合気についての一問一答 2



質問
 西郷派大東流相見武術に、試合のようなものはあるのでしょうか。



お答え:
 西郷派大東流合気武術は、勝ち負けを論ずるスポーツ格闘技ではありませんので、試合はありません。
 【註】ただし、高段者に限り、「真剣之申合」あるいは「実戦手合わせ」というものがあり、最低でも十年以上の経験をもち、かなりの熟練者に限って、「実戦を経験する」という修行があります)
 それは一つには、この合気武術というものが、技を競って勝負するという形態で構築されていない為です。
 もし、それでもあえて試合ということになると、「死合」となり、どちらか片一方が、命の危険にさらされます。したがって西郷派大東流は覚えた技を以て、それを競い合うということはしないのです。

 また「試合」という勝ち負けで、一喜一憂する武術でないことも付け加えておきます。
 常に「負けない境地」を確立して、一等も二等も高い境地と、次元を目指す武術が西郷派大東流合気武術なのです。
 また他流との他流試合や、強弱を試す手合わせと行ったものも行っておりません。それは西郷派大東流合気武術が、単に技を競ってその強弱を試す、強弱論を修行の根底に置いていないからです。

 あくまで求道者(ぐどうしゃ)として、争うことを求めるのではなく、「争わない玄理」を求めて修行するからです。
 原水爆や優秀な高性能銃が開発され、それが戦争で実用化されされる現在、こうした殺傷は、「武の道」に課せられたテーマでなく、武術や武道と言われるものは、例えその武技が試合形式のものであっても、求めるものは、単に勝つためでなく、人生の糧として、武術や武道を修行するべきだと考えます。
 こうした意味から、我が流派は他との争いや試合を禁じているのです。
 そして「武の道」は同時に「人の道」であり、常に心を正し、勝つことよりも負けないことを求め、負けないためには日々修練を行って、その求める境地は、「人間として如何にあるべきか」という、礼儀の正しさを求めているわけです。

 昨今は、中々礼儀の正しい人を見ることが少なくなりました。
 武道や格闘技をしているといっても、礼儀の正しい人は、こうした組織の中に見ることは殆どありませんし、仮にこうした組織に中に、自分は礼儀が正しいと自負していても、それは組織内のことであり、先生や先輩に対して礼儀正しいのであって、組織の外では、傍若無人に振舞ったり、横柄な態度や、傲慢な態度を取って、そうした態度の中に、武人の心の健全さなど何処にも見ることができなくなってきています。

 こうした、礼儀知らずが横行する世の中ですから、西郷派大東流合気武術を学び、正しい礼儀作法を求めてもらいたいと思う次第です。
 昨今は、試合上手、試合に勝った人だけが、英雄視されて、有頂天に舞い上がり、テレビのコマーシャルや芸能番組に登場していますが、本来の意味からすると、これは間違いであり、武術は試合に勝つためではなく、日に修練することで、その中に「心」を求め、自分とは何者かと言う「己を知る」ということに全力を傾けるものなのです。

 よって試合などは必要なく、争わないことを求めるべきだと考えます。しかし、そうは言っても、自分の学んだ武技が正しいかどうか、あるいは技が円熟しているかどうか、これを試すために、昇級昇段試験があり、これによってその技術的な有無を判定し、あるいは指導者と門人が手合わせをして、その伎倆の上下を確かめ、未熟者は更に一層努力して、円熟者は更に現在の位置に満足することなく、一ランク上の技法を指導し、人間は死ぬまで修行しなければならないという、教えを指導しているわけです。

 したがってこうした教えを達成するために、試合をする必要はなく、まずは、こうした斯道にまい進するために、今自分は何をしなければならないかと言う、最も根本的な人間としての在り方を説いているのです。



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質問
 西郷派大東流合気武術と、空手などの打撃系の格闘技と試合した場合、どちらが強いのでしょうか。



お答え:
 この質問はある意味で単純明解かつ、青少年の素人に最も多い質問です。
 さて、ここで武道と武術の違いを定義しておきましょう。
 武道は、一般にスポーツ武道並びにスポーツ格闘技を指して、こう呼びます。

 剣道も柔道も空手もその他の格闘技も、スポーツ武道か、スポーツ格闘技です。このスポーツと定義していることは、一定のルールを設け、審判員を配して試合をし、優劣を競い、その勝者を「英雄」とする考え方です。
 これはまた、観戦する観客がいると言う事を前提にして定められているからです。観客の多くは、武術に疎い素人であり、素人に分かりやすく、その勝ち負けを判定するには、当然の事ながら審判員が必要となります。また見ている観客を退屈させないためにも、時間進行の円滑と言う事が必要になり、定められた時間内に決着を付けなければなりません。そして試合結果が、ほぼ同等・同格の場合は、その決着の白黒を複数の審判員が判定し、主審に当たるものが試合結果を宣告します。

 スポーツでも、格調が低ければ、こうした審判員制度が必要になってくるわけです。
 しかし、数あるスポーツの中で、「ゴルフ」だけは審判員がいません。これはこのスポーツが貴族の間から始まり、判定をする者が実際に見ていなくても、ズルなどしないとした貴族の誇りのようなものがあり、それだけ格調高いスポーツである事を、物語っているからです。

 そして階級が下がれば、下がるほど、八百長があり、ルール違反があるのですから、審判員が必要になり、今日のスポーツの多くに審判員が登場するのは、それだけ階級の低い観戦客主体によって、試合が展開されていると言う事になるわけです。つまり、これが「スポーツ格闘技や競技武道の大衆化」の実体です。

 そして審判員がいる以上、当然ルールがあり、ルールによって試合が全て進行していると言う事になります。これはまた、その格闘技なり、競技武道が、単に試合にしか通用しない、得意技を作る結果となります。

 つまり武道愛好者の多くは、咄嗟(とっさ)の場合の「実戦護身術」として練習しているのではなく、目的は「試合に勝つ為」に練習しているのです。
 それに比べて西郷派大東流は、あくまで武術という思想に則り、「勝つ為」ではなく、「負けない為」に日々の修行を続けます。単に練習と修行の違いは、ここにあると言って良いでしょう。

 練習の目的を「試合に勝つ」とするスポーツ武道並びにスポーツ格闘技は、その愛好者や選手は、大方が巨大体躯の若者で占められています。
 この理由は、こうした西洋スポーツに名を借りた武道や格闘技は、体力中心主義で試合に勝つことのみが、その中心課題であるため、こうした状況下にひ弱な高齢者や老人や婦女子は入り込む余地がありません。スポーツ界は若者の体力中心主義で運営されています。

 さて、武術は「負けない事を教える秘術」です。負けない事とは、容易に敵に攻められないことを言い、修練した武技を競って、勝って奢ったり優越感に浸るものではありません。
 まず、西郷派大東流では「負けない境地」を確立して、それを「切り札」にします。「切り札」が「切り札」として通用するには、それを遣わないことであり、遣わないから敵には解らず、「切り札」が「シークレット」として通用します。

 そして「切り札」を遣わなければそれが自分を支える自信となり、人生を積極的に生きる原動力となります。「切り札」は咄嗟の場合のみを除いて、遣わないから「切り札」となりえます。
 秘密は秘密であるから価値があり、それを遣えば敵に研究され、やがては敗れる事になります。こういう意味で、西郷派大東流は剣道や柔道や空手のように試合をせず、また、強いか弱いかを計る強弱論に終始しないのです。

 また弱肉強食の理論を掲げていませんから、「強い弱い」は修行者の段階で、全く必要ないことであり、多武道と戦ってこれに勝ちをおさめると言うのはあまり問題にしていません。
 更に重要な事は、昨今の格闘技の中で、「史上最強世界最強ともいうそうですが)」と豪語する格闘技がありますが、非常に不可解なことは、何をもって史上最強とするのか、その定義がハッキリしていないと言うことです。

 ただゴングとともに始まってリングの中で闘い、その優劣を競うと言うのであれば、ではその基準が変り、試合時間もなく、観客も一人もいず、場所の限定もなく、ルールすらなく、こうした展開の中で、果たして、こう豪語する格闘技が絶対に強いと言えるのでしょうか。
 こうした格闘技を愛好する選手も、厳寒な冬山に「マタギ」と言われる職業の人と、山に入り、恐らく30分も経たないうちに道に巻かれ、以後、凍死する可能性すら否めなくなります。

 武術や武道にはそれぞれに長所と短所があり、どれを挙げても、欠点のないものはありません。したがって欠点に目を向けるのではなく、その長所に目を向け、学ぶべきものは学と言う、謙虚な心が必要です。
 他武術や他武道を譏(そし)ったり、欠点ばかりを見て、実戦に使い物にはならないと一蹴するのは、宝を溝(どぶ)に捨てるようなものです。
 「他は全て、みな先生」という心構えで、自分の信奉する武道や格闘技に入れ込むだけでなく、他の技などを研究して、いいものは取り入れて、悪いものは除去して行くと言う、こうした謙虚な研究心が必要です。
 西郷派大東流合気武術では、こうした精神を「礼儀」といい、その謙虚な実践者を、「礼儀正しい人」と褒め讃えているのです。


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質問
 西郷派大東流に、関する書籍は発売されているのでしょうか。



お答え:

 この関係の書籍やビデオは数多く発売されています。それは西郷派大東流のオリジナルとして、全国の書店や、尚道館並びに綱武出版で発売されています。
 書籍やビデオの著者は、当流の宗家であらせられる曽川和翁先生の著作によるもので、代表的なものとしては『大東流合気之術』『大東流合気の秘訣』『大東流合気二刀剣』(いずれも愛隆堂)、『大東流秘伝大鑑』(八幡書店)、ビデオとしては『大東流合気武術』『大東流講習会セミナー』『大東流AtoZ』第一巻から第五巻、『合気行法(合気完成90日ビデオ・バージョン)(いずれもBAB出版)、そして既に十年前に絶版になってしまいましたが、『大東流合気武術』第一巻から第四巻(愛隆堂)、『合気完成90日』(BAB出版)、『八門人相事典』(学研)などがあり、これらは今では東京神田の古本街でしか見られません。

 また最近の著書としては、『大東流合気之術』(愛隆堂)、『合気の秘訣』(愛隆堂)、『大東流入身投げ』(愛隆堂)などがあり、特に『合気の秘訣』はイングリッシュ・バージョンとして併用されているため、外国の方にも、好評を博しています。

 更に、西郷派大東流合気武術の専門誌を出版している綱武出版では、曽川和翁先生が五十有余年の中で教わった様々な合気に関する事柄や、曽川先生ご自身の体験談が書かれ、現在第一巻から第十一巻までが発刊されています。
 また同出版社では毎月一回発行の『志友会報』ならびに『大東新報』を発行しております。詳しくは書籍コーナーをご覧ください。



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質問
 性別や年齢、体格や体力に関係なく学べるでしょうか。



お答え:
 ここで小児マヒを克服した人の話をしましょう。
 幼少より小児マヒで足の不自由な方が、熱心に稽古を重ねた結果、普通の人と見分けがつかなくなるくらい恢復(かいふく)して、それを克服したのでした。

 この人は最初のうち、畳に足を引き摺って、畳を血で汚し、見ていても痛々しい限りでしたが、熱心に稽古を重ねて行くうちに半年ほどで見違えるように恢復したのでした。執念の克服だったのです。
 そしていつの間にか稽古を続けているうちに、身の熟しが敏速になり、技も自在に遣えるようになって指導員たちを驚かせたのでした。

 これは「強くなろう」「相手に勝ちたい」等の低次元な邪心を捨てて、一心に自らを克服する為に、努力した結果だと言えるでしょう。
 もしこの人が、「勝ちたい」という願望で稽古していたら、この邪念に絡み取られて、こうは恢復はしなかったはずです。邪念を捨てて、純粋に一心に励んだ、本人の心の勝利だと言えます。



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質問
 合気とは何でしょうか。



お答え:
 言葉では非常に説明しにくい事柄だと思いますが、合気の意味合いからして、自分と相手の力を合わせる、あるいは相手の力を利用して奪い取り、その相手の力を誘導して奪った力に、自分の力を加えて制するのが「合気」です。

 直線的な力と力が衝突した場合、大きな力が勝ち、小さな力は撥ね飛ばされてしまいます。
 つまりここには柔道の乱取りや空手の組手、相撲の組打やプロレスの格闘で見られる、力の揉(も)み合いや、衝突はなく、押されたら押し返そうとせず、また引っぱられたら引っぱり返そうとせず、相手と「和す」ことが合気の極意です。

 次に相手の直線的な動きを円運動することによって、その力を吸収し、相手と「和す」ことによって、相手と一体になってこの動きが一つになった場合、その流れは「統合」されます。したがって両者は力の衝突すること無しに、無理な力を要せず技を掛けることができるのです。

 西郷派大東流は先手を取るために、自ら進んで攻撃をし掛ける武術ではありません。相手の出方に応じて変化し、常に相手の力の先端に自分の動きを重ね合せることから始まります。そしてこれは護身術としての要素が強く、これが咄嗟の事件に遭遇すると、実戦護身術になって我が身を護る事が出来るのです。

 そして直線運動は円運動することによって取り込まれ、相手は術者の「捌き」と「掛け」によって吸収されてしまい、力任せの相手の「剛力」は円の軌道に回帰され、その力は無効になります。

 その要点は相手に逆らわないこと。重力に逆らわないこと。相手のスピードに眼を奪われないこと。相手を和すること。常に呼吸力を鍛練して相手の呼吸の吐納(とのう)を読み、掛ける汐時(しおどき/タイミングと称され、相手の打って出る力の流れに自分の力を合わせる「掛け」の瞬間)を読み取ることが相手を、自在にコントロールする要となるのです。