道場憲章 6



第五条 昇段 (1)

 ・一般部の初段補:第壱級と初段の間に位置し、黒帯補佐の資格を得る。
 
初段補……黒帯(黒帯に5mm幅の白線一本。帯への表示は「西郷派大東流」と苗字。女子の場合は、帯中央に縦
 長の白線が入ったものを締める。帯の表示は同じ)

 
【註】初段補の帯の名称は、「合気武術」の名称は用いず、黒帯は許可されるも、流派名の「西郷派大東流」のみにとどめるものとする。

 また、黒帯以上の許可を許される者は、直接宗家より黒帯の伝授を受け、その拝領が許される。
 なお初段補の審査規定は、次の通りである。

木刀素振りが正しく出来、剣術を通じた合気揚げの論理を理解していること。
腕節棍の第一の型第四の型までが出来、合格タイム内に正しく出来ること。
3
標高900.8メートルの福知山山頂。
地下足袋を履いて、夏季合宿セミナー(毎年8月14日に福智山登山を実施)または洗心錬成会(毎年春・夏・秋および毎月第一土曜日実施)で、福智山頂上を1回以上極めた事のあること。山行きは昇段受検希望者の精神力と体質的条件を判断する材料として、初段補審査に適用される。
(あるいは、それと同等程度の山の山頂を極めた事のあること)
4
西郷派大東流合気武術に関する術理的な儀法(技法)五儀法の中から、三儀法が出題され、これが正しく出来ること。




4.級位証明書とは(総本部尚道館が発行する級位)
 各級位の取得者は西郷派大東流合気武術総本部・尚道館が発行する『有級証明證』『級位証IDカード』を所持する。
 また、この取得者は、総本部・尚号館の級位管理名簿に、厳重に永久管理・保存され、わが流の道場生は、何人たりとも、この管理下に置かれ、その級位は永久不変のものとなる。
 これは仕事や転居などで、住まいが替わって、他の支部に移籍する場合、同時に今までに取得した級位は有効であり、その級位をもって、身分が証明される。

 したがって、支部発行の勝手な証明書や、支部長名義の証明書は無効であり、また、そいうい類は一切存在しない。
 総(すべ)ての級位証明證は、西郷派大東流合気武術総本部・尚道館の発行する、最高実力者の曽川和翁宗家の名義と宗家印によるものである。




5.へりくだりの愚と非礼について
 昇級や昇段について、その旨を指導者もしくは師範から声を掛けられ、遠慮のつもりか、謙遜(けんそん)のつもりか、「自分はまだまだです」等と言って辞退する者がいる。
 本人はこれを謙遜(けんそん)、あるいはへりくだった気持ちで応えたのかも知れないが、これは一種の思い上がりであり、傲慢(ごうまん)である。

 指導者が昇級・昇段で声を掛ける場合、「この人はその修行の段階が、それに相応しい処まで到達した」と判断してこれを呼びかけるのであるから、これを辞退する事は、大変な非礼に当る。
 その人が、そうした段階に到達していなければ、指導者は声を掛けるはずがなく、また、自分で、自分の段階が判断できるのであれば、指導者など必要無いのである。勝手に自分一人で稽古し、自分でその進歩を確認すればよいのである。

 しかし大東流は、幾ら自分で研究し、生涯その技法を研究しても、これは容易に分かるものではない。西郷派大東流は伝統武術であり、数百年単位で研究して来た古人の研究の集積であり、これが一個人の力倆をもって、生涯研究に没頭したところで、その秘伝までを自分自身で編み出すことは到底出来ない。

 また、伝統武術と伝承武道の根本的な違いを理解していなければならない。
 世間では「伝統」と「伝承」の区別は曖昧(あいまい)であるが、両者は厳密な意味で大きく違っている。

 伝統とは、「時代とともに変化していくもの」であり、伝承は時代が変わろうとも、古いものを旧時代の源流当時の儘に伝えるのが伝承であり、ここには時代とともに変化すると言う原因を持たない。原因がなければ、変化の理由もない訳で、伝承は時代とともに変化する要素を持たないばかりか、骨董品の儘で何時の時代も、かつての風習と思想に従い、変化の原因を派生しないのである。
 変化を来さないと云う事は、要するに骨董品の範疇を一歩も出るものでなく、移り変わる時代の流れから見れば、まさに時代遅れを、民族の文化の如き錯覚させる悪しき思想と言えよう。

 西郷派大東流の特徴は、一個人が幾ら努力し、研究しても、その技法の本質が「術」であるので、柔道や空手や剣道、あるいはその他のスポーツ武道のように、自分一人で黙々と筋トレをやり、筋肉とスピードを養成して、それだけで進歩していくというものではない。
 「秘伝」と称される門外不出の、術をマスターする為には、直接その熟達者からの指導を授け、その術の細かい部分まで教わらなければ分からないのである。

 指導者がこうした術を指導する場合、その人がこうした術を会得するに相応しい段階に達したから、昇級や昇段を促すのであって、こうした段階に達しない者に、声は掛けないのである。
 指導者から声を掛けられ、これを辞退するのは古来より「卑下・傲慢(ごうまん)」と言われ、慢心の心ありと看做された。そして一種の思い上がりと考えられて、愧(は)ずべき行為であると指摘されている。

 こうした事を辞退する人は、既にその人の、人間的な成長はそこで止まったと看做され、それ以降、一切声を掛けてはくれないのである。
 人間は成長して行かなければならない。月日と共に人間的な人格と品性が高まらなければならない。その原点を点検する基準は礼儀であり、常に自分は「礼儀正しいか」ということを自問自答しなければならない。


6.昇段・昇級の礼について
 昇級し、あるいは昇段して無事、それに合格が出来たという事は、何よりも指導者や先輩に対しての、唯一の恩返しである。
 また無事合格したのであれば、指導者や先輩に「あいさつ」をして回るのが礼儀であり、自分だけの事として、裡(うち)に仕舞うのは良くない。

 昇級し合格する、あるいは昇段しそれに合格すると言う事は、自分の修行段階を知る唯一の道標であり、また、それに合格出来たと言う事は自分の成長とともに、身分の確認となる。
 人格並びに品性の卓(すぐ)れた人は、こうした事も敏感であり、逆にそうでない人は、自分一人の事として裡に仕舞うようであるが、これはそれだけ自分の人格と品性が、まだまだという段階の人であり、身分的にもまだまだ低いと物語ったものである。

 古人は、こうした目録以上の免許を得たとき、師匠筋や先輩や同僚を招いて、一席設ける事が武人の嗜(たしな)みであった。そしてその喜びを自分の内に仕舞うのではなく、多勢に告知して自らの身分の證(あかし)としたのである。
 今日では、必ずしもこうした席は設ける必要はないし、古法通りに謝礼を行う必要はないが、せめて口頭で、師匠筋や先輩や同僚に「あいさつ」するくらいの最低限度の武術家としての心得は持っていたいものである。

 また修行者が未成年の場合、その保護者は、ただ「級位」という紙切れを貰ったという感覚ではなしに、ある目的をもって、わが子に道場へ通わせているのであるから、合格したら、家庭内で簡単でもよいから、祝膳を用意して、家族全員で「合格を祝う」という、日本の武門・武家の良き伝統を、わが子に体験させてやるという心遣いもあって欲しいものである。
 子供は、段階を踏む事によって、自分の位置を知る事もできるし、身分を確認すると言う意識は子供でも大事な成長の為の修行であり、これがまた「礼儀正しさ」に繋(つな)がって行くものなのである。

武家の精神を受け継いだ日本家庭では、子弟が昇級試験に合格するとその祝いとして、朱塗りの器に祝いの席膳を設け、家族全員で祝ったものである。

 また、こうした子供が大人になり、わが子を道場に通わせて、級位や段位を取得した場合、また同じように、人を祝うという儀式の重要性を知るであろう。
 人を祝うのは、何も結婚式ばかりの、華々しい俗事が、専売特許ではないのである。むしろ、こうした武術の昇段や昇級に対して、祝うという気持ちが大事なのである。