老化とは何だろう
 人間の、加齢とともに肉体的な老化を来たすという現実は、生物である以上避けられない事実です。しかし、老化速度には個人差があります。老齢でありながらも、年齢以下に若々しく行動する人もいれば、それ以上の老けて見える人もいます。

 こうした個人の生活環境において、加齢するという現象が起きていることは事実です。そしてこの現象の発信源は、とりもなおさず、生理機能です。
 この生理機能の働きが鈍ると、そこに歪が起き、若さは急速に衰えます。種々の病因は、こうした現象に裏付けされています。
 そしてガンも一種の、正常細胞の老化と見ることができます。

 繰り返しますが、「ガンは自然治癒する」ものです。
 ガン細胞はもともと正常細胞が食べ物によって変異したもので、正常細胞と分離して考える今日のガン治療は、ガン細胞を抗癌剤やコバルト照射で破壊します。この時、正常細胞も破壊の対象になり、こうした結果、現代医学はガン患者を苦しめている実態があります。
 ガンという病気は自覚症状がともないません。その為、検診を受けてガンであるという事が判明した場合、既に手遅れだったということはよく聞く話です。したがってガンは、苦痛を感じることは稀です。

 では病気なのに、何故、苦痛を感じないのでしょうか。
 九州科学技術研究所では、ガンは一種の老化現象であるという結論に至りました。
 皆さんの想像する老化現象は、年をとってから起こる現象だ、と思っているかも知れませんが、老化現象とは、年齢や性別とは関係無く、正常細胞の老化によって肉体に起る様々な変化のことで、視力・聴力・記憶力などの低下することを言います。

 さて現代医学には、老化についてのオーソドックスな「老化メカニズム」は、大別して二つの考え方があります。
 一つは「中枢性の老化促進」で、これは脳・神経系、内分泌系から、体細胞に対して何らかの働きによってブレーキをかけるような指示が出され、これが老化を進行させるというメカニズムです。

 例えば、脳ホルモンのカテコールアミンが減少したり、神経ホルモンのセロトニンが増加するなどの事が老化と考えられています。
 そしてもう一つは、「抹消性の老化促進」と言うもので、躰を構成している体細胞自体が老化していくメカニズムです。
 これは例えば、細胞内部の老廃物の収納機能が壊れることで汚染が進行して、細胞質が老化したり、細胞分裂が繰り返されるうちに一種の摩耗が生じて、細胞核が老化するというメカニズムです。
 しかしいずれの考え方も、「躰の世界」だけの因果関係を取り上げているので、これだけでは本当の因果関係の追求にはなりません。やはり因果関係は突き詰めると、「食と血」に回帰されます。

 「年と共に消化機能が弱まる」という現象は、腸が造血器官であるということを如実に物語っています。健康と長寿の鍵はここにあると考えられます。
 不老長寿は整腸作用により、腸内環境が好ましい状態で保たれ、質の良い血がここで造られるというところに帰着します。そして積極的に、整腸をはかる食べ物としては「発酵食品」が挙げられます。

 発酵食品とは、微生物が生きた状態で沢山含まれ、しかも人体に有益な作用を及ぼすという食品のことです。こうした発酵食品を積極的に摂取すると、腸内の乳酸菌は大いに増殖されます。乳酸菌の増殖をはかることで整腸作用が促されるのです。
 世界的な長寿郷と称されるグルジア地方(カフカス南部、カフカス山脈の南方、黒海に面する共和国)では、主に発酵乳であるヨーグルトが多く摂取されていますが、身土不二の思想から考えて私達日本人は、発酵乳より、伝統的な発酵食品の方が好ましい事は言うまでもありません。その典型的なものが「味噌」であり「醤油」です。そして「納豆」と言った大豆成分で造られた発酵食品です。
 その他には漬物や甘酒、あるいは酵素等が挙げられます。

 さて老化現象は年齢に関係なく起こります。
 年齢に無関係で老化が起こる事は、例えば視力が低下して近視になったり、乱視になったり、あるいは遠視になります。こうした焦点距離の異常も一種の老化現象であり、病んだ状態であると考えられます。

 さて、近視(myopia)とは、 眼の水晶体の焦点距離が短すぎ、あるいは網膜に至る距離が長すぎるため、遠方の物体が網膜より前方に像を結び、そのため鮮明に物を見る事ができないこといいます。これは凹レンズの眼鏡によって矯正します。
 また乱視は眼の角膜その他の屈折面が、縦横の方向でその湾曲度を異にする結果、物体がゆがんだり2重に見えたりすることをいい、遠視(hypermetropia)は 眼の水晶体の焦点距離が大きすぎ、或いは網膜に至る距離が短すぎるため、近距離にある物体の像が網膜より奥に結び、そのため鮮明な像が見えない異常をいい、凸レンズの眼鏡によって矯正します。

 以上こうした場合、「メガネを掛ける」という矯正を行いますが、この処置はあくまで末端的処置に過ぎません。正確に言うならば、一種の眼病の病気の本質を解消していないということになります。
 あなたは近視、乱視、遠視などの焦点距離異常、あるいは色盲(color−blindness/色覚異常のことで先天性と後天性とがあり、先天性色覚異常は日本では男子の約5%、女子の約0.2%に発現する。一色型色覚(全色盲)・二色型色覚(部分色盲)・異常三色型色覚(色弱)に分類されるが、一色型は極めて稀で多くは非遺伝性とされる)などの色彩の弁別の異常を、先天性の親からの遺伝、先祖の遺伝であり、これらは病気でない等と考えていませんか。

 しかし九州科学技術研究所では、遺伝も病気に一つと考え、眼病自体を老化現象として扱います。何故ならば、乳幼児や小児にメガネを掛けている人は非常に少なく、やはり十歳過ぎ頃からメガネを掛け始めます。これも一種の老化現象であることは間違いありません。

 病気には必ず原因が存在します。
 それは先天的な、先祖の血統から起こる遺伝的なものであるかも知れませんし、また後天的な不養生から起こるものかも知れません。
 それを原因と結果という因縁の連続性から見ると、一つの現象には原因があり、基因があり、誘因があり、遠因があります。いろいろな原因結果が絡み合っているもので、真の原因は容易に把握できるものではありませんが、本来は自然の中に生きている古代の人間に、因果関係は存在しませんでした。もともと自然とは、無因論で貫かれた、「今」の実態でした。

 人間は何故に地上に生まれ、どのようにして生きるべきか、等と考えながら生きた古代人は居ませんでした。何故ならば、生まれた瞬間から「生」を疑う術(すべ)を知らなかったからです。人生の目標を尋ね歩かなければならない程、日々の生活は空虚なものでなく、迷う種もありませんでした。
 したがって生を知らず、死を知らず、その「知らない」ということを知っていた為に、迷いとは無縁であり、憂いとも、苦悩とも無縁でした。

 彼等は学問をする必要もなく、生死に迷い、道を求めて思想的偏歴を繰り返すこともありませんでした。
 無知無学で平凡な生活に終始する……、そして「これでよい」と思ったのが、古代の縄文人の生き方でした。これこそが「無の哲学」であり、「哲学無用の哲学」を実践していたのです。縄文時代とは、哲学無用の哲人社会を形成していたのではないか、と想像できます。

 ところがこの哲人社会に、怒涛の如く攻め込んで来たのが、大陸や半島の弥生人でした。
 縄文人の領土を侵略し、悉々く犯し、混血を重ねたというのが日本民族のルーツです。
 歴史が時を経て、時代が下ると近代には西洋文明が流れ込み、最初はその合理的な手腕に魅せられ、目を見張ったものですが、この文明は既に行き詰まりを見せ、暗礁に乗り上げた観が濃厚になってきました。

 現代の難問が山積みされた一つに、食生活の誤りによる難病・奇病が挙げられます。
 人間は生まれた時、総ての人が、ある意味で平等に、その人にとって最高の健康状態であるという肉体をもって、この世に誕生します。
 しかし生まれた時点をもって、人間は死に向かって生命活動を展開させていきますから、生・老・病・死という四期が巡ってくることは免れません。

 この四期の順環ではっきりしていることは、次第に造血作用が衰え、赤血球が減少すると言うことです。
 赤血球が躰の総ての細胞を構成しているのですから、この造血現象が衰えてくると、臓器器官の活力も鈍り、健康だった赤血球は「異常」という形をとって、体細胞を偏移させていきます。そしてこれを放置しますと、やがて衰退し死に至ります。
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