内弟子制度 21



●頭の体操

 食養道で言う「養生」は、より善(よ)く臨終(りんじゅう)を迎える為に行うものである。「ボケ老人になって死する」あるいは「植物人間になって死する」と言う死に態(ざま)では、決してより善い臨終を迎えることはできない。

 では、食餌法(しょくじほう)と共に、より善い臨終へと向かわせるものは何か。
 それは頭の鍛練であり、頭の体操である。

 常に緊張し、日常を戦時と同じく、「非日常」と捕らえ、隙(すき)を作らぬ生き方が、頭脳の育成を図る事になる。それを等閑(なおざり)にすれば、忽(たちま)ちのうちに老化をきたし、その人の人生のそれ以降は、ボケと植物状態に置き換えられて、無慙(むざん)に朽ち果てるものとなる。

 戦国の武将で八十歳を超えて、更に矍鑠(かくしゃく)とした武将が居た。北条早雲(ほうじょうそううん/戦国時代の武将で、伊勢新九郎長氏と称し、剃髪して早雲庵宗瑞と号を称す)である。
 早雲は八十八の米寿(べいじゅ)まで生きた長生きをした武将である。八十五歳の時に、相州新井城を攻めて三浦一族(三浦義同(よしあつ)/戦国初期の武将で瑞雲庵道寸と号を称す。1512年(永正九年)北条早雲に相模岡崎城を囲まれて敗北し、新井城に籠って3年にわたり抗戦したが落城して自刃)を滅ぼし、相模を平定した。そして早雲は有名な『早雲寺殿廿一ヶ条』の遺訓を伝え、北条五代の基礎を築いた。
 『早雲寺殿廿一ヶ条』は食養と、それに関する養生法であり、長生きして善き臨終を迎えると言う事が記されている。
 人は、単に長生きするだけでは駄目である。善き臨終を迎えなければならない。つまり自然死する事を、その本分としなければならない。

 それについて早雲は言う。
 「夕べには五ツ時(いつつどき/午後八時頃)頃に寝静まるべし」と述べ、「寅の刻(とらのこく/午前四時頃)に起床し、行水、拝みし身の形義(ぎょうぎ)を整え、六ツ時(むつどき/午前六時頃)に出仕(しゅっし)申しべし」とある。つまり、早寝・早起きを説いているのである。

 更に短歌(道歌)を嗜(たしな)めと言っている。

  道歌なき人は、無手(むて)に賤(いや)しき事也。常の出言につつみ有べし。一言にても人の胸中しらるる事也。

 早雲は重ねて言う。短歌に習熟しない者は、とりがえなく教養に欠ける。
 一方、短歌を学び、習熟すれば、言葉に慎(つつし)みが出来て、無駄な、くだらぬことを喋る事がないから、他人に我が胸中を見透かされる事はなく、それ故に一目置かれるのである。
 したがって言葉は、簡単に、明確に、人に誤解を与えないようにしなければならないと。

 人間の本質は、「考える」ことである。徹底的に考え抜く事が、脳を活性化する。
 考えの浅はかな者は、必ず、その生涯において「墓穴を掘る」ような事をして生涯を閉じている。しかし考えると言っても、思い悩む事ではない。あるいは過ぎた日の失敗を悔やむ事でもないし、気を病ませる事でもない。こうした事は、頭を無駄に疲れさせるだけである。

 武人は、単なるスポーツ選手や格闘家の範疇(はんちゅう)に止まるものではない。確かに「闘魂の士」ではならないが、それ以外に「理(ことわり)を知る」側面を持っていなければ、文武両道の士とは言い難い。
 理を知るとは、書を読み、読んだ事について考え、核心に迫る、哲学へと発展させる事である。哲学の無い者に信念の遂行はなく、ただ混乱をきたすばかりである。また、究極的な目的意識を見失う事になる。

 現代人は情報の氾濫(はんらん)する社会構造の中で、明らかに目的意識を見失ぅった者が多くなってきている。自分の存在価値を知らず、また、他人の存在意義も知らない。自他が分離し、個として分裂している。精神的にも肉体的にもだ。
 分離し、分裂し、孤立化した中で、得るものは殆ど何もない。こうした局面に陥らない為にも、かつての北条早雲は、家訓の中に「読書の効用」を説き、頭の体操を奨(すす)めたのである。だからこそ、人の言う事をよく聞き、見聞を広め、意見や進言に耳を傾け、これを判断材料として、奇(く)しくも北条五代(早雲を初代として、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直)を築いたのではなかったか。

 しかし北条五代の末席に配した、北条氏直(安土桃山時代の武将。1562〜1591)は豊臣秀吉に小田原城を包囲されて降伏し、その後、徳川家康の女婿(じょせい)の縁故を以て助命され、高野山に放たれた。北条早雲から始まった、五代を誇る北条家であったが、氏直の代になって、この武士団が滅亡するのである。



●人はみな不憫なり

 「人情の機微」と云う言葉がある。
 人情とは、自然に備わる「人間への愛情」であり、慈しみである。そして人情の機微とは、人心の自然の動きであり、人に情けを掛ける事を言う。
 こうした事から、「情けは人の為ならず」という言葉も生まれた。
 情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある、という諺(ことわざ)から、また「人情に機微」という言葉も生まれたのである。

 しかし果たして、「情け」と言う実体を探ると、人間としての心、あるいは他(人間はその他の動・植物)を哀れむ心が、慈愛となって還元する事が、この世の中に起こりうるだろうかと言う疑問が残る。情けをかける媒体は、人間以外にも沢山有る。

 例えば、木・草・山・川・鳥・獣・魚・虫などの心を有しない、こうした生きとし生けるもの達への慈悲である。彼等は、物心なき故に、慈悲の心を有しない。あるいは自身を悟る事がないし、悟るチャンスに恵まれない。
 そうした事から考えれば、自分自身を含み、人、並びに、情けをかける媒体、全ては、現象界の不憫なる生き物と言える。
 それは人間が、人間現象を全うする以上に過酷な事であるかも知れない。

 さて、資本主義と言う世の中の仕組みは、契約により、借金をして、借金を返せば返す程、借金が増えて来ると言う仕組みが、この社会システムの中に現存する。それは「金利」と言う新しい借金である。
 昨今言われている、借金の為の借金とは、実にこの事である。したがって、誰もが、資本主義社会の縮図に揉(も)まれながら生きる事を余儀無くされる。だからこそ借金する事を止める事が出来たら、どんなに楽だろうと思うのである。しかし、そうは簡単に行かないのが世の中だ。

 人生は勝負事と同じように、人各々の心の中に、「敗北者となって、他人に蔑まれる人生は送りたくない」という意地が働く。
 特に、恥を知れば知るほど、こうした心は強くなり、人生の負け犬になりたくないと思うのが、生きとし生けるものの中で生きる、人間の心情と言えよう。

 しかし、人は資金的な落ち目に遭遇すると、多く人は、あまり同情しないと言うのが現実であり、本来、借金が「厭(いや)だ」と思うのは、金が欲しい時に金がないという状態にあるからだ。資金繰りが悪くなって収支計算をしてみると、金利分がその都度、借入金に乗って増加していると言う現実に気付かされる。つまり、総額が大きくなって行く事だ。「貸借対照表」の見方を知らなければ、幾ら倹約しても「笊(ざる)に水を灌(そそぐ)ぐが如し」で、この欠陥は最悪のものとなる。
 しかし、これを見逃す道場経営者は意外に多い。

 「何とかなるだろう」という、ドンブリ勘定の甘い計算で作り上げられた計画と、行き当たりばったりでのロケーションでは、必ず「自己破産」と言う破局を迎えることになる。
 一方、金貸しの準備資金は、ますます自己増殖を続ける。これは、金利が安いと信じられてい居る銀行とて同じである。
 今や国民・大衆の預金金利は実質上、ゼロ金利時代である。しかし銀行の貸出金利は年に3.4から、3.6%で、自己増殖する資本構造の上に立脚している。だが、街金の貸金業者の構造は、これとは異なる。更に「儲けの構造」が出来上がっており、この中に、人は安易に踏み込んで行く。

 年利29.2%と言うのが、現在の法定金利の定めるところである。しかしこの29.2%は、実質的には守られていないと言うのが現実であり、40%(法定金利違反)というものもあり、逆に、街金経営者から言えば、40%なんて、むしろ温和(おとな)しい方だと言う。40%は日歩三十銭である。
 これを計算すると、一年365日に、日歩の三十銭を掛けると、109.5となる。そして問題なのは、「109.5」という数字である。この意味を理解できない経営者は多いし、まして道場経営者になると、全くこれを理解しない武道バカが多い。

 例えば、安易に胸算用で計算した数字で、一千万円の借り入れ資金で道場を創設したとしよう。これを一年間借りたとすると、利息だけで一千九十五万円となる。これは、多くの街金が「利息天引き」と言う方法で貸し出ししている為、絶対に一年間も借りる事は出来ない。融資額がゼロになるだけではなく、九十五万円、逆に余計に支払って、実は一円も借りれないと言う現実があるのである。
 しかしこの金利分は、十日か、半月といった短期で貸し出す為、「短期融資の策」に嵌(はま)ってしまう事になる。

 普通に考えて、借りた金より金利の方が高かったら、金を借りる者など居ないわけである。しかし、それでも、なお、借りると言う人が実際に存在するというのが実情である。
 今日、明日と言う、僅か三日先の、切羽詰まった資金調達をするとなると、どうしてもこうした闇金業者に手を出さなければならなくなる。そしてこの種の事業経営者が、お人好しな「貸借対照表」を読めない人間に貸し出す為に、実際に居ると言う事だ。
 何と不憫(ふびん)な事だろう。

 冷静に考えても、あるいは商法の常識から言っても、30%あるいは40%という金利は、狂気の沙汰である。いま、自分の借りている借入金の金利が、サラ金規制法に定める29.2%以下だとしても、この金利は大方が30%の高利であり、やがては行き詰まる利息という危険を孕(はら)んでいる。

 借りた金で経営を展開して行こうとする場合、金利が10%以上を超えれば、まず経営の行き詰まりは免れないであろう。どんなに儲かる商売でも、利息が10%を超えれば、利息返済に追われて忽(たちま)ち自転車操業になる。ペタルを漕いでも漕いでも、決して楽にならず、止まる事は許されない。自転車が走っている限り、倒れない道理である。つまり、操業を停止すれば倒産するほかない企業が、赤字を承知で操業を続けていく状態を指すのである。停止すれば、即、破綻(はたん)が待ち構えているのである。

 一方、商業手形なるものがある。
 これも資本主義を支える経済行為の裏付けで運営されている。その裏付けには、融通手形(実際の商取引に基づかず、単に資金の融通を受けるために振出・裏書・引受などの手形行為のなされた手形)も入る。これは手形処理の一つである。

 この場合、幾ら借金の為に天引きされようと、あるいは正味が少なかったとしても、こうした事には関係なく、指定の期日に券面にある額面金額を支払うと言うのが資本主義社会の原則であり、指定日に、指定額面の金額を銀行の口座に準備しておかなければならない。遅延なく引き落とされる事で、経営者は倒産を免れる。それが出来なければ、ルール違反として、責任を問われるのが資本主義であり、「信用」という衣(ころも)を剥(は)ぎ取られるのである。

 こうした現実のある事を忘れて、安易な行動を選択した場合、人は落とし穴に墜(お)ちて、一生そこから這い上がる事が出来ないのである。「考えの足りなさ」や「浅はかさ」は、こうして無能な人間が、落とし穴に落ち込む隙を、虎視眈々と窺(うかが)っているのである。
 武術家は「危険に対して敏感」でなければならないが、同時に「見通し」の利く「先見の明」も養っておかなければならないのである。「先見の明」がなければ、文武両道は全うできないのである。

 これと似た現象は、芸能人やスポーツ・タレントが、第三者の囁(ささや)きで「儲かるから」と耳打ちされ、その言に乗って商売を始めたところ、忽ち赤字に追い込まれ、大きな借金を抱える無能さに酷似している。「貸借対照表」の読み方を知らない彼等は、「好意手形」という融通手形の一種に手を出し、実際の商取引に基づかず、単に「資金の融通」を受けるために振出・裏書・引受などの一切を第三者に委ね、知名度を材料に商行為を展開する。しかしこの場合の落とし穴は、現実に、手形行為がなされたことを意味するのである。

 手形行為とは、手形に署名することによって手形上の責任を負う法律行為であり、則ち、振出(手形・小切手を発行すること)・裏書(小切手・手形・証券の裏に署判し、その有効を証明すること。特に譲渡裏書のこと。または裏に住所・氏名などを書いて領収証明をすること)・引受(為替手形の支払人が、手形金額支払の主な債務者となる意思を表示すること)・保証(保証債務を負担すること)・参加引受(形の引受が拒絶されるなどの満期前遡求原因が発生した場合に、遡求義務者に対する遡求を阻止するために、第三者が遡求義務者のために手形の引受をなすこと)を署名者が追うと言うものである。
 基礎的なこうした法律知識も知らないのに、それは道場経営であっても、やるべきではない。まず、やるべきことは、「貸借対照表」の基礎勉強から始めるべきであろう。



●「必死になって日夜修行する」これが内弟子の本分だ

 人の人生舞台は「修行の場」に喩(たと)えられる。
 修行とは、文字通り、精神を鍛え、学問に励み、人として生きる為に道を極め、武技を磨き、敵に付け入られないような境地を切り開く事である。此処に「修め・磨く」ことの大事がある。
 また、「負けない境地」の原点は此処にある。
 錬り尽くし、極め尽くし、磨き抜いた鏡のような心境に至って、人は、はじめて自分と言うものを知る事が出来る。そして此処に至る魂との格闘することを「闘魂」と言う。



  修行の成就に当り、

   金のある者は金を出せ、

    金の無い者は智慧を出せ、

     智慧の無い者は汗を出せ、

      何も出でない者は去れ。


 そして、人が「修行する」という心構えは、上記の言葉に回帰される。

 「精進」とは何か。「修行」とは何か。「道」とは何か。あるいは「修行者」としての真の姿は、どうあるべきか。
 それは徹底して「下積み」を経験する事である。人間として、最も姿勢を低くし、「低姿勢をもって、人の道の教えを乞う」姿を言う。ひたすら、頭を低くし、最低の生活に甘んじ、それでも不平を言わず、不満を持たない態度を維持する事である。
 また、これが内弟子の本分であり、ここに単に、外から道場に通い、習いに来る者と、道場に住み込み、師匠と寝食を共にし、日常の一切合切を非日常に置き換えて、日々戦場の気持ちで邁進する姿とは、おのずと違いが出て来るのである。

 「下積み」の経験の無い者は、傲慢(ごうまん)な人間が多い。自己中心的で、自分を一人称で考え、「我」の強い者が多い。主体はいつも自分であり、自分の姿を、第三者の目で、客観的に自分を捕らえる事が出来ない。こうした頭(ず)の高い人間は、人生でしくじる事が多く、犯罪を犯す人間は、こうしたタイプの人間である。したがって自分の欲望の儘(まま)に生き、他人を思い遣(や)る心に欠ける。

 この程度のレベルの人間が、武道や格闘技を学んだら、一体どういう人間が出来上がるか、決して想像に難しくないであろう。
 やたら武技の強弱にこだわり、底の浅い、モノ知り顔をする人間に成り下がるだろう。
 道を極めぬ人間は、これ止まりである。
 本筋など、見極める見識眼の素養がないのである。したがって我が尚道館・陵武学舎では、この手の人間を、社会に貢献できない不適当と思料している。少なくとも、社会が求めている人間像で無い事は明白である。

 真物の修行者は、身を低くして、謙虚に、自分を律する事が出来なければ駄目なのである。だから「下積み生活」の意義が、ここにある。



●官品は置き忘れるな、盗まれるな、大事に遣え

 自他共栄ならびに、自他の命を、同等に尊ぶ事は、官品といわれる「公の物品」を丁寧に、大事に扱う事と同じである。人間はどうしても自他に境目を作り、悪しき個人主義に走りがちである。自分に甘く、他人に厳しく、自分の物だけを後生大事にして、他人の物を粗末に扱う欠陥を抱えているが、もともと人間の性(さが)とは、こうした不完全なものである。
 これでは自他同根の意識が働かず、自他共栄には到底及ばない。自分と同じように、他人を扱う事が出来て、はじめて「自他の境目が無くなった」と言えるのである。

 そして、その人間の人格や品位が現れるのは、「官品の扱い方」に於てである。
 官品とは、「公共の物」であり、我が尚道館及び、内弟子寮・陵武学舎に於ては道場生全員が遣う「道場の什器備品」などであり、これは個人の所持品とは異なる。大事にするのは勿論の事であるが、これを借用して、置き忘れや盗難に遭う事は、絶対に許されないのである。
 また、この程度の隙をつくる者は、用心深さに欠け、武術家としては不適合である。



●弱い者や病弱な者には同情するな、しかし配慮をせよ

 「強い者に媚びを売り、弱者を侮る……」と、日本人が外国人から評されて随分と久しいようである。
 金持ちに媚びを売る。強者を褒め讃え、英雄視する。強い者を持て囃(はや)すような態度や言動を吐く。かつては「河原乞食」と言われた芸能人やスポーツ・タレントを、世の中の成功者と錯覚し、羨望の意識で彼等を見る。これが現代日本人の、概ねが取る意識と態度である。総べて「媚びを売る」という卑しき心から出来上がっている。

 そしてもう一つの「卑しき心」に、弱者や婦女子に、媚びを売ると言う態度がある。これを「親切」と勘違いする者は多い。
 あるいは善人面(ぜんにんづら)したボランティアを語る、偽善者にも見られる。この類は、本心からでなく、見せ掛けにする善事を、自分のステータスと勘違いしている。
 しかし、誰もがこうした心で、いわゆる「弱者」といわれる人間に接した場合どうなるか。
 これこそ、秩序の崩壊である。
 弱者に同情は禁物である。しかし「配慮の心」を失わないのが、本来、紳士(gentleman)と言われる人間の姿ではなかったか。
 「同情」と、「配慮」は根本的に異なるので、この違いをはっきりと認識しておく必要がある。「同情」は弱者を思い上がらせ、怠け者に導くが、「配慮」は弱者を真に人間らしく扱う慈悲の心から出ている



●強きを挫き、弱きを助けることこそ、武士道の本分

 強気を挫(くじ)く事に情熱を燃やした日本人。弱きを助けることを日本人の美徳として考えた、かつての日本人。
 しかし現代にはこうした「本来の日本人」は殆ど見かけなくなった。

 官民を問わず、年齢や男女を問わず、強者に媚(こ)びを売るのが日本人の姿になってしまった。また、こうした拝金主義の日本人は、外国人から大いに蔑まれている。
 アメリカを始め、ヨーロッパと言わず、中近東を言わず、いまや朝鮮半島や中国大陸、その近隣の東南アジア諸国に至るまで、日本人の評価は極めて低く、「日本人」イコール「侮蔑の対象」となっている。

 いったい全体、日本人はいつからこうなってしまったのだろうか。
 また、現代の日本人を見てみると、老若男女を問わず、「卑怯・未練」な人間が多くなっている。
 物質崇拝の時代は終わったといながら、拝金主義や金銭至上主義に趨(はし)り、強者に媚びを売る現実を見れば、現代指向の日本人の姿が自(おの)ずと見えて来る。
 贔屓(ひいき)の者に入れ揚げ、お気に入りの者を引き立て、これを調法するのはよいであろうが、心まで奪われるようでは、最早、正しい見識眼や判断材料は持てなくなってしまう。
 贔屓の者、あるいはお気に入りとは、叱咤(しった)すれば、掌(てのひら)を返したように、「気に沿わぬ者」になり、些細な過ちを指摘するだけで、指摘者に「逆恨みする者」となりえる。

 また現象人間界での、人との接し方は、飽くまで私心を捨てなければ、筋道を違(たが)えてしまう結果になってしまう。威厳が損なわれ、人に敬服されなくなる。畏敬の念を忘れるばかりでなく、軽んじられ、侮蔑の対象になってしまう。
 大方の、今日の日本人が、こうした類に成り下がっているのではあるまいか。

 では、こうした、「人に侮られる意識」は何処から派生するのか。
 それは「恥を知らない」からだ。人からの侮蔑や、軽く扱われる心に対し、敏感の反応が退化しているからだ。
 「恥知らず」は、同時に「礼儀知らず」であり、恥辱に対する心が鈍感になっている人間の事だ。
 本来、恥辱に対する心を敏感にする事が武士道の本分であり、その実践者のモットーとするところではなかったか。

 だが、現代はどうだろうか。
 こうした心に敏感な者は、果たして何人いるだろうか。
 人から面倒を見て貰い、他人に世話になる、甘えた人間は山ほどいるが、逆に他人の世話にならず、人の世話しても、自分は他人の世話にならないと言う毅然とした態度を保持できる人間は、果たして何人いるだろうか。こうした人間は今では、殆ど見られなくなってしまった。
 恩は受けっぱなし、世話になりっぱなしで、それに何とも感じない鈍感な人間が、今日の現代日本の人種であると言えるのではあるまいか。

 もっと日本人は、古人の智慧(ちえ)に回帰し、謙虚に恥を知り礼儀を知る、武士道の根本に帰るべき時がきているのではあるまいか。
 そして真摯に、己を省みて、曾てのような、威厳に満ちた、誇り高い威光を取り返さなければならないのである。

 諸外国からバカにされる日本人種では、これから先の日本の将来はないであろう。このままでは、「日本の行く先が見えた」と言っても過言ではない。
 北半球の先進国の中で、JRや私鉄の地下鉄の中で、「チカンは重大な犯罪です」などと、アナウスが流れるのは日本だけである。
 また、電車の中の地べたの坐り込みや、駅ホームの地べたの坐り込み、あるいはコンビニの店先の地べたの坐り込みの、特に若者に向けた、「坐り込み禁止」の禁止マークが張られているのは、日本だけである。果たして、こうした国が、進歩的文化人の標榜する「文明国」と言えだろうか。

 日本は最早、威厳の失われた国である。威厳が失われれば、信頼も失われ、残るのは侮蔑一色の軽蔑の嵐が吹き荒れる事になる。
 今こそ「威光」を回復しなければならない。
 ちなみに、「威」とは、おのずと人を従わせる「眼に見えない力」を言う。
 「光」は、その勢いを言い、人が自然に畏れを為(な)し、敬(うやま)う、こうした「従おうとする力」であり、これを権威と言い、あるいは威勢と言う。しかし、勉強不足の人間は、「威」と言えば、脅す「威嚇」と解したり、猛々しい「威力」と勘違いし、力づくで他人を押さえ付けようと解釈してしまう。

 果たして、これで人は心から従うだろうか。
 為政者の持つ権力に恐れて、命令に従うのであれば、一度権力の座から滑り落ちた元為政者には、人は見向きもするまい。これは負け戦の時に、よく見られる。
 死守するどころか、兵卒は浮き足立って、我先にと逃げ出すではないか。威光とは、権力者の、こうした命令に従わせるものではない。自発的な心より派生して、おのずと従う心を「威光」というのである。

 以上を考えて来ると、武士道実践者に求められる事は、私心を捨て、恥辱に対する感覚を敏感にして、卑怯は振る舞いをせず、身を慎み、清廉にしてこそ、本当の意味の「奉仕者」と言う表現が出来るのではあるまいか。