精神障害と霊障
粗食・少食をして頭脳と躰の働きを円滑にする
 頭脳と躰(からだ)の働きは、常に相関関係にある。知能指数の高さは、敏捷性や運動神経と比例し、躰の固さは頭の固さと比例する。
 躰造りをする為に、幾ら栄養価の高い食物を食べても、腸の吸収力が劣っている時は、体内に取り込むことが出来ない為に、大部分は消化不良のまま排泄されるか、腐敗物質となって腸内に宿便として停滞して身につかない。これと同じように、脳が衰えると、人生経験や歴史上の教訓を分析して、これを栄養素にすると言う智慧(ちえ)への変換は出来ず、ただの過ぎし日の経験として、教訓を安易に流してしまう。

 そしてこうした人は、何か困ったことが起こると、何か良い方法はないかと占い師や職業祈祷師を尋ね歩いたりする。あるいは安易に、「開運」等と書かれた神社仏閣の御符(ごふ)を手に入れ、こうしたものを祀(まつ)り、神頼みを始める。

 こうしてせっかくの、自分の脳の働きを、ただの記憶や暗記のファイルに作り替えて、情報の蓄積のみに浪費している。人生を記憶の貯蔵庫に作り替えて、浪費をしている人は少なくない。その結果、頭は益々先入観と固定観念に覆(おお)われて、益々固くなり老朽化する。

 健康と長寿の秘訣は、躰(からだ)が柔らかいと言うことも大切であるが、同時の脳の働きも柔軟でなければならない。柔軟で、しかも新しい事柄を受け入れる同化力(外から取りこんで自分のものにすることで、事物を十分理解して自分の知識とする力)も必要であろうし、環境に即応する反射運動が発達していなければならない。また、取り込んだ知識を知識として保存するのではなく、複雑な構造の思考を単純な思考に変換・分解するという、異化作用的な反応に対する能力も必要である。ここに智慧(ちえ)の働きがある。

 こうした適性力に欠けると、嘆きや悲しみや愚痴ばかりを、くどくどと繰り返し、いつまでも一つの事にこだわって、そこで物事の進展は滞ってしまう。柔軟な若さを失い、躰も固くなって、運動能力も低下していく。老化の正体はこれであり、また、痴呆の正体も、ここに存在する。
 そして最悪なケースは、居心地の良い環境に甘え、熟(こな)れのよい安楽な習慣を繰り返して、変化がなく、また、苦労のない生活に安住した時、脳は退化して、惚(ぼ)けが始まる。

 ちなみに、御玉杓子おたまじゃくし/カエルの幼生。卵から孵化して間のないもので、鰓(えら)を持ち、水中で生活する、変態する両生類の後生動物)は、人口飼育をしている時、飼い主が充分に栄養価の高い餌をしょっちゅう与え続けると、あまりの居心地の良さに、殆ど動かなくなり、巨大に肥ってしまって、カエルになるのを忘れ、肥ったまま死んでしまうそうだ。こうした幼態期に成熟して、変態できないことを「幼態成熟」と言う。

 本来、カエルや昆虫等の動物は、卵から孵化(うか)した後、成体になるまでに、時期により、異なる形態をとることで、変態を繰り返す。
 これは爬虫類も同じであり、脱皮したり、変態するのは、大昔に地球規模で襲った異常気象や大激変や地磁気の変化に対応する為に、身に付けた生命維持対策であった。また飢餓等も襲って来て、今迄の生活様式では対応できず、新しい環境に適応しなければならなくなった必要性に迫られて、自然環境に躰を適応させたものであった。

 生物は周囲の変化に適応させることで、生き延びて来たのである。ところが、人間の躰にはこのような能力は備わっていない。その変わりに「智慧」という「脳の力」をもって、自然の変化に適応してきたのである。

 現代という時代を、戦中と終戦直後に振り返って当て嵌(は)めてみると、戦中や終戦直後は、イモや豆粕(大豆から油をしぼり取った残りの粕で、本来ならば肥料や飼料に使う)で生き抜いた時代であり、かえって病気も少なく、何処の病院も閑散(かんさん)としていたものであった。

 それだけに、明日の命をも知れぬ身の不安よりも、食べる事だけを考えるのに精一杯であり、不安や恐怖は二次的なものであった。決して、この時代の戦争を肯定するつもりはないが、当時は国民が一丸となって、国家的目的を以って、戦中は戦った時代であり、また終戦直後も、悲惨な戦争が終了した後で、国民の多くは、飢えを満たすだけで精一杯であり、余り余計な事を考えることはなかった。

 こうした心理状態は、個人の環境や関心事が世間一般とあまり格差がなく、したがって、共通した意識で暮らしていた為であると思われる。生きる事で精一杯であったからである。

 ところが現代は、多くの食べ物で飽食の時代を満喫(まんきつ)し、各々に生活のレベルが異なり、一人一人が異なった考え方を有し、個人主義を謳歌(おうか)すると言う世の中では、不安や緊張感が、かえって束縛(そくばく)や制限を加え、これによって、心の病気が発生すると言う現実が生まれた。

 環境だけを豊かに、便利に、快適にしても、あるいは生活水準を高め、物質的な恩恵だけを預かったとしても、物質至上主義ばかりを追いかけると、智慧のない居心地の良さだけに溺れてしまう享楽主義の実情を招き、結局は「幼態成熟」をしただけの御玉杓子に過ぎなかったである。

 結局、環境に適応すると言うことは、不自由を改善して、これを工夫するということであり、この改善と工夫が大脳を遣(つか)う働きと、遣う事によって派生する「柔軟さ」が得れるのである。
 ところが現代は、こうした「遣う」という意識は薄れ、その意識の希薄が種々の病変を齎していると言えよう。
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