内弟子制度 22



西郷派大東流の礼法


内弟子が厳守しなければならない七つの掟


1.道場の内外を払い浄める

 「払い浄める」行為に、掃除と云うものがある。清掃とは、現象人間界を「浄(きよ)める」ことであり、自分の裡側(うちがわ)を浄めると同時に、自分の取り巻いている環境も浄めなければならない。また、掃除には「害悪を一掃する」ことが含まれ、清く、潔くすることである。
 「清く」は濁(にご)りの無い様を顕(あら)わし、「潔く」は清々しい様を顕わす。総称してこれを「清潔」という文字で顕わすが、同時にこれは、その実践者が人格や品行が、清く潔いことを指し、内面的な領域までを顕わすのである。
 浄める事で、心の中の罪穢(つみ‐けが)れが取り除かれ、これを日々糺(ただ)して行く事で、未来の「見通し」が利く眼が養われて行く。したがって陵武学舎の内弟子は、便所や風呂場、玄関周りや近所の溝のドブ浚(さら)いまで行って、浄めて廻るのである。

 内弟子達が課せられる事は、「清掃」と云う実態を身を以て体験する為に、掃除道具以外に、自分の手を遣い、例えば、便器とか、風呂の湯槽(ゆぶね)などを直接洗い浄める事だ。身を呈して、さっぱりと払い浄めることこそ、罪・穢れ・災禍(わざわい)などを取り除くことに繋がるのである。

 喩えば、「何故、便所の便器を人間の手で洗うのか」という、これ一つをとってみても、便所は一般的に見て汚いと想像し、人間の手は清いと思いがちだが、そもそも両者は、浄穢不二において平等である。これの意味するものは、清浄な悟りの状態と、穢れた迷いの状態とは、現象的には区別があるが、本性上から見れば「不二平等」であるということ指すのである。神仏の目から見て、両者は「平等」に位置するのである。人間の目から見て平等なのではなく、神仏の目から見て「平等」なのだ。
 こうした「平等」の本性上から、浄穢不二(じょうえ‐ふじ)の行為を、「穢(きたな)い」等と洩らせば、その人は、それ止まりの人である。


2.約束時間を絶対厳守する、5分前精神

 約束時間に、10分も、15分も遅れて来る者は「人間のクズ」である。
 遅れること事態が、「人間のクズ」の証明である。時間厳守を実行できなかった者は、如何なる理由で弁明しても、人の同意を得る事は出来ない。
 クズは生涯、人から相手にされる事はない。何の価値も見出せない、ただの不要なゴミに過ぎない。如何なる理由があろうとも、約束時間は厳守する事であり、尚道館・陵武学舎では、約束時間の「5分前精神」を、厳格に義務付けている。

 この精神は、将来自分で道場を開業した時に、多いに役立つのである。人脈造りも、「5分前精神」から始まる。
 この、僅か「5分間」の時間を自分でコントロール出来ないような人間は、自分の人生すらコントロールする事が出来ず、生涯、コントロールできない自分に振り回されて、無価値の儘(まま)、自分の人生を閉じる事になる。
 「5分間」の時間を失う人間は、「五十年」の人生を失う人間であり、殆ど何も出来ずに哀れに死んで行く。

 時間とは、保存や備蓄の出来ない「貴重な資源」であるということを、肝(きも)に命ぜよ。この「貴重な資源」を無駄に浪費する者は、生涯、人から相手にされる事はなく、人からの信用もなく、信頼も得る事が出来ない。

 約束した時間と場所には、必ず「5分前」に到着することが肝心であり、約束の時間までの「5分間」と言う時間は、心に余裕を作る時間と心得るべきである。仮に、約束時間通り、その場にピッタリと到着したとしても、その時間と同時に、相談や面接などの物事の展開を実現する事は不可能であり、やはり心に余裕をもって、静かに、それ迄の時間、「瞑想」できるような時間が必要なのである。

 こうした余裕の無い人間は、自他共に不幸・不運に陥り、特に、相手の遅れた事を指摘出来ない人間は、同時に自分自身も相手と同種の人間であり、やがてこの人間も、人から相手にされなくなり、信用も信頼も得る事が出来ないであろう。
 繰り返すが、時間とは、保存や備蓄の出来ない「貴重な資源」であるということを肝に命じ、生涯これを違(たが)えるような事をしなければ、たいした不孝や不運には見舞われないものである。また、人の運・不運は、こうした時間厳守にも起因している。


3.精進・努力・工夫の日々

 道を求めて精進・努力する事は、いわば人間の持って生まれた「使命」のようなものだ。
 精進し、努力して、道は始めて極められるものである。しかし「努力する」といっても、単に努力だけでは「徒労努力」で終わる事が多く、そこには「工夫」が必要となる。
 工夫を凝(こ)らし、工夫の眼を養う事で、人は正しく将来を見通せる未来が開けるのである。また、「日々精進」の意味もここにある。
 工夫において、今日の反省は、明日の進歩に繋(つな)がるのである。

 精進・努力・工夫というのは、人間の「進歩」並びに「進化」の度合いを表現する言葉である。進歩なく、進化ない状態に甘んずるのは、人のそれではなく、動物のそれである。動物には進歩や進化の観念がない。単に、エサを喰らい、日々を経験し、生命の補給をしているに過ぎない。特に、人間から飼われている動物は、この度合いが甚(はなは)だしく、自分がどういう立場にあるか、その自覚すら出来ない生き物である。

 しかし愚者は云う。「動物には心配事もなさそうだし、動物に生まれる事はそう悪いものではない」と。
 しかし果たしてそうだろうか。
 それは動物の「生」の本質を見落としている考え方であり、非常に短絡的である。もし、あなたが、牛や豚に生まれたら、果たして「心配もなさそうだし……、それも悪くない」と結論付ける事が出来だろうか。

 海に棲(す)む動物達や、それ以外の小魚や貝や亀等について考えてみよう。
 大きな動物は小さなものを食べ、あるいは強いものが弱いものを食べると云う自然界の掟(おきて)がある。一方で小動物は、躰の大きな動物の隙を窺(うかが)って、大型動物の「くぼみ」を食べるという「食い荒らし」を行っている。眼に見えない細菌類や、バクテリア等がこれに入る。
 彼等は大きな動物、強い動物が他を食べると言う食物連鎖の中にあって、他を食べ、自分も他に食べられると言う現実がある。そして彼等は、この輪廻(りんね)に等しい輪の中から一歩も外に出られないのである。
 また、彼等には輪の外に「出よう」という知恵がない。これは陸に住む動物とて、例外ではない。

 他の動物に喰われたり、人間から殺されて食べられたり、あるいは使役されて酷使され、飼い主の我が儘で飼い殺しをされるペット等も同様であり、彼等は大自然の中で生きている動物以上に、そこから逃れる事は難しい。
 昨今はペットブームで、自分の飼う動物をファッシュナブルにし、まるで着せ替え人形のようにこれを楽しみ、人間側はこれを「癒し」と銘(めい)打っている。しかし動物側やペット側からすれば、甚だ迷惑であるのには違いなく、果たして彼等は動く人形のように弄(もてあそ)ばれる事を喜んでいると言えるだろうか。
 また、彼等の、「生まれて、死ぬ」と言う、人間の作為的な思考に弄ばれた運命が、喜ばしいと思うだろうか。

 一方、弱肉強食の食物連鎖にあって、強いものから食べられる弱い草食動物は、どうであろうか。いつもビクビクしていて、いつも周囲を警戒し、ゆったりとした時間を彼等は満喫できるだろうか。
 特に、人間に使役され、やがて殺される動物達は、自分の自由と言うものを、全く奪われている。熊や虎は、自らの毛皮を剥(は)がれる為に殺される。麝香鹿(じゃこう‐じか)や、角を持つその他の動物は、臭い袋や角を採られる為に人間から殺される。
 そして更に哀れなものは、人間に飼われている家畜としての牛や豚だ。
 彼等は、最初から殺される為に、人間に喰われる為に、生まれて来るのであるから、これほど哀れなものはない。

 しかしながら、動物達は最初から自由を奪われる運命にありながら、そこから抜け出そうとする意識が働かない。自分ではどうしたらよいか、検討もつかないのである。これはペットとて、例外ではない。
 だからこそ、動物の心は、「愚かさに曇らされている」と言える。
 彼等は愚かさや無智の為に、果てしない苦しみの中に輪廻循環していて、そこから一歩も抜け出す事ができず、然(しか)も、そこに無慙(むざん)に埋没して行くのである。何と哀れな運命だろう。

 動物と云う生き物は、その意識の中に精進し、努力し、工夫すると言う意識が働かない。だから永遠に動物であるのだが、あなたは日常生活の中で、動物の肉を喰らい、動物の脂肪や乳製品を喰らい、あるいは「癒し」と称して彼等を飼い、彼等の悲しい心の裡(うち)を察した事があるだろうか。彼等の心になり切って、その苦しみを察した事があるだろうか。

 人間現象界は、常に主体が人間であり、人間以外にその主体はない。「動物愛護協会」等と言う、口では奇麗事を云って、動物愛護に廻(まわ)る連中も、その主体は自分であり、自分か感じる主体で物事を考え、自分の独断と偏見による自己主張に従って、人間界から下位の畜生界を見下すような眼で、動物を見下ろしているだけに過ぎない。
 動物愛護協会の会員ですら、動物の立場で動物を愛護しているのではなく、人間の立場で、独断と偏見に満ちた地球環境を掲げているに過ぎない。

 苦しみに喘(あえ)いでいる動物を視(み)たら、あれはかつての自分の父母であり、兄弟姉妹であったかも知れないと観(かん)ずる事だ。
 更には、一見、長閑(のどか)で幸せそうに飼われていても、食しているこの肉は……、飼っているこのペットは……、過去の自分であり、彼等は苦しみを音色に変えて、人間の分かるように口にはしないが、ああやって苦しんでいるのは自分自身であると気付く事だ。
 動物に生まれて来た事の、彼等の苦しみが理解できれば、今、自分は何をしなければならないか、分かるはずであり、彼等動物の立場が分かれば、「動物に生まれる事の苦しみ」を理解し、瞑想して、動物以下に墜(お)ちない為にも、精進・努力・工夫が、人間として如何に大事か気付く筈である。


4.食べない贅沢

 現代は飽食の時代である。誰もがグルメを気取り、美食や珍味に舌鼓(したつづみ)を打っている。
 飽きるほど食べ、美味しい物があると聞けば、千里の道も何の其の。遠くからでも押し寄せ、長蛇の行列を作る。外国へも押し寄せて行く。日本国民は今や、一億総中流を気取り、飽食と退屈に明け暮れている。
 しかし一方で、食傷を煩(わずら)い、肥満症や糖尿病を病み、自分の命を粗末に扱っている現実がある。こうした世情にあって、喰(く)らい尽くすのではなく、飽食に明け暮れる「どんぶり腹」を余所目(よそめ)に、「食べない贅沢」という事があるのも知らなければならない。

 また、「食」は命を繋ぐ原動力であり、食べる事を楽しむ為のそれではない。美食に明け暮れて、珍味などを好むようになると、体躯は肥満に傾き、高蛋白の食肉や乳製品に喰らい付き、運勢的には「凶」となり、あるいは食に偏(かたよ)りがあると、好き嫌いが激しくなり、ジャンクフードのようなスナック菓子ばかりを好み、しいては拒食症を招き、痩せ過ぎとなって命を落とす。
 体躯は「中庸(ちゅうよう)」が大事であり、いずれにも偏ってはならない。肥り過ぎは躰(からだ)の中に病気と運勢的な凶事を抱え、痩せ過ぎは心の片隅に、自殺願望を抱いている。

 以上のいずれにも偏ること無く、不偏不倚で過不及のない「中正の道」を歩く事こそ、人間に課せられた霊肉育成(半身半霊体を指し、霊体5に肉体5の分離する体躯)の最大の課題である。飽食に時代に、飽食に溺れることは、徳論の中心概念を狂わすことになる。

 現代は食道楽の真っ只中にあり、美味しい物を食べたいだけ食べる贅沢が食通を中心として、マスコミ上で展開されているが、マキシムのローストビーフや、中華料理の大皿を囲む飽食者の貪欲に対し、あえてこういう時代だからこそ、「食べない贅沢」と言うものがあるように思う。
 食べ過ぎの「害」という、食傷は医学上、よく云われることであるが、肉体や味覚の世界を離れて、精神的なアングルから「食べない贅沢」という云う優雅さがあってもいいと思う。

 終戦直後の昭和20年代、日本列島では多くの国民が飢えていた。この時代感覚は、食べないことは、食べられないことであり、実に惨じめであった。
 ところが飽食の現代にあっては、粗食・少食に徹し、玄米粥を梅干一つで、30分も、一時間も掛けて、脂がギラギラとしたフランス料理や中国料理を余所目(よそめ)に、物質と文明の贅肉に食傷した我が肉体を癒(いや)す、優雅さくらいは持ちたいものである。
 昨今、食べないで死んだ人は居ないが、食べ過ぎで死んだ人は数え切れないくらいだ。現代は心も躰も食べ過ぎなのだから、少しは休ませるべきである。


5.実学として通用するナマの教養を高める

 品位や人格は、教養の高さで決定される。
 物事の善悪を判断したり、事象を観察する祖の眼力は「教養」から起るものであり、教養が欠ければ見識眼は養われず、また、世の中の「見通し」の目も利かなくなる。常に、情況判断は教養の高低に左右されるものであり、教養のない、乏しい思考力では、やがて敵から無慙(むざん)に葬られる事になる。
 教養を高めるには、単に本を読んで読書をするだけでは効果がない。実学としての行動学を学ぶ事によってのみ、成就されるものであり、通り一遍の読書をして、「何ページに、何が書かれている」などを記憶したところで、そんなものは、「実学」としては役に立たない。

 実学としてのナマの教養を積んだ人間は、暴力に出あった時機(とき)の対処の仕方も、一般人のそれとは異なる。教養の持ち主は、まず腕力を振るう前に、頭を使う。同時に「言葉」を武器として使う事が出来る。自分一人が逃げれば済む時は、つとめて相手になる必要はなく、逃げられる時は、まず逃げる事を考えるものである。

 ところが中途半端な競技武道の経験者は、暴力に出会い、これに対処しようとして試合ルールで相手になり、最後は刺されて命を失う事になる。
 「逃げる」ことは「負けた」ことにならない。しかし窮地(きゅうち)に追い詰められて、どうしても交戦しなければなら無くなった時、切られ傷、刺され傷、覚悟で立ち向かわねばならない。ゆめゆめ、無傷で、これを生け捕ろう、制そう等という事は、絶対に思わないことだ。
 そして素人は「手が速い」ということも、予々(かねがね)より心得ておかなければならない。いつも、素人から刺されて重傷を負ったり、命を失うのは、たいていが武道経験者か格闘技経験者だ。

 日常と非日常の、頭の切替は機敏でなければならない。そして、万一戦わねばならなくなった時、事の推移や、事情を証明してくれる証人の協力を予(あらかじ)め請うてなければならない。一対一ならば、相手は刃物を持っていても素手で戦え。複数ならば、道具を使って撹乱する事もよし。道具を使う時は、躊躇(ためら)わず一気に行え。ただし、相手に重傷を負わせないような努力だけは、最後まで捨ててはならない。

 こうした情況判断を瞬時に行い、「負けない境地」を作り出すのは、総べて「教養」の為(な)せる技であり、決して机上の空論からは、日常を非日常に変化させる事が出来ないのである。また、「臨機応変」という行動律も、咄嗟(とっさ)の頭と度胸の為(な)せる技であり、教科書などに示される知識ではない。
 知識を離れた、常々の教養の深さがモノを言うのであり、知る事と、行い事は一緒であると云う行動律こそが、「知行合一」の原点なのである。


6.自己中心的な思考からの解脱

 いつの時代も、何処の国にも、あるいはどのような組織や団体にも、自己中心的に物事を考え、それを他人に押し付けたり、その思考を押し通す類(たぐい)は、常に存在するものである。
 主観的に物事を捉え、客観的に自分を真摯(しんし)に見詰めることの出来ない、思い上がった人間は内外を問わず何処にでもいるものである。
 そして、これこそが「人間の弱点」と気付かずに、一生を終える哀れな人間も少なくない。

 この種の人間は「自己観察」が疎(うと)いようだ。
 精神面が著しく欠如していると、精神を集中して、心中に自己の本性や真理を観察することが出来なくなる。したがって自分自身の意識体験も不明瞭で、消極的に、否定的な行動しか出来なくなる。

 以上の考え方が優先する人間は、他人に意見を求めておいて、それを「参考にまで」という態度で締めくくる場合が多い。
 ある問題について、他人の意見を求め、それでいて訊(き)いた後、「参考にまでに……」という態度をとる者がいる。しかし、これはあくまで目下の者に対し、意見具申を求めた場合に限り、許される事である。

 目上の者に意見を求めながら、「参考にまで」と締めくくったり、気に入った部分のみをちゃっかり引用して、それを自分の意見の如く吹聴(ふいちょう)するのは、甚(はなは)だ無礼であり、非礼この上もないのである。特に、我が流にメールや電話で問い合わせる者の多くは、この種の人間に入り、極めて自己中心的である。

 さて、人は一度そう言う扱いを受けると、二度と同じ相手の為に助言や援助はしなくなるものである。また、貴重な示唆を与えながら、「ふん、ふん、ふん」などの軽い相槌(あいつち)を打って、これを聞く人間にも、それから先の示唆は、しなくなるものである。

 返答と言うものは「はい」の一言以外になく、「ふん、ふん、ふん」などの軽い相槌は非常に非礼な事である。
 若いと言うのは、悲しい事である。若いだけに軽率な態度をとったり、非礼に対して中々気付く事が出来ない。そして、こうした扱いを受けた長上(ちょうじょう)は、「そう言う態度ならば……」「そういう了見ならば……」という気持ちになり、「では、後は勝手にせい」等となり、その後の示唆はそこで止まってしまう。これは非常に「勿体無い」ことであり、大きな損失となる。

 人生をこうして棒に振ったり、うだつの上がらない部署に押し込められて、そこから這い出す事の出来ない人間は、こうした無礼を過去に働いた足跡を持っている。他人の貴重な意見を粗略に扱ったり、善意を軽視したり、意見を求めて参考程度と扱ってしまう人間は、人の頭の上を土足で押し渡ような慇懃無礼(いんぎん‐ぶれい)なところがある。

 うわべは丁寧なようで、実は尊大であり、またその一方で、高ぶって偉そうにする人間がこれに入り、要するに客観的な自分が想像できず、自己中心的な「甘え」に陥って行くのである。こうした「甘え」は、若い内だけであると思うようであるが、けっこう歳を取った人間にも、こうした甘えを所有している者は少なくなく、人間の鈍感さがこうした事をさせるようだ。

 要するに他人の為に気配りをしたり、神経を遣うと言う、親の躾(しつけ)と、少年期からの訓練が未熟で、そのままの主観的な思考で、大人になったような人間である。こうした人間は、人生の前半生だけをこうした、慇懃無礼で占領するばかりでなく、人生の後半生も、同じく、前半の名残りを留め、一生をこの状態にしたまま人生を終える人である。
 また、非礼の上に非礼を重ねて、自分の過(あやま)ちが気付かないまま、死生観を未解決にして、辛い末期(まつご)を、臨終(りんじゅう)に臨(のぞ)み、再度体験しなければならない人である。そしてこれは、次の因縁を作り、輪廻の輪に取り込まれてしまうのである。

 民主主義は、一緒のエゴイズムの謳歌であり、個人主義の追求であるが、この個人主義が悪しき個人主義に変貌した時、そこには自己中心的な人間の宿痾(しゅくあ)が出現するであろう。この宿痾こそ、人間に憑(つ)き纏(まと)う痼疾(こしつ)であり、長い間なおらない病気を裡側に抱えているのと同じ状態を永遠に繰り返すのである。
 だからこそ、自己中心的な思考から解脱する努力が必要になるのである。


7.謙虚さと礼儀正しさ

 無意識に展開する日常の無意識の行動は、時として大きな隙を作り、他人に誤解を与える事がある。それは決して悪気から起るものではなく、また意識して誤解を受ける態度をとろうとして、招いた事ではない。しかし、他人の眼から見て「横柄」と映り、「横着」と映る場合がある。しかし本質は無意識であり、意識しての事ではない。

 だが、ここに人間の弱点が隠されている。
 喩えば、上士の前で、普段行っている「腕組み」をしたとしよう。これは悪気でなく、あきらかに無意識で、悪意の無い事は明白であるが、これが上士の眼、同僚の眼、この席に臨席する者の眼からすれば、「目上の者の前に居ながら」という意識から横柄と映り、横着と映り、礼儀知らずと映る。

 この、「人の眼」に映った態度こそ、敵を作る態度である。また、無駄な争いを起こす元凶となる。したがって、礼儀を実行する上で、「作法」と言うものが必要になる。起居・動作の正しい法式は礼儀を基本にして構成されたものであるが、物事を行う方法と、その為来(しきた)りには、ある種の禁忌と、行ってはならない態度がある。
 その一つが、目下でありながら上士の前で腕を組む。上士が足を崩さないのに、自分が足を崩し胡座(あぐら)をかく。返答の相槌(あいつち)を「ふん、ふん」と、軽く鼻で去(い)なしたり、目上の相手に対し、その躰(からだ)を気安く触ると言う無礼である。

 特に、目上の人間に対し、親しみのつもりか、あるいは敬愛を込めた世辞か、追従のつもりかは知らないが、やたら肩を叩いたり、背中を叩く者がいる。こうした場合の相手の上士は、よほど虫の居処(いどころ)が悪かったり、小賢(こざかしいと嫌悪を感ずる人でない限り、そういう目にあっても、露骨に怒ったり、不快感は示さないものであるが、こうした事とに鈍感で、安易に、目上に対し、こうした愚行はするべきではない。

 要するに軽輩の分際でありながら、上士が不快感を見せないからと言う安易な推測で、これに図に乗ると、後で大きな「しっぺ返し」を喰う事になるのである。悪気はなくても、図に乗ったり、日常の自分の無意識の行動を点検できない者は、要するに、礼儀知らずから、好機が訪れても
チャンスも逃がす事があるのである。

 人前では、「他人行儀」に振るまい、決して息を抜かない事だ。
 隙を読まれたり、無意識状態に起る「弛(ゆる)み」を見られたりするので、自分を客観的に演出しなければならないのである。これを怠ると、必ず厄病神(やくびょう‐がみ)に取り憑(つ)かれる。神経症や躁鬱(そううつ)病などと言う、現代では統合失調症と云われるかつての精神分裂病も、実は「弛み」が元凶となっている精神障害である。
 そしていったん厄病神に取り憑かれると、災禍(わざわい)というものは重ねてやって来るものなのである。
 ゆめゆめ「弛み」を見せないことだ。

 礼法は、単なる人間社会の約束事ではない。礼儀・作法を、人間がつくり出した猿芝居と捕らえるのは、非常に短見である。
 礼法の根底に流れるものは、まず「人格の発露」であるということがいえる。その母体を為(な)すものは、人格であり、品格である。そしてこれに加味して来るものは、天地大自然の生々発展(絶えず勢いよく発展すること)の秩序が人間社会に出現したと云うべきものである。
 この原点には、日本固有の古神道における「祀り」ならびに「祭り」があり、人間大天地と共に踏み行う「道」として、「礼」が派生した。
 「礼」をふみ行う事は、そのまま無窮(無限の意味を持ち、極まりないこと)の発展を意味し、生々発展するべき人間の在(あ)り方の根拠は、人格の骨格となるべき、品性に求められるべきものである。

 「礼」とは、礼一字を以て「礼」と為すのではない。
 礼は、礼・義・廉・恥の四つの集合を総称したものが「礼」であり、四つのうち一つでも欠ければ、それは「礼」とは云わない。しかし多くの日本人武道家は、礼一字を以て「礼」とする嫌いがある。そして「礼」を、お辞儀と考えたり、お行儀と考えたり、しいては挨拶と解釈するなどの考え違いが起っている。

 礼の根本は、人格を形成する「品位」であり、人間は品性さえ卑(いや)しくなければ、少々行儀が悪くても改善の余地はあるが、品性を失っていればその不作法は非礼に繋(つな)がってしまう。したがってこれは、瑣末(さまつ)なマナー違反と呼ばれるような次元の低い価値観ではなく、人格の根幹部を巣喰う下品性が、その者の性(さが)としての、人間をして、人間を陥れていると云うような、「人間失格」に直結されてしまうのである。

 人間は「美しきものに憧(あこが)れる」性(さが)をもっている。
 それは表面や表皮から起る、恰好づくりではない。こうしたものこそ、猿芝居の最たるものである。そんな表皮に「美しきもの」は存在しない。
 「美しきもの」は、内在的であり、深層部の奥深くに仕舞われている。これを発露させるのは人間であり、人間としての「格」が、これを浮き立たせる。
 「美しきもの」を愛する人間の性(さが)として、美しき言葉を語り、美しき起居振る舞いを見せ、美しく人生を送る事こそ、人間最大の「美しき映像」なのである。