道場憲章 3



第二条 礼節について

1.言葉遣い
 人間の人格を顕わす場合、それは言葉遣いに現れる。人格の高い者は言葉遣いも丁寧であり、低い者になるほど、それは乱雑になる。したがってこうしたところにも人格の、その人の品性が顕(あら)われるので、十分に注意したいものである。

 山本常朝(やまもと‐つねとも)の口述書『葉隠』は、「物言ひ(い)の肝要(かんよう)は、言はざる事なり、言はずして済ますべしと思わば、一言も言はずしてすむものなり」と言わしめている。
 つまり、言葉には「言霊(ことだま)」というものが存在し、ことば少なに「明晰(めいせき)」に言えといっているのである。
 また、指導者や目上に対しては、失礼のないように、日本語の文法上正しい敬語を遣い、友達や仲間内で喋るような、狎(な)れ合いの言葉や、言葉を安易に流行語に畸形(きけい)させて、軽んじて遣わないようにする事が大切である。

 言葉遣いは、人格と品性に一致するものであり、言葉イコール人格、あるいは人間性を現わすことを忘れてはならない。そして更には、決して狎れ合いの仲間内で喋る言葉遣いや、人を見下す様な傲慢(ごうまん)な喋り方、ならびに、横柄な言葉使いは厳禁である。
 更に言葉は、『秀真伝(ほつまつたい)』の言う「光透波(ことば)」であり、人間の所持する内面の、意念を現われである。
 したがって軽薄かつ軽率な、安易な言葉遣いは最も慎まなければならない、重要事項の一つである。
 武術の修練とは、態度と言葉遣いの是非ぜひ/道理にかなうことと、かなわないこと)を、真摯しんし/まじめでひたむきなさま)に吟味するものであり、これを繰り返し、反芻はんすう/二度三度くりかえし思い、考えること)しない限り、その進歩はありえないと、胆に命ずるべきである。

 そして、道場師範と道場生、あるいは道場師範に準ずる准師範や指導員らに対する言葉遣いも、慎み深く、言葉を選び、無礼な言葉を決して履いてはならない。言葉遣いにおいては、下の者は先輩、古参者にたいしても言葉遣いは充分に気をつけ、くれぐれも失礼にならないようにしなければならない。
 これに違反した場合は、破門、除籍、一定期間の道場の稽古停止などの厳罰に処される。


2.礼儀
 武は、「礼にはじまり、礼に終わる」と言われる。
 したがって求道の士は、この「礼儀」を厳守することが大事である。そしてこれを、更に一歩前進させて、集団だけの内輪しか通用しない「挨拶」から、人間の行動原理として、これを広く社会に適用できる「礼法」にまで高めなければならない。

 「武」というのは、暴力と対峙(たいじ)する為の、単に、暴力ではない。
 また、刀や槍に対して、それと闘うだけの戦闘行為でもない。その主眼とするものは、人間が、人として必要不可欠な心の裡側(うちがわ)に内在する「礼」の追求であり、武術を通じて、人としての道を、真摯(しんし)に学ぶ事にある。

 頭の中がからっぽで、やたら首から下が、頑強に出来た、腕っ節の強いストリート・ファイターを育てるのが武術の目的でないから、その主眼とするところは、人間として人格を養い、教養を養って、まず、戦闘家である前に、一個の慎み深い「人間」でなければならない。
 この、一個の人間であるという、この原点にこそ、礼法の奥儀(おくぎ)があるのである。
 人間の個々を判断する場合、その基準になるのは、その人が身に付けた「礼儀正しさ」である。


3.謙譲
 好戦的で、傲慢ごうまん/おごり高ぶって人をあなどること、あるいは見くだして礼を欠くこと)で、更に横柄おうへい/おごりたかぶって無礼なこと)という格闘技愛好者は、決して少なくない。ややともすると彼等は、控え目という事を知らず、高飛車な態度をとる。

 しかし、こうした集団に限って、「青少年育成」や「健全な格闘技」を掲げ、社会教育に参加しているが如くの錯覚を抱かせるが、その実、礼節謙譲など、どこにも存在していないのが実情である。

 こうした団体が唱える「青少年育成」とは何か。あるいは健全な格闘技とは、何をもって「健全」と称するのか。その明確な答は、何一つ打ち出されていないのが実情だ。
 また、こうした種目の格闘技を愛好する者に、好戦的な考えを固執する者が多い。

 青少年育成を標榜する団体に限って、礼節謙譲などが、実(まこと)しやかにスローガンに掲げられているが、それは何をもって、それに回帰するのか、その辺の主旨は、まことに不透明である。
 こうした一事を突き詰めれば、多くのスポーツ格闘技や競技武道は、ただ首から下だけを養成し、手の早さと、威力を競い合い、相手と試合して、蹴ったり、突いたり、殴ったり、投げたり、抑え込んだり、絞めたりしか知らぬ、同好者の集団に成り下がっている事が少なくない。こうした手合いの人間を、幾ら養成しても、人間社会や実社会にとって、如何ほどの意義が生まれるのか、甚だ疑問である。

 もともと武術とは、試合に積極的に参加して、好戦を好み、「大が小を制して」、メダルや賞状をもらうことが、真の目的ではなかったはずだ。

 武術に携わり、武術を通じて、人生を模索しようと行動している人は、単に古武道が好き、スポーツ武道が好きと言った、ただ「好き」というレベルのものではなく、自らを探す、探究心に心を砕かなければならない。これが出来なければ、自らを探し出すことも出来ないし、最終的には、自分を見失って、迷宮に迷い込む人生を選択しなければならなくなるのである。
 少々、小手先のテクニックに優れていても、くれぐれもそうした愚は犯さぬように、常に日々の反省を繰り返し、礼節謙譲を修行の課題としなければならない。


4.拝師の礼
 「薪水(しんすい)の労をとる」という、畏敬いけい/崇高・偉大なものを、かしこまり敬うこと)の念を現わす言葉がある。
 よき師との出逢いと、こうして巡り会えた事への感謝の気持ちは、「拝師の礼」に現われる。そして求道者は、これを片時も忘れてはならない。

 もともと子弟関係というものは、実に厳格なものであった。古人の考え方は、今日の想像を遥かに絶するような、緊張をもって仕えていた。

 昨今は、こうした風習や緊張は廃(すた)れてしまったが、やはり心の裡(うち)では、こうした緊張感を、何処かに維持しておく必要がある。
 かつては、師匠の食事を用意をしたり給仕をしたり、炊事や洗濯、着替えや身の周りの掃除、風呂掃除から背中流し、マッサージから寝床の世話まで、緊張した日々と共にあったものである。
 しかしこうした緊張は、昨今はその残映も残らぬほど、廃れてしまっている。

 古人の、修行者としての実践と、武士道を全うするという事は、かくも緊張感の伴った、実に厳しいものであったということを、「薪水の労をとる」という言葉から、窺(うかが)い知ることが出来る。
 緊張の連続における師匠との接し方は、「拝師の礼」に叶うものでなければならず、ここに狎(な)れ合いや、隙(すき)をつくることは禁物である。

 詳細については本尚道館HPの「まことの《薪水の労をとる》とは」を参照のこと。
  http://www.daitouryu.com/syoudoukan/uchideshi/uchideshi09.htm


5.姿勢と態度
 人間の人格と品性は、まず姿勢に顕(あら)われる。臆病者は臆病者のようにおずおずと小心振りを見せ、疚(やま)しさを心に抱く者は、そのように姿勢が疚しくなる。こうした姿勢を見れば、人はそれぞれに、心に抱いたものが、その儘、ライフ・スタイルに現れているとも言える。
 そしてこうした、現代人のライフ・スタイルに大きく関わっているのが、「呼吸」である。

 現代人は多忙と、生活習慣の不摂生から、その呼吸法は、「淺く、短く」なっている。こうした表皮の部分だけでしか呼吸を行っていないのである。こうした呼吸の遣り方では、まず姿勢を正すことは出来ないのである。

 したがって、本来の呼吸は「深く、長く」なければならないのである。そうした深く、長い呼吸をすることによって、今まで築かなかったものを発見できる気界燃えられるのである。一日の終わり、5分でも10分でもいいから、静坐して呼吸を整え、「自己との出逢い」を試みるべきである。
 人間は、他人の短所は能(よ)く見えるが、自分の短所や欠点は中々見えないものである。

 また態度のあり方としては、武人は常に「毅然とする」ということが大事であり、意志が強く、物事に動ぜず、しっかりしていると人の眼に映るようにする事が、まず武人の態度であり、姿勢であろう。


6.歩き方
 武術家として大切な行動原理は「歩き方」である。
 人間が歩くと言う行為は、常に大地からの反動を得て、躰を移動させるのであるから、この行動の中には、つまり「歩き方」が会得出来ていなければならず、これが武術家としての「足捌(あしさば)き」となる。

 この足捌きは「大地を信頼する」という、日本人の古来からの農耕民族としての畏敬(いけい)の念が示されており、自然の理(ことわり)に適(かな)った「歩き方」をしなければならない。




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 さて、古来より武士の歩き方は、能や狂言などと同じように、武人特有の「摺(す)り足」であった。
 この摺り足の中に、武人の総ての行動原理が包含されていた。

 摺り足とは、敵に悟られない歩き方であり、また、自分の居所を知られないようにする歩き方である。
 この歩き方は、西欧の狩猟民族の弾むようなステップする歩き方とは異なり、大地を信頼した、農耕民族特有の歩き方である。しかしこうした歩き方は、今日、一部の古流武術などを残し、総べてあとは消失しているようである。

 大東流の歩き方は御式内に由来する、殿中作法からも窺(うか)えるように、能や狂言と同じ「摺り足(すりあし)」であった。ところが、昨今の殆どの大東流愛好者は、その重要な基本的な要(かなめ)を忘れ去り、ただ大東流の高級技法ばかりに眼を奪われている観が強い。
 愛好者の殆どは、競技武道と同じように、ただ相手を負かし、勝てば良いと思って練習しているため、こうした肝腎な行動原理を無視した考え方が否めない。

 要するに、今日の武道界を振り返ってみると、柔道や近代剣道の歩き方は、実質的な立場から分析すれば、その殆どが「べた足」であり、既に武人の心構えであった、「摺り足」の基本を忘れてしまっているようである。
 また空手や拳法は組手などから窺えるようにボクシングと同じステップを利用した「跳ね足」であり、到底武人の歩き方とは程遠いものがある。
 
 さて、西郷派大東流合気武術は、「歩き」という行動原理の源は、御式内の作法にある通り、能や狂言の摺り足と考えているので、足の拇指(おやゆび)の付け根部分に当たる拇趾球(ぼしきゅう)の膨らみ部を中心軸として、そこで躰(からだ)を支えるように指導している。そして他の部分は地面に軽く接するようにするのである。つまり能や狂言の自然の動きこそ、人間の歩く行動原理だと考えているのである。
 拇指の付け根で立脚することこそ、武人の行動原理なのだ。

 こうした歩き方をすれば、まず、何処を移動するにも、音を立てずに歩き事が出来、それは同時に、自分の居所を知られず、敵に近付く事が出来るという事でもある。この摺り足の歩き方は、武術を修行する上では、非常に大事な事であるので、是非とも会得したいものである。


6.他流派や他武道に、大いに学ぶべし
 武術修行は、一つの研究である。
 その研究課題は、他流派や他武道が、常にご丁寧に投げかけてくれている、そのテーマについて研究すればよいことである。これを慎んで研究する事こそ、真の求道者の態度である。

 しかしこうした弟子の態度を、嫌う指導者が少なくない。
 指導者の多くは、弟子が自分の指導する武道以外の、他のものを習いに行ったり、他流の会報紙などを読む事を嫌う者が多い。しかしこういう指導者の態度は誤りであり、本当に度量の広い指導者ならば、こうした弟子の研究心旺盛な態度に喜ばなければならない。

 武術界・武道界という蝸牛(かくぎゅう)の世界は、一般の人が考えるように、そんなに大物ばかりがゴロゴロとした世界ではない。
 その指導者の90%以上は、みな嫉妬深い人間ばかりであり、自分自身を剣の日本一と自慢しながらも、その実は、小心で、臆病で、小者ばかりが右往左往する世界である。
 武道歴何十年と言っても、単に無駄に時間を過ごして来た高段者ばかりがゴロゴロしていて、彼等の正味稽古時間は、ほんの僅かなものに過ぎない。朝晩、日や研究し、修行している人は、ほんのひと握りに過ぎないのである。

 また若い時分にならした人でも、歳を取れば、修行継続時間がグーンと短くなり、その殆どは、外野から掛け声をかける、横着者に成り下がっている指導者が少なくない。
 そしてこうした指導者に限って、他武道を研究したり、他流の会報紙を読んだりとする、研究心旺盛な弟子に、ひと言ふた言、文句を言う人が少なくない。
 むしろ優れていると評されている、他武道や他流派は進んで研究すべきであり、こうした他流派が開催する講習会などは、その研究する意味からにおいても、大いに参加すべきであると思う。
 自分の習う以外の他武道や他流派は、総べて自分を指導する貴重な「先生」であり、こうしたものは進んで研究すべきである。

 蝸牛の小さな世界の中で、骨董品的な武技を後生大事(ごしょうだいじ)にとっておいて、これを密かに研究したところで、たいした成果はあがるわけがなく、むしろ自ら進んで他武道や他流派を研究すべきである。そうした後に、再び自分の学んでいる流派の儀法と戦闘思想を比べ合わせてみれば、その底に本当の実像が見えて来るのである。
 そして世の中が複雑化する現在、一流の今年かしらないと言うのでは、やがて敗北の日が来るのは必定である。

 西郷派大東流合気武術では、門人に対し、余裕があれば、他武道を研究したり、他流を研究して、新たな戦闘思想を研究してもらいたいと言う意味で、こうしたものを大いに奨励している。