人類淘汰の時代が始まった
「またぎ」と呼ばれた人々の霊的神性
  大自然に対し常に畏敬の念を観じ、山の神を恐れ、厳しい禁忌(きんき/日時・方位・行為・言葉などについて、障りあるもの、忌むべきものとして禁ずる)を守った集団に「またぎ」と呼ばれる人々がいました。
 特に東北の山間地で、狩猟生活を主に行い、特異な儀礼と禁忌を守り、こうした集団の慣例(ならわし)を今も伝えているのが「またぎ」であり、彼等は十二月十二日に、山の神に供物を捧げ、二月の十二日には狩りをする事を禁制する、畏敬の念を以って大自然と接してきました。

 秋田の「阿仁またぎ」は、山入りの時には首領(頭目)が代々秘密に伝えられた「山立根本之巻」と干魚や乾物類を持参し、狩猟小屋の、山の神を祀る神前にこれらを捧げます。
 そしてこうした準備の下に山入りを行うのですが、一度山に入ると、これまでの里言葉は禁止され、仲間内だけにしか通じない「またぎ言葉」で、言葉少なめな会話だけが許される事になります。これは、汚れた里言葉を、山の神が嫌うのだとも言われています。あるいは動物達に人間の言葉を聞かれて、こちらの行動が筒抜けになるので、これを敬遠したのだとも言われています。

 その他の慣例として、一旦山に入れば、鉄砲や持参した道具は、肩に担いではいけないとか、食餌の際は自在鉤ごとにご飯や汁をよそってはいけないとか、無駄口や歌や口笛はいけないとかの決まりがあります。
 そしてそれらの禁忌を犯した者は、直ちにその場で水ごりをして、穢れを祓う、潔斎をしなければならないという掟があります。
 こうした厳格な禁忌は、山の神への深い畏敬と信仰心と、霊的神性を研ぎ澄ます為の自戒であり、こうした戒律にも似た禁止事項は、一方で気の緩みを戒めるものでもありました。これは厳しい冬山に生きる為の智慧であり、掟が厳しければ厳しいほど、「またぎ」衆の山に生きる態度も、それだけ壮絶なものになります。

 彼等は僅かな食糧で、雪山の中を歩き続けます。あるいは突然雪崩に襲われて、その場に釘付け状態になっても、そこで雪洞を掘り、何日も空腹のまま留(とど)まり、辛抱強く好転のチャンスを窺います。こうした状態に耐えながら、再び得物を追うのです。


 今でも、言い伝えとして伝えられれいるものは「熊を殺すと山の天候は、たちまち悪天候になる」という事が、「またぎ」衆の間で伝えられています。
 この悪天候は「山の神の血の洗い」と言って、動物を殺して命を奪った怒り、あるいは神聖な山を汚したりすると、聖地を清める為に、山の神は雪や雨を降らせて、動物の血の穢れを洗い流すものだと言われています。
 また生物学的な学説では、熊は天候が悪くなる前に大量の餌をとり、この時に撃たれるから、自然と天候が悪くなるとも言われています。
 いずれにしても、山の神は「またぎ」衆の畏敬の念の対象であり、この大自然を恐れる事によって、自らの謙虚さを養い、そして必要以上に乱獲しない掟を厳守しているからこそ、彼等もまた山の生活が許されているという現実があります。

 こうした「またぎ」衆の慎み深い態度を、都会に棲む現代人に重ね合せてみますと、後者は自然に対する畏敬の念を忘れ、自己中心的に愚かな食生活を貪っているようにも思えます。
 そして現代人の体格は、躰付きだけは欧米人なみに立派ですが、体質に欠陥がある為、根気がなく、精神力も薄弱というのが実情です。
 これは病気を招く体質に問題があり、現代人は各々に自己中心的な生き方をする生き物ですから、自分はあくまでも正しい、間違っているのは自分以外のものだ……と、思い込みがちです。

 したがって例えば、病気に罹れば、病気の原因を病原体のせいにします。昨今騒がれている新型急性肺炎・SARS(サーズ/重症急性呼吸器症候群/不思議にも中国の軍病院で発生し、生物兵器の疑いが持たれている。症状は38度以上の熱、悪寒、咳、下痢、息切れ、頭痛、筋肉のこわばり、全身の倦怠感などを発生させる)も、こうした病原体のせいにしています。
 伝染病の大半は細菌のせいにされ、慢性病においても、ウイルス探しに懸命になるという現実があります。確かに微生物を始めとするウイルスには、強い感染力があります。したがって発病の直接的な関わりを持つ事はあります。

 ところが、発病の真因はウイルスそのものでなく、ウイルスに感染してしまうその人の体質自体に問題があり、どんな病気においても、同じ様なウイルスに犯されながら、発病する人と、しない人がいます。
 この事は、これらのウイルスは、発病させる「絶対性」を持っていないという事になります。つまり、ウイルス自体が真の病因ではないという事になります。
 発病するか、しないかの決定権は、各人の「体質」が持っているのです。体質の悪さこそ、発病の真因なのです。

 そしてここで言う、体質とは「体細胞の質」を言うのです。
 「体細胞の質」の善し悪しは、何によって決定されるか、それは「少食→身軽で軽快な体躯」ならびに「玄米穀物の粗食→血中のブドウ糖を維持する回路を二つ持つ」という事が挙げられ、つまりこの流れが「粗食→造血→体細胞」という順の基本構造を造り、発病に対して、抵抗力のある体質を造り上げるのです。

 しかしこうした「粗食・少食」の実践が崩れると、動蛋白や乳製品などの大量摂取により、「血が汚れる」という現象が起こります。この血の汚れは、食物の腐敗によって齎され、その原因は腸内でこれ等が腐敗するからです。腸内で腐敗が起これば、造血作用において、血が汚れ、体質も悪化して病変(炎症や腫瘍など)が発生する事が解ります。
 これは一種の、体細胞組織の退化状態といえましょう。
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