インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >>
 
現代に生きる武士道集団
西郷派大東流シンボル

●西郷派大東流の思想体系

 文武両道を基盤に置き、その人間的向上を目指すものが西郷派大東流であり、また、西郷派を形造るのは、西郷派の掲げる思想である。また、武術は思想が伴ってこそ、文武の働きが生まれるのである。

西 郷 派 大 東 流 の 思 想
1.武士道論
2.陽明学
3.合気戦闘思想
4.八門遁甲
5.日本論
6.食養道
7.菜根譚
8.老 子
9.荘 子
10.茶 道

 上記の各項目名をクリックすれば、該当項目にジャンプします。(ただし、一部製作中です)

 

 武術に思想が存在しなければ、生死を明白にすることはできない。
 何故ならば、「武の道」といわれるものは、敵を殺傷する術から入って、必死三昧に修行し、
「生死の道」を明らかにしなければならないからである。「生死の道」を明らかにすることこそ、「独立自在の境地」であり、敵を施すところなからしめ、「必勝の気」を生々発展させることとなる。また「正大の気」をもって長寿で健康を全うし、天地大自然の順応する生活を学ぶからである。

 そしてこの道は、一朝一夕にはならず、日々錬錬をもって修行するところに、思想としての拠り所を見出すのである。
 この意味において、真の武の道の修行は、坐禅することも、また神仏に頼ることも必要としないのである。何故ならば、武の道そのものが、宗教で言う「行」であり、これこそ唯一の、敵の理不尽に敢然と立ち向かう
「道」だからである。

 

●日本という国を見直そう

 日本人は日本人の歴史を卑下し、自虐的立場に追い込んで、日本という国を「悪」の色に塗りつぶす、昨今の訝(おか)しな風潮は、いったい誰が作り出したものであろうか。
 誰もが横文字に習い、「日の丸」を毛嫌いする考え方は、誰が植えつけたものであろうか。

 さて、「日の丸」が国旗になった歴史は長いようである。
 既に「日の丸」は、戦国時代の武将の上杉謙信も武田信玄も、旗印に使った歴史があり、豊臣秀吉にあっては軍船の旗印で用いており、徳川幕府に至っては寛永年間に、船に「日の丸」を掲げている。
 また、幕末の開国を迫られた時期には薩摩藩の島津斉彬
(しまづ‐なりあきら)の意志が通され、外国船と間違われないように安政年間に「日の丸」が登場している。

 日の丸とは「太陽」を象徴したもので、これこそ穏やかな農耕民族にシンボルではなかったか。
 日本人は太陽と倶
(とも)に太陽崇拝の風習が古来よりあって、これが日の丸の源である。穏やかさの象徴であるといってもよいであろう。
 したがって、別の外国の国家権力に対して、誇示という意味合いがないことは明確である。

 歴史を振り返ると、ヨーロッパなどを見て検(み)ると、君主や諸侯の紋章を取り入れたものが殆どであり、国旗の色も、その紋章からきているものが少なくなく、デザインも紋章を模倣したものが少なくない。
 ところが、それらの国旗に比べると、上からの強制ではなく、純粋に太陽を崇拝する国民として、日の丸はむしろ穏やかな、民主的な国旗ではないかと思うのである。ここに日本人の、理屈や論理で生み出された主義主張を国旗にしたものよりも、自然発生的に興
(おこ)った日の丸は、外国の国旗より理屈がなくて、自然主義的である。

 一方、例えばフランス国旗などを検(み)ると、ここには理屈や論理が漂っている。
 フランスの三色旗は青・白・赤である。この色の象徴は、フリーメーソン的な啓蒙主義の自由・平等・博愛を表している。つまり、そこには理屈があり、論理がある。
 こうしたものに比べると、日の丸は理屈や論理が存在しない。実に自然発生的であり、自然主義を地で行くようなものだ。

 こうした理屈と論理で固められたものよりも、日の丸は穏やかであり、太陽と倶に生きる農耕民族の象徴である。そしてこれは、イギリス国民が、自分たちの先祖がユニオン・ジャックを押し立てて、 手前勝手な植民地造りを遣ったのと対照的である。その最たるものが、アヘン戦争ではなかったか。

西郷派は思想と一体である。スローガンや体裁ではなく、実践を通して、現実に精神と肉体を錬磨している。それが武士道に基づく、陽明学の言う「事上磨錬」である。
国の堕落を憂えて、日本人らしい強さ、優しさを復興すべく啓蒙活動を行っている。つまり国際社会の中で、「日本人とは、とうあるべきか」を啓蒙しているのである。
政治や営利団体とは、一切縁を持たず、自主独立の精神で活動している。これが「自前主義」の徹底である。
コツコツと地味な稽古を重ね、行動の中から自分自身の自己同一性を確立していく。誇りも地味な稽古の積み重ねから生まれる。
サークル活動や趣味として武術らしきものを学ぶのではなく、本来の意味で「武術」という文化を継承している。つまり、根本に「伝統武術」の自負がある。
時代に応じて変化する伝統武術であり、技の保存に価値を置く、他派の伝承武術的大東流とは根本的に異なっている。
世の中と自分との関係を絶たず、社会的な生き物としての人間性を高める努力を実践するのが西郷派。人間研究なくして、武術の存在はありえない。
武術団体、武道団体、スポーツ団体の数ある中で、西郷派大東流は徹底した「自前主義」を貫いている。
一般に、こうした団体を検(み)ると、国会議員や地方政治家や地元の有志を連ねて、彼等を「最高顧問」とか、「名誉総裁」や「名誉顧問」の肩書きで、頂点に祀り上げ、その威光で、政治がらみ、有志の思惑からみの活動を展開しているが、わが流は「自前主義」である。自分のことは自分で完結するというのが、武人たる根本なので、こうした「最高○○……」とか、「名誉○○……」などが一人も居ない。これこそ他の一線を画して、誇るべき点であろう。
 

●日本の報道は中立・公正・公平か

 今日の日本武術・武道界には、一方的な報道が罷(まか)り通り、理不尽な遣り方が商業主義とあいまって、問題点をきちんと取り上げていない。それは一方的であるといってよい。
 輪に輪を掛けて、いつしか事実無根の記事が一人歩きしている。そして実
(まこと)しやかに信じられている。

 ためにこれらの事実無根は、人権侵害や名誉毀損(きそん)や営業妨害を齎(もたら)し、中傷誹謗(ひぼう)された者は、言語に絶する罵詈雑言の煽(あお)りを受ける。
 刑法230条によると、「公然事実を指摘し人の名誉を毀損したる者はその事実の有無に問わず罰則が科せられる」となっている。しかし、一部のマイナーな雑誌『合気ニュース』は、公益性や公共性、更にはニュース性がないのにもかかわらず、あたかもニュースの如くこれを報じ、名誉毀損行為を18年以上も続けている。中立・公正とは名ばかりで、実に不届きな雑誌がある。

 日本は自由を標榜(ひょうぼう)する国家だが、問題はその報道の仕方や公表についてである。ここに予断と偏見が入ってはなるまい。また、このように導かれた結果には、必ず集団ヒステリー的な現象が起こり、このように誘導するのは明らかに違法であり、これこそジャーナリズムとモラルに反しているといえる。

 「西郷派」と「大東流」の違いについて、深く知りたいと思う、「ご用とお急ぎでない方」は、イメージをクリックして下さい。
 もし、西郷派に対する不明な箇所があれば、次のページを読むことにより、一層、理解が深まると思います。

 また、詳細については『吾が修行時代を振り帰る』 を読めば明らかになります。  


戻る << トップページ(三)
 TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ