未来は、あなたの「今」の自信で決定されます。
人は、自信過剰の愚は冒すべきではありませんが、「自信を最後まで失わない」と言う心構えは必要です。
「自信を失わない」とは、自分の未来を偶然に期待するのではなく、自分の未来を絶望感などで踏み潰されて、軽々しく諦めないということなのです。
「今」種を蒔いたことは、必ず未来に開花します。これは「因果律の法則」です。
精一杯努力し、その結果が現われるのは、未来においてのみ現実化し、実現化します。
こういう事実を知っている自信家は、人に頼り、他力本願に行動することを心外に思います。
自分の運命は「自分で決定する」という自力を信じていますから、こうした自信家は、やはり何処かで、他人の意見をよく聞いているのです。必ず、経験者や熟練の先輩の意見を真摯(しんし)に聞き、それに熱心に耳を傾ける謙虚さを持っています。
では何故、自分の事は、自分で決定するという気構えを持ちながらも、謙虚に耳を傾ける行動をするのでしょうか。
そこには、聞くべき貴重な価値が存在するからです。他人の意見は、宝の山の宝庫と思っているからです。これこそ賢明な考え方と言えましょう。
その価値を、次は自分の中に取り込んで、実戦を思い浮かべながら、シュミレーションを試みます。そして繰り返し、「イメージ・トレーニング」を積み重ね、心の中に焼き付けます。
心像化現象は、心に浮かんだ事は、実際に現実として、そそままの事実として現われますから、こうした場合、良い想念を潜在意識に刻み込みますと、これは事実となります。これを心と現実の「同時性」と呼びます。
潜在意識に内在している結果は、これから起こる事を強く暗示し、この事を感知する能力を養った人だけに、実際に現実として具現されます。
人を愛する事は、人のために尽くすこと、あるいは奉仕することであり、こうした想像が克明に映像となった時、それは大きな自信となって、万物を積極的に動かす、原動力となるのです。
喩えば、病気を治したい、と一心に念じたとしましょう。
これだけで、病気が治ると考える人は、おそらく居ないでしょう。治すためには、完治に至るまでの、行動(「癒しの杜の会」では食改革を試み、霊的食養道を実践する)が必要です。
あらるゆる意識を集中させて、思考し、正しい情報と、それを判断を聞き分ける耳が必要です。
万事を尽くせば、それは歴然として、結果として現われてきます。
したがって、即決状態に至らなくても、物事を諦めないで、努力しつつ、行動し、じっくりと結果の出るのを待つ、忍耐力が必要です。こうした意識を常に育てて行けば、それはやがて、自分で誇れる特異性が訪れます。
そして結論から言いますと、自信とは、あるいは成就とは、決して諦めないことなのです。自分の行動力と思考力で、取り組んだ事象が成就するか、否かは、「今」を、自分で「見通す」ことが出来るか、という事に繋(かか)るからです。
だから、「見通し」を立てるという事は、「今」の想像力が、長く持続するか、否かに繋っているのです。
そして、更に付け加えますと、「特異なもの」「誇れるもの」が自分に備わっていてこそ、それが自信となり、いざと言う時の「切り札」となるのです。
「切り札」とは、本来、無闇矢鱈に遣うものではありませんが、しかしこれを所有するという事は、現実問題として、何か不慮の事故に遭遇した場合の、「いざと言う時」の頼もしい味方となります。
だから、普段からこうした「切り札」を握るために努力を惜しまず、所有するように心掛けるべきです。
人間は生きて居る以上、必ず人生に一度や二度、不慮の事故や、大きな病気に遭遇します。その時のために、普段から「備え」を造る必要があり、喩えば、抗ガン対策を考えた場合、安易にガン保険などを頼り、もしガンにかかったらというような安易な気持ちではなく、万一、ガンになっても、それを自分で治せるだけの修復の智慧を持ち、自然治癒するだけの実践力が必要です。
他人任せ、医者任せでは、病気の恢復も、開運も決して成就しません。
この現実を、単なる運勢判断の世界と安易に考えてしまうことは、その人に自主性が無く、自分の運命を自分で選択できないという、お粗末な性癖が、自らを柔躙(じゅうりん)しているということになります。
「思い立ったが、吉日」という言葉を思い出して下さい。そして、それは「今」と言う時期を除いて、外はありません。
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