合気揚げの基礎知識 2



●大東流は太子流兵法の写し

太子流兵法・軍学巻物

 太子流兵法は聖徳太子(用明天皇の皇子で本名は厩戸皇子/うまやどのおうじの称号名《太子》に由来し、望月相模守定朝(もちづくさがみのかみさだとも)を、その流儀の祖とする軍学兵法である。

 定朝は、聖徳太子(用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。本名は厩戸(うまやど皇子。豊聡耳(とよとみみ)皇子・法大王・上宮太子(うえのみやのみこ)とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依した。女帝・推古(すいこ)天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使(けんずいし)を派遣、また仏教興隆に力を尽し、多くの寺院を建立、「三経義疏(さんぎようぎしよ)」を著すと伝える)の軍要の奥儀(おくぎ)を夢の中で悟り、甲斐武田家に属し、屡々(しばしば)騎馬戦法を以て奇襲攻撃で軍功を立てた人物である。
 甲斐武田家が滅亡すると、芦名盛氏(あしなもりうじ)の地頭の代から、定朝の門弟が会津や仙台の東北各地で活躍した。

 会津藩初代当主保科正之(ほしなまさゆき)は、当代希にみる名君(有能な政治家)としての誉(ほま)れが高く、徳川四代将軍・家綱(いえつな)の補佐役を勤めた人物であった。
 朱子学(しゅしがく)の山崎闇斎(やまざきあんざい)、神道の吉川惟足(きっかわこれたり)を招いて、自らの修身と、藩士の教育に勤めた。

 保科正之は、江戸初期の徳川御三家の水戸藩・徳川光圀(とくがわみつくに)、外様(とざま)大名岡山藩・池田光政(いけだみつまさ)と並ぶ、儒教的な文治政治を行った三大名君(明君でもあった)の一人であった。
 因(ちな)みに、幕末の会津藩国家老・西郷頼母(さいごうたのも)は、明治になって保科近悳(ほしなちかのり)と姓名を改めるが、藩祖保科正之(ほしなまさゆき)の末裔である。会津藩では、この太子流平法が極秘の裡(うち)に伝わり、二流派に分かれていた。浦野派と中林派である。

 太子流は兵法として、山鹿流(やまがりゅう)と甲州流(こうしゅうりゅう)の軍学の影響下にあり、八門遁甲方術(はちもんとんこうほうじゅつ)の流れを汲む複雑な三元式(さんげんしき)遁甲の騎馬戦法を用いる流派であったと謂(い)われている。
 特に山鹿流の影響が強く、『武教全集』には剣術、柔術、杖術、棒術、槍術、弓術、薙刀(なぎなた)術、小太刀(こたち)術、殿中居合、馬術、古式泳法(こしきえいほう)、水中柔術、操船(そうせん)術、騎馬軍法を含んでいた。

 大東流の「清和天皇第六皇子貞純親王の流祖説」ならびに「新羅三郎源義光の大東の館伝説」は、皇胤(こういん)への意図的な誘導があるものと思われる。しかし、断っておくが、流派の歴史観と、卓(すぐ)れた高級技法は別問題であり、技が卓れている事と、歴史を古く見せ掛け、皇胤に繋がるとする流派の意図的な誘導は、決して同じものではない。

 技法が卓れている事はそれだけ「洗練されている」ということであり、洗練は歴史を経なければ洗練されることはない。古い流派ほど、技法が原始的で、これが古くから伝承されたのであれば、その「原始的技法」が存在していなければならない。
 ところが大東流は、近代でも稀(まれ)な、極めて洗練された技法を有しているのである。この事は、非常に時代が新しいということを示している。

 そして「清和天皇起源説」を考えると、清和天皇の二人の親王が、一方に大東流を作り、また、もう一方に太子流を作り、十六世紀の戦国時代、甲斐武田家を経由して、しかもそれを伝承した武家集団の中では、会津藩だけだったとするこの偶然は、果たして武家の歴史の結果から「偶然の一致」で、そうなったのか、あるいは意図的に誘導して、「会津藩だけが、両方の卓れた流儀を引き継いだ」と考えるのは如何なものか。

 あるいは会津藩だけが、皇胤的にも軍法的にも、同じ天皇の、二人の親王の血の流れを曳(ひ)いたものだとする二つの偶然は、何とも奇妙で、いまなお疑問の残るところである。
 推察すれば、これらが明治後期から昭和初期の近代に、後世の何者かによって創り出された仮託である事は、まず間違いなかろう。

 まず事実としては、会津藩には御留流と言う武技は存在したが、これが大東流であったか否かは判定が難しい。そしてもう一つは、太子流は実際の会津藩に存在し、軍法として上級武士に学ばれ、会津藩祖以来、これが伝承して来たと考えられるが、太子流の歴史は、望月相模守定朝に或ると思われるが、太子流が会津に伝わったのは、藩祖・保科正之(江戸前期の大名で、会津23万石の藩祖。徳川秀忠の庶子で保科氏の養子なる。1611〜1672)以降の事であり、太子流に「浦野派」と「中林派」があることから、この二つの流派が存在した、約百年前から会津に流れたものと推測される。


 因みに山鹿流の二大宗家は、平戸藩(山鹿万介高紹)と津軽藩(特に有名なのは第四代藩主・津軽信政で、遁甲は用いないが日取りの方術を得意とした)であり、長州の吉田松陰(吉田寅次郎の養子になり名は矩方/のりかたは、長州藩代々の山鹿流兵術師範の家にあり、長崎遊学の際には、宗家の山鹿万介(やまがまんすけ)や葉山鎧軒(はやまがいけん)を頼って平戸を訪れている。この二人を訪ねた理由が何だったか、実際のところ定かではないが、今日でも歴史的な暗示と謎を与えて、現代に問いかけているようにも思える。

 太子流の根本は、《孫子の兵法》であり、これに騎馬民族の、複雑な三元式の八門遁甲の騎馬戦法が組み合わさったものと思われる。
 しかし現在では、こうした複雑多岐に亘る三元式遁甲の奥儀は殆ど消滅しており、江戸年間に残った太子流の奥儀は、專ら遁甲兵法(軍略)を用いるものでなく、個人戦における剣術(太刀、小刀、槍、棒、薙刀)などをはじめとする、格闘組打の初歩的な技術しか残されていないようである。

 さて八門遁甲は、別名《奇門遁甲》(きもんとんこう)とも謂(い)われ、昨今の占いブームに、しばしば奇門遁甲の名で登場している。しかし遁甲は正確にはそのような占いの類(たぐい)では断じてない。

 奇門遁甲の看板を掲げた占い師の仕事場や事務所には、宗教儀式の一種を思われる神棚のようなものを祭っているが、奇門遁甲と、霊能力的(神のお告げや霊視等の超常現象)な繋がりは一切関係ない。
 八門遁甲は極めてシビアーな、そして神も仏も存在しない、電磁気、力学、幾何学を用いる、中国の古典物理学である。従って、一切の霊能力的なものや、神聖を補助する占いは、ここに入り込む余地が全くない。
 もし、ここに祈祷行為に似た霊能力的なものや神聖なものが、占いの一部として入り込んでいたら、これらは全て偽物であり、自分の遁甲知識の未熟を繕(つくろ)う為に、神や仏を持ち出しているに過ぎない。これらは奇門遁甲の名を騙っり、拝金主義に墜落した詐欺商人の、それである。

 遁甲は、簡単に言えば《地理風水》の一種にも類似しており、正確には「八門金鎖之陣(はちもんてっさのじん)」と「奇門遁甲(きもんとんこう)」の二つが合体して、《八門遁甲》になったと謂われ、漢籍書(かんせきしょ)では子部兵書(しぶへいしょ)に属しており、れっきとした《兵術》なのである。
 中でも、三元式の八門遁甲は、満蒙(まんもう)の騎馬民族の兵術であるとされ、騎馬戦法に際しては、恐るべき威力を発揮すると謂(い)われている。

 我が国に於ける遁甲の由来は、推古(すいこ)天皇の御代六百二年十月に、百済(くだら)の僧侶、観靭(かんじん)が日本に訪れた際、『暦本』『天文地理書』と共に朝廷に献上したことから始まる。
 直伝は、《符使式》とは違う《三元式》のもので、朝廷の命に従い大友村主高聡が習得し、天武天皇自身も大変上手であったとある。遁甲は満蒙の騎馬民族の兵術であった為、やがて中国でも学ぶことが禁止された。
 唐六代・玄宗(げんそう)皇帝は、王室以外の者に漏れるのを恐れ、金属製の箱に厳封したとある。やがて日本でも、これが禁じられた。

 後に皇室が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したのを始め、これらの兵書は悉く禁止されて、日本からは、その殆どが消滅している。
 密かに伝わったものとして、甲州流(山本勘助)や山鹿流、他に越後流、長沼流、宮川流、宇佐美氏等の兵術が存在しているが、今日では一番肝心な日取りの軍配術(軍立)等の、奥儀と称される秘伝が悉く消滅しているのである。従って、山鹿流でも直伝のものは失われ、大方は室町期に複製書物として、後に作ったものであると謂われている。

 しかし、その威力(この威力というものは、あくまで電気的エネルギーという意味で、神聖的エネルギーは一切存在しない)を恐れるあまり、徳川年間になっても、それを研究したり、用いたりすることは厳罰に処され、これらの書物を持っていただけで、即刻打ち首になったとある。

 遁甲の語源を岩波書店の『広辞苑』で調べると、「人目をまぎらわせて身体を隠す、妖術。忍術」とある。これは語源学者自身の不勉強から起こる誤った解釈であろう。遁甲は忍術のように、その術者が姿を隠すものではない。

 遁甲は、あくまで隠れるのは、十干の「甲」が、六儀ろくぎ/戊、己、庚、辛、壬、癸)の中に隠れるのであって、人間が姿を消したり、隠れたりするのではない。
 十干の「甲」が、六儀の中に隠れるとは、方術の術法に従って物理学と同じような物理法則(その土地の磁場と君主の生年月日の関係、及び太陽や月や星の運行を調べ、そこで起こる時間的な磁場現象が君主の「命」に与える影響を計算する術)に従って、電気的法則に則ってこれを用いる。

 甲、または乙が、各々に変化して、三奇(乙、丙、丁)の中で入れ替わり、複雑な行動を示す術として最重要視されていたのである。
 蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が使ったと謂われる《八門之陣(はちもんのじん)》という得意な戦法も、この八門遁甲に由来している。
 これは別名を《八卦之陣(はっけのじん)》といって、巧妙に変化する八つの陣から成り立ち、この陣へ攻撃を加える攻撃者の目から見れば、どれが一体本当の陣か分からないのである。
 この時、攻める側としてみれば、攻撃部隊を八つに分けるわけであるから、戦力は八つに分散され、攻撃機能が低下するばかりか、下手をすると密なる強部に接触して、攻撃側の致命的な命取りにもなりかねないのである。

 指揮官の戦場心理の一つとして、戦闘展開のプログラムをどう演出していくか、そして当面の敵に対し、何処に優先順位をつけて、攻撃に掛るかということに心を砕くものである。だから一定兵力を各々の攻撃目標に対して割く場合は、完璧(かんぺき)な作戦と緻密(ちみつ)な計算を立てた上で割かなければならない。

 しかし、それには優先順位があり、本隊に主力を結集させれば、別動隊は攻撃に至っても完全な勝利は望めず、戦闘も手薄の状態で展開が始まる。
 逆に別動隊に主力を結集させると、本隊は手薄となり、辛い状態で苦戦を強いられることになる。二つに割かれても、このような不安の影が付き纏うのであるから、八つに分けられた陣を攻撃するのは慎重な対策がいるのはいうまでもない。

 これらを攻撃する側から見る場合、更に悪い事は、この八つの陣は、均等に八つに分かれているのではなく、どれが主力であるか分からないばかりか、変化に富んだ複雑な地形に陣地配置がなされている点である。
 それは丁度、一人に対して、八人の敵が包囲してしまった時と同じ状態になってしまうのである。これには魏(ぎ)の最高司令官であった、司馬仲達(しばつゆたつ)も散々悩まされ大いに苦戦したとある。
 司馬仲達は、孔明の《八門之陣》という布陣の見事さに思わず感嘆の声を上げ、「天下の奇才(きさい)なり」と、その叡智(えいち)と力倆(りきりょう)を率直に評価している。
 西郷派大東流合気武術の中には地平戦(地上戦の意味)に於て、《八方分身(はっぽうぶんしん)》、あるいは《八方分散》という技法があるが、この八門兵法を応用したものである。

 この技法は八方向に分散した多敵に対し、一瞬の攻撃を促して誘い入れ、一気に殲滅(せんめつ)する恐るべき秘術である。
 この秘術は《誘い入れの誘》というものがあり、一斉に誘い入れる導入の通路を、自らを取り巻く敵上の空間に一人がやっと通れるトンネルを作って、心理的に「今が攻撃の汐時(しおどき)」という錯覚を敵に起こさせて誘導する術である。八人の敵を八人と思わず、常に一人であるとして、その内の一人に注目して、最初の一人を空間のトンネルに誘い入れて、一人を次々に倒すが如く全体を倒すという得意の術である。これを西郷派大東流合気武術の「柔之術」やわらのじゅつ/耶和良之術)では、《秘伝・八方分身》という。

 西郷派大東流合気武術の技法の中には、他武道では見られない多数捕りは、江戸年間の『甲中乙伝』こうちゅうおつでん/徳川幕府が開催した十万石以上の親藩大名を対象とした幕府の講習会)に由来しているものと思われる。
 このように日本学派の兵学や兵法は、これらの戦略と戦術を土台として出来上がったものであり、根源は全て八門遁甲の複雑な奥儀に由来するのである。したがって大東流の八方分身などの高級技法は、全て『甲中乙伝』をその根源とするものである。
 しかし、こうした『秘伝科学』に対し、これを抹殺しようとする外国の巨大勢力があった。



●当時の時代背景

岩倉具視遣外視察団(渡欧した直後の頃)。後にこの使節団は、パリでフランス大東社に洗脳されて、フリーメーソンに加担し、欧米推進派の代理人(エージェント)となる。
西園寺公望の少年時代。
 徳大寺公純
(きんいと)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、フランスに留学した。

 幕末に起こった倒幕運動は、反西欧的な徳川幕府を打倒させ、日本に、親欧米的な立憲君主国を建設するのが欧米列強の狙いであった。

福沢諭吉

 つまりこの狙いの意図は、ユダヤ地下政府(日本では「ユッタ衆」と言われた)を司令塔にして、明治維新即ち日本に於て神秘主義を推進し、これを基盤にしたフリーメーソン革命を日本で成功させる事が目的であった。
 一般には、明治維新がフリーメーソン革命であり、その背後に「弥次郎(やじろう)」という、影の総帥が居て、その配下にユッタ衆と言う穏微な集団が暗躍したという事が、あまり知られていない。

 そしてユッタ衆(影の易断政府)の総帥・弥次郎(やじろう)の指令に従い、坂本龍馬、伊藤博文、井上馨(かおる)、五代友厚、岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)、大隈重信(しげのぶ)、寺島宗則、森有礼(ありのり)、福沢諭吉、新渡戸稲造、西園寺公望(さいおんじきんもち)らが走狗となって奔走する。
 いつの時代も、有識者や進歩的文化人がこうした穏微な集団の手先となって走狗(そうく)する現実がある。

 特に西園寺公望(1849〜1940)はフランス留学帰りの政治家として知られ、フランス大東社(グラントリアン)のメーソンであった。
 西園寺は徳大寺公純(きんい)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、にとフランスに留学した。この時にフランスで洗脳を受け、グランドトリアンのメンバーになっている。
 帰国後、東洋自由新聞社長となるが辞任して、政界に入り、第二次政友会総裁となった。そして二度首相をつとめた。
 1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員として出席した。昭和期には最後の元老として内閣首班の総帥に当ったり、日本のフリーメーソン革命に奔走(ほんそう)した人物である。

五代友厚

 さて、当時の時代背景としては井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺後、幕閣の中心となったのは老中・安藤信正と久世広周(くぜひろちか)であった。この時、幕府は政治方針を変えて、「公武合体政策(こうぶがったいせいさく)」を取るのである。
 反対派結合の中心である朝廷と結んで、政治組織を改革し、挙国一致の体制を整え、国難を打開しようとしたのである。これが公武合体運動であった。

 世はまさに、ペリーの黒船砲艦外交で開国を迫る幕末の混乱期の最中で、幕府の《武》の権威は衰えていったが、反幕閣派の結合の中心である朝廷の《公》と結び付く事によって、幕府体制の再強化を図ろうとしたのである。
 これを《公武合体》といい、権威の衰弱した幕府の今後の難局を乗り切る為の幕府の苦肉の政策であった。
 公武合体政策の中心課題は、孝明(こうめい)天皇の妹・和宮かずのみや/仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の妹。親子内親王。将軍徳川家茂に降嫁。江戸開城その他に隠れた功がある。家茂の没後、落飾して静寛院宮と号した)を、第十四代将軍徳川家茂への皇女降嫁(こうじょこうか)であった。和宮は文久元年(1861)江戸に下り、翌年二月、家茂との婚儀が行われた。

 しかし公武合体政策を推進し、幕権回復の為に和宮降嫁(かずのみやこうか)を実現させた事は、後に尊皇攘夷派の武士達の憤慨(ふんがい)を招いた。この事が原因で、安藤信正は登城途中、坂下門外で水戸浪士六人から襲われ重傷を負った。
 この事件を「坂下門外(さかしたもんがい)の変」といい、これを岐点に尊皇攘夷運動は益々激化していく。

会津・戊辰戦争当時の松平容保公。

晩年の松平容保公。

 幕府は大原重徳によって齎(もたら)された勅命ちょくめい/天皇の命令で「みことのり」)に従い、幕政改革を実行し、一橋慶喜(よしのぶ)を将軍後見職にして、松平慶永(まつだいらながよし)を政事総裁職に、会津藩主松平容保を京都守護職に任命するのである。ここから、松平容保(かたもり)と会津二十三万石の悲劇が始まるのである。
 この時、頼母は霊的な予言ともいうべき諫言、「薪(たきぎ)を背負って火の中に飛び込むが如し」を藩主に申し立てるが、この進言は退けられてしまう。

 この間、国歩は多難な時代を迎え、白昼公然と幕府要人が斬殺されるような事件が江戸や京都で起こり、幕府の衰運は誰が見ても明らかであった。そして、その最初の血祭りに上げられた人物が孝明天皇であった。孝明(こうめい)天皇は、弥次郎(影の易断政府の総帥)に遠隔操作された穏微(おんび)の集団に毒殺されたのである。

 明治維新の幕開けは、ペリーの砲艦外交に始まり、孝明天皇崩御、大政奉還、明治維新、会津戊辰戦争と目紛しく時流が移り変わった。
 しかしその流れの中で「会津藩御留流」(当時は大東流の流名を持たない)が頭角を現わす機会が、一度だけあった。それは孝明(こうめい)天皇の妹・和宮(かずのみや)を、第十四代将軍家茂(いえもち)の妻に降嫁(こうか)を奏請(そうせい)した時に起こった《公武合体(こうぶがったい)》の、新体制が確立されようとした頃の事であった。

 西郷頼母はこれに備えて、会津藩上士(五百石以上)や奥女中(殿中側御用の上級武士の子女)達にこの御留流を教授した。要人警護の為である。しかしこれは殆ど陽の目を見ずに終わった。そして御留流は一応完成したものの、未発表の儘「幻の御留流」となって、この後も世に出る事はなかった。

 またその直後、京都守護職就任の話が持ち上がる。しかし頼母は、藩主容保が京都守護職に就任する事を最後まで反対した人物であった。

 更にまた、頼母と同じような諫言をした者が、長岡藩国家老(当時は郡奉行兼町奉行であった)河井継之助かわいつぐのすけ/文武両道に優れた陽明学者。洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行なった。フリーメーソンと取り引きした事で、知り人ぞ知る逸話。戊辰戦争にあたり長岡城に籠城して政府軍を苦しめたが負傷し、落城後に死亡)であった。
 長岡藩主・牧野忠恭が京都所司代に推挙された事について、河井継之助は「微弱小藩の力を以は紛擾(ふんじょう)の渦中に巻き込まれるばかりでありますから、今は藩政を充実して力を蓄え、大事を計るのが何分にも先決でありましょう」と、藩主に所司代辞任を建言(けんげん)したが、これは受け入れられず、河井継之助は空しく帰国している。継之助はこれから騒然となる動乱の時代を読み切っていた。文久二年(1862)八月の事である。