精神障害と霊障
怨霊化に加速がつく現代社会
 精神分裂病という医学用語は、差別や偏見を招きやすいということで、日本精神神経学会が2002年6月30日に、「精神分裂病」というこれまでの呼び名を、「統合失調症」という名に改めた。同時に、「統合失調症」に罹(かか)る人が急増した。

 物質文明と金融経済が猛烈な勢いで膨張・発展する中、複雑多岐を極める現代の社会構造は、日本もアメリカ並に、百人に一人以上(1.6%前後)という精神障害者の発病が日本にも押し寄せて来た。また、ノイローゼなどである自律神経失調症(不定愁訴症候群)も、心理的な病因によって起る精神の機能障害から一変して、精神障害へと移行し、統合失調症に罹る人が増えてきた。

 本来、神経症は器質的病変はなく、人格の崩壊もないと、これまでの精神医学では信じられていたが、ここにきて、神経症から分裂病初期へと転化する人も多くなり、やがて本格的な分裂症状が現れると言う人も多くなって来た。
 その証拠に、何処の精神病院の入院病棟も満員であり、また街中の神経科や精神科のクリニックも、こうした疑いのある人達で溢れかえっている。

 現代社会は自律神経に何らかの影響を与える、特殊な社会構造を持つ。したがって自律神経系も狂わされ易い。不安神経症・心気神経症・強迫神経症・離人神経症・抑鬱神経症・神経衰弱・ヒステリーなど種々の病型を持つ神経症は、病状初期状態には人格の破壊は見られなかったが、これが徐々に進行し、深層心理の奥深くに巣喰うと、やがて精神障害へと発展する。

 また、日本では稀(まれ)であった離人症(自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない異常な精神状態で、人格感喪失や有情感喪失をともなう)等にも見受けられるように、現代社会は人間関係と言う社会生活の中で、複雑に絡み合う上下関係や、横の繋(つな)がりの隣人関係が断片化を見せ、極度な孤立主義や個人主義、あるいはマイホーム主義や少子化構造に、その畸形の兆候と、異変が見られるようになった。
 物質文明の高速化に翻弄(ほんろう)され、金融経済の契約履行に追い捲くられて、煩悩剥き出しの一本化となり、金・物・色が最優先される現象が起きている。
 また一方、社会が多様化し、嗜好(しこう)や主義主張が細分化され、それにともなう啀(いが)み合や弊害(へいがい)が現れるようになった。大は宗教問題から、小は個人間の趣味や嗜好等に及ぶ範囲のものまで。
 その結果、現代の社会構造は高速回転を始め、遠心分離器のように遠心分離器化され、そこらか必然的に弾き出される者が出て来ている。こうして、弾き出された者は、性格異常者や性格粗暴者であったり、あるいは心の片隅に何等かの不安を覚える者であったりする。複雑多岐化する現実社会の中で、「統合失調症」をはじめとする、精神障害や機能障害が急増しているというのが実情だ。

 現代は対人関係が複雑化し、相互間の人間関係は益々悪化する一方で、特定の人に恨みを持つ人、あるいは人から恨みを持たれる人が増えて来ており、こうした人間関係の悪化は、いまや反感意識を通り越して、怨念(おんねん)の生霊化(いきりょうか)現象を見て、こうした怨念の塊(かたまり)が現代社会を覆(おお)い尽くそうとしている。
 これまで病気とはとられなかった不定愁訴(ふていしゅうそ)症候群は、今や、「神経症」の名で呼ばれるようになり、自律神経系の失調による症状は、機能障害や精神障害を誘発する事でよく知られるようになった。

 自律神経系失調は、神経症の身体的表現と考えられ、倦怠・のぼせ・冷え性・めまい・頭痛・肩こり・動悸・息切れ・食思不振・腹痛・便秘・下痢・多汗・無汗・不安・抑鬱など自覚的愁訴は多彩かつ、しばしば強いが、器質的異常を欠く不定愁訴症候群であり、意志とは無関係に、血管・心臓・胃腸・子宮・膀胱・内分泌腺・汗腺・唾液腺・膵臓などを支配しする自律神経機能コントロールが委ねられ、生体の植物的機能を自動的に調節する神経系が一度狂うと、交感神経と副交感神経までを狂わせ、廃人(はいじん)の人生を送る事を余儀無くしてしまう時代が到来している。

 では、こうした病因は、何処に問題点を持つのか。
 それは昨今は食生活の誤りからであろう。ガン疾患や精神分裂病(特に自律神経失調症といわれる神経症や鬱病が激増している)を始めとする、神経症や躁鬱病(そううつびょう)が急増しているが、総べては「食の誤り」から始まったことに起因していると考えられる。

 日本も、食生活の欧米化が進んでいる為、アメリカ並に精神病が増えていると言う現実がある。まさに、「食べ物の恨み」であり、こうした恨みに生霊(いきりょう)が取り憑(つ)き、飢えを経験した食べられない霊が、不成仏霊化して、生身の人間に取り憑いていることも少なくない。
 人間の恨みや憎悪や妬みは、それが極限状態に達すると、「唸」ねん/霊的には唸波と言われるもので、恨みや妬みや憎悪の反感意識から派生する。意識体であり、時空に浮遊する霊魂の一種)となって怨念化し、まさに生霊的な現象でこの世を覆ってしまう。
 昨今の精神病院の入院患者満員化や、精神科・神経科クリニックでの患者急増現象は、現代が人間の持つ唸の、怨念の塊の生霊化で覆われてしまっている事を物語っている。

 今日でも、世界の半数以上の人類は、相当な「飢餓」の状態にある。そうした恨みは、やがて怨念となって生霊化し、食える者や持てる者へと取り憑(つ)く。その為、食える者と、食えない者との食糧格差が出来、食べ物の恨みから、食えない霊は極度に恨みの念(唸波)を発し、生霊化してく。

 さて、食べ物の恨みには二つある。
 一つは、食える者と、食えない者との食糧格差であり、これは持たざる者と持てる者の経済状態における貧富の差を現す。食える者とは、常に自分の家の冷蔵庫には沢山の食べ物が確保・貯蔵されていて、喰うに困らない人を言いう。
 一方食えない人は、明日の食べ物は愚か、今日食べるものもない人のことを言う。
 昨今の日本では、発展途上国の餓死者の出る社会構造とは違っているので、もし、そうした人がいれば、福祉の対象となり、直ぐに各市町村の福祉事務所の保護措置が取られるが、貧困に喘(あえ)ぐ国々では、こうした福祉行政すら徹底されておらず、依然として餓死者が出ている。ソマリア(Somalia/アフリカ大陸東端の民主共和国)等の飢餓国が良い例であろう。

 日本の食産業は、大衆に新たな食材を提供する為に、外国のありとあらゆる食材を輸入し、これを消費者に提供する。しかし、こうした現在の日本人の飽食を背景とする、外国への買い出しは、他人の米櫃(こめびつ)に手を突っ込み、金でこれを買い上げると言う行為であるから、金にものを言わせて、発展途上国の、その国の国民の食べ物までを取り上げてしまうと言う現実は、当然そこには、恨みが発生する。

 外国の多くの食材は、その国の人の口には、金持ち以外殆ど入らない。片っ端から金で買い上げられ、金持ち国へと奪い去られてしまう。こうした現象が発展途上国では起きているのである。
 日本人が金にものを言わせて、これを持ち去っていく行為を、こうした国の人々は、一体どのような目で見て、どう考えているのだろうか。
 他人の米櫃の中に手を突っ込む行為を、中国大陸や東南アジアでは、日本人を評して、「侵略者」と言うそうだ。

  日本人がエコノミック・アニマル(economic animal)と評されて随分と久しい。世界は経済動物である日本人に対し、経済的な利益のみを追求する日本人をエコノミック・アニマルと皮肉った。そして今日も、その延長上にある。
 昨今の中国大陸や東南アジアなどで日本人がバカにされ、抗日運動や日本人排撃運動が起っている現象の裏には、日本人の「他人の米櫃の中に手を突っ込む行為」が鼻持ちならないのであって、ある華僑雑誌の評には、次のように記載された。

 「日本人は強者に媚(こ)びを売り、弱者を見くびり、外見で人を判断し、あるいは日本国民の多くは、北京政府の独裁者に金を貢ぐだけの三流・四流政治家(共産党を除く与野党の政治家を指すのであろう)しか選ぶ能しか持たず、国旗への意識も忠誠心もなく、国家百年の計よりはマイホーム主義に入れ上げ、自分だけのこじんまりとした小人数家族を構成して、悪しき個人主義を謳歌し、金銭に抜け目のない世界最低の経済動物」と、華僑雑誌が評した事があった。

 一種の反日感情から起るものであろうが、この評は、「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」であり、心底から求めれば、華僑の評した言は、目的にぴたりと合致しないまでも、大きな見当違いにはなっていない。また、 推測や予想が的中していないとはいえ、たいして間違ってはいないのは明白であり、大体、正しい推量である事は疑う余地がない。
 そして日本人は、一方で世界から軽蔑される目を背中で感じつつも、これを意識しない悪しき個人主義に邁進しているようだ。
 ここに世界はもとより、中国大陸や朝鮮半島、東南アジアから「経済動物」と蔑まれる現実がある。
 そして、金にものをいわせて飽食に明け暮れる、日本人の貪欲さが、いま世界から非難され、攻撃の的になっているのである。飽食の時代の、日本人に対する厳しい指弾だ。
 すなわち、これが「食べ物の恨み」である。あらめて、食べ物の恨みだけは心すべきである。

 次に、もう一つ上げられることが、喰(く)われる側の「食べ物の恨み」である。食肉になる多くの動物達は、我が身を人間から食べられることによって、恨みを抱く。この「恨み」は、怨念(おんねん)を発する恨みであり、命を奪われ、我が身を食べられると言う、人間の性(さが)と殆ど同じ、怨念から発する意識唸(いしきねん)である。こうした怨念は、一種の唸ねん/哺乳動物の、等しく所有する感情の意識体)であるから「肉(じし)喰った報い」として、時空間に唸波が停滞し、これが上空高くの、地上から約60kmほどにある電離層でんりそう/大気の上層にあって電波を反射する層。太陽からの紫外線によって大気の分子が電離した結果生じたもので、D層、E層、F層がある)に浮遊する。

 動物のこうした唸から派生した恨みは、命を取られ、我が身を喰われた側としての悲しみと恨みが、唸として時空間を漂う。そして善悪因果の応報として、「兇(わる)いメグリ」として変質していく。
 これで一番恐ろしいのが「肉(じし)喰った報い」であり、これが現代社会を忌(いま)わしく覆(おお)っている。現世の不幸現象の大半は「肉喰った報い」であり、次に生霊、不成仏霊の死霊、浮ばれない先祖霊の順に続く。

 また、昨今の食肉や乳製品(牛乳、バター、チーズ、ヨーグルト)等の、動物性蛋白質の摂り過ぎにも問題があり、争い事や不和、抗争等は、明かに「肉喰った報い」であり、人間と言う水冷式哺乳動物が、牛や豚等の哺乳動物を食べるのを止めない限り、多くの不幸現象は、更に続くことになる。動物性蛋白質の摂取によって血が濁るからだ。その血の濁りは、血液によって躰の至る処を巡回し、各細胞部位に留まって、やがて炎症を起こす事になる。この炎症は各部位の細胞をガン化させる。

 あなたは、牛や豚が、どのように生産されているか、ご存じだろうか。
 仔牛(こうし)の飼育は、生後6カ月まで抗菌性物質製剤等が投与されて飼育される。法律的にも、こうしたものは与えても良いことになっているが、それ以後については、治療目的以外に、これを餌に混入することは禁じられている。しかし、抗生物質を与えた方が、肥り方が早い為に、これをこっそり与えている生産者も少なくない。残留検査に出ない程度に、密かに与え、殆どの生産者が、こうした手法を用いて、牛を飼育するのが裏側での実情だ。

 そして肥育期に入ると、牛房では餌の喰い放題となり、こうした餌の与え方を「不断給餌」(ふだんきゅうじ)と言いう。
 濃厚飼料と水が、常にベルトコンベアで流れていて、その飼料は、大麦、玄米等の穀物のフスマ、大豆粕(かす)等であり、それに併用して、良質の乾草(ほしぐさ)が与えられる。

 牛達は余念なく餌が食べられるように、牛房は静かに暗く保たれている。中には、作業能率をあげる為に会社さながらの、牛房内には静かなバックグラウンド・ミュージックを流している所もある。牛達は、ただ喰うことだけに専念する。それでも餌を食べさせようとして、無理矢理ビールを飲ませたり、甘酒を飲ませることがある。
 更に、肥育の後期に入ると、新米良質の餅米(もちごめ)を与え、純度100%の高級黒砂糖を与える。牛達は自身が高く売られるように、喰って飲んで、太りに肥るのである。

 ここまでくれば牛達は、既に動物としての機能を失う。牛達は牛房を一歩でも外に出れば、数歩とあるけないのである。こうした高級肉貯蔵の食糧倉庫のような牛が、焼酎で自身の身体を拭かれ、あるいは焼酎を吹き掛けられて、身体全体をマッサージされ、酒池肉林に耽った王侯貴族のような醜い身体となって行く。もはや牛としての機能はここには全く無い。単に食糧倉庫のような物体が牛の実体であり、彼等は最初から喰われる為に生まれて来た肉貯蔵庫だった。
 しかし金銭感覚に貪欲な生産者は、それでも純度100%の海水から作った自然塩を与え、肉の色をよくする為に、カルシウムを一日50gほど舐(な)めさせる。

 最終段階の仕上げ期に入ると、牛を一日約700gの割り合いで肥らせる為に、更に濃厚飼料を与え、多種多量の抗生物質を与え、ビタミンやリジン等を与える。
 生産者は、少しでも買い手に高く売り付けようと、こうした非常手段を遣(つか)う。そして、こうした裏側には、資本主義の競争原理の中で、生産者達の金銭的利潤の追求が見て取れる。

 その為に、更に良質の乾草(ほしぐさ)を与え、ビールや焼酎、甘酒や黒砂糖を与える。そして仕上げは、酵母菌(こうぼきん)まで与える。これは牛特有の、糞尿の臭いを消す為であり、公害防止策と言っているが、実はそんな事ではなく、「臭いを消すこと」と「高く売り付けること」が、酵母菌投与と深く関係している。

 豚の飼育の場合は、狭い檻(おり)に入れて、喰い放題に食わせ、餌を送り込む。その檻は、前後に回転が出来ないほど狭い檻である。こうした中で育てられた豚は、急速に肉が着くが、骨は殆ど発育しない。外に出しても、数歩と歩けないのである。まさにブロイラーも同じなのだ。

 これは牛の場合も全く同じである。出来るだけ骨を細くし、枝肉にした時の「歩留(ぶどま)り」を考えるからである。こうした飼育技術によって、高級和牛が誕生する。
 高級和牛と謂(い)われる牛は、少しでも歩くと、ちょっとしたことで骨が折れる大きな欠陥を持っている。躓(つまず)いたり、転んだりすると、商品としては売り物にならず、直ぐに廃棄処分になってしまうからだ。
 したがって牛房から出して、放し飼いをすると言うのは日本ではあまり行われていない。

 そして何よりも悲しいのは、牛や豚が屠殺場とさつば/業界用語で「と場」という)に送られる時である。
 牛や豚は、この時期が来たのを、二、三日前から予知するという研究結果が出ている。出荷される時は、彼等とて哺乳動物の機能を有しているので尻込みする。脚を突っ張り、貌(かお)を左右に振って、子どもがイヤイヤをするような仕種(しぐさ)で最後の抵抗を試みる。悲しい泣き声を上げ、つぶらな眼から大粒の涙をこぼす。
 まさに土壇場(どたんば)で頸(くび)を跳ねられる、無実の冤罪(えんざい)の死刑囚ごときである。一体彼等は、死刑囚として殺されなければならない、どんな悪い事をしたと言うのだろうか。

 牛や豚は、非常に感覚器官が卓(す)ぐれた動物であることは、既によく知られたことである。人間以上に、嗅覚に卓ぐれ、聴覚に卓ぐれ、自分自身の運命を知る能力に、非常に卓ぐれている。こうした第六感的な感覚機能を所有する彼等は、屠殺場に向かい、トラックで輸送すると、一日で50kgも肉が落ちることがあると言われる。これは輸送される疲労もあるであろうし、何よりも、これから殺されると言う、死への恐怖が、彼等を苛(さいな)むのである。
 この苛む恐怖と、やりきれない苦悶は、まさに無実で、冤罪で処刑される死刑囚を彷佛(ほうふつ)とさせる。

 牛や豚や、その他の肉食の素材になる動物は、二度、三度繰り返して、今までの事を思い返し、考え、反芻(はんすう)する能力があると言われている。自分の過去を振り返り、細い記憶の中から、何の為に肥え太らされてきたか、あるいは何の為に餌をせっせと詰め込まれたか、それを振り返ると言われる。牛や豚自身が、鋭い嗅覚で嗅ぎ取り、人間が造り上げた、ブヨブヨの我が身を纏(まと)う「霜降(しもふ)り肉」に、おそましい嘆きを回帰させるのである。
 彼等の恨みの原点は、ここにある。

 本来、宗教においても、彼等は教典を紐解(ひもど)いてみても、人間から保護されるべき動物ではなかったか。それを、人間が食肉を喰らう欲望を露(あらわ)にし、美味しく食べる為に飼育し、弄(もてあそ)ぶように、ブロイラーにして喰おうとしているのである。
 また、こういう風な、牛や豚の育て方と言うのは、「動物の魂」を踏みにじった、まさに宇宙の道理から逸脱した邪道ではないではないだろうか。

 しかし一方で、こうまでして造り上げた霜降り肉を珍重する、人間側のエゴイズムがあり、人間が舌先三寸だけを喜ばせると言う食道楽は、食欲と言う次元を通り越した「原罪」であると言わねばならない。ここには「肉食をする」と言う、人間の美食に偏(かたよ)るおぞましさがある。
 霜降り肉と言う、一つのものばかりに、こだわり、執着する、こうした考え方は、どこか異常ではないのではないだろうか。

 そして本来は、人間が保護すべき動物をこのようにブヨブヨに肥らせて、ブロイラーのごときに変貌(へんぼう)させて、その挙げ句に食べ、こうした実情が、ガン疾患や精神異常をつくり出しているのではないではないだろうか。キリスト教を除く、多くの宗教の教典や教義にも、「動物は食べるな」とあるではないか。

 近代的な、最先端医療の発達した国で、このような難病・奇病が蔓延(まんえん)し、病気自体が治りにくくなっている現象は、一体どういう理由からなのであろうか。
 最先端の医療と言えども、慢性化する病質は100%完治させることができない。ガン疾患では最先端医療を施した患者の60%は術後一年以内に死亡し、20%は二年以内に死亡、そして五年以内となると、そのほぼ全員が死亡している。
 むしろ、最先端医療技術を用いず、自然医学食事療法によって、食生活を根本から改めることで、ガン告知後、五年十年と、その人のほぼ寿命と思われる年齢まで生き続け、長寿を全うしている人も少なくない。

 食が乱れ、それに狂い、慎みを忘れれば、必ず、心と身体は病むのである。これは肉体だけに止まらず、精神も病み、魂は穢(けが)され、霊的神性は曇らされ、落ちてしまうのである。

 霊的神性が落ちてしまえば、霊格も落ち、その霊的波調は低下して、次元の低い怨念を持った不成仏霊等との交流が激しくなる。つまり「霊性」が下がるのだ。霊性が下がれば不成仏霊の影響を受け易く、こうした意識権からなる意識体は取り憑いて種々の病気と言う憑衣現象を起こすのである。
 こうした不成仏霊は、自身の魑魅魍魎化(ちみもうりょうか)した迷える魂を、人間の肉体に侵入し、それを容(い)れ物化することにより、コントロールして思いの儘(まま)に操るのである。ここに現代人の霊的神性の凋落(ちょうらく)がある。
 現代に多発の傾向を見せる精神障害等は、現代人の霊性か下がった事に起因している。
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