●地下足袋登山について(2)

山行き装備の前面。
山行き装備の後面。


【地下足袋の歴史】
 最近は地下足袋も実に多様で、また、ファッションとしても、実にカラフルになりました。スニーカータイプの地下足袋。花柄模様の地下足袋。濃紺とピンクの地下足袋。子供用の各色の地下足袋。祭りジョグの白や黒の地下足袋。唐獅子牡丹から錦竜までの、柄物入りの「5枚小ハゼ」のショートタイプから、「15枚小ハゼ」のロングタイプ。何(いず)れもファッショナブルです。しかし、全てが山行きに使えると言うものではありません。その種類によっては、適合・不適合があります。

 さて、日本の森林の殆どは、「山一つ」隔てた傾斜地にあります。山の土は腐葉土の為、柔らかくフカフカです。おま けに傾斜地であり、森林業に携わる人は、普通の運動靴で作業できません。
 スニーカーのような靴だと、傾斜地ではズルズルと滑り、更に靴の中に、泥が入り込んだりして大変な目に会います。また、岩場での足裏の足掛かりも大切で、ピッタリ感が要求されます。
 こうした訳で林業家たちは、地下足袋を履いて作業したことに由来します。

 しかし地下足袋の歴史は古く、地下足袋の由来を調べてみると、その元は「足袋(たび)」だったといわれます。また、足袋の起源は奈良時代であったと云われます。
 最初に足袋が誕生した頃は、足の指の部分は分かれていなかったようです。これが分かれたのは室町時代に入ってからで、足袋の語源は「たんび」から由来したものと云われます。

 また戦国武士は好んで皮足袋を履き、鹿皮などを用いた「単皮(たび)」から由来したとも云われます。革製は鎌倉時代末頃から行われ、木綿製は江戸期の寛永の頃に始まると云われます。
 江戸時代の寛永20年(1643)頃になると、足袋は綿で作られるようになり、明治時代には、広く一般化しています。

 地下足袋としての登場は大正時代初期頃であると謂(い)れ、野外での労働用として丈夫な綿足袋(にしきたび)に、底に厚いゴムを貼り付けて地下足袋が華々しく登場することになります。地下足袋の語源は、「直(じ)か」に土地を踏む足袋だから「じかたび」とも、あるいは「地下」に字を当てて「ぢかたび」とも謂(い)われたとのことです。

 また、最近では「沢登り」の流行により、地下足袋が普及し始めました。沢(特に硬い岩石の沢)を歩くには、フェルト底の足袋や渓流シューズが良いといわれます。逆に沢だと、登山靴やスニーカーは不向きだと云われます。
  滑らない点で、最良なのは地下足袋と草鞋(わらじ)を組み合わせたものを使用すれば最高ですが、草鞋は二日弱履くと擦り切れて、 履き替えねばならない為に、経済的には、かなり厳しいものがあります。そこで地下足袋に草蛙をセットした沢登りが、静かなブームになっているようです。

地下足袋を履き、絶壁の上で、木刀で一騎討ちなんて、実にカッコ良い風情ではありませんか。足にピッタリくる靴地下足袋が、いかにも軽快です。こうした岩場などの絶壁で格闘する場合の地下足袋は、鳶職などの人が用いる「13枚小ハゼ」などの、足頸を絞ったタイプが、軽快で小廻りが利くようです。

 しかし、地下足袋は「滑らない」という点を上げた場合、何も沢登りに限ったことではありません。木剣を持って、絶壁の上で格闘する場合も、地下足袋は便利で安全な履物です。
 したがって、軽快に動き回る点では、登山靴やスニーカーの比ではありません。
 また、「裸足」とも違っているので、その足廻りは最高です。

 格闘技の中には、裸足で行う格闘技がありますが、自称・世界最強とするこの手の闘技も、山頂の絶壁の上では、お手上げです。ここに平地の二次元平面で格闘をする二次元格闘術と、三次元立体上で「術」を用いて闘技する「武術」との根本的な違いがあります。

 三次元立体の戦闘ステージを舞台とする「武術」では、畳の上や板張りでは素足になりますが、一度野外に出て、部隊が三次元戦闘ステージに変わると、軽快に動ける地下足袋を履き、小廻りの利く動きを見せるのです。その意味で、地下足袋は日本独特の卓(すぐ)れたは着物です。



【足心刺戟への効用】
 人間の足の裏の経穴(ツボ)は、医学的には「足心(そくしん)」と云われ、東洋医学では「湧泉(ゆうせん)」という箇所が、ただ一つあるだけです。

 この湧泉は、「足の少陰腎経(しょういんじんけい)」の経穴から始まります。
 第1番目の足の裏の湧泉から始まり、順に身体の上に登り、然谷(ねんこく)、太谿(たいけい)、太鐘(たいしょう)、照海(しょうかい)、水泉(すいせん)、復溜(ふくりゅう)、交信(こうしん)、築賓(ちくひん)、陰補宮(いんほきゅう)、陰谷(いんこく)、横骨(おうこつ)、大赫(だいがく)、気穴(きけつ)、四満(しまん)、中注(ちゅうちゅう)、肓兪(こうゆ)、商曲(しょうきょく)、石関(せきかん)、陰都(いんと)、通谷(つうこく)、幽門(ゆうもん)、歩廊(ほろう)、神封(しんぷう)、霊墟(れいきょ)、神臓(しんぞう)、或中(わくちゅう)、そして最後の第27番目の兪府(ゆふ)に辿り着きます。

足の裏の刺激点と内臓の関係図

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 足の少陰腎経は、足の裏の中心の「湧泉」が出発点で、これに作用する部分は、腎臓、脳、脊髄(せきずい)、神経系などです。この箇所は「足心」とも云われます。
 特に湧泉を刺戟(しげき)すると、内臓機能の促進を促し、またボケ防止になり、アルツハイマー型痴呆症などの防衛には大きな役割を果たします。

 人間は足を使わなくなり、あるいは足の裏からの刺戟がなくなると、内臓機能の代謝が失われ、頭の思考力も次第に退化して行きます。したがって、足の裏に定期的に刺戟を与え、活性化する必要があるのです。
 こうした点を考えると、単に青竹踏みなどで、足の裏を刺戟すると云った、小運動では不充分で、やはり5〜6時間掛けた、足全体を遣う、更には全身を遣う総合運動が必要になって来ます。

 晩年、膝痛や腰痛などで坐骨神経痛などを患い、歩く事も、階段を上がることも容易でない人は、運動不足、特に全身運動の運動不足で、脚を遣う事を怠けた人です。車などに頼り、余り歩く事をし亡くなった人は、内臓の働きが悪くなっていて、また頭もボケ状態寸前にあります。
 こうした人はアルツハイマー型痴呆症から逃れられないので、やはり末期に至る前に、事前に脚を遣う訓練をし、特に足の裏の刺激点は少なくとも5時間くらいは刺戟しておく必要があります。

 「過ぎたるは猶(なお)及ばさるが如し」と云います。この俚諺(りげん)は、度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じで、どちらも正しい中庸(ちゅうよう)の道ではないことを言っています。中庸とは不偏不倚で過不及のないことを言い、何れにも偏らないことを言います。

 車社会は私たち現代人に、「歩く事の大切さ」を忘れさせてしまいました。長時間歩いたり、強行軍する大事を現代人から奪い去ってしまいました。この意味からして、現代人は滅びの道に一歩近まったような気がします。
 やはり、こうした「滅び」から逃れる為には、単に平地を散歩して、それが健康に寄与しているというように単純に考えてはなりません。

福智山の900.8メートルの山頂にて。この日は非常に空気が透き通っていて、山頂から下界の一つ一つが手にとるように分かるほど、何処までも澄み渡っていた。(平成19年8月11日)

 高低差のあるところを一歩一歩苦労しながら登って行き、山の頂に到着して、そこで下界の汚れた空気を総て吐き出して、新鮮な爽やかな空気と交換しなければなりません。こうした空気を得るには、何処まで平地を旅しても決して手に入れる事は出来ません。やはり自分の足で山に登り、山の頂きで、自分自身が汚れた空気の空気交換を行わねばなりません。

 そして、十分に空気交換が行われ、肺臓の肺胞に新鮮な空気と交換できたら、今度は一時、そこで下界を見渡すなどの風情を味合い弁当などを食べて、降りる準備に懸らねばなりません。

 ちなみに肺胞は、肺に入った気管支が分れて、その末端で盲嚢状(もうのうじょう)となっている部分です。葡萄(ぶどう)の房(ふさ)のように分れ、気体交換の作用をします。内面を肺胞上皮細胞が覆い、それに接して、毛細血管が分布して、少量の結合組織がこれを支えています。此処に収まった空気が汚れていては、新たな組織代謝は行われません。代謝を促す為には、古いものと新しいものを交換しなければなりません。

 山は、自分の足で登ってこそ価値があります。幾ら高い山も、車やロープウェーやケーブルカーでいけるような山は、山としての価値が失われ、山の頂上まで下界の薄穢さが蔓延(まんえん)しています。
 昨今は、お遍路も観光バスで行く、「バスお遍路」がありますが、こうしたツアーに参加する、歩かない老人たちの死後は間違いなく不成仏で、地獄直行便でしょう。

 したがって、山も、自分の足で登り、自分の足で降りて来ると言うのが、そもそも自然と言うものなのです。機械や乗り物に頼ってはいけません。その報いは、必ず反動として顕われてきます。

 足の裏側を刺戟しながら、苦労して山頂に辿り着き、そしてその後、また苦労しながら山を降りて行く行為は、その「苦労する」という縮図の中に、大自然は私たちに新たなものを取り替えてくれる、金銭では買う事の出来ないものを齎(もたら)してくれるのです。



●山稽古と足の鍛え方

 武術と足袋の関係は深いものがあります。武術家として大切な行動原理は「歩き方」です。
 人間が歩くと言う行為は、常に大地からの反動を得て、躰(からだ)を移動させるのですから、この行動の中には、つまり「歩き方」が会得出来ていなければならず、これが武術家としての「足捌(あしさば)き」となります。

 この足捌きは「大地を信頼する」という、日本人の古来からの農耕民族としての畏敬(いけい)の念が示されており、自然の理(ことわり)に適(かな)った「歩き方」をしなければなりません。

 古来より武士の歩き方は、能や狂言などと同じように、武人特有の「摺(す)り足」でした。
 この摺り足の中に、武人の総ての行動原理が包含されていました。

 摺り足とは、敵に悟られない歩き方であり、また、自分の居所を知られないようにする歩き方です。
 この歩き方は、西欧の狩猟民族の弾むようなステップする歩き方とは異なり、大地を信頼した、農耕民族特有の歩き方です。しかしこうした歩き方は、今日、一部の古流武術などを残し、総て、あとは消失しているようです。

 もともと大東流の歩き方は御式内(おしきうち)に由来する、殿中作法からも窺(うか)えるように、能や狂言と同じ「摺り足」でした。ところが、昨今の殆どの大東流愛好者は、その重要な基本的な要(かなめ)を忘れ去り、ただ大東流の高級技法ばかりに眼を奪われている観が強いようです。

 大東流の指導者の中にも、御式内と大東流とは全く関係無いものとして、こうした殿中作法である、歩き方を無視する者までいます。
 そしてその愛好者の殆どは、競技武道と同じように、ただ相手を負かし、勝てば良いと思って練習している為、こうした肝腎な行動原理を無視した考え方が否めないようです。

 要するに、今日の武道界を振り返ってみると、柔道や近代剣道の歩き方は、実質的な立場から分析すれば、その殆どが「べた足」であり、既に武人の心構えであった、「摺り足」の基本を忘れてしまっているようです。
 また、空手や拳法は組手などから窺(うかが)えるようにボクシングと同じステップを利用した「跳(は)ね足」であり、到底武人の歩き方とは程遠いものがあります。

 一般に摺り足と云えば、「引き摺った歩き方」を摺り足と思っている人が多いようですが、今日の若者が、踵(かかと)を引き摺った歩き方をするが、決してああしたものを摺り足と言うのではありません。
 腰の重心が充分に落ち、下半身を安定させ、然も膝がよく曲がり、あるいはよく上がり、上半身は殆ど動かない足の事を「摺り足」と言うのです。
 
 さて、西郷派大東流合気武術は、「歩き」という行動原理の源は、御式内の作法にある通り、能や狂言の摺り足と考えているので、足の拇指(おやゆび)の付け根部分に当たる拇趾球(ぼしきゅう)の膨らみ部を中心軸として、そこで躰(からだ)を支える歩き方をします。そして他の部分は地面に軽く接するようにします。
 つまり能や狂言の自然の動きこそ、人間の歩く行動原理だと考えているのが武術の歩き方なのです。
 拇指の付け根で立脚することこそ、武人の行動原理なのです。

 こうした歩き方をすれば、まず、何処を移動するにも、音を立てずに歩き事が出来、それは同時に、自分の居所を知られず、敵に近付く事が出来るという事でもあります。この摺り足の歩き方は、武術を修行する上では、非常に大事な事であるので、是非とも会得したいものです。

 特に跫音(あしおと)を立てずに歩く、歩き方は、まず、膝関節の屈伸力がしっかりしていないと、跫音がどうしても高くなってしまいます。したがって、屈伸力を養った摺り足が必要になります。こうした摺り足を養成するのに、山歩きが一番であり、また、地下足袋を履いて、野山を歩き廻るハイクは、跫音を立てない歩き方の養成になります。こうした事から、地下足袋を履いての山行きを奨励しているのです。



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