|
壮年ならびに高齢者のクラス 2
|
5.長寿と密接な関係が呼吸法
生物は外界から酸素を取り入れ、二酸化炭素を外界に放出する現象があります。動物や人間も同じです。ガス交換を行う為に筋肉運動を行って呼吸筋を大きく動かし、組織や細胞に酸素を取り入れ酸化還元反応を行って、エネルギーを獲得しようとします。これが呼吸であり、これには胸式と腹式および胸腹式がありますが、西郷派合気には独特の「丹田呼吸法」と「逆複式丹田呼吸法」があります。 呼吸法は、基本的には呼吸筋を動かし、同時に口などを開いて、海綿静脈洞に停滞する血液を脳へと送り込む運動を行います。また呼吸筋を盛んに動かす運動を行います。 呼吸筋の活動を盛んにし、肺活量を増やすには「素振り」(わが流では1200グラムの木刀を振る)をする事が、これ等の障害を解決する糸口になります。肩凝りや腰痛は、呼吸筋の活動や血流(気血を含む)の流れが兇(わる)くなり、これが原因して神経障害や精神障害を引き起こします。 また呼吸法の誤りは、心臓に負担を掛け、心臓肥大症という心筋梗塞(冠状動脈の閉塞または急激な血流減少により、心筋に変性・壊死(えし)を起す疾患)状態を引き起こします。息を止めたり、力(りき)んだり、無理をして体力以上のものに格闘した場合、こうした症状が起こります。 したがって私たちが、あまり気にも止めずに行っている呼吸は、案外と長寿と密接な関係にあり、呼吸法を間違えば、短命に終わるばかりでなく、晩年の人生を暗いものに塗り替えてしまいます。 さて、長寿の秘訣とは何でしょうか。 まず、過保護医療から遠ざかり、商魂逞しい医商(現代医学に携わる医者の俗言)の言を軽々しく信じない事です。また現代栄養学の宣伝文句に、安易な食肉や乳製品(牛乳、バター、チーズ、ヨーグルト)の栄養データの分析表を軽々しく信じない事です。 寝起きをして、太陽と共に目覚め、そして夜にはいつまでも夜更かしをせず、規則正しい生活習慣も大事な長寿の秘訣であり、これを守ると言う事です。 まさに縄文人の世界がそうでした。己を空しゅうして、多くを欲しがらず、自然と共にあった、私たちの遺伝子の記憶に残る古(いにしえ)の世界です。 古代縄文人は「足る」ことを知り、大自然に頭を垂れて、謙虚に生きる生活を実践していました。天を仰いで祈る、裸の生活に人間の至る道の真理を発見していました。それは呪術主体の文化として、今日まで多くの科学者が蔑んで来た縄文人の古神道の世界です。 多くの保守的な歴史学者や考古学者は、縄文文化を自然と共にする世界、あるいは文明などろは程遠い野蛮な世界であるとしてはばかりませんでした。しかし自然と共存する事こそ、無為自然の道であり、本当の意味での優れた自然融和の世界であり、これこそが本当の文明の名に値する自然界を包含した世界ではなかったのでしょうか。 古の彼等は、貯蔵する事をはばかり、乱獲する危険性を知っていました。地球は人間に食べ物を与えてくれる。しかし彼等は必要以上に採ってはならないという事も知っていました。稲作の技術も知っていましたが、その愚に冒され、振り回される事をしませんでした。 稲作は収穫までに多くの人の手を煩わせる。台風や豪雨の到来で、下手をすれば全滅になり、多忙と徒労の繰り返しになる事も多い。それが自然から学んだ縄文人達の智慧と教訓でした。 そして彼等は、粗衣・粗食・少食(麻などの植物性の生地を身に纏い、穀物を食する)を旨とし、自然への畏敬の念を忘れませんでした。 彼等は自然と共にあり、神と共にありました。それなるが故に、自然に平伏することも知っていました。それが縄文人の古神道の世界であり、彼等は身軽にして、「半身半霊体」(はんしんはんりょうたい/肉体:霊体の分離比が5:5の体躯)を具現した大地の民でした。そして彼等こそ、人類史上稀に見る、真理をたずさえた大地の民ではなかったのでしょうか。
禅には「日に用いて知らず」という言葉があります。これは無意識のうちに何事も行っていて、しかも、自然で、全く作為のない様を言います。気付かないうちに、自然と生かされ、その生かされている自己を見る時、これこそがまさに自然と共にある真実の人間の姿ではないでしょうか。 そして縄文人、大地の民は、太陽と共に起き、太陽と共に寝る、自然の摂理を身に付け、文明社会に見られるような難病・奇病から解放された人達であったと言う事が出来ます。 それは彼等が自然に会得した呼吸法であり、逆らう事を止め、自然と順応する呼吸法を日々実践していたのです。 特に太陽と共に目覚めると言うのは非常に大事な事で、朝の太陽には、多くの生気が満ち溢れていますから、その生気を取り入れて霊体と融合させ、霊気に作り替えて霊的神性を日々に高めていく修行が必要です。 西郷派合気では、太陽を拝んで霊気を取り入れる事を「日拝の秘法」と言います。 この「日拝の秘法」は、左手を太陽に差し出し、ここを太陽エネルギーの充電の入口にして、小周天させる方法です。 また目は、太陽を凝視して、心の中に太陽を写し取ります。こうすることで、心が軽くなり、気分も晴れやかになり、暫く太陽を凝視しても、眩しくない状態になります。そして神経症とか精神病とは無縁の健康体が得られ、また心臓を丈夫にして、肩凝り、腰痛、肘痛から解放されて、軽快な体躯を養成する事が出来ます。 |
![]() ![]() |
| 6.「気」という科学を基盤にした合気武術 「人間」イコール「肉体」と言う、物質的一元論は正しくありません。 これまでの科学はこうした物質的一元論の上に立ち、人間を物質的な肉体の塊であると看做(みな)したところに大きな間違いがありました。 人間は人体を活用させながら、また、「気」としても生きているのです。したがって肉体である固体と、生活空間での境目は皮膚ではなく、「衛気(えいき)」の表層なのです。 人間は物質的には肉体として、気の意識としては気体として、更には霊体として存在していると言う事を忘れてはなりません。 したがって肉体に信奉して、肉体を鍛えてみたところで、こうした筋肉隆々の肉体が使えるのは、ごく限られた期間だけであり、それも年齢的には30代前半に限られます。 人間は30歳の肉体の衰える境界線を越えますと、筋力や腕力は殆ど役に立たないものになります。だからこそ、中年から壮年に向かうこの時期は、肉体を鍛えても健康に寄与する「気体」並びに「霊体」は、養う事が出来ません。 こうした肉体が弱まる時期に登場してくるのが「合気」の行法であり、合気を学ぶ基本的な心構えは、都会の騒音から離れ、まず心を鎮(しず)め、気を落ち着ける事にあります。 そして想念として、相手の躰(からだ)の一部に触れただけで倒してしまう繰り返しの反復をイメージとして繰り返し、次にその通りに動いてみて、今度は自分の動きの中に表現してみます。こうする事により、肉体だけでなく、気体や霊体までがこの動きに馴染もうとします。そして厭(いや)が上でも、気の神秘が増幅され、やがて「合気」に至る糸口を見つけて行く事になります。 つまり合気とは、肉体で表現するのではなく、内側に内在する、もう一つの自分の気体並びに霊体を遣い、自分の気で、相手の気を制する事を言います。 この場合、相手の気を、わが気で制するのですから、そこには内筋と言う、内側の力が具現化され、投げ技に至っては遠心力的な相反的なベクトルが働き、また極め技に至っては求心的な感応的ベクトルが働き、中心へと相手を移行させて、制するに至ります。 この事から分かりますように、人間実存の臨界が、実は肉体の表面ではなく、衛気の表層であると言う事を「合気」は教えているのです。この意味が理解できれば、気が気を制すると言う事は当然の理屈として、肉体以外の力をもって相手を制する事が出来るのです。 しかし気体や霊体を遣う「合気」の行法は、正しい指導者について指導を受けないと、気体の遣い方を誤って頭がおかしくなったり(精神障害を起こし易い)、体調を崩してしまう事もあるので、こうした点は十分に注意しなければなりません。 また気の構成とその性質を十分に研究して、自分自身の心と身体をしっかりと繋ぐ稽古をするのが「合気」であり、これが繋がっている間は、人間は、幾ら齢をとっても、惚け老人になったり、様々なタイプの痴呆症で悩む事はなく、また寝た切りになる原因も、その多くは心と身体の繋がりに問題があります。 特に生活様式に物質的真面ばかりを取り入れ、肉体的な生活を中心にして来た人は、晩年、心と身体のつながりが弱くなって、気体と霊体にアンバランスな歪みが生じます。 |
![]() ![]() |
| 本来、霊体は超時空的な存在であり、その本質は「意識」です。この意識は肉体を持たない存在ですが、肉体を持たないが故に、自身で物理的な作用を発揮したいと言う願望から、肉体を重なり合い、人間の魂と結んで肉体をコントロールしようとします。こうした超時空的な存在がある事も、私たちは認識しておかねばならないのです。 4.無理のない霊・肉の養成 現代医学と現代栄養学が「科学」という用語を遣って幅を利かす現代、私たちは両者の慣用句に振り廻され、間違った科学観を知らず知らずの内に身に着けてしまい、暗い固定観念と修正不能な先入観を抱いてしまいました。その結果、霊力や霊的な現象は一切非科学的であるというような、固定観念を抱いてしまいました。 ところが、こうした現象が科学として研究し始めているのも事実であり、日本の近代は古典的なニュートンの物理学に振り回されたり、ダーウィン進化論に振り回されて、人間は猿から進化して来たと考えるような現実が生まれました。 更に、ダーウィン進化論の不思議さは、突然変異が起こったからと言ってすぐに進化するわけでなく、突然変異が繰り返し起こり、蓄積されて、はじめて進化すると言う点にあります。果たして、本当に、偶然の為の不確かでデタラメな突然変異が、そんなに都合よく何回も起きるものなのでしょうか。 喩えば、爬虫類から鳥類へ変化する為には、前肢が「羽」に変化するわけですが、こうした大きな変化が起こるには、沢山の変化が整然と行われる必要があります。羽ができるだけでなく、その羽を動かす為の脳の働きや、運動神経にも当然変化が起きなければなりません。骨を中空にして、体重を減少させたり、空気抵抗を少なくする為に、身体自体も変化が必要となります。 爬虫類が空を飛ぶ為には、「空を飛ぶ」のに必要な、無数の突然変異が、同時に繰り返し起きなくてはなりませんが、果たしてそんなに都合よく起こり、爬虫類が鳥類へと進化したのでしょうか。 しかも突然変異は、あくまで偶然にしか起こりませんので、このような変化が、一つの固体に繰り返し起きるという事はありません。更には、こうした事が起きるのは、同じような変化が、ほぼ同時に、同じ速度で起こらねばなりません。 車を手当りしだいに壊して、適当に部品を組み合わせていたら、果たしていつの間にか、飛行機が出来てしまうのでしょうか。 ダーウィン進化論は疑うべき、疑問の多い仮説です。 |
![]() ![]() |
| ▲ダーウィン進化論の誤りを実証する空飛ぶ動物の翼の骨格図 |
| さて、私たちが学校教育の中で習って来た科学は、ニュートン以来の古典的な物理学を「科学」と称してそれを妄信的に信じて来た痕跡があります。科学の世界程、ドラマチックに変転してきた学問分野はありません。 古代の宇宙構造説は天動説でした、ところがコペルニクスの登場で地動説(大陽中心説)に変わり、天動説を打ち破って旧来の宇宙観・世界観に大転換を与えました。 また時間・空間に於ては、絶対性から相対性へと移行し、物質粒子説から粒子波動二面説へ、そして不確定性原理の発見。更には量子力学の創設など、数え上げれば切りがありません。 これらはいずれも、唱えられた当初は気狂いじみていると考えられたものです。逆説的に言えば、科学常識程不確定なものはないと言えましょう。 喩えば、原子は原子核を構成する陽子と中性子と、更には電子によって成り立っていると言われますが、しかし、誰も原子の内部を実際に見た人はいません。科学技術が発達すれば、いつかは客観的に観る事が出来るかも知れませんが、この考え方は、不確定性原理によって、とうの昔に物理学者によって排除されています。 しかし多くの日本人は、古典物理学をまさに科学と信じ、事物を含む物質の総ては、原子から成り立っており、原子は素粒子から成り立っていると信じ、その素粒子は確固たる実体物であると信じて疑いません。これこそを、物理学と信じているのです。そして現代の多勢の日本人が、こうした古い考え方に囚われて、これを改めようとしない処に現代の、狂える憂鬱があるのです。 ところが物質観で考える物理学は、実はニュートンに代表される古典物理学であって、現代の物理学ではこうした考え方は、既に排除されています。 物質が総ての原子から成り立ち、その原子が素粒子から成り立ちという処までは古典物理学と同じですが、素粒子についての考え方が既に違ったものになっています。つまり素粒子は、陽子、中性子、電子、中間子、光子、ニュートリノなどの反粒子を指すのです。 素粒子は目紛しく生成と消滅を繰り返しているそれは、「何もなかった」ところに、突然「何かが存在する」ようになり、やがてそれが生成するようになり、それから何かが、何かへ変化し、相互転化しつつ、また、やがては消滅してしまうというサイクルを繰り返し、この順序は、生成・相互転化・消滅という順を辿り、絶え間無く、かつ、果てしなく続くものなのです。 古典物理学に始まるニュートン以来の物理学を信じる物理学者達は、今日の量子力学に行き着くまで、物質をこれ以上、細分化不可能と言うところまで、突き詰めて行きました。そして必ず、基本粒子たる剛体物(実体物)に突き当たるはずだと確信し続けていましたが、何と発見したものは、そのような剛体物ではなく、在(あ)ったのは「何もなかった」という発見だったのです。 ところがこうした発見にもかかわらず、日本では旧態依然とした考え方に支配されています。多くの人は、現世のおける外界の事物や事象の総ては、それぞれが独自に存在し、独自に移送していると考えます。自他とを区別し、固定した固定観念で、本来ならば繋がりを持つはずの、連絡路を遮蔽(しゃへい)して、これに境界線を設けようとします。 また意識は内的世界のみに作用して、外的世界には影響しないものだと考えます。つまり、外界は私たちと関係なく独自の法則によって進行し、推移し、移送すると信じて疑いません。物理学でもこのような考え方をするのではないかと思っています。 しかしこうした見解は、古典物理学的な見解であるとしか言えません。 古典物理学では、物質の位置と速さ、あるいは運動量とえを、同時に測定することは原理的に可能であり、それを測定すれば、その物質の将来の位置と速さは正確に予測する事が出来ると考えます。したがって充分な情報量と、過去のデータがあれば、現在は予測で来るはずであり、また未来も予測できると考えます。 宇宙が創造されt動き始めた瞬間から、宇宙で起こるべき総ての出来事は、その時点で決定されており、私たちの意思をもって変更できないとしています。そして「個」という存在は、巨大な機械の中の単なる歯車的な部品に過ぎないと考えています。こうした考え方は、いわゆる機械的決定論です。古典物理学では、私たちと外界とは影響し合わないと考えるのです。 一方、量子力学の見解は、これと全く対照的な考え方をします。 量子力学では、物質の位置と速さ(運動量)を同時に測定する事は不可能であるから、その物質の将来の位置と速さは正確に予測する事が出来ないとしています。 それでは観察・測定される前の外界の対象物はどうなっているのかというと、そこにあるのは多様な可能性の、そして私たちが対象を観測すると、そのとたんに、多様な可能性の内、唯一つだけを残して、それ以外の可能性は総て消えてしまうと考えます。 つまり、観測する前の被観測系は多様な可能性で構成されているが、私たちの観測によって多様な可能性から、唯一つの現実に移送すると考えるのです。これを「波動関係が収縮する」といいます。 十七世紀当時の物理学者達は、デカルト哲学の「二元論」にしたがって、精神(意識)と物質は別な物であると考えました。しかし物質構造を研究して今日に至る物理学は、物質構造を研究する間に、知らないうちに、実は自分達が精神の領域に踏み込み、ひいては霊の領域にまで踏み込んでしまったという風に考えるとうになりました。そして事物や事象は、意識によって創り出され、意識によって変化すると言う事が分かって来ました。 しかし多くの人は、意識によって創り出された無実体を、あたかも実体があるかのように捉え、それを錯覚しているのです。ここに現代社会の、古典物理学と量子力学が混乱し合い、ない交ぜになって錯綜する悲劇があるのです。 私たちはこうした錯綜の悲劇に気付き、意識が事物や事象や現象を創り出し、意識が粗手を変化させるという事実に気付くべきです。事物は実体の無いものであって、事物は意識に従属するのです。そして意識は霊力をも、包含し、意識がその強弱を決定します。 霊力は霊的な意味での力であり、霊視や霊聴を求めなくても得られるものです。体力が技とは違うように、技は知らなくても、霊的な力は鍛えられるのです。それは内在する力だからです。 健康になるように念ずれば、健康になるような日常生活を送るようになり、自然と不摂生はしないものです。しかし健康を安易に考え、少々不摂生をしても、体制には影響ないなどと考えるようになると、やがては生活が乱れ、不健康で不摂生な未来を選択してしまう事になります。病気とは行した、日常の間違いから起こるものであり、霊的神性と言う誰もが持っている霊体分野を穢した事が、現代の難病や奇病に襲われる結果を招くのです。 |