癌(ガン)は助かる
高菜と玄米雑穀ご飯。玄米雑穀ご飯は血液を浄血する。

 現代医学は、ガンは早期発見して、早期に治療を行えば、治ると盛んに宣伝しています。また、この言葉を信じて治療を試みるのですが、必ずしも治るとは言いきれないようです。そして更には、この事実が、「早期発見・早期治療」の受け入れを拒んでいるようにも思えます。

 未だに、「ガンは慢性病の中で一番恐い病気」であり、この事は日本人の意識調査でもはっきりと顕われています。マスコミに紹介されるガンを罹病した著名人のエッセイや手記などによると、この恐さと、悪戦苦闘の闘病の日々が綴られています。

 さて、実際にガンが発見されると、まず現代医学の手厚いガン治療が試みられる訳ですが、その治療の大半は検査に費やされるものであり、検査および治療を繰り返しながら、急速に悪化して行くと言うのが現実のようです。急速に悪化し、見る影もなく衰え、その上、大変な苦痛に苛まされます。
 このプロセスを辿る場合、発見から数週間から数ヵ月で死亡するといった結果が見せつけられます。

 その結果、ガンは現代の難病の一つに上げられ、未だに不治の病の域を出ていません。人々から「死病」の名をもって恐れられています。

 しかし一方で、現代医学とは別の所で「ガンは自然治癒するのではないか」という、難解な命題に取り組んでいる研究者がおります。
 「癒しの杜の会」を主宰する九州科学技術研究所ものその一つで、大東流霊的食養道研究チームと一緒になって、これまでの食事を改め、食事療法(食餌法/自然食の実践)で治るのではないか、という研究に取り組んでいます。

 医学は、人間の病気を取り除き、幸福な健康体にさせてこそ、その意味があります。
 しかし現代医学は人体を、人間として見るのではなく、生体メカニズムとして見る為、人間軽視、人格侮蔑の一面がある事を否定できません。
 その為に、木だけを見て森を見ない現実があります。その結果、本来患者と対面しなければならない医学が、医者は検査結果の数値ばかりを睨み、肝心な患者の訴えや苦痛を見ていないのです。それこそ、不自然で無理な治療へと走らせているようです。

 究極の医学とは、人間に希望と勇気を与え、人格を尊厳しつつ、こうした研究がなされてこそ、真の医学と言えるわけで、こうした食事療法という東洋医術の成果に対して、もっと多くの医学者が、謙虚に学ぶ姿勢を持って欲しいものだと考える次第です。

 現代医学は今、膨大な厚生労働省からの予算と、最新式の高価な医療設備を有し、国際的な使命を担った、大勢の優秀な頭脳を有する医師集団が、これら最新医療機器をもって、ガン治療の対策に、日夜没頭し努力を続けています。
 ところが、今日に至っても、その原因すら究明できず、その極め手となる効果的な対策は、まだ発見されていません。

 その理由は、現代医学に一つの固定観念があり、その固定観念の最たるものが「骨髄造血説」であり、常識化されて広く支持され、これに傾く医学者が圧倒的に多いことです。
 もし骨髄造血説が、人体構造を成す真理であるとするならば、人間の持つ《自然治癒力》は説明がつかなくなります。

 さて、末期癌患者の部屋には、死の匂いが漂っています。
 特に子宮癌などはこの匂いが強く、死を待つばかりという悲惨な情況です。こうした患者に対して、医師は匙(さじ)を投げ、治る当てのない患者の末期症状には、冷たく無関心です。
 さんざん、抗癌剤や、コバルトの照射を施して征服的な治療を試み、それでも効果が期待出来なくなれば、後は知らぬ顔で見放すというのが今日のガン治療の実態です。

 これによって見放された患者は、死ぬ迄の間、ガン細胞に対して、攻撃的な治療をした副作用に苦しむことになります。こん副作用の元凶に現代医学が慢性病に向かい合う驕りがあり、他の慢性病と同じ扱いで治癒して行くはずの病気を益々複雑にし、また医薬品メーカーの片棒を担いで、不治の病としての宣伝をしている側面があります。

 森下敬一医学博士は、「正しい治療を行えば、ガンは他の慢性病と同じく、スムーズに治癒して行くものである。
 どうころんだところで、病気と言うものは、われわれの肉体上におこる変化に過ぎないわけだから、ガンも他の慢性病も決定的な違いはあろうはずがない。
 適切な処置を行えば、ガンも治る。医学的にみて、生命体───生きているからだというものの本質は何かと言えば《元にもどることができる》という点である。
 肉体は可逆性をもっている。条件次第で、《より健康的な方向》か、《健康失墜の方向》かのどちらにも進む。だからこそ、病気になることもできたのである。だから逆に、健康になることも出来る。
 何らかの悪条件があって、健康体が病的状態に変化したのだから、その悪条件を除いていくことで、今度は逆方向の病的状態→健康体にすすむこともできるのだ」(森下敬一著『浄血』より、時事通信社)と言っておられます。
次へ