■ 「武道」でなく「武術」の語を用いるわけ ■
(「ぶどう」でなく「ぶじゅつ」のごをもちいるわけ)
●秘伝の玄理
古流武術の世界ではいつの時代も、時空を超えた「秘伝」が存在した。秘かに一子相伝(いっしそうでん)の形式で伝授されてきたのである。
したがって秘伝は大衆化される事なく、秘密が秘密として陰に隠され、その全貌は決して明かされる事はなかった。此処に「秘伝」の「秘伝」たる所以がある。
現在、普及している多くのスポーツ武道を見てみると、大衆化路線をひたすら走り、競技的にスポーツ化し、観戦客を意識して、アメリカナイズする事を普及の第一の目的とし、次に老若男女にも親しめるものというイメージを前面に強く打ち出し、その宣伝に余念がないようである。
ここに古来より秘密情報として伝承された、日本武術の「秘伝」の崩壊の一面がある。
誰にも親しめ、スポーツ的にゲームを楽しんだり、アメリカナイズされて、お揃のユニホームでファッショナブルに統一された運動着や道衣を着る事は、一見スマートであり、最も大衆が好むファッションであるが、その武技一つ一つを見た場合、その技術構成はスピードと筋力に頼り、体力で押し捲って基本のぶつけ合いに終始し、最短距離を通る直線の運動軌跡をとるスポーツ的な武道が殆どとなってしまった。
そして戦前の、あるいは昭和の初期までには恐らく存在していたであろうと思われる、本当の意味での「秘伝」が消え去ってしまった観が否めない。
だが、今日それを振り返ると、「秘伝」はアメリカナイズの変貌の裏側で消滅し、そして名目上「秘伝」と云う言葉は、表向きには使われてはいるが、本当の意味では、最早死語に近い状態になってしまっている。
したがって、「小が大を倒す」という秘法が無くなり、専(もっぱ)ら手の早い者が、遅い者を叩き、力のある者が力なき者を倒しているだけの事であり、柔道の専売特許のように盛んに使われた「柔能剛を制す」の言葉も、今日では死語同然になっている。
その大きな原因は、明治維新以降、日本古来の武術を、武道に置き換えた処にあり、これはただ名前や、名称を置き換えただけではなく、その武技を大衆化する為に複雑なものを簡化し、危険なもの省略して、広く親しめるように、武技の外郭のみの秘密情報を公開した為である。尊厳すべき秘密情報を一般に公開し、秘密が秘密でなくなってしまった今日、武道は、欧米のスポーツ式トレーニング法を模倣し、アメリカナイズの道を選択してしまった観が強い。
ある意味で一般公開は、多くの研究者から研究され、暴かれる運命を辿るのは必然的である。研究され、詳細な部分まで暴かれてしまえば、それは相手に「封じ手」を研究される事となり、秘密情報として隠されていたものが広く知られてしまうという実情を招いたのである。だがこれで秘密情報が全部出揃った訳ではない。
「密」なる秘密情報は、その複雑さから簡化された為、その要締(真諦)を外してしまい、「要」の部分を放棄したという形になった。つまり総てが俗諦(表向きの方便)になってしまい、その奥儀として存在した呼吸法や、修練に必要な行法を無視したという訳である。この結果、武道は武術に非常によく類似しているが、その根本は全く異質のものである。
それを要約すれば、次のようになる。
1.武術は、健康法として有効な体躯を造る。即ち、中肉中背の中庸を体躯の基本とする。また武術そのものには、正しい呼吸法が存在する。従って古来より武術家は長寿である。
2.それに反して武道は、運動の術理が直線的な運動軌跡を通り、これを強化する為には、スポーツと同様にスピードと筋力養成が急務であり、力と力のぶつけ合いとなる。また、その運動線が最短距離を通る為、軌跡が迂回を描く螺旋的な動きをする事がなく、更に付け加えるならば呼吸が浅く、心臓に多くの負担を掛け心臓肥大を招き、熱心に遣れば遣る程、健康を害する。
3.この事はスポーツ武道選手が度々故障しているのを見れば一目瞭然である。また、呼吸法に大きな誤りがある為、腰、膝、足首、手首、肘、肩、頸、脳の毛細血管切断等の故障が多く、老化を早め、短命に終わる結果を招く。
この両者の違いは、一つは武道が基本技と基本技のぶつけ合いになっているのに対し、武術は基本技の重視より、「秘伝」に則った秘術の技法を使う為、力以外で相手と戦う事になる。
武道はスポーツ競技のように大量に汗をかき、その発汗が大量のナトリウム放出となり、躰を弱め、短命で終わる人生を余儀なくするのである。
これに対し、武術は汗をかく事が殆どなく、相手の力を「秘伝」という術と、霊的な一面を含めた技法で相手を制する事を目的にしている為、此処に両者の次元の違いが生ずる。
また、武道の術理は、一対一の相対的なスポーツ平面の二次元的な、直線の術理の上に成り立ち、年齢別・階級別の西洋スポーツ的な模倣が必要となる。これは若い間が華(はな)であり、そして「口伝」や「秘伝」というものが存在しない。
だが「武」の原点に振り返れば、「戦い」はそういうものでなかった。
日々の精進が必要であり、武術の日常性は、一日一日を常に実戦の場、あるいは修行の場と考え、武術家としての「勘」を養い、霊的神性を養う事を目的にして来た。そこには霊的な力と、先人の培った「智恵」や「口伝」が存在し、素手以外に諸々の武具を使う為に、総合的な武技を会得する事が出来た。
また立体的、あるいは空間的であり、三次元以上の術理で構築されていた。此処にスポーツとは次元が違う世界が存在していたのである。 |