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西郷派大東流と武士道

御式内礼法・武門の心得
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)

●武門の礼法を志す武人としての態度

 真剣に武術に志し、これを学ぶと言う真摯(しんし)な態度は、相手の気持ちへの配慮にも現れて来る。自分本位の考え方で稽古を行っている者は、相手を唯の稽古台くらいにしか考えないで、自分勝手な勝負観で稽古をしている。その為に、どうしても強弱論にこだわり、それに終始する。

 しかし相手の気持ちを配慮する事が出来なくては、相手の心の裡(うち)を読み取る事はおろか、自らの品位も甚(はなは)だしく傷つけてしまうものなのである。自他一体の心遣いが出来ず、自他離別の、別々の心で練習だけをしている事になる。したがってここには、人間的な心の配慮や、相手の気持ちを巧みに読み取ると言う洞察力が働かなくなる。

 「勝てば良い。倒せば良い。叩けば良い。投げれば良い」のみの稽古に終始し、こうした態度は自分本位であり、勝者になる事を練習の目的にしている為、自身が自分より強い強者に遭遇すれば、全く歯が立たず、無惨に敗れる事になる。
 この敗北の原因は伎倆の強弱や優劣にあるのではなく、自身の心の卑しさにあるのである。
 かつて柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、剣の極意を、強い剣、人を殺す剣、相手に勝つ剣こそ、その極意であると信じていた。ところが宗矩は沢庵禅師(たくあんぜんじ)に出合った以降、この考え方は一変する。

 沢庵は宗矩に、「剣術の名人は誰か」と訊ねた。宗矩はすかさず、「上州の上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな/室町末期の剣客・兵学家。伊勢守、のち武蔵守信綱を名乗った。諸国を遊歴し、陰流などを学び、新陰流を興す。門人に柳生宗厳(むねよし)、疋田文五郎らがいる)こそ名人の名に相応しい」と応えた。その理由は宗矩が、ある夜、伊勢守の寝所に忍び込み、太刀を持って打ち込もうとした時、伊勢守は宗矩の太刀をひらり躱(かわ)し、ついには宗矩を押さえ込んでしまったからだと言う。この話は、伊勢守が柳生宗厳に剣の奥儀を授(う)ける為に、柳生の里に滞在した時の事になっている。

 しかしこの話を聞いた沢庵は、深夜寝込みを襲われて、討たれなかったと言うくらいでは、単に武士の平常心の心掛けに過ぎないではないかと、宗矩を一笑したのである。そして沢庵は次の一句を付け加えた。

  子も踏まず枕も踏まずほととぎす

 沢庵は宗矩に、この句の意味が理解できるか問い質(ただ)した。逆に宗矩は、この句がどういう意味か沢庵に詰め寄った。宗矩にしてみれば、何の意味か、さっぱり解らなかったからである。宗矩は「わからぬ。どういう意味か、教えろ」と、沢庵に迫った。

 沢庵は「ほととぎすが一声鳴いた。ふと目を覚ました。ガバッと床を起き上がり、枕も踏み付けずに出て来た。これは一体誰が起きて、誰が出て来たのか?!」と、宗矩を畳み掛けた。
 沢庵は、禅宗ではこれが解れば「悟り」であり、武門では「極意だ」と付け加えた。
 これに応えて宗矩曰(いわ)く、「剣術はそんな分けの解らぬ戯言(たわごと)ではない。どこまでも剣は剣の技だ」と自信満々で答えたのである。

 しかし沢庵は、「それは間違いである。剣術の心にも、悟りと言う極意が必要であり、技だけでは駄目だ。苦心惨憺(くしんさんたん)して命賭けで修行するのは、ただ己の心を鍛える為だ。それ以外には何もないのである」と言い切るのだった。

 この言葉に宗矩は何か感ずるものがあり、これより宗矩は沢庵に教えを乞う事になる。
 沢庵は、更に宗矩を問い詰めた。
 「貴殿は天治の剣を致すのか。諸侯の剣を修行するのか。それとも凡夫(ぼんぶ)の剣を修行為(な)さるのか」
 こう畳み掛けられて、宗矩は答えに窮(きゅう)した。
 沢庵は剣について、「三つの行い」がある事を説いた。

●武門の兵法は「人を活かす剣」の礼法でなければならない

 剣の道には三通りがある。
 それは「天治の剣」「諸侯の剣」「凡夫の剣」である。

 「天治の剣」は、剣の儀法(ぎほう)をあらゆる方面から正し、極め尽くして、天下を治める剣の事である。

 第二の「諸侯の剣」とは、「勇士を以て鋒(きっさき)とし、清廉(せいれん)の士を以て刃(やいば)とし、賢明の士を以て脊(むね)とし、忠義の士を以て鍔(つば)とし、無双の豪傑(ごうけつ)を以て鞘(さや)となす。この剣を抜けば、前に敵なく、後ろに敵なく、前後左右に敵無し。これ天に則って日月星の三光に従い、地に則って春夏秋冬の四時に順(したが)う。この剣は、ひとたび抜けば雷電(らいでん)の如くに将卒は死を恐れず、君命に抗(さから)わず。これ即ち、諸侯の剣なり」という諌言に由来するものである。

 次に第三の、凡夫の剣とは、いらずらに戦いを好み、喧嘩師を気取り、肩を怒(いか)らし、肩で風切る傲慢(ごうまん)な態度をとって、高声で他者を罵(ののし)り、ただ人を殺し、他人に勝つ事だけを目的に、これが成就した時に無上の喜びを感じると言う低き剣の事を言うのである。

 天治の剣や諸侯の剣を「人を活かす剣」と言い、これを「活人剣」という。一方、「人を殺す剣」を、「殺人剣」というのである。

 沢庵の説明に感じ入った宗矩は、今迄の目の前を塞いでいたウロコが墜(お)ちて、目の醒(さ)めた思いがした。その後、二人は名を名乗り合った。
 宗矩は「大和の柳生庄(やぎゅうのしょう)、柳生又右衛門宗頼(但馬守宗矩)」と名乗り、沢庵は「但馬(たじま)の者で、秀喜(しゅうき)と申す、三界無住(さんかいむじゅう)の乞食僧(こつじきそう)」と名乗った。

 沢庵は宗矩に腕前を見せて欲しいと恃(たの)んだ。宗矩はこの恃みを受けて、電光石火の如く飛び上がり、前に聳(そび)え立つ松の木の、一丈(一尺の十倍で、約3メートル)程の高い大枝を切り落とした。
 「これが新陰流の極意《天狗昇飛切りの術》でござる」と自信満々だった。

 沢庵は、「なるほど素晴らしい術じゃ」と言って、その後にも言葉を繋いだ。
 「しかし、柳生殿。単に高い処にへ飛び上がるのならば、一羽の小鳥でも出来ますぞ。剣の極意がそのような小鳥の真似であるならば、笑止千万。また、松の枝を切り落とすくらいならば、剣に素人の樵夫(きこり)ですらも簡単に出来ますぞ。命に匹敵する大事な剣を以て、樵夫の真似事をして何になる」

 沢庵は、こう言い残すと、頭陀袋(ずたぶくろ)を掛け、網代笠(あじろがさ)を被り、この場を立ち去った。そして宗矩は、沢庵の言葉に心胆(しんたん)を奪われたのだった。
 宗矩と沢庵の出合いは、こうしてはじまったのだった。
 そして宗矩は、沢庵こそ自らが求める師であると確信するのである。

 沢庵は宗矩よりも二歳年下であったが、既に修行によって、心を鍛え上げられている沢庵には叶わず、その心境の奥儀に宗矩は触れたのだった。
 その後、宗矩は相手を殺す剣は無益であると知り、以降、心の悟りを以て人を活かす剣を生涯掛けて、学び進もうと決心するのである。

 しかし兵法の修行は「師」が必要である。自分一人で兵法の稽古は出来ない。宗矩と沢庵が真心を通わし、打ち明けて親しくなったのは、お互いが少年時代より、沢庵自身も兵法を学んでいたからであり、この事が「修行」という接点で折り合ったからであった。

 沢庵が大徳寺に入った年は文禄三年の事であり、奇(く)しくも、柳生宗厳が我が子の宗章と宗矩を連れて、黒田長政の仲介により、洛西(らくせい)の紙屋川(かみやがわ/京都鷹峰(たかがみね)の山中に発し、平野・北野の間を南流、天神川となって桂川(かつらがわ)に入る川)の家康の本陣を訪ねて謁見(えっけん)した年でもあった。

●敵こそ味方であり、味方こそ敵であると見る武門の礼法

 武門の礼法の根本には、味方こそ恐るべしと捉える「兵法観」がある。本当の敵は外側に居るのではなく、裡側(うちがわ)に居るのだと教えるのである。

 敵、味方に分かれて、格闘ならびに闘争する姿は、まさに地獄絵そのものであり、その中には裏切りもあれば寝返りもあるのである。今まで味方と思っていたものが、突然、敵に塩を送るような事をして、敵方に就き、今度は攻める側に廻るのである。そしてまた、こうして裏切ったり、寝返ったりする者は、一度これをやらかせば、生涯、寝返りと裏切りを繰り返すものなのである。その最たるものが造反である。

 人間の世は、戦乱であり、その原形が競争原理の働く、弱肉強食の世界である。喰った方が悪いのではなく、喰われた方が悪いと称されるのが人間界の掟(おきて)である。そしてその裏には、裏切りもあれば寝返りもあると言う乱世こそが、人間界の、また実相でもあるのだ。

 例えば、和平の為に尽力をつくし、そうした戦乱の世を回避しよう努力している者が、逆に味方から起った刃(やいば)に倒れてしまうと言う事もある。
 この事は、徳川家康と、心の限りその尽力につくし、淀君一派の敵の刃に斃(たお)れた片桐且元(かたぎりかつもと)を見れば一目瞭然である。味方と思っていたのは、本当の味方ではなく、実はどこまでも戦乱に興じる敵だったのである。

  敵を恐れるべからず。味方を恐れるべし。味方こそ元凶なり。

 とあるのはこの事であり、敵よりも味方を恐れなければならないのである。

 本来、敵と言うものは存在しないのである。敵の発生は、味方が寝返ったり、裏切ったりする事で、敵が発生するのである。
 淀君一派が片桐且元を、家康に媚(こ)びを売る敵としたのは、まさにこうした理由からであり、また且元自身、淀君一派の豊臣家を滅ぼす元凶は、ここに巣喰っている事を見抜いていたからである。そして最後は、意見や主張の違いが生じ、敵味方が入り乱れ、裏切りや寝返りの乱戦となる。

 敵に対し、恩を施せば、やがては味方となり、味方が恨みを含めば、まさにそれは敵となるのである。織田信長と明智光秀の晩年の関係がこれであり、いずれも味方から敵が出ている。
 恩賞少なく、恨みが多ければ、総ては敵となり、やがては天下を敵とするようになるのである。

 殿中作法の御式内の思想には、「敵に恩恵を施せば味方となり、恨みは含まれれば敵となる」という人生哲学が見事に取り入れられ、「その禁を犯さず」というのがその根本原理なのである。
 礼法は、敵味方の摩擦を避ける為の崇高(すうこう)な行動律である。したがって無駄な敵を作る必要は無く、その根本には互いに犯されず、また犯さないものであった。

 武術とは、そもそも有事に方(あた)っての自己を全うする方法であり、そこには情況判断と危険や危機に対する感覚を養う為に学ぶものである。そして一切の危険を排除する為には、相手の打ち気を誘発させたり、士気を消滅させたり、あるいは「いなす」という所作を用い、これを躱すのである。
 したがって「躱(かわ)す」とは、単に槍や刀などだけではないのである。言葉や態度でも同じであり、武術の達人は、同時に、礼法の達人でもならねばならないのである。
 そして敵は、我が心の裡(うち)にも忍び寄る事を忘れてはならないのである。

●知より妙なるは魂なり

 礼儀の中心的な存在は、武士道に立脚した魂が息づいていなければならない。肉体と心の間には、それをコントロールする中心的な存在のがある。
 魂は文字通り「核の中心」を為(な)すものであり、魂は人間性の中心を司る働きがある。

 一方、魂は不死なる実体であり、これが受肉(霊・心・肉体の三位一体化)すると個性化され、人間性の合理的かつ心的、あるいは物的側面の核となる。この核こそが、魂である。
 人間の所有する知的、心的、物的構造は最も精妙なる意識を備え、これは一方で個性化された霊または魂を宿している。そしてこのように受肉された魂あるいは人間的な心の働きは、肉体と心と知と魂の四者を統合し、これが人間全体の構造を形作るのである。

 五官を含めた肉体の諸機能は、心によって制御され、心の衝動は自我の合理的次元の発露によって制御される。そしてこの「我」という存在は、人間の深層部に所有する潜在意識あるいは無意識の動きを同時に制御する事によって、魂の優劣の分岐点を形作る。

 魂のこのような単一機能について、それは経験より立証する事が出来る。人が自分を、肉体と心と知性、あるいは自我と同一視している時は、魂は自己の核に迫る事が出来ない。しかし魂は自我よりも大きく、しかも自我の背因を為(な)す。
 また、魂の唯一の目的は、超越的魂の実感を招き寄せる事にある。自分の霊的可能性を理解し、それを働かせると、人は背反、矛盾、苦楽、益害、熱寒などの相対的な世界を超越する事が出来る

 人が、自分の真の魂我を、肉体でも心でも、また合理心でも自我でもない場合、そこにはそれ以上の境地が存在し、これらの総てのものが、基礎そのものであると悟る時、そこには内なる輝きを見い出す事が出来る。
 内なる光の輝きが、その人間の姿勢を広げ、その人は相対性によって乱される事がなくなる。またその境地において、異質の統一を視(み)る事が出来、不和から修正された調和を視る事が出来る。

 自分とは異なる人々の接触によって、魂の光を発現し、自他一体の調和の世界に至る事が出来る。これこそが「愛する想念」であり、自他同根の真意を理解できるであろう。
 この境地に至ってこそ、家族、友人、知人、あるいは年少者や年輩者に関わりなく、更には優れている者、劣っている者との日々の接触の中で、人は生まれや境遇によって様々な違いがあっても、絶えず、同格意識を持ち、敬意と尊敬の念を以て、他人の長所を評価し、自制の態度を保てるようになる。その時に於てのみ、人は自己実現の段階に至り、神界からの放射である魂が、神と繋(つな)がり、「神人合一」の境地を知るのである。

 しかし神との繋がりは、自分が、ただ肉体と心と自我と思っている間は、その意識は眠ったままである。それを揺り動かし、眠りから覚ますには、魂の覚醒が必要であり、無我と奉仕に至った時、魂は武士道の姿勢を通じて、自我を覚醒させ、魂を揺すぶるのである。

 人間は自我のみで活動する場合、我(が)意識が旺盛である。自分の事を優先的に考え、他人を後回しにする。あるいは他人は顧みない。

 武術の稽古の諌言に「勝ちは譲れ、決して奪うな」とある。これは礼法の自他同根ならびに自他同一意識の中での、相手を憎む媒体ではなく、隣人の媒体として考え、「争わない境地」を会得する修行の方向性を示している。
 したがって修行の方向としては、勝ちを譲る事はあっても、奪い取るような卑怯な真似をするなと言っているのである。卑怯な真似は、やがて怨みを買い、自分を滅ぼしてしまう行為なのである。

 人間は我が旺盛になると、自分の事を棚に挙げる行動に趨(はし)るのが、紛れもない人間の裸の姿である。凡夫は誰一人、この狭い領域から抜け出す事が出来ない。しかし修行を重ねると、自分と他人の間に垣根を作っている事に気付き、自身の了見の狭さに思い当たるのである。
 ここに至って、はじめて自他離別の垣根が取り払われるのであって、「他と和する」という境地に至るのである。

 他人とは自分の分身であり、自分もまた他人から見れば、その分身に過ぎない。他人が自分に刃を向ける事は、自分が他人に刃を向けている事でもある。したがって自分の矛を納めれば、また他人もその矛を納めるのである。
 敵は外に居るのではなく、自分の裡側に居るのである。何処に敵が居るのかと言う事を知っていれば、敵を作らぬ善後策を講じる事が出来、敵を侮ったり、また敵から侮られる事がないのである。しかしこれを知っているだけでは駄目で、知っている事の実践が出来てこそ、その行動律が魂を伴うのである。また、これが陽明学で言う「知行合一」である。
 古人はこうした事を知り抜いていて、真摯に行動律に移し、「知より妙なるは魂なり」と言ったのである。


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