インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流の技法構成 >>
 
誇りの裏付けとなる数々の技法

■ 西郷派大東流の技法構成 ■
(さいごうはだいとうりゅうのぎほうこうせい)

合気二刀剣の剣技をとく意図する、西郷派の「二刀」対「一刀」の組討。
 

 西郷派大東流は儀法(ぎほう)の研究構成が、かつての「会津御留流(あいづおとめりゅう)」を母体とする総合武術である。その構成内容については、武術をあらゆる角度から研究し、時代の則した「伝統武術」の形態をとり、多種多様な儀法からなっている。そして儀法構成は、膨大な武技を有している。

 では何故、「膨大な武技」を所有しなければならないのか。
 それは、実戦において、「ただ一儀(いちぎ)を捻り出す為である。
 例えばそれは、点から点と辿って行くには「線」の働きが必要になる。「点」とは、一次元的存在である。これが二次元平面の上で移動すれば、直線が出来る。しかし、直線は平面状で、ただ「点の移動」に過ぎない。

 ところが、この「線」が、三本集まれば、この平面状には、三角形を構成することが出来る。三角形が出現してこそ、平面はその本分を発揮するようになる。更にこの三角形に、もう一本、直線が加われば、四角形を構成することになる。更にもう一本加われば、五角形となり、これにもう一本加われば、六角形となる。そして線の数を増やすことにより、七角形、八角形、九角形、十角形、十一角形、十二角形……と徐々に「角」の角度が鈍角となり滑らかさを増していく。この鈍角は、限りなく円弧の一辺に近くなる。
 つまり、「滑らかになる」ということは、徐々に「円」に近付くということだ。「角」がとれて、滑らかになり、「丸くなる」ということである。

 丸い円は、一種の無限運動を繰り返す。円は再び元に位置に回帰する。何れは帰着の道を辿る。そして、行き詰ることがないのである。
 つまり、円は循環するのである。循環の運動の中にこそ、本物が存在する。動きが無限となる。この無限の中にこそ無限運動の真髄(しんずい)はある。

 これを二次元平面の中だけでなく、三次元立体の中に円を組み立てれば、その円は球体化する。円が立体を帯び、球体化すれば、単に円運動だけではなく、球体の中で動く螺旋運動(らせんうんどう)へと発展する。この螺旋運動の構成の基本となるものが、一つ一つの儀法である。

 その為に、多くの業(わざ)を覚え、覚えた業を、次々に忘れていく。覚えて忘れるのである。
 「覚えて忘れる」というと、何処か矛盾したように考えてしまう。しかし、「覚えて忘れる」ことこそ、潜在意識の中に業を刻み込むことであり、覚えたものは忘れなければ、次の業が収まらない。その為に「覚えては忘れる行為」を繰り返す。これが稽古というものであり、修行というもんだ。

 覚えたものをいつまでも後生大事に蒐集(しゅうしゅう)していては、単に高級技法集めのコレクターに成り下がる。コレクターではマニアのレベルである。オタクのレベルである。大東流愛好者の中には、武田惣角の武勇伝に凭(もた)れ掛かるオタクが多い。オタクが「大東流○○会」を旗揚げしている。しかし、マニアのレベルだ。マニアのレベルで、実戦に役に立つ儀法が身に付くだろうか。
 修行の目的は、蒐集することではなく、覚えたものは忘れることにある。これは次のステップを踏む為である。

 したがって、覚えたものは、総て潜在意識の中に刻み込んで、次々に有意識の中では忘れ去って、消去していく。現世とは、「忘れる中」にこそ、本当の現実がある。忘れるとは、則ち「捨てる」ことである。「捨てる」ことこそ、武術の本義なのである。次々に覚え、そして次々に捨てる。

 では、何故忘れ、何故捨てねばならないのか。
 実戦に際し、一々覚えたものを頭で考えていては役に立つまい。「こうきたら、こう躱(かわ)し、次にこの技で打って出て……云々」などの、思考による動きでは、結局、追い詰められ、奇手を出すどころか、逆に墓穴を掘って敗北する。
 そうならない為には、まず、頭での思考から解放されることである。実戦に際し、頭で考えるものは、実際には役に立たない。自然と、無意識の中から出た、「奇手」のみが、実は「小が大を倒す秘訣」なのだ。
 武術の本義は、突き詰めれば、「小が大を制する」ことだ。これを本分にしなければ武術は成り立たない。

 今や、「柔よく剛を制す」は完全に死語になっている。この言葉は盛んに柔道に使われてきた。しかし、これを信じている柔道家など、一人も居まい。
 この言葉が死語になった原因は、頭で考える競技武道から来たものである。乱取試合から来たものである。争いの中から派生したものである。頭で考え、力で勝つというのが、今日の柔道の姿である。したがって、「老よく若を制す」などとなれば、これは夢の、また夢である。
 柔道の試合に老人は一人も登場しない。柔道では、老人は最初から体力に勝る若者には勝てないとしているからだ。だから、「老よく若を制す」など、絶対にありえない。

 頭で考え、躰を動かし、体力に物を言わせて、敵対者を制するというのが、柔道に限らず、今日の多くの競技武道の特徴とするところである。そしてその特徴は、試合においてのみ有効である。

 しかし、実戦では頭で考えているうちは、「奇手」の出現は起らない。無意識から出た、臨機応変な業(わざ)こそ、実際には役立つものである。これはその場その場の、「出たとこ勝負」であり、戦う前から、自分が負けることを予想しないことである。

 対戦相手が自分より大男で、腕力もあり、技量も優れていれば、もう、戦いもしないうちから怖気(おじけ)づいて、自分は負けたと思い込んでしまう。自分で負けを想念上に描いているのだから、その負けは決定的になる。心の描いたものは、必ず出現するというのが現象人間界の「心像化現象」であるから、この予想を的中し、敗北から免れることは出来ない。

 一方、数々の奇手をあらゆる角度から研究し、多くの戦い方を知り、数多くの業(わざ)を知っていれば、これは多角形的存在であり、三角形や四角形とは異なる。三角形の辺は三辺であり、四角形の辺は四辺である。三辺では「三つの技」を知るだけであり、四角形では「四つの技」を知るだけである。この程度のレベルで、どうして多角形から出現する技を、実戦に遣うことができるだろうか。

 奇手というのは、多くの技を知るうちの、「ただ一儀」のことだけである。したがって、この「ただ一儀」を用いる為に、たった一つの技を覚えていれば、それで済むということではあるまい。
 実戦は様々に変化する。変化に対応する為には、無数に近い業(わざ)が潜在意識の中に刻まれていなければならない。
 実戦に遣(つか)うのは「ただ一儀」であるかも知れないが、この「ただ一儀」を捻(ひ)り出す為に、実は多くの業を研究し、忘れるという修練をしておかなければならないのである。

 実戦は、自分の頭の中で予想した通りに事が運ばない。必ず、意外な変化が現れる。思わぬアクシデントが派生する。この派生こそ、実戦の実戦たる所以(ゆえん)で、計算通りに事が運ばないのである。だから、「出たとこ勝負」なのである。この「出たとこ勝負」を「他力一乗」という。

 実戦に千変万化と化して、これに応じきれるタダ一つの原理は、「他力一乗」である。
 わが流は、実戦を「他力一乗」の「天命」に身を委ねる事と教える。人間の棲(す)む現象界では、人間の力ではどうしようもならないことが起る。不可抗力なども、人間の力ではどうしようもない。これは「天命」が働くからだ。
 天命に逆らっても仕方あるまい。天命に順応することこそ、「他力一乗」の真髄(しんずい)である。つまり、「他力一乗」とは、「人事を尽くして天命を待つ」ということである。その為には、日々の精進努力が必要であり、これに邁進(まいしん)することである。

 則(すなわ)ち、「武術修行とは何か」と問われれば、「他力一乗」の原理を学ぶことだといえる。「他力一乗」を知らずして、敵に勝たないまでも、「負けない境地」は会得できまい。「負けない境地」を得る為には、「他力一乗」を研究して、それにとことん詰め寄ることだ。
 そして、大事なことは、勝つことではなく、「負けない」ことだ。

 「負けない」ことにこそ、求道者の「道」である。武術の「求道の精神」は此処にある。「他力一乗」を得て、自由自在となり、変応自在となるのである。この「自在」の中にこそ、「他力一乗」が存在しているのである。つまり、死なず、殺されず、どんな窮地(きゅうち)にあっても生き残ることだ。生き残る因縁を持っていれば、天は自らを助けるのである。

 入門者は、まず合気武術の基礎である「剣術」の手解きを受け、護身術的な意味合いを含む「基本柔術」の修得を目指すのである。
 以後、熟練の度合いや、進級に応じて技法の幅を広げていくが、その内容は指導者の方針や各々の適性に準じることになる。そして、一つ一つの業(わざ)を、身に付け、「我が物」とし、しっかり潜在意識の中に刻み込み、叩き込んだら、次は「忘れる作業」に取り掛かる。覚えたものを、「捨てる」のである。思えたものを有意識の中に閉じ込めていては、頭で考える思考が行動の中に顕(あらわ)れてしまう。頭で考える作為(さくい)は弱いものである。

 顕在意識では、実戦には弱いのである。奇手が出てこないのである。有意識からは何も出てこないのだ。咄嗟(とっさ)「臨機応変さ」があってこそ、わが命は護られるのである。
 したがって、何ものにも固執することなく、また、こだわることもない。何ものにも、こだわらず、捨てることにこそ、この世の真理がある。捨てれば、楽になるのである。そして捨てるものが何もなくなったとき、人は最強の強さを得る。何も捨てるものがなくなった者は、実に強い。弱者も、この時機(とき)は勇者となる。

 捨てるものを全部捨て、無一物になったとき、あたらな真理の力が加わる。これは力を捨てきった後にくる、新たな力だ。

 則(すなわ)ち、この「新たな力」をもって、刀を持てば「剣術」、素手ならば「柔術」、五尺の杖を持てば「杖術」となり、間合いが遠ければ「手裏剣術」と、所持している武具や状況に応じた技法を行使するのが総合武術である。西郷派の特徴は、「如何様にも変化」し、変応自在であることだ。
 それは、その何(いず)れもが独立して存在しているわけではなく、互いに影響し、補い合いながら成り立っていのである。

他力一乗から発する西郷派の「合気剣」の妙儀。合気剣は、対峙(たいじ)した敵の裏に転進して廻り込み、崩して、重心を失わしめ、敵を敗北に追い込む。

 例えば、剣術は剣術の為だけに存在しているわけではなく、その修練の中で得た胆力(たんりょく)は、そのまま柔術に応用が利き、杖術が内包する身体操法は、敵の攻撃に対する「捌き」の原形となっているのである。

 また、躰動法(たいどうほう)を得る為には、木刀の「素振り」や、腕節棍(わんせつこん)の「うねり」が必要であろう。「うねり」が会得できれば、例えば、修練した手裏剣術は「合気手裏剣」となり、対峙(たいじ)する敵を、「蛇に睨(にら)まれたカエル」同然にすることができよう。

 そして、それらの儀法(ぎほう)を練りながら、最終的に目指すべき到達点が「合気」と呼ばれる特殊な技術である。合気は、素振りによる「縦の動き」であり、また、うねりも、躰(からだ)を縦に動かす、「うねり」の中から出現する。

 一方、こうした動きに反して、スポーツ武道や格闘技の多くは、「横に振り回す」ことと、「直線を通る」ことに終始し、縦に動かすことや、螺旋(らせん)に動く「円の軌道」を、殆ど通らない動きに終始する。

 したがって、呼吸の吐納(とのう)も、力むことから始まり、「技を掛ける瞬間」は、呼吸が停止している。息が止まっている。力むからだ。そして、これが強いては、心臓肥大症へと陥らせてしまうのである。
 これらは、力での対抗であり、「剛よく柔を制す」が、力格闘の肉体原理であるようだ。こうした体力至上主義では、ひ弱なものは剛者に対抗できまい。

 そこで、独特な「うねり」から発生する、躰動法が必要になる。これにより、剛者を「崩す」のである。この「崩し」の中にこそ、合気がある。

 合気は難解かつ深遠で、西郷派大東流の全ての儀法は、合気の修得の為に存在していると言っても過言ではないほど、重要な意味を持っている。
 合気を用いて、剣を操れば合気剣術となり、柔術と合わせれば合気柔術へと変化するのである。この変化の中にこそ、合気が存在する。合気とは、時機と場所に応じた「変化」なのである。

 西郷派大東流では、この合気の術理を理解する為に、膨大な数の儀法を学び、そして潜在意識の中に刻み込んで忘れ、変幻自在の、何ものにも囚(とら)われない心を養い、型を超越した「無形の動き」を会得するのである。ここに、覚えた「型」が、「動き」へと移行する変化がある。
 こだわりを無くし、心魂を昇華させ、やがて「ただ一つのこと」に回帰させる為に、西郷派は多岐に亘る儀法群で構成されているのである。そして、それらを総括して換言するならば、まさに「他力一乗」であろう。
 則ち、覚えることは、忘れることなのである。


戻る << 大東流の技法構成 >> 次へ
 
Technique
   
    
トップ リンク お問い合わせ