福智山系のロマン 3

落陽の夕陽を眺めながら、帰途への下山。


●情緒

 筆者は、山歩きのハイカーであっても、「登山者」と名の付く限りは、ある一定の条件を持っていなければならないと思う。その条件は四つあると思う。
 その第一は、まず、健康な体躯(たいく)であろう。あるいは險(けわ)しい山路を歩ける強靱(きょうじん)な体躯であろう。
 その第二は意志鞏固(きょうこ)であること。その第三は謙虚であること。そして最後に、山にロマンを持っていること。あるいは情緒を持っていることだと思う。

 クライマー・登攀者(とうはんしゃ)の中には、情緒を持つ事は邪道だとする考えを持つ人が居るが、やはり筆者は山歩きのハイカーと雖(いえど)も、情緒がなければならないと思っている。自然の雄大さを見て、それに感嘆する思いであろう。折にふれて起るさまざまの感情や情思は、人間にとって喜びを齎(もたら)すものであると思う。

 人間には、一時的で急激な感情の動きを顕わす、「情動」というものがある。情動は怒り・恐れ・喜び・悲しみなどのように、比較的急速にひき起された一時的な感情である。こうした感情の中にも、情緒は存在する。

 昨今は、テレビを見ても、新聞や雑誌を見ても、タチの悪い啓蒙主義が大流行である。そして、こうした啓蒙の中には、「とにかく保身」とか「うまく立ち回る」ことが説かれていて、これが何をさておいても第一義となっている。
 その課題の中心は、駆け引きであり、計算高いことであり、そしてその為に巧妙な作戦を遣う事が、まるで現代人の統治・総括の要(かなめ)であるかのように宣伝されている。

 また、こうした考え方が大流行したり、金に魅(み)せられ、権力欲を剥(む)き出しにして珠盤(そろばん)高いことが、あたかも人生の総てであるように宣伝されている。誰もが当たり前のようにこうした現実を信じその状況下で、現代社会に縮図の中に封じ込められ、喘(あえ)いでいるのである。そして、大自然から隔離されていることに、何の自覚症状も抱かないのである。

 多くの現代人の心の中には、古(いにしえ)の古代人が持ち得た、「懷かしい心の故郷(ふるさと)」は風化しつつあるように思われる。そして、計算高く、うまく立ち回ることが当たり前のようになり、認可されているように思える。
 しかし、こうしたものに感じるのは、心が正常ならば、薄気味悪さを感じ、無気味さを感じる筈(はず)である。

 今日の現代人に欠けているのは、「生一本(きいっぽん)の感情」あるいは「ありのままの心」ではあるまいか。
 正直な喜怒哀楽、その時々の思いや感動。筆者はこうしたものこそ、大事にしたいと思うのである。

 現代人の都会派青年達が求める感性は、何処までもスマートに、何処までもクールに、何処までも合理的に生きてという思考に帰着されるようだが、これこそ「人間の自然」に反する行為ではないのか。人間を大自然から切り離す、悪しき思考ではないのか。
 いま、こうした思考の誤りに気付く現代人が、果たして何人居るだろうか。
 まるで、彼等が称する「合理的」は、人生が金儲けだと言わんばかりである。しかし、人間の感じる情緒が、金で買えるだろうか。

 「情緒」などというと、懐古趣味だと、頭から馬鹿にする人が居るが、これは頭だけで片付けられる問題ではあるまい。大自然の雄大さを見て、底知れぬ感情を抱き、そこに壮大なロマンを感じるのは、人間共通の憧れを満たす事柄である。人の感性は生まれながらに、このように備わっているのである。

 しかし、都会の縮図の中で慣らされ、自然を思う、雄大さを忘れた思考には、のっぺらぼうの顔と、貧弱な心しか持たない都会人が増え続け、大都会の喧騒(けんそう)と騒音に汚染された生活に不気味さを感じない恐ろしさがあるようだ。
 そして都会での感情は、人々が一定の感情操作に慣らされ、その中に埋没して行く運命にある。

 無感情ならびに人生空虚の実体は、あるいは「現代社会は、こうあるべきだ」と飼い馴らされた、感情のない人生の空虚にあるのではあるまいか。
 雄大な大自然を視(み)て感動する。山の頂(いただき)から下界を視て感動するといった、「感動」と「驚き」は、少なくとも高層ビルの上階から、階下を見下ろすそれとは異なっている筈(はず)である。
 また、此処にこそ、大自然の雄大さが何処までも果てしなく広がっているのである。そして、こうしたものこそ「真理」と呼ぶものではないか。



●秋の陽差し

 秋の日没は、夏とは比べものにならないくらい早い。一旦陽が傾くと、一気に陽は山の中に埋没する。山での夕刻での行動は、危険と検(み)る向きがあるが、これは夏山と、この季節の日没の関係にあると思われる。

秋の陽溜まりを受けて。すすきヶ原の秋が広がる福知山山頂付近。

 一方、夏はこれと異なる。福智山に向う山頂では、ジージージーとか、ミーンミーンミーンとかの、降るような蝉時雨(せみしぐれ)を浴びる。これまでの若葉が一挙に勢いを帯び、緑は最も濃いくなる。木漏れ日から差し込む太陽はギラギラ、ジリジリと迫り、足許(あしもと)では野草が繁茂(はんも)している。一年の中(うち)で、一番なにもかもが燃え盛る季節である。

 また、あらゆるものに生命力が溢れ、強く、高く、激しく、勢いよく、植物も動物も、そして人も、力の限り高まろうとする季節である。灼熱(しゃくねつ)の何週間かが、この季節にある。この季節こそ、生命躍動の沸騰点(ふっとうてん)である。

 その沸騰点は、蝉(せみ)の声に集約されよう。蝉の声が、その大合唱に満喫しきった時、ふと、一切の音が止み、一時の静寂が訪れ、その後、突然の驟雨(しゅうう)に出会うというのが夏のお決まりの風物詩である。
 そして、時節が夏から初秋へと変化すると、やがて蝉の声はつくつく法師(寒蝉)に変わる。

 体調3cmほどの蝉の一種は、9月末まで「おおしいつくつく」と鳴く。そして当て字には、「筑紫恋し」とも書かれる。それは夏から秋への訪れであり、この声を聴きながら、季節は秋へと変わって行く。これに哀愁が漂う。

 生まれて来たものは、誰一人、どの一匹とて、死ぬ事から免れるものはない。哀愁はそうしたものへの贐(はなむけ)か。
 生命とは、燃える蝋燭(ろうそく)のようなものだ。しかし、燃え尽きぬ蝋燭はないのである。
 一口に、無限とか、限り無い、あるいは永遠などと言うが、本当に無限と称され、永遠と称されるものは空の無限大、または広大無辺な宇宙だけであろう。

 ところが生きとし生けるものは死ぬ。必ず死ぬ。例外は何一つない。これも真理である。
 しかし、自分が死ぬとは誰も考えない。死は、他人の死であり、自分の死ではない。自分が死ぬなどと言うのは、どこか信じ難い。想像がつかない。誰もがそう思う。そして、「死」と云う言葉を忘れている。大抵の場合、誰もがそうである。

 夏は激しさにおいて、一種の「幻想の季節」とも言える。どこか幻(まぼろし)に似ている。夏草も、兵(つわもの)が走り去った幻想のイメージが強い。

  夏草や つわものどもが 夢のあと

 芭蕉の『奥の細道』に出て来るこの句も、草いきれが息苦しいほど茂った態(さま)を感じ、また、何処からともなく戦乱の声が聞こえて来るような、そんな死者や亡者の声と重なり、却(かえ)って、今を盛りに草々が生い茂り、正反対の数々の死や失われた命を思い起こさせる。
 それはこんこんと湧く泉のように……。

 しかし、その度に激しく燃え盛る夏の日は、やがて秋の到来を想起させ、次の生命へと移り変わりをイメージさせる、今は盛りの季節であったのかも知れない。

下山途中、振り返ってみれば、やはり背後には福知山独特の姿があった。

 そして、秋の訪れである。燃え立つような炎の勢いは、一応ここで終止符が打たれる。哀愁の季節の到来である。何か、物悲しさがある。それはやがて訪れる冬を想起させる為か。
 秋の季節、秋にしか見れない福知山独特の姿がある。それは、一種の山行きへのロマンであろう。

 筆者は、登山は愛憎悲喜を備えた人間が行う高貴な行為だと思う。高貴な行為だからこそ、感動を覚えるものがある。そしてこうした行為を促すものは、やはりロマンであろう。



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