入門について 5



●大東流儀法修行者の評価は、肉体的な実力を評価するのではなく、その人の熟知度を評価する

 どれだけ体力があるか、どれだけ試合に勝てるかの肉体的な体格や腕力は、わが西郷派大東流では問題にしません。過去の履歴も問題にしません。
 各段階ごとの儀法をどれだけ熟知し、その研究を行っているかを評価するのが「級位儀法検定」です。

 大東流は進級する度に、各々の儀法が少しずつ高度化されます。したがって他武道のように、決まった基本技を使い分けて、順環させるというものではないのです。

 喩えば、柔道の場合、「一本背負い」は初心者でも一本背負いの技を使い、また五段六段の高段者でもこの一本背負いは同じ技であり、初心者と高段者が同じ技を共有して試合に臨む訳ですが、大東流には、喩えば「四方投げ」にしても、「表」「裏」「奥」という次元の違う三段階が存在し、儀法の階級が上がるごとに高級技法になり、経験者と未経験者の儀法の熟知度は天池の開きを構築します。
 したがって肉体的評価を行って、これそ実力と論(あげつら)い、これに資格を与えるのではなく、西郷派大東流は儀法という能力を与えて、熟知度を評価する特異な武術なのです。

 さて、六級に合格して正式入門が許されますと、次は「第五級儀法」「第四級儀法」「第参級儀法」「第弐級儀法」「第壱級儀法」と順に高度化され、壱級になりますと「初段補儀法」あるいは「初段儀法」の検定の順に進級していきます。以降は黒帯への道が開けています。
 つまり級位とか段位というのは、お墨付的な資格ではなく、どれだけ会得しているかの「能力」なのです。



●正式入門が許されると

 第六級儀法検定試験に合格すると、宗家との「第一親等系図の弟子」として、宗家との直接関係を造る事が出来、道場内に自分の名札を掲げる事が出来ます。
 つまり門人とは、宗家と系図的に一親等でつながっている人を「門人」と称する訳です。

 したがって門人でなければ、大東流儀法の細かな注意点や、ポイントとなる要旨は、直接指導を授ける事は叶いません。
 教えてもらわなければ解らないのが大東流の儀法であり、柔道や空手やその他の格闘技のように、自分でランニングをしたり、筋トレをしたり、巻藁を叩いたり、チューブを引っ張ったり、シャドウボクシングのように自分の陰を相手に練習したりと、一人で強くなっていくものではありません。

 こうしたスポーツ武道は、自分一人で肉体を強化する事で試合に勝てるような状態を作り上げていく事が出来ますが、大東流儀法は先人の智慧の集積の為、一人の人間の努力では如何ともし難いところがあります。

 また大東流の秘伝・奥儀は、勝負事としての試合に勝つ為に、日夜稽古を繰り返すものではありません。勝負事で勝ちを狙うよりは、負けない事を目標に稽古に励む訳です。幾らこちらが手を尽くしても、勝負に出てこないという人は、実に恐ろしいところがあります。勝負をしないから、負ける事がないのです。
 大東流の行き着く奥儀は勝つ事ではなく、「負けない境地」を得る為の修行です。これが理解できなければ、わが西郷派大東流合気武術の門人には、なる事が出来ないのです。

 人間の肉体は実に巧妙であり、複雑であり、然も整然としていて、神秘の世界に包まれています。しかし残念な事に、巧妙で神秘に包まれた肉体ですら、やがて年齢と共に、体力には限界が現われ、体内の至る処が老化し、最後には朽ち果ててしまいます。したがって大東流の修行は、肉体を信奉し、若い肉体を装って、これに固執するというものではありません。

 生・老・病・死という、人間の素朴な宇宙の法則に従い、それを素直に受け入れて、老後に至っても、これまで学んだ自分の威力が衰えないように、徐々に肉体信奉から離れ、霊的な進化を求めていくのが、大東流の修行です。
 つまり勝つ事ではなく、負けない事の修行が、大東流の目指すところであり、負けない事において、「切り札」が存在するのです。

 吉田兼好の著わした『徒然草』には「双六の上手」が挙がっています。
 それによりますと、「双六(すごろく)は勝とうと思って打っては行けない。負けないように打つべきである。どの手を駆使すれば早く負けないか、それを思案して、一目でも遅く負けるように色々と手を尽くすべきだ」と述べています。

 負けない人というのは、裏を返せば「冷静な人」であり、観察眼が働き、相手の小手先の動きや虚仮嚇(こけおどし)に翻弄(ほんろう)されない人の事を言います。すなわち精神の安定と、相手の策に乗じない精神的霊的コントロールの熟練した人の事を言うのです。

 こうした精神状態の境地に辿り着くのは、中々容易な事ではありませんが、少なくとも尚道館の正式門人に許された人は、こうした境地に至る「切り札」の一種を手に入れた人と言えます。