精神障害と霊障
精神分裂の正体は「潰された自我」だ
  さて、世間的な常識において、その枠から食(は)み出した場合、感受性(外界の印象を受けいれる能力あるいは生物体において、環境からの刺激、特に薬剤や病原体により、感覚または反応を誘発され得る性質の過敏を指す)の強い人は、自分自身を自我防衛する為に、その矛先(ほこさき)を、自分以外のものに責任転換する。
 自己防衛意識が働く為に、自分以外に責任転化し、自分の取るべき責任とは無関係であると言う訴えをするのである。

 これは前頭葉(大脳皮質の中心溝と外側溝によって囲まれた前方部。特に前頭前野はすべての大脳皮質、大脳核・視床・視床下部・小脳・脳幹との間に広範な線維連絡を持ち、意志・思考・創造など高次精神機能と関連し、個性の座と見なされる)発達時期に、親が、「恥」や「屈辱」に対する意識を躾(しつけ)なかった場合、前頭葉未発達が成人してから、後に大きな災いとなる。

 統計的に整理してみると、両親が子供に対して放任主義であったり、「恥」に対する躾を充分に行わなかった場合、こうした子供は成人してから「恥辱」に対する意識が希薄になり、したがって自分の非を、まず、自分以外の者に責任転化して、その苦しい立場を逃れようとする。

 一般に言う「礼儀知らず」や「恥知らず」がこれであり、本来ならば親が子供の幼児期から少年少女期にかけてに躾として「礼儀」を教え、恥や屈辱に対する感覚を、前頭葉発達と共に養成してやらねばならないのである。この時期に放任主義に走ったり、親自らも風俗に出入りしたり、不倫をする等の、子供の躾そっちのけでこうした反社会通念で物事を考えるようになると、子供は正常な前頭葉の発達を構築させることができない。
 人間が、「狂う」という現象の発端は、まず、その人の前頭葉未発達が挙げられる。

 例えば、愚図(ぐず)で、動きが遅く、要領が悪い人が居たとしよう。
 この人は、これだけでは人間失格の要素は、まだ、持ち合わせてはいない。愚図と、動きが遅い面は、訓練することで機敏になるであろうし、また迅速になることも考えられる。そして最後は、要領の悪い面も、繰り返し訓練を重ねることによって、要領良く立ち回り、事を進めることができるようになるであろう。
 これは「世間様の目」を意識し、その意識に対して反応するからである。

 しかし、問題はここにある。
 こうした訓練を受け入れるか、否かは、その人の受け入れ容量の度合と、前頭葉の発達状態と、根性あるいは根気の有無にかかってくる。
 もし、これを拒否して、現状を維持する場合、「世間様」は、いつまでも悪態(あくたい)を吐き続けるのである。「頑張れ」とか「根性」といったファイト・コールである。しかしこのファイト・コールも、度が過ぎれば、自我の潰れそうになった人には、「世間様の悪態」と感じるようになる。
 特に少年少女時代、精神的な劣等感(complex/精神分析用語で、心の中で抑圧されて意識されないまま、強い感情をになっている表象の複合体で、これは病的行動の原因となることがある)が芽生えた場合、その劣等感は生涯、心の深層部で消滅する事はない。幾つになっても、劣等感の火種は死ぬまで燻(くすぶ)り続ける。

 精神病の治療でも、短期で治療する方法と、二年三年あるいはもっと長い時間を掛けて治療する二つの方法があるが、治療に長い時間を要する患者の多くは、自分自身に激しい劣等感を持っており、その反動として、優越感の悦に浸りたいと言う願望が現れる。
 その為に理論武装を試み、議論によって相手を打ち負かそうとする意識と意欲が働く。こうした理論武装を巧みに利用して、信者を増やす新興宗教団体や革新市民団体も少なくない。

 この典型的な宗教団体が創価学会や日蓮正宗(富士門流として世界規模的に、広域に檀徒を有する。特異な日蓮思想を展開。創価学会員の活躍によって巨大宗教組織となり、以降、決裂と闘争の時代を迎える。その激しさは聖教新聞に克明に現れている)であり、底辺の信者の多くは低所得層であり、富裕層に対して激しい憤りと劣等感を持ち、階級闘争に意欲を燃やし、それを原動力として、世の中を変えようと企てる集団である。

 また革新政治団体としては、日本共産党やそれに準ずる、労働者や、シンパの社会主義の思想を掲げた革新社会市民団体であり、個人主体的に行動が出来ず、集団や党の指導によってのみ、人生の意義を発見し、そこに拠(よ)り所を求めようとする人達で支持がなされている。
 その意味からすれば、創価学会や日蓮正宗並びに日本共産党は、同じ階層に属する人間で構成されていると言っても過言ではない。組織を構成する構成員は、階級的には中産階級以下の人たちであり、保守体制や既存宗教に対して、何らかの不満を持つ人たちである。

 彼等は、創価学会の会員や日蓮正宗の壇徒(だんと)、あるいは日本共産党員になる事によって、人生に意義を感じ、自分自身が英雄になったと錯覚するようになる。そしてこの錯覚は激しい意識として、深層心理に焼き付いてしまう。底辺に位置する彼らは、自身を英雄に作り変えることで、人生に強い意義を見出し、それを原動力にして生きる道を選択する。

 また、この意識の根底には、貧しい家庭に育ち、貧乏の苦悩を背負い、資本家や大地主あるいは金持ちに反感を持ち、深層心理を劣等感で汚染させている人程、激しいものを持っている。その為に、理論武装を欠かさない。集会にもよく参加する。指導者の請け売りで理論武装し、理解に難しい単語や専門用語を並べ立て、英雄意識を気取るのである。

 創価学会や日蓮正宗の底辺会員や壇徒を見てみると、その構成は、日本の中産階級ならびに下層階級の人々によって構成されている。熱心な信者や壇徒は、さながら、革命政治団体の「兵士」の様相を見せ、日本共産党に匹敵する激しさを持っている。この同じ階層の支持者によって構成される二つの団体の共通点は、一種のカリスマ的な独裁者によって率いらてていると言う共通性を見る。使命感的な、こきみよい優越感に浸り、あるいは社会主義や共産主義に入れ揚げる者ならば、唯物的弁証法で、反体制側の人間の言の言葉尻を捕らえ、揚げ足を取る理論武装を欠かさない。

 しかし、 その源泉は幹部構成員の、言葉の売り受けであり、以上の団体組織は、その共通性から見て、カリスマ性を持つ独裁者によってコントロールされているといっても過言ではない。
 しかし一方、カリスマ独裁によって誘導される優越感は、霊的に見て言霊の狂いなどが生じ、この意識は霊性を狂わされるため、組織での活動時期、優越感の暗示にかかった者は、「霊的神性が狂わされる」という症状が起こる。言霊の狂いは、こうした人間の深層心理にまで及ぶ。以後、いったん組織から離脱すると、コントロールを失った疾走者のようになり、あるいは糸の切れた凧のようになる。

 そしてこうした両者の底辺にいる階層を見ると、その一人一人に、何等かの劣等感がある事が分かり、組織の幹部は彼等のこうした劣等感を巧みに利用し、巧言を吐いて、彼等に理論武装の道を走らせ、うまく操っていると言う、見えない糸の操作が見えて来る。
 あるいは実際に、こうした組織に所属しないでも、前頭葉未発達ならば、こうした劣等感は心の何処かに存在し、生涯、霊障に操られて、その生涯を閉じる事になる。そこに悟りもなければ、死もなく、ただ肉体が劣等感で支配され、それを死ぬまで全うしたと言う、憂鬱(ゆううつ)な足跡が残るだけである。そしてこうした事に共通している事象は、その多くが、口先だけの理論武装であったため、そこから離脱した者の人間像は、その人個人の実体は怠け者、あるいは横着者に映る事である。

 過去、両者に属した底辺の大半の人に、こうした鬱(うつ)状態に陥る人を見る事が出来る。組織に属している時は、劣等感がくすぐられて攻撃的な意欲で、組織に貢献しようとするが、一旦離れれば、主体行動は個人単位になるので、個人孤立の弱さから、英雄意識から、ただの一個人に成り下がってしまう。つまり、糸の切れた凧のようになり、自分自身のコントロールができなくなるのである。
 こうした現象は、次の選挙に落選してしまった政治家にも見ることができる。権力者から、一気に一市民となり、その他大勢の微生物に成り下がってしまうためである。 権勢をふるい、取り巻きを傅かせていた暴君も、選挙に落選すれば、その時から、一介の一市民になってしまうのである。

 人間は「一人では何も出来ない」と言う悲しい性(さが)を持つ。底辺に位置する善良な庶民ほど、この傾向は強い。庶民は、権力者や富豪層の目から見れば、単なる微生物的な役割しか果たしていないように映るが、この彼等こそ、本来は最も愛すべき微生物なのである。この愛すべき微生物が社会の底辺を支え、社会の秩序を保って来たのである。しかし、こうした愛すべき社会の底辺を支える微生物に、ある種のイデオロギーを加え、劣等感を刺戟すると、一個の戦士へと変身する事もある。方向性を持たなかった一細胞分子の微生物は、理念や教義を培養される事により、これまで空虚だった人生の目的意識が生まれるのである。

  したがって心の空虚を補う為に、宗教団体や政治団体に属し、その空所を埋めて、それを購(あがな)おうとする。
 喩(たと)え、個人としての主体性は失われても、何等かの組織に属し、孤立や孤独を取り払おうとするのである。一人ぼっちになった時に感じる、寄る辺ない孤独感と、空しさを紛(まぎ)らす為に、組織や団体の中に所属する事によってこうしたものを消し去ろうとする。

  しかし組織や団体が闘争的な集団であればある程、熱心に入れ揚げている時は孤独感や空虚感は感じないが、一旦こうした集団から離れた場合、再び孤立や孤独や空虚さが襲って来る。
 やがては個人的主体が、その行動意識を孤立化へと追い込む。一端は組織に属し、その後、離れたと言う人は、往々にして自分自身を失い、弱気になり、次に自我が潰れると言う精神的現象が起って来るのである。

 それは今までが、あまりにも攻撃的であり、熱血漢であったため、かつての理論武装をされた語りや喋りは、他人を不愉快にするものばかりであり、同時に悪印象を与える。生意気だ、横着だというふうに映る。そして最悪な状態は、組織に属しているときは、熱血漢的な活動は組織内で、ある種の評価を受けていたのであるが、組織から離脱すれば、こうした評価は、世襲世間では決した高く評価されるどころか、「孤立」を招くことになる。
 やがてこの「孤立」は、正常な意思判断を狂わせ、生まれながらに、衆生に備わった劣等感は、更に逆疾走して、蟻地獄の中へと踏み込んでいく。

 虚空を埋める拠(よ)り所は、「人生の道しるべを標榜する」組織への帰依であった。しかし帰依の意識が薄らぎ、組織を離脱すると、この虚空は激しい孤立主義へと走るようになる。そして劣等感が更に激しくなる。
  劣等感の事の始まりは、「世間様を意識する目」であった。また「世間様が自分を見ていると言う目」であった。これに「思い知らせてやりたい」という意識が起こる。

 貧困や低学歴は、往々にして劣等感を誘発する。そしてこの劣等感が深層心理の底に定着した時、これは一種の「攻撃性」を持つ。その攻撃性は、持てる者への恨みや嫉妬や憎悪であり、この反感意識によって怨霊化の傾向を辿る。
 しかし一方で、攻撃性がその主体において、一個人へと孤立した場合、そこには陰鬱(いんうつ)なマイナスの心理状態が現れ、この陰鬱はやがて鬱病として沈み込む事になる。

 創価学会等の新興宗教団体は、組織を離れれば、「必ず仏罰を受ける」と脅すが、この仏罰も、一旦組織を離れれば、陰鬱の暗闇(くらやみ)に沈み込む、元会員の実情から見て、「当たらずとも遠からじ」であり、脱退者は拠り所を失うので、鬱病状態になる現実は逃れられないようだ。
 そして潰れた自我に、益々拍車が掛かって行く。
 ある種の新興宗教団体に帰依(きえ)し、その後、離脱した元会員や元信者の精神障害発生率は、日本では以外と多いのである。また、これが日本社会の、中途半端な無心論者の現実である。

 中途半端な無心論者は、結婚式は教会で、大晦日から元旦にかけての期間は神道に帰依し、盆に至れば仏教徒となり、クリスマスイブには俄(にわか)仕込みのクリスチャンになりというような、多宗教に帰依しつつも、実際には神仏をまったく信じることができない中途半端な無心論者であり、この半端な態度が、精神障害を引き寄せるともいえる。
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