)亜急性脊髄視神経症。腹痛・下痢ののち、下肢に始まって、上行する痛みを伴う異常感覚、運動障害、さらに視力障害などを起す病気。1955年頃から日本各地に発生。原因はキノホルム投薬による中毒だった)もそうでした。
 事実、製薬会社のプロパーと結託して、新薬を患者に投与し、人体実験に遣(つか)う事件も、何度が発生しています。こうした故意に行われたと思われるような医療事故のような事件が、万一の場合、医療と関わらねばならない私たちは、現代医学と言う過信の科学技術からなる、医療体制の支配下に置かれてしまうのです。

 サリドマイドもキノホルムも、製薬会社が当時の厚生省に新薬の薬事申請を行い、それが認可された時は画期的な薬品であると医療界では評価されたものでした。しかし数年が過ぎ、被害者が出始めると、このざまであり、ついに製造販売禁止となった次第です。こうして薬害被害が出て、顕著にその障害が顕われ、製造にストップがかかるものはいいのですが、副作用や体表に出る異常が比較的小さく、内在的な潜伏を行う医薬品は、今なお製造され、販売されています。

 今日の厚生労働省や、薬事審議会は「治療率」のデータを上げ、局部的に効果が何人中にどれだけ効果があり、この治療率によって判定され、治療率が高ければ新薬は認可され、その後、病因などの医療機関に収められるのです。その場合、治療率が高ければ、副作用や薬事被害で死者が出たとしても、その新薬は認可され、製造発売が許可されるのです。
 私たちの置かれている、医療支配とはこうした環境の中にあり、その体制下で管理されているのです。
 現代人は、どうして現代医学に支配される医療体制に頼るのでしょうか。何故に、こうまで科学を盲信するのでしょうか。盲目的で、総(すべ)べて他人任せであり、余りにも他力本願的な思考しか出来ないのでしょうか。
 この思考下には、自分を自分で守り、自分の信用すると言う意識が抜けています。自分自身に備わっている自然治癒力にもっと目を向けるべきです。
 そして医療ミスは、自分を信じず、他人任せで、他力本願的な思考が医原病を招いたと言えないでしょうか。



●自分を励まし、自分を信用しないで何を信用するか

 「信じる」という事の大事こそ、「善」に通じるものです。しかし人間は、他人に善を求めながらも、自分には善がない場合が少なくありません。したがって自らが、善を行う事がないからこそ、他人を色眼鏡で観(み)たり、あるいは疑ったり、必要以上に厳しくチェックしてしまう癖がついてしまうのです。
 また、他人に対して厳しい善を求めておきながら、同時に、他人が騙しているのではないか。裏切るのではないか、というような、「求める」ばかりの人間になると、実に悲しい限りであり、ひとときも心の休まる暇がありません。疑心暗鬼に陥って、この隙間(すきま)に、種々の、難解な災いが忍び込みます。煩(わずら)った病気が益々重くなり、これが悪化傾向を示す場合は、既に自身の中に不信が始まります。これは一方的な善ばかりを、他人に求めた結果と言えましょう。

 これを《予定説》で解釈すると、難病が降り掛かると言う結果に至った事実の現実が先で、不信な心が、この原因の病巣だったと言う事になります。結果が先で、原因が後に顕(あら)われると言う事に注目して下さい。この点が、仏教などで言う、「因果応報」とは異なります。良い事をすれば言い良い結果が顕われるのではなく、善い事をするかしないかは、最初から結果として決定されていたという事なのです。だから最初から救われる人は善をなし、救われない人は善をなさないと言う事なのです。善すらも、するかしないか、《予定説》では、既に決定されていると言うのです。その決定の根底に心と言うものがあります。

 そして心で思う事は、既に最初から結果として決定され、原因の発端を、結果が派生させると言う唸(ねん)が、ここには病巣として巣喰っている事だったのです。
 また、心の安らぎが、自らに善を齎(もたら)し、自分の心が善であれば、心は安らぐと言う存在になって行くのです。心に安らぎを得られる否か、善想念が齎すもので、悪い結果は悪想念がその人の心に、最初から巣喰っていたと言う事を指します。こうした悪想念を駆逐しない限り、最初から、心の安らぎなど存在してないのです。

 今日の過当競争を繰り広げる資本主義の競争原理は、私たちを「勝ち組」と「負け組」に色分けます。勝ち組は優良人間と評価され、負け組は駄目人間と評価されます。「人間を評価する」という概念が、また、資本主義と言う競争原理の中で機能している為、人はこの評価で人間を推し量る基準値にしてしまいます。
 しかし勝ち組も負け組も、競争原理の中では、各々に心の葛藤と戦った戦士であり、それが資本主義の競争原理に従い、結果として顕われた、現象人間界の「一出来事」にしか過ぎません。これは、結果が原因を派生させたと言う一時的な出来事だったのです。問題はここから始まります。

 結果が原因として逆方向から顕われる現象人間界は、想念の仕業で多くが決定されます。その想念が善であるか、あるいは悪であるかで結果が顕われ、その結果に至るプロセスで原因が派生するのです。
 人生が一種の競争原理の中での格闘ならば、戦う為に、自分を励まさなければなりません。同時に、励ます自分は、自分を信用するからこそ、押し潰されそうになる外圧に、抗(あらが)う原動力を与えてくれます。自分を信用する事、これこそが「意志力」の強さを現すバロメータなのです。そしてこの意志力は、総じて善想念を原動力としているのです。それは「戦う」という意欲でもあります。



●堅固な意志

 難病を癒(なお)し、体質を改善するには、堅固な意志をつくる必要があります。断食もその一つであり、この驚くべき効果は、現代医学の最先端医療とは根本的に異なるものです。
 確かに現代医学は著しい進歩を遂げ、その恩恵に浴している人は少なくありません。しかしその恩恵の殆どは、細菌によって起る伝染性のもの、あるいは急性疾患であって、内因性疾患である慢性病や成人病にはあまり効果が期待出来ません。このような現代医学は、未開の分野として、問題視する色々な疾患に対し、効果が上がらない一方、断食はある程度の著効を奏する事が少なくないのです。
 そして定期的に断食をする事が、本当の栄養療法であり、健康法である事を知って頂きたいのです。

 栄養と言うものは、肉や卵、食肉加工食品や乳製品などを沢山食べたり、生き物を殺傷して、動物性のアミノ酸を沢山摂取すると言う事ばかりが、決して栄養療法ではないのです。こうした動蛋白を取り過ぎれば、脂肪肥りになり、やがては病気肥りへと変貌します。
 したがって脂肪肥りの元凶を取り除けば、病気肥りも改善し、その人の体躯は、元々中庸であったはずだと分かります。肥っている為に、心臓病や腎臓病を案じたり、脂肪肝の脅威に曝(さら)されたり、糖尿病や肝臓病にならないかと心配しなければならなくなるのです。

 そこで御薦めしたいのが、定期的な「ミニ断食」です。
 躰全体が病毒・病素の病床になっていて、この状態で幾ら栄養を詰め込んでみても、詰め込んだ食品が人体を蝕む動蛋白であった場合、ますます脂肪肥りを促進させ、病気肥りへと拍車を欠けて行きます。
 こうした愚を犯さない為にも、体内の病毒・病素を一度排泄して、躰を清浄無垢(せいじょう‐むく)に戻さなければなりません。
 人間が幾ら栄養を摂っても、胃腸やその他の内臓器官が悪かったり、消化器官内で完全に燃焼する力の無い人は、栄養を摂れば摂るほど、かえって身の負担になって行きます。そして躰に種々の障害が発生します。
 それゆえ一度断食して、胃や腸を一旦空っぽにし、腸壁の栄養吸収面積を拡大して、食餌(しょくじ)として頂いたものが、総てよく消化し、よく吸収すると言う状態にしてやらなければならないのです。よく消化出来て、よく吸収出来るというのが真の栄養療法であり、ここに「断食する」という古来からの古人の智慧(ちえ)があります。

 断食をし、内臓が正常に戻りますと、今まで嫌いであったものが好きになったり、常食していて美味しく感じていた食肉や大型高級魚(特にマグロなどの美味とされる大トロ)や乳製品が、「獣(けもの)臭い」匂いがして嫌になり、味覚が、人間本来に与えられた穀物菜食の正しい味覚へと移行し始めます。こう言う匂いが“霊臭”の元凶になっています。
 更に、玄米やその他の穀物類や野菜などの、薄味で煮た煮物も、本来の食材そのものの味が分かるようになります。断食後は、こうした季節の旬の食材の味をゆっくりと満喫しながら、その後、一ヵ月も二ヵ月も続くのですから、胃下垂などで痩せている人は、胃の位置が正常に戻り、中庸へと戻って行きます。
 また、脂肪肥りや病気肥りをしていた人は、これまで体内に溜まっていた老廃物や動蛋白の腐敗物質が一掃され、腎機能などがよくなり、人間の体躯として、最も理想的な中庸へと戻って行きます。【註】ただし、この時、あまりにも美味し過ぎて食べ過ぎると、陰陽のバランスを崩し、断食に失敗するので、正しい指導者について正しい断食の智慧を学ぶ事が大事)

 だからこそ、真の栄養療法とは、「断食」なのです。
 良質なアミノ酸を含むと、現代栄養学で信じられている食肉や乳製品などを、大量に摂取する事が栄養療法ではないのです。
 病気肥りをしている人間に、こうした牛肉や豚肉を詰め込み、マグロやハマチの大型魚肉や鶏卵などを押し込み、乳製品を流し込んでしまったら、一体どうなるでしょうか。現代栄養学の論理で、脂肪肥りや病気肥りは改善の方向に向かうでしょうか。この結果は説明するまでもありません。行き着く先は、脂肪肝であり、神経内科的な薬に頼る生活を余儀無くされ、この薬剤性要因は肝硬変に移行して、肝臓ガンで結末を終えると言う人生が待ち構えています。
 
 健康に引き戻す真の栄養療法は、現代栄養学が言うような、動物性の良質のアミノ酸を多く摂取する事ではなかったのです。むしろ逆であり、体内に蓄積されてしまった脂肪塊(しぼう‐かい)を、体外に排泄させる事だったのです。その為には、一旦食を断ち、燃焼と排泄が急務だったのです。そして、如何なる難病の病巣も、根本から快癒(かいゆ)に向かわせる為には、食の誤りで、有害な、これまでに抱え込んでしまった脂肪塊を外に出すと言う事を知らねばならないのです。



●断食と快癒のメカニズム

 人間の躰の内臓のメカニズムは簡単に挙げて、次の四つの機能に集約されます。
 まず、「食物を消化する働き」と、それを「吸収する働き」と、吸収されたものを「燃焼する働き」と、最後に燃焼された残りカスや、その他の老廃物や腐敗物質を「排泄すると言う働き」の四つに分ける事が出来ます。こうした精妙なメカニズムによって、人体は構成され、これが生体の実態です。

 肥満体や病気肥りの人が、断食すると、「消化」と「吸収」の働きが無くなりますから、後は「燃焼」と「排泄」のみが課せられます。「消化」と「吸収」の働きは無くなりますから、今まで過食や大食によって疲れていた内臓は、ここでひと休みする事になり、残りの余力を遣(つか)って、「燃焼」と「排泄」のみの作業に取りかかる事が出来ます。

 この時、口から入れる食物の「消化」と「吸収」と言う作業が無用になる為、自然療法作用が充分に働く事が出来、白血球の活動が盛んになりますから、痛んだ箇所の修復にかかり、これまで体内に不要物として存在していた老廃物質や余分な脂肪、余分な蛋白などを、平素では排泄できなかった腐敗した有毒産物を次々に排泄して行きます。この時、体内には「逆分化」が起ります。組織や細胞が血球へと逆分化しはじめるのです。この血球が血管内に取り込まれ、腸へと送り込まれ、これまで体内に取り残されていた有毒物質や腐敗物が排泄されて行きます。
 これが体の隅々にまで施された場合、体組織や体細胞は瑞々(みずみず)しいまでに蘇(よみがえ)り、老廃物は勿論の事、あらゆる病床の原因をなしていた病毒や病素を悉(ことごと)く摘み出し、排泄して行きます。
 禊(みそぎ)と同じように、「洗心浄体」となり、躰は清浄無垢なものへと生まれ変わります。

 断食して14日目頃から、体内の白血球の働きは最高頂になり、その数においても頂点に達します。肥満体型で病気肥りをしている人は、断食5日目頃から一週間目にかけて、ほっそりとした中庸へと近付きます。これは「痩せる」という現象ですが、躰に必要な、血液・筋肉・神経・骨質などを消耗して痩せるのではありません。これまで水銀などを含んで蓄積された脂肪の塊である脂肪塊や、余分に付着した贅肉、腸内に停滞してしまった宿便、その他の病毒病素を排泄するから、「痩せる」という現象が起り、正確に言うと、体躯の理想とする「本来の中庸(ちゅうよう)に戻った」と言う事なのです。

 また断食のよって痩せると言う現象は、筋肉や脂肪がエネルギー源として使われ、これを燃焼して消失する為に、「痩せる」と考えられていますが、実は体内では「逆分化」が起っているのです。体内には、組織の中に白血球に似た丸い細胞核が顕われ、これが多数の赤血球に移行し、組織や細胞が血球に逆分化していると言う現象なのです。この逆分化の現象の中で、腐敗物質や老廃物質は排泄されて行きます。

 更には不要な老廃物質が排泄され、あるいは不要な細胞が死滅するから、体重が減るのです。腹部がへこみ、大腿部の余分な脂肪も排除されますから、ほっそりとなって来ます。そして、これと同時に、病気が軽減され好転の方向に向かいます。
 肥っていた頃よりもずっと健康になり、しかも身の動きが軽く、機敏な動作が蘇ります。肥っていて、のろまで、鈍重だった時とは打って変わって、俊敏になり、運動神経や反射神経も、その反応が早くなります。

 更には、思考的に聡明(そうめい)になり、機転や発想の転換が早くなります。事なかれ主義や放任主義と言うものは、のろまで、鈍重で、病気肥りをしている時に取り憑(つ)く思考です。病気肥りが一統されれば、思考力も高まり、頑迷さから解放されて、決断力や発想の転換が早まります。



●腰部が極端にくびれ、へこむ時にその効果が顕われる

 二、三週間の断食を続けますと、腰部がくびれ、極端にへこんだ感じが現れます。
 これは約十年以上も腹部に蓄積していた、宿便・黒便・砂便・結石・脂肪塊・寄生虫(これは腸内で消滅するが、稀に排泄される事がある)・仮性糞石・粘液毒素などの一切の病原や病素が、悉く排泄されるからです。同時に体内の組織や細胞は、盛んに逆分化が行われます。

 人間は、生まれて以来、病気やその他の災いの原因を口から入れ込み、腹部に背負い込んで、老いに向かって走り続けます。生まれると言う事は、こうした口から「災い」を入れ込む事なのです。この災いは、年齢を重ねるごとに益々大きくなって行きます。だから、これを排泄し、生まれて初めて「災いの重荷を降ろす」と言う体験をしなければならないのです。
 この「災いの重荷」を降ろした時、躰は軽くなって動きが敏速になり、頭までがスカッと爽やかになります。
 これをドブ川の喩(たと)えで述べますと、汚物で堆積した淀んだ流れを、一掃して、流れがよくし、以前のような「せせらぎの流れ」を取り戻すと言う事なのです。これと同じように、断食をしますと、腸管の腸壁にこびり着いていた宿便などの老廃物質が排除され、腸管の汚物は一掃されますから、非常に流れがスムーズになり、腸の蠕動(ぜんどう)運動も快調になって、便秘症なども解消されます。

 難病や奇病は、便秘症より派生します。逆に便秘症を治しさえすれば、殆どの病気は、一端煩っても、治癒の方向に向かうものなのです。胃腸の状態にしても、肝臓や腎臓、血圧や肩凝り、偏頭痛や不眠症なども、便秘症を治してしまえば、これ等の症状は良くなる条件下に置かれます。
 これを薪や石炭ストーブに喩えますと、薪や石炭ばかりをくべるだけくべて、燃えカスや灰をかき出す事をせず、なおもくべ続けるという愚行が、病気で例えるなら「便秘症」であり、ストーブを正しく使う手順としては、まず、燃えカスや灰をかき出し、燃焼室を一端空にしておいて、薪をくべるなり、石炭をくべるなりが物事の順序なのです。

 そして忘れてはならない事は、人間が本来、神と言う大自然から与えられている食べ物は、玄米穀物を中心にした、野菜、海藻、近海でとれる背中の青い小魚や、その他の魚介類だけだったのです。
 これらの食べ物で生活する事が出来たら、便秘症など最初から存在しなかったのです。
 しかし明治維新以降、欧米が入り込み、この欧米の食習慣が日本人に災いを齎し、「便秘症」と言う現象を作り出したのです。便秘症が改善の方向に向かえば、まず、腹部が極端にくびれます。その、へこむ時に断食の効用が顕われて来ます。