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現代に生きる武士道集団

■ 半自給自足 ■
(はんじきゅうじそく)

 尚道館では半自給自足の有機農法による農作物生産の為、一切の農薬を使わず、頑強で丈夫な体躯づくりを目指している。

 日本国民の多くは、現在も飽食の時代の真っ只中にあり、ご都合主義と、金儲けができればどんな事でもする料理人の流行に振り回され、そのレシピである調理法の味に騙され、有害な食品を自ら好んでそれを体内に取り入れている。

 また多くの食材は、他人任せの化学的現代農法によって生産されたものが殆どであり、こうしたものを知らず知らずのうちに、食べ慣らされているという観が強い。しかしこうした農薬を用いて生産された食材は、直ぐに人体に影響が現われないので、一般には無視されがちである。ここに現代社会の落とし穴があり、今や国民の胃袋は、営利追求の為の「ゴミ箱」と化している。

 したがって尚道館ではこうした愚をさける為に、館長である宗家自らが鍬を持ち、畑を耕し、苗を植え、少しでも有益な食材をと目指し、玄米穀物菜食主義を徹底して、頑強で丈夫な体躯づくりに励んでいる。

尚道館・菜園2

▲尚道館/菜園

●なぜ、自給自足に徹しなければならないか

 人間の営みは、元々が自給自足の精神から出発した。その意味で、古代人はその総て誰もが、生きる為のスペシャリストであった。
 しかし権力者が生まれ、王朝が誕生すると、人間の営みは様々な方面に分化されて行った。そして、この中に存在した人間の行動原理は、「誰もが富貴を欲して、貧賤を憎む行動原理」だった。今日も、この原理の延長上に有る。

 現代人が営む現世は、一見して実力社会のように思われている。国家も、国家を担う政治家も、あるいは日本屈指の実業家や経営者の財界人においても、平素の言論では有能な士を任用せよと豪語している。
 しかしこうした思考が、一度大衆に向けて政令が下されると、有能な士を採用して、その能力を発揮させようとしない。

 天下国家の段になると、こうした政財界の識者と言われる連中は、まったく、小事にはよく気がつくのであるが、大事・大問題となると有能な士を任用するどころか、骨肉の親戚・親族で重要ポストを固めてしまい、手腕のない子弟や縁故にそれを任せ、暗記力に優れ、表皮だけが見栄えがい男女を採用する。同族政治家集団や同族企業がその良い例である。

 識者は、例えば自分のグルメを満喫させようとすれば、まず、よい料理人を探す。よい料理人は、自らで食材が作れないので、農産物、海産物のよい生産者を探す。畜産の生産者は、自分で育てた牛や豚を自分の手で屠殺(とさつ)できないので、よい屠殺人を探し、その者に解体を委ねる。
 このようにして、識者と言えども、自分では何一つ出来もしないのである。一頭の牛や豚、一匹の魚や貝、その他の農作物や海産物を採取することは、自分一人ではよく出来ないのである。
 したがって、自分では出来ないから、こうした小事に対し、有能な、腕の立つ達人を得ようとするのである。そしてこうした職人レベルの任用は、まことに適切であると言えよう。

 ところが、国家の大事となると、骨肉の親戚・親族で重要ポストを固めてしまうのは何故だろうか。
 識者は、小事にはよく気がつくが、大事には疎いという現実がここにある。
 では、何故こういう事態が起ったか。
 それは人生を、「富貴を成功者の鏡、貧賤を落伍者の末路」と見たからである。また現実に、こうした価値観は、この思考で動かされ、これが現代人の行動原理になっている。

 かつての美徳とされた、力ある者が弱き者を助け、財のある者が努めてそれを社会に還元・分配し、教養ある者や徳の高い者が進んで低い者に教え諭(さと)という事がなくなった。
 こうなると、飢えた者が飢餓に陥り、衣服を持たぬ者が寒さに慄(ふる)え、戦乱で戦々兢々としている者が休まる寝床を失い、社会の人民は誰もが希望を失い、不幸ばかりが付きまとう現実を作り出してしまうのである。

 識者の恩恵に預かるのは、骨肉の親戚・親族、手腕のない子弟や縁故、表面的で見栄えの良い美男美女ばかりである。
 しかしこうした、識者の恩恵に預かった連中が、果たして最下位の人民の苦しみが分かるだろうか。
 もし分からないで国家を動かしているとすれば、国が乱れるのは当然ではないか。
 そして人民までがこれに習い、富貴を欲し、貧賤を賎しむと言う思考が隅々にまで蔓延(まんえん)すれば、社会全体がこうした考え方に毒され、誰もが表皮の価値観で行動する事になるだろう。

 もはやこうなると、表彰されるべき賢者が表彰されず、刑罰のある無法者が刑罰を受けず、功績のない者が賞を受け、無罪の者が罪を受けるという現実を招く。
 したがって人民は、積極性を失い、善行を積む気持ちが挫け、楽を好んで苦を実践する者が居なくなり、せっかく悟った学者の真理も、他人の影に隠れて、相互に批判をしなくなってしまうである。

 「もの」が主人を得ずして腐る現象とよく似ており、社会もこれと同じように蝕まれ、腐って行くであろう。
 他人を批判し、反対意見を唱えるのは、これに代わる素晴らしい意見を持ち、これを克明に、他人の短所を指摘し、これを論ずる事が出来るからである。
 おおよそ、人間の進歩は、ここにあるのではあるまいか。

 さて、尚道館ではこうした観点に基づき、まず、自らが畑を耕す事、土をいじる事、苗を植える事、それを育てる事、そして最後は収穫する事という一連の作業を、「一種の人生」と捉えたのである。 
 そこには人間の一生と同じような四期(生・老・病・死)が、植物にもあり、これが植物の四季(春・夏・秋・冬)である。この中にこそ、「人間とは何か」「人生とは何か」「自分とは何か」という、人間が生きるという最大の命題が隠されているのである。

●無農薬と有機農法で、頑強で丈夫な体躯づくり

 頑強で丈夫な体躯とは、武術実践者のそのままの体躯を指す。試合での勝利最多記録者でも、怪我ばかりして、事故ばかり起こし、至る処に故障ばかりを持っていてはなにもならない。

 そこで尚道館では、食べ物を自給自足で、自らが生産すると言う農本思想に立ち、現在これを実践している。
 そしてこの実戦の基本思想は、「無農薬」と「有機農法」という二大柱を掲げている。

 これまでの農業や漁業に従事する生産者達は、失敗も少なく、手軽で効率がよく、大量に生産できる農業や漁業に手を染めて来た。そして農薬や化学物質で地球の大地を汚し、また海を汚染して来た。
 その結果、人間の躰は病み、食品の安全性は失われ、高級な食材ばかりが論じられて、安全性は二の次であった。

 また、こうした現実を政府・厚生労働省は指摘せず、化学肥料や農薬を使った農業を支援し、またハマチの養殖等に見られる海洋汚染で、海底をヘドロで覆い尽くす現実が生まれた。畜産農家もこうした地球汚染に一役買っている現実がある。

 さて、尚道館はこうした愚をさける為に、半自給農作物収穫運動を実施している。

1.農薬や化学肥料で、人体に悪影響をおよぼすアトピー性皮膚炎を排除する。

2.自ら安全な食品を作り出すばかりでなく、有機野菜の四季折々の味を楽しみ、本当の季節感を食卓に取り戻す

3.人間の人体は「食の化身」である。
 その人が何を食べているかで、健康と長寿と思考能力は決定される。
 したがって、躰(からだ)に害のある、牛肉や豚肉や大形高級魚の食肉類等に含まれるアンモニアや二級アミンといった動物性蛋白質は摂らず、植物性の食品で健康を維持する頑強な体躯をつくる事を目的とする。

4.農薬や化学肥料が使われ始めたのは、農作物が商品として大量に生産されて、消費者に多く買わせると言う経済的背景があった。これが資本主義の「消費の為の消費」である。

 ところが、自給自足で農作物生産を展開すると、食べる量だけを計画的に予測して生産でき、無駄を無くす事が出来る。自給自足を目的とする場合、僅かな土地で家庭菜園を作る事が出来、ここでは全く農薬や化学肥料を使う必要がなくなる。

 また農薬や化学肥料を使わぬから、家庭で出た生ゴミや落ち葉等を再利用して、これを上手に活用し、身近な有機物で、有機栽培による安全な野菜づくりが楽しめる。

 今日格闘技は、スポーツ形式を模倣し、多くの観戦客を集める事によって興業として成り立ち、本来の武術とは全く正反対の、拝金主義・金銭至上主義の方向に向かって歩き始めている。

 こうした価値観で格闘技が展開され、観客に媚びを売る事ばかりやっていると、末路は武術本来の「心」というものが失われて、それを愛好するのは「金の為」という事になるであろう。

 これこそ、日本武術にとっては退化であり、こうした愛好者が黄金の奴隷に成り下がって走狗すれば、日本にとっては、まさに「亡国」である。


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