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西郷派大東流と武士道

■武門の礼法と食事法■
(ぶもんのれいほうとしょくじほう)

●人間は猛々(たけだけ)しいだけでは「徳」が備わらない

 単に、武技の稽古に明け暮れると言った修行ばかりでなく、人間として進むべき道を示唆(しさ)するのも武術の目標と掲げるところである。
 また、礼儀や作法を学ぶ事も大事であり、単に自分の体得した猛々(たけだけ)しい武技を人前で披露して、強持(こわも)ての輩(やから)に成り下がるのではなく、「人間としての道」を学ぶのである。

 猛々しく、乱暴な振る舞いは、多くの人の尊敬を得る事が出来ない。若い頃に勇名を馳(は)せ、強(こわ)持てとして、多くにファンを惹(ひ)き付けた格闘家でも、その人の晩年は、非常に寂しい老後に違いない。人間、齢(よわい)には叶わない。かつての勇者も、世界チャンピオンも、やがては時代から忘れ去られ、孤独な人生を歩かねばならなくなる。特に「徳」のない老人に成り下がった時、かつての有名選手など、人は、鼻も引っ掛けては呉れない筈だ。

 青年から晩年に至り、体力は衰えても、現役として肉体を使って戦える間はいいが、四十歳を超え、初老に入り、やがて五十の五十路(いそじ)を超えて、老年期に入る頃から肉体的には若者に叶わなくなって来る。
 その人が、若い頃強持ての格闘技家であったとしても、六十歳や七十歳の老人になってまで、肉体を張って生きていくと言う事は、非常に過酷なものである。また、若者と対戦して、勝てなくなれば、相手にもされず、「唯(ただ)の人」に成り下がってしまう。こんな晩年は、何とも惨(みじ)めではないか。

 齢と共に、肉体は衰えて行くが、酷使し過ぎた肉体は、運動やスポーツ経験のない普通の人よりも、更に故障だらけの肉体となってしまう。
 膝を傷め、腰を痛め、肘や肩を傷め、あるいは股関節を傷め、前立腺肥大症を煩(わずら)い、至る所が故障だらけになる。その上、肉食やその他の動蛋白摂取の害が出れば、眼も当てられなくなる。

 『論語』には、孔子門下の子路(しろ)と、孔子の問答が出てくる。
 子路曰(いわ)く、「もし、先生が大国の総司令官になられたとき、どんな人を頼りにされますか」と孔子に訊(たず)ねた。
 孔子は、「暴虎馮河(ぼうこひょうが)、死して悔いなき者は、吾ともにせず。必ずや事に臨んで懼(おそ)れ、謀(はか)りごとを好んで成す者なり」と答えた。
 要約すれば、「素手で虎に立ち向かったり、歩いて黄河を渡る類(たぐい)の命知らずは御免である。むしろ臆病なほど用心深く、成功率の高い周到綿密な計画を立てる人間のほうがよほど頼りになる」ということである。
 進むことだけ知っていて、引くことを知らない人間は、危険この上もなく、結局墓穴を掘るといっているのである。

 あるいは『荀子』の言葉に、「遇と不遇は時なり」というのがある。これは、世に認められるかどうかは、時勢のいかんによって決まるものだというのである。
 つまり、どんなに素晴らしい才能や素質を持っていても、世に認められなければ発揮することは出来ないのである。そして認められるためには、焦らずに時を待たねばならない。時を待つこと以外にないのだ。その待ち方が、出処進退の大きなポイントになるのである。つまり「教養」だ。
 教養とは、自分の身の処し方も含まれるのである。
 身の処し方は、まずじたばたしない事であり、物欲しそうな態度はよくないのである。これこそ、安静を保ち、恬然を保つことなのである。また、実力を蓄えることを怠ってはならない。かつ柔軟な思考で、志を堅く保つことなのである。これを総称して、教養」というのである。そして教養を深めるには、信頼に応えるための「徳」を積まなければならないのである。

かつて武家では茶の湯を学び、また香を嗜(たしな)むことを旨とした。これこそが武人に必要不可欠な、人間としての教養である。単に猛々しい武士であっては、万人の尊敬は集められないことを知っていたのである。

 猛々しい武人である前に、人間としての道と礼儀・作法を学ぶのである。ただし、「学ぶ」という行為は、小・中学校のように、教師側から一方的に押し付けられる教育ではなく、「自分が自らの意志で求める」という立場をとらなければ、この学ぶと言う行為は成立しない事になる。
 つまり、自らが「求道(ぐどう)の士」となり、これを求め、探す事である。この向学心(こうがくしん)が無い者に進歩はあり得ないのだ。

 猛々しい荒霊(あらたま)は、肉体が若い時にだけしか、功を奏しない。
 「荒(あら)ふる神」の仕種(しぐさ)は、一時的なものであり、荒霊は、やがて穩やかな幸霊(さちたま)へと移行しなければならない。
 その為にも、武人は、修行の一環として、茶道を学んだり、香道(こうどう)を学んだりするのである。これは武人である前に、「人間として生きる」と言う事を意味するのである。

 武人であっても、一個の人間であるのには間違いなく、人間として生きる中に、真の武人の姿がある。また、その中に、「文武両道」の教養があるのである。
 「闘魂」をもって生きると言う事は、猛々しく外の敵ばかりと戦うのではなく、「自分」という裡側(うちがわ)に居る敵とも戦わねばならないのである。心を修め、道を求めてこそ、本当の武人の姿であるといえるのだ。
 そして、「習う」とか「教えて貰う」という意識は一切取り払い、茶道や香道においても、修行の目的は、自らが求道(ぐどう)して、探究すると言う気持ちが大切なのである。ただ待っているだけでは、何もならないのだ。
 つまり自分から求めて「求道する」ということが大事なのである。

 おおよそ「修行」と名のつくものは、安易に指導者から教わるものではなく、自分から求めていくものなのである。この「求める」という行動原理の中に、「学ぶ」という本当の意味があるのである。
  どうしてなのか、なぜなのかという事を探求することが真の修行者あるいは求道者の態度であり、これを安易に指導者に求めてはならないのである。まずは、自分自身での自己探求から始まるのである。

 嗜(たしな)み事の一つに、盃(さかずき)の持ち方がある。
 武家では、盃は左手で持つのが常識である。では何故、左手で持つのだろうか。
 これは盃に限ったことではない。武家では物を持つ場合、総(すべて)て左手で持つことになる。その理由は、右手というのは武人にとって、利(き)き手、利き腕であり、利き手、利き腕を制せられるということは致命的な結果を招くからである。右手で物を持つことによって、いざという時機(とき)、右手が使えないというのは困りものであり、いざという時機の為に右手を自由にするということが隙(すき)のない状態を作ることであると同時に、現実主義において、機能美を学ぶことがこれに加えられるのである。
 したがって現実的な機能美を見出すためには、坐礼をするときも、左手から出すということになる。

武家での起居振る舞いは、すべて礼法の流れの中に包含され、それは型に嵌(は)まった、堅苦しいものでなく、流れるような自然な流れが尊重された。自然の流れこそ、隙(すき)のない起居振る舞いであり、この中に「坐る」「立つ」「歩く」の行動があり、何よりも隙を作らないことを重んじる。隙を作らないことは、同時に敵をも作らないことに通じ、これは武門での礼儀と作法の貫流する一つの特徴である。
 坐る、立つという動作を例に挙げれば、その一連の動作の動きは、どの部分を切り離してみても、常に重心軸は安定を保っていて、前後左右、どちらの方向からの攻撃に対して備えることが出来ることを要求されるのである。
 なかば膝を屈した、中腰の姿勢からも、瞬時に跳躍、抜刀が嘉納であり、嘉納であることを目安に、日々鍛錬していくのである。

 また、わが流は、「学ぶ」という人の道への拠(よ)り所として、歴史を学ぶことを説いている。
 『近思録』 (致知篇)には、「凡(おおよ)そ史を読むには、ただに事迹を記するを要するのみならず、すべからくその治乱安危、興廃存亡の理を知るを要す」とある。

 ここでいう「史」というのは、歴史のことであり、歴史からの学び方を説いている。つまり「歴史書を読め」と説いているのであるが、歴史書を読む目的は、単に、何年にどういう事件が起こったかということを、年号とともに暗記することが目的でないと説いているのである。昨今の日本人の歴史を学ぶ歴史観は、その勉強法にしても、ただの暗記である。年号と事件を一致させることが歴史の読み方と考えている者も少なくない。

 ところがそうした歴史観は枝葉末節的なことであり、こうした学び方は本当に歴史を学ぶことにはならない。肝心なのは、国なり、個人なりが、なぜ栄え、なぜ滅びたかを探求することであり、そこには「興亡の理」が存在しているということを学ぶのである。
 特に中国の古典歴史書には、人間模様の大きな教訓が残されている。この教訓を歴史の中から学ぶのである。

 この歴史を学ぶということについて、『三国志』には有名な話がある。
 『三国志』には呉(ご)の孫権(そんけん)のことが出てくる。その孫権の部下には、呂蒙(りょもう)という将軍がいた。
  呂蒙という将軍は一兵卒からのたたき上げの将軍であった。したがって戦(いくさ)には強い。最下位の下級兵士からのたたき上げなので、とにかく戦には強かったが、たたき上げの悲しさは、基本的な教養がかけていることである。食事の礼法にかなった食し方も知らなければ、茶を嗜(たしな)むということも知らなかった。殆ど無学・無教養に近かったのである。一兵卒ならばそれでも構わないであろうが、いやしくも将軍ともなれば、それで押し通すことは、リーダーとして許されることでなかった。

 これを危惧(きぐ)した孫権は、呂蒙を呼んで「歴史書を読み、これを学ぶということで、自己啓発をしたらどうか」と促した。そして呂蒙に、十冊ばかりの歴史書をリストアップして、「これを読むがよい」と薦めたのである。
 その歴史書は、大きく分類して兵法書と歴史書の二つであり、兵法書には『孫子』ならびに『呉子』などでを揚げ、歴史書としては『左伝』ならびに『史記』などを揚げた。

 呉の国のトップである孫権からそこまで言われて、これを捨て置くことが出来なかった呂蒙は、その日から一念発起して猛勉強を始めたのである。呂蒙の勉強振りは、学者顔負けだったという。そして、自らも将軍であるだけに、歴史書に登場する将軍たちの気持ちがよく分かるのである。そして遂に、「興亡の理」という一種の普遍的な法則を見つけ出したのである。

 その結果、単に相手をねじ伏せるだけではなく、智慧(ちえ)で勝てる法則を知り、見事な変身振りを見せたのである。
 中国では、昔から国家の指導者たちは歴史書に親しみ、そこから「興亡の理」 を学び取っていった。こうした智慧に学ぶ行いは、日本では鎌倉時代に入ってくる。

  日本でも、武士階級の興(おこ)りに合せて、この頃から歴史書に学ぶことが盛んに行われ始める。歴史書の学ぶ特徴は、まずこれを学ぶことにより、「教養」の根幹が形作られ、更には礼法を通じ、長期的な視野が養われるということである。単に猛々しいだけでは駄目であるという、智慧の面からの「興亡の理」が見えてくるのである。

 歴史書には、兵書を含めて、多くの教訓が残され、プラスとマイナスの面から見て、先人たちの経験した記録があり、どうしたら愚行になり、どうしたら窮地から打開できるかの回答書的な役割を果たしていたのである。
 したがって、日本においても歴史書は、兵書と合せて武家では広く読まれ、そこから武士階級は「興亡の理」を学んでいったのである。「興亡の理」を学ぶということは、 単に戦争が強くなるということばかりでなく、武人である前に、まず「人間である」ということを学んでいくのである。

 日本では、そうした基本的な、根幹に据えられたものが、「修養」とか「修身」というものであった。修身は、「身を修める」ものであるが、これは何も高遠なものではなかった。修身の第一の目標は、「言動を謹んで徳を養う」ことであり、第二の目標が「飲食を節し、日々戦場の心構えで粗食少食に耐える」ことだった。
 人間社会に、一人の人間として立っていく為には、それなりの能力の他に教養を身に付けなければならないが、同時にその背後には、「徳」を身に付けなければならなかった。つまり、能力と同時に、人格的な「品位」を身に付けなければならなかったのである。人格的な要件こそ、「徳」に他ならなかったのである。
 また「徳」は、人間的な魅力の要素の一つでもあった。これが備わってこそ、周囲から信頼を勝ち取るのである。

 では、「徳」を身に付ける為にはどうしたらよいか。
 「言動を慎む」ということであり、発言を慎重にして「過ぎない」ということなのである。
 歴史書を読むと、多弁の害を戒める言葉がたくさん出てくるのである。
 例えば、「多弁なれば、屡々(しばしば)窮す」「病は口より入り、禍(わざわい)は口より出(い)づ」「巧言は徳を乱る」「信言は美ならず、美言は信ならず」など、こうした言葉を慎み、慎重を期す事が繰り返し出てくるのである。つまり「過ぎるのは良くない」としているのである。

 こうした「慎み」の原点には過ぎない、「ほどほど」という思想が流れている。
 『菜根譚(さいこんたん)』 には、次のように記されている。
 「口当たりのいい珍味は、すべて腸を痛め、骨を腐らせる毒薬である。ほどほどにしないと、健康を損なう。快適な楽しみは、いずれも身を滅ぼし、徳を失う原因となる。ほどほどにしないと悔(く)いを残す」とある。

 これは美食を口にしたり、享楽に耽ることを戒めた言葉ではない。度を越し、それにのめりこんで溺れることを戒めているのである。そして根底に流れる思想は、「ほどほど」ということなのである。
 この思想は、対峙した相手の「総(すべ)てを奪ってはならない」ということを根底に持ち、勝は「六分でとどめる」ということを言っているのである。勝は、「八分」では勝ちすぎであり、「六分」でとどめることが最も良いとしているのである。勝ち過ぎれば、恨みを買われるからである。そして勝ち過ぎれば、次は、わが方が大敗する番なのである。だからこそ、「慎む」ことが大事であったのである。
 この諌言を最後まで守り通したのが、武田信玄であった。

 ある意味で、「食」も同じことである。
 一般には腹八分というが、本来は、軽快な体躯を養う為には「腹六分」が理想なのである。
 鈍重な人間は大食いに趨(は)る。また、咀嚼(そしゃく)回数が、10回程度と少ないから、脳の満腹中枢が働かなくなり、喰っても喰っても喰い足りず、幾らでも食べられるのである。
 やがて五感が正しく機能しなくなり、内臓は疲れやすくなり、疲弊が始まるのである。そしてこうした体質は、病気の感染に弱いばかりでなく、糖尿病などの慢性病の疾患を派生させることにもなるのである。
 したがって、「ほどほど」ということが、人生を長寿で暮らす秘訣となるのである。

 また「ほどほど」は、「中庸(ちゅうよう)」であり、偏り過ぎないということを指すのである。
 しかし現代のように、飽食が持て囃(はや)され、焼肉などの食肉をスタミナ食と盲信し、これをたらふく食って、酒を飲むというのは非科学的な不合理なものであって、実に「妄食(もうしょく)」なのである。「ほどほど」に満足する境地を身に付け、また「食の陰陽」をも心がけるべきなのである。

 武門では古来より、人間の霊性を肉体よりも重視し、霊性が人間を動かす原動力と考え、その霊性を養う根本に玄米を中心とした穀物菜食に置いた。食事は、食餌法(しょくじほう)に徹し、食餌は常に簡素を旨とした。また一方、肉食は精神にとって有害なものであり、理性的な能力を曇らせると説き続けたのである。肉食をしていたのでは、霊性を歪め、ある種の霊験新たかな霊的能力が発揮できなくなってしまうからである。
 菜食を実践することにより、齎される霊的な力は、同時に言霊を真に活用させるために必要十分条件だったのである。


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