福智山・山行と強健術 4

●清らかな心

 生物が食べ物から吸収しているのは、血を造り、血から体細胞を造る「肉体の要素」ばかりではありません。食べ物からは、「精的」なエネルギーまでもを造り出しているのです。その為に、新鮮な大気で、酸素で、食物を分解します。

 ですから、仙人たちはこの事を古くから知っていて、空気のいい山に棲(す)み、高山植物が豊富に繁茂(はんも)している処にか棲まなかったのです。
 既に述べたように、「精的」なエネルギーは、「心」と密接な関係にあります。

 大自然の中で、雄大な景色を視(み)たり、美しい景観を鑑賞したりすると、「心が洗われる」などと言いますが、これは山々を含む、大自然の景観が、心に何らかの作用を与え、そこに人間の心を誘(いざな)う為だと言われています。
 この心境は、陽明学の「まごころ」にも通じ、この東洋哲学の中には「洗心」という言葉が見られます。

遠望する遠くに、心を洗う精的なエネルギーがある。

 「まごころ」は「誠」であり、誠を以て人と接し、誠によって人生を貫き通すという意味の顕われです。したがって、このエネルギーを生涯に賭(か)ければ、濁った心は、やがて昇華され、清らかになるのです。
 また、それは山行きを度々繰り返すことで、少しずつ「まごころ」達成の為に近付く事が出来ます。

 私たちの錬成会が、「洗心錬成会」と云われる「洗心」は、此処から由来したものです。山に登る事により、新鮮な大気を取り込み、綺麗(きれい)な空気を吸って、食べ物を二種類の行程で、精的なエネルギーに変換する為だったのです。

 酸素で、食べ物が分解されるという医学的な学説に対し、これに異論を挟まれる方は居ないと想います。したがって、同じ食べ物を食べても、大気が新鮮でなく、空気が淀んで、濁っていては、その分解程度も異なって来るわけです。
 そして、何よりも重大なことは、心が清らかで、美しくないと、「精的なエネルギー」は溜める事ができないということです。

 この事は、仙人の思想である神仙術(しんせんじゅつ)の他に、この変換式の諌言(かくげん)がキリスト教の古い教典にも出ており、心が清らかで、美しい澄んだ状態である場合に限り、「精的なエネルギー」は蓄える事が出来るのです。

 つまり、我欲(がよく)があったり、我欲に固執して執念を燃やし、これに「こだわる」などがあっては、ただ精的なエネルギーを無駄に使い果たし、したがって、長生きできる肉体も、その寿命以下の短い生涯で閉じると言う事になります。こうした悪影響を与えているのは、世間・世俗の蟠(わだかま)りから起る「ストレス」です。「こだわり」は、ストレスを生じさせるのです。

 また、会社経営や事業などを、野心や欲望で経営・運営している人は、欲が優先する為、心が清らかではありません。その為に、最終的には成功せず、一時期、盛会を極めた会社や事業でも、やがて斜陽を辿り、倒産の憂(う)き目が免れません。倒産やリストラなどの不幸現象は、総て、「心の濁り」から起った現象です。

 これは自営業などで、商(あきな)いをする個人商店でも同じです。
 自営業者が、自分の商いがうまく行かないなどの、嘆きの現象は、総て心の濁りから起ります。心が清らかでないと、こうした商いはうまくいきません。
 欲に駆られて、試行錯誤しているうちは、それが如何に素晴らしいプランであっても、心が濁っていますから、計画通りに事が運ばないのです。こうした実情に、気付いていない経営者や自営業者は沢山居ます。自ら成就しない道を選択し、自分で「崩壊の道」を辿っているのです。

 「こだわり」に汚染された人は、まず、金銭に固執し、「カネ離れが悪い」などの、心の濁りが表面化しています。しかし、これに気付いている人は少ないようです。
 ただ重箱の底をつつくように「こだわり」捲(まく)って、重箱の底から抜け出すことが出来ません。
 そして、「どうしたら儲かるか」とか、「どうしたら経営が順調に行くか」などの金銭との絡み合いばかりを考え、肝心な、「自分の心の清らかさ」を完全に忘れてしまった人が多く居ます。これで、商(あきな)いは決してうまく行く事がありません。

 その為に、少しでも経営が傾くと、祈祷師や霊能師に、その判断を仰いだり、新興宗教に与(くみ)したり、郵便物測定などから、自分の性格や、将来を占ったりの、他力本願の人生に足を踏み入れ、そこから「自分とは何か」という、肝心なことを見逃して、目先の事ばかりを追いかけます。自分の「遣る気」を、他人任せの運勢的な易断に任せているのです。これでは、やがて崩壊の道を辿ります。
 これは余りにも、凡夫(ぼんぷ)的であり、その終盤は、余りにも惨じめであることは間違いないようです。こうした人が、やがて会社を倒産させて、従業員ならびに従業員の家族を泣かせるのです。

 また、このタイプに入る人は、性的衝動が起った場合、自己の裡側(うちがわ)に、絶大で膨大なエネルギーを内包しているのにも関わらず、直ぐに放出して、俗世の一時の刹那(せつな)的快楽に身を委(ゆだ)ねます。刹那に生き、刹那に死んで行きます。これが成功しない人の運命と言えるでしょう。

 人間は人生を生きる上で、「清らかな心」は、最も大事な要素の一つです。それは「精的なエネルギー」を蓄積し、これが増強されれば、無病息災も夢ではなく、また、長寿までが約束されて、運気が好転して行きます。

 運気が好転するとは、肉欲的な「性的エネルギー」が昇華(しょうか)されて、それに変わって「精的なエネルギー」が満たされていくということなのです。
 つまり、「こだわり」とは、俗界に蔓延(はびこ)る下界の淀(よど)んだ空気の中からつくり出された「性的エネルギー」をヒタヒタに含む、淀んで濁った空気の中からつくり出された拘泥(こうでい)なのです。

 現代人はまさに、この下界・俗界の中に居て、淀んで濁った空気を腹一杯吸い込んで、腹一杯美食に趨(はし)り、また、性欲を剥(む)き出しにして快楽遊戯に趨り、自ら寿命を縮め、病魔の餌食(えじき)となって無惨に死んで行っているのです。

 本来、私たちは、仙人でなくとも、「精なるエネルギー」に満たされる機能を先祖から受け継いでいるのです。しかし、山地や山頂の空気の良さを知らない多くの現代人は、この機能が内蔵されていることに気付きません。
 したがって、性的エネルギーを、精的なエネルギーに変換する方法を知らないのです。ここに病魔が隙(すき)を衝(つ)いて、入り込む元凶があります。

 ウェート・リフティングや、力技をこなす格闘技選手に類する、俗界人のタフな人でも、此処での練習が、所詮、下界の汚れた、濁った、淀んだ空気の中の「蝸牛(かくぎゅう)の世界」の争いであることに気付きません。

 三次元顕界を、無理に二次元平面に仕切直し、あらかじめ人為的に整備された試合場で、互いに世界最強を自称しながら、小さな世界の「角の突き合わせ」で、毎日トレーニングに励んでいます。しかし、下界の淀んだ空気の中では、心の清らかさをつくり出す事は出来ません。

 その証拠に、身体を故障させたり、事故に遭遇したり、怪我を追うと言う事が度々起ります。スポーツの世界は、観客を意識する為、観客の観戦に合わせて、淀んだ空気の充満する平野部の平地でしか行われません。

 スポーツ格闘技が、ある山頂の頂上などと言うと、まず、観客動員数は大幅に減り、スポーツ興行としては成り立たないでしょう。これはこの手のスポーツ界が、芸能と地続きになっている為です。スポーツ選手の名声は、芸能人のファンからちやほやされて、有頂天に舞い上がる、あの感覚と同種のものです。

 芸能興行は、まず交通の便がよく、大人数が収容でき、観客側も難無く声援でき、観戦できると言う場所でなければ成り立ちません。
 これは相撲や柔道や剣道や、その他の武道格闘技を含めて同じでしょう。
 芸能ライブを、富山県東部の、北アルプス立山連峰の北端に屹立(きりつ)する峻峰(しゅんぽう)の、標高2998メートルの「冬場の剣岳(つるぎだけ)の頂上で」等と言うと、まず、芸能観戦者は、殆ど数人になってしまうでしょう。こうしたライブは、平坦地で、交通の便の良し悪しで決まってしまうのです。

 これは現代人が「下界に固執している」ということを顕わしています。そして下界に固執する、その中に、種々の、「精的なエネルギー」に変換できない妨害要素が沢山有るのです。
 その一つが、美食であったり、快楽遊戯のスポーツ・セックスであったり、物財に固執する欲望であったり、権力に固執する政権の座であったり、こうした俗界的要素が現代人に纏(まつ)わり憑(つ)き、本来、清らかであるはずの心が、次第に年月と倶(とも)に穢(けが)れて行くのです。

 赤ん坊や幼児の眼は、生まれた時は瞳(ひとみ)が大きく、それが幼児を抜け出す期間まで続きます。しかし、年齢を重ねると、眼の中の黒目の部分は次第に小さくなり、世間の垢(あか)に汚れて行く状態を示します。これが成人以上の大人に見る「汚れた眼」の実体です。
 年齢と共に世間の垢が身に纏(まと)い、心は次第に穢(けが)れたものになって行きます。

 穢れた心は、善後策を講じて、「洗い流す」しかありません。心を、洗濯することが必要になって来るのです。
 しかし、「幾ら美しい心」とか、「穢れのない清らかな心」などといって、下界に居て、犬の遠吠えのように喚き立てていても無駄な事です。実感と実践の伴わないものは、所詮、絵に描いた餅です。自分の足で、実体験するしかないのです。

 「洗心錬成会」では、山に登ることを健康法として奨める会ではありますが、だからといって、どなたでも奨励して居るわけではありません。まず、基礎体質の良さを取り戻す、「強健術」をマスターしなければなりません。

 山登り・山行きと言うものは、自分の足で一歩一歩登って行かなければなりません。この「登る」という行為に、他人は助けることができません。したがって、病気持ちの人は、まず、病気を治すと言う信念が必要です。

 山に登るから病気が治るのではなく、山に登り頂上から、下界とは異なる清らかな大気を吸い込んで、それが食餌法(しょくじほう)の正さと相まって、心に働きかけ、清らかな心が、無意識のうちに病気を治して行くという、自然摂理の循環メカニズムを知らなければなりません。

 よく、新興宗教の信者の中で、「自分のガン病を治したいから」とか、「精神障害を治したいから」とか、「自分の仕事がうまく行く事を願いたい。商売繁盛を記念して」などとかで、入信して居る人が沢山居ます。しかし、こうした目的の為だけに新興宗教に寄り添っている人が居ますが、こうした要求は、何一つ成就しないし、されないでしょう。

 やはり、ガンを発症した人は、新興宗教や祈祷師や霊能師を頼ったところで、最後は必ずガンの末期症状に苦しめられて死んで行きますし、精神病においても、発症から、以後にかけては、一進一退を繰り返しながら、狂い死にの道を辿ります。
 この道を確実に辿る人は、統合失調症と言う、かつての差別用語にあたる「精神分裂病」を患って居る人です。

 この病気を患って居る人は、精神科から出される薬に頼って、生涯生き続けねばなりません。非常に哀れな人生を辿ります。そして、この病気に罹(かか)る人は、ある種の一定法則があり、「心が清らかでない先天の気」を親から譲り受けて、この世に生まれて来ていることです。
 先祖が抱いた想念に誤りがあったのです。

 現代精神医学では、精神病は遺伝しないと言っていますが、これは間違いであり、明らかに精神病患者の心の中に、潜在意識として、父母や祖父母や曾祖父母の三代くらい前までの、「満たされなかった心の不満」を引き摺(ず)って生まれて来ていることです。

 精神病に罹(かか)る人は、三代前くらいの血統から引き継いだ、心の歪(ゆが)みであり、心が清らかになり得なかった先祖の「満たされない心」を受け継いで、この世に生まれでて来ています。したがって、先祖が思い通りに、人生を送れなかった悔恨(かいこん)が、孫や子供の代に具現され、これが起因していることが少なくありません。

 その為に、人間の過去の潜在意識から、この実情を読む霊能師たちは、「先祖は祟(た)る存在だ」と位置付けています。彼等の言を借りると、「先祖が思い通りの人生」を送れなかった為に、これが悔恨となって、現在にある子孫に向けて、「その悔恨を訴えている」と言います。

 しかし、これは果たして本当でしょうか。
 もし、精神病を患(わずら)う人が、その子孫として、あるいは先祖達を代表して、「思い通りの人生」を送る事で、先祖達の悔恨は消滅し、報(むく)われるのではないでしょうか。
 しかし、「思い通り」といっても、心が汚れていては何もなりません。また、先祖の悔恨に心が曇らされていても、「思い通りの人生」は達成されないでしょう。

 霊能師たちは、先祖が供養を欲しているから、その願いを叶えなければならないと言います。しかし供養とは、先祖の墓に、僧侶や神官や神父や牧師を連れて来て、拝むとか、祝福の言葉を唱えるとか、こうした事だけで済まされると言うものではないようです。

 何百、何千といる先祖の中で、もし、悔恨(かいこん)のシコリがあって、彼等が現世の子孫に対し、思い通りにならなかった悔恨を訴えているのなら、それは先祖を代表して、「今」を生きる私たちが、思い通りに悔いの残らない人生を全うすれば、よいことなのです。それこそ、先祖に対しての贐(はなむけ)ではないでしょうか。

 それでも祟(たた)ると言うのなら、それは先祖の傲慢(ごうまん)であり、理不尽としか言いようがありません。また、それに甘んじることも、人生ではないでしょうか。
 しかし、甘んじるばかりで、善後策がないと言うのは余りにも無能です。捻(ねじ)れた心は、「清らかな心」で対抗し、清らかさで聡(さと)していく以外ありません。清らかな心を通じて、改心を願う以外ありません。

 もし、精神病患者と、精神病を患う患者を持つ家族が、「清らかな心」を以て、山頂で自分以外の人の為に祈念すれば、精神科医の治療を受けながら、病状が改善します。患者の病態は眼に見えて少しずつ改善されて行くのです。現代人は、永らく、清らかな心を再発見することを完全に忘れ去っているのです。

 これは、腰や膝や股関節に障害を持っている人でも同じです。
 例えば、膝が悪くて階段を登れない人、膝に水が溜まっている人は、まず、これを克服する為に、近所で「階段を登トレーニング」をしなければなりません。
 腰痛の人も同じです。あるいは椎間板ヘルニアから、股関節亜脱臼を併発させて、坐骨神経痛の疼痛に悩まされて居る人も基礎的な、「階段を登る」というトレーニングは必要でしょう。登ると言う信念が必要です。

 それに併せて、「清らかな心」を持つ努力も必要でしょう。
 心が淀んでいて、濁った心が、病気を引き寄せ、事故や怪我を引き寄せたと考えるべきでしょう。原因のないところに、結果は派生せず、実は結果が原因となるべき起因を派生させていることに気付かねばなりません。

 また、肥満症の人は、まず自分の体重を落す自戒に、真摯に心掛けねばなりません。体重が重過ぎれば、膝や腰や足頸(あしくび)に負担をかけ、頂上に到達する前に自滅してしまいます。やはり、食事内容や食事回数を改善して、現代栄養学のカロリー計算に振り回される事なく、玄米菜食と小魚やその他の魚介類を中心にした「正食」に心掛けねばなりません。

 日頃から不摂生をして、暴飲暴食を繰り返し、喫煙をし、異性に明け暮れるなどの下界の汚れの縮図を溜め込んだ人は、これを捨てることから始めなければなりません。

 意志薄弱で優柔不断で移り気の性格に人は、性格そのものは過去世(かこぜ)からの習気(じっけ)ですから、これを変更して書き換えることは出来ませんが、心を入れ替えて、「改心する」ことくらいはできます。

 心の憂(う)さを、アルコールや喫煙することで誤魔化してはなりません。これに精神の安定や落ち着きを需(もと)めても、自分の寿命を益々縮めるばかりです。
 晩酌や、盛り場などに出て、夜の巷(ちまた)で憂(う)さ晴らしする習慣のある人は、せめて、暴飲暴食を止め、「酒品(しゅひん)(酒を飲んでも酒に呑まれる事なく、頃合いのほろ酔いで呑むのを止め、崩れない品位)を保つ程度に、人格と品格を向上させなければなりません。

 人間は、口から入って来るものは、各々吟味(ぎんみ)が必要で、口に入れて善い物と、悪い物を区別しなければなりません。これが命を護る最低限度の基準です。これは限られた有限の命を、大切に取り扱う「取扱い説明」の手引きであるからです。

 私たちは生まれ持っている命を、食べ物の中から増幅させて、「精」なるものへと変えて行くことを、使命として背負わされているのです。
 今日のセックス現代社会の、色事師のように「精力絶倫」と言う愚かしい性的エネルギーに振り廻される事なく、「性に溺れる現実」から脱して、「後天の気」から、「精」を養って行きたいものです。



●「今」を真剣に生きる

 私たちは、「今」という、二つとない世界の中で生きています。だからこそ、私たちは、「今」という時機(とき)を大切にして、地球と倶(とも)にあり、宇宙と倶にあり、あらゆる人と倶にある、現実の中に生きなければならないのです。
 その為に、私たちは「昇華(しょうか)」していく為に、あらゆる犧牲を払い、昇華の糸口を掴み捕らなければならないのです。

 自分を見つめることは、則(すなわ)「生命の躍動」を見つめることに他なりません。
 「健康とは何か」を追求した場合、その先に見えるものは、「人生とは何か」ということでした。そして、人生の見える向うには、「人の生死」が見え隠れしています。また、生と死を繋(つな)ぐ、「生命の躍動(やくどう)」が見て取れます。

そこに「生命の躍動」がある福智山山頂。

 つまり、生死は、同根の中から各々に派生していて、基(もと)は一緒だったと言うことです。そして、そこには、ただ「清らかな心が」一杯に漂っているだけでした。

 「終わりよければ、総(すべ)て善し」と云います。
 私たちの「洗心錬成会」は、単に福智山の頂上を極める為だけに活動しているのではありません。苦労しながら登って、一旦、頂上に辿り着いたら、今度は降りなければなりません。
 人生には、登山の途中に斃(たお)れるばかりでなく、頂上に辿り着きながらも、降りる時に判断ミスや失敗をしでかして、死体となって帰ってくる人がいます。

 しかし、人生は「終わりよければ、総(すべ)て善し」と云われるのですから、怪我や事故をせず、無事、元の場所に帰り着かなければなりません。無事に帰り着いてこそ、その山行きは成功であったと言えるのです。

 吉田兼好(よしだ‐けんこう)の著した『徒然草』の第109段には、「高名の木登り」という、木登り名人の話が出て来ます。そして、その中には同時に、「高名の中(なか)に不覚あり」という俚諺(りげん)に因(ちな)み、「得意絶頂の時には、かえって失敗の種を蒔(ま)くことがある」と戒めています。

 「高名の木登り」には、これを教訓として活かし、植木職人の親方は、弟子が樹木の高い処に登っている間は、「用心せよ」とか「気をつけろ」とは言いません。弟子が高い処で仕事を遣(や)り終え、降りて来る寸前の低い処になって、はじめて、「用心せよ」とか「気をつけろ」と声を掛けます。それも、もう飛び下りても良さそうな処で、です。

 これは高い処では、自分で充分に用心していて、注意力を働かせていますが、怪我や事故と言うものは、「もう、これで大丈夫」と思うところで起ります。高い処の登り、無事仕事を遣り終え、降りて来る段になって、それも極めて低いところで、事故や怪我を発生させ易いと言う教訓から、「高名の木登り」という人生の教訓を描き出しているのです。

 私たちのグループは健脚を競う会でもありませんし、単に頂上を極めると言う会でもありません。福智山と言う山を通じて、山行を経験しながら、そこから「人生とは何か」という自問自答で、答を探し出す「強健術」を実践する研究会なのです。
 あなたも、「清らかな心」を求めて、私たちの「洗心錬成会」に入会して、福智山登山を楽しんでみては如何でしょうか。
 そこには、必ずあなたの探す、「人生とは何か」という答が見つかるはずです。



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