尚道館の歴史 2



曽川宗家の青年時代は、各大学に、西郷派大東流合気武術を指導して回る事が、その青春の殆どだった。鹿児島本線沿線沿いの、各大学に西郷派大東流の指導をして廻った。

大学生に「二人捕り」の懸(かか)り稽古をつける曽川宗家。
 当時、大学生の間では「二人捕り」「三人捕り」「四人捕り」あるいは最高「五人捕り」の懸り稽古が普通だった。



大東流のふわりと浮き上がる筈身(はずみ)投げ。

昭和47年(1972)10月……第二回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和48年(1973)11月……第三回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和49年(1974)10月……第四回全九州合気武術選手権大会を開催する。

 同年11月……本部「大東修気館」道場が八幡西区森下に移転する。



師範免許を許された吉田司(つかさ)師範と、八幡東区中央町の合気武道館道場前で。

門人に稽古をつける曽川和翁宗家。

昭和50年(1975)3月……本部道場が八幡東区中央町に移転し、名も新たに「合気武道館」を名称にする。また、これまでの大東流修気会を改め、移転を機に「大東流尚道会」を新名称とする。

大東流柔術の秘伝・岩石落。
敵を頭上より地面に叩き付ける。

飛び込み受身の人垣飛び稽古。
 かつては、こうした非常にハードな稽古も、日常茶飯事のようにしていた。


四尺杖の上を飛ぶ受身の練習。
 当時は今では考えられないような、こういうハードな猛稽古が行われていた。しかし、ハードだからといって、怪我をする者は一人も居なかった。



 同年10月……第五回全九州合気武術選手権大会を開催する。

 同年11月……千葉県船橋市より、八光流柔術皆伝師範・岡本邦介氏が入門する。曽川和翁宗家27歳、岡本邦介氏48歳。



昭和51年(1976)4月……本部道場事務局を八幡西区八千代町に置く。

 同年10月……第六回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和52年(1977)8月……柔道五段で、当時日本中央競馬会調教助手会会長・村上勝年氏が入門する。

 同年11月……第七回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和53年(1978)8月……千葉支部「習志野・綱武館」を開設。進龍一師範が館長となる。

 同年11月……第八回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和54年(1979)9月……茨城県稲敷郡美浦村美駒の日本中央競馬会トレーニングセンター内に茨城支部美浦道場が落成。初代道場長に、調教助手会の会長・村上勝年氏が就任する。
 現在は桑原清治正師範が二代目道場長を務める。

 同年11月……第九回全九州合気武術選手権大会を開催する。



昭和56年(1981)4月……茨城県稲敷郡美浦村美駒の日本中央競馬会トレーニングセンター内の美浦厚生会館で、大東流尚道会の全国大会を開催する。



武田時宗先生と同団結なる。

大同団結を祝して乾杯。(当時この席に隣席したのは、西郷派の現宗家の曽川和翁先生と綱武館館長の進龍一師範だった)

武田時宗先生の話を聞く、西郷派宗家の曽川和翁先生と、当時習志野綱武館の館長・進龍一師範と弟の西郷派大東流五段の進俊彦師範。



武田時宗先生から指導を受ける当時曽川和翁宗家の指導下にあった八幡大学(現・九国大)合気柔術部員。

武田時宗先生から手解きの一手を教わる八幡大学合気柔術部の学生。

昭和57年(1982)5月……北海道大東流宗家・武田時宗先生が本部道場事務局を訪ねる。武田先生より大同団結の提案が出る。



豊山八幡神社内の旧道場が風害で倒れて以来、以降場所を点々とし、曽川宗家の青年期は、晴耕雨読の生活の連続だった。
 一時、道場を失った頃は、天気の日には外で稽古が行われ、雨が降れば、室内で技法の研究をすると言うのが常だった。
 これは、昭和58年4月に本部道場が八幡西区上上津役に移転するまで続けられた。



昭和58年(1983)4月……本部道場が八幡西区上上津役に移転する。これまでの合気武道館の名称を改め、「尚道館」を名乗る。習志野・綱武館より進龍一師範の名代として、高弟の高橋秀典氏が開館式典に参加する。



昭和59年(1984)10月……本部道場「尚道館」が八幡西区千代ヶ崎に移転する。



昭和60年(1985)5月……西郷派大東流合気武術は会結成と共に二十年を迎える。



昭和61年(1986)10月……本部道場「尚道館」に於て第一回師範会議を開催する。



昭和62年(1987)5月……進龍一師範、関東方面指導部長に就任する。東京、千葉、茨城の各支部を傘下に入れる。

予備校明林塾ゼミナールの入学式の模様。入学式は予備校内の道場で行われた。入学生徒に対し、激励の辞を述べる曽川宗家。
 そして曽川宗家は同予備校の理事長に就任すると同時に、数学及び理科の専任講師として、これより多忙な日々を送る。


予備校明林塾ゼミナールの英語の授業風景。

 曽川和翁宗家は西郷派大東流合気武術を各大学や道場に指導する傍(かたわ)ら、一時、家庭教師として中学生の高校受験や、高校生の大学受験を指導し、やがてこれは発展して「進学教室明林塾」となる。

 そして、昭和62年6月には会社組織となり、大学・大検予備校明林塾ゼミナールが誕生し、北九州市八幡西区黒崎駅前と、北九州市小倉北区馬借に両予備校が設立された。

予備校明林塾ゼミナールの発足当時の専任講師の面々と。

(小倉校で。右から2番目が曽川和翁宗家)


尚道館小倉道場・道場開き
 
昭和62年9月6日。曽川宗家の向かって右側がサンレー社長の佐久間進氏、その右隣が衆議院議員・三原朝彦氏、また宗家の左隣がカネミ倉庫社長の加藤三之輔氏。



 同年9月……6日、大学大検予備校明林塾ゼミナールビル内の三階に、尚道館小倉道場を開設する。
 この道場開きに当たり、カネミ倉庫社長・加藤三之輔氏、サンレー社長・佐久間進氏、衆議院議員・三原朝彦氏が駆け付けてくれた。この道場開きには、北九州の多くの名士の方々が集まってくれた。



平成元年7月に完成した尚道館。

尚道館ビルが完成した時の定礎。

平成元年(1989)7月……総本部道場「尚道館」が北九州市小倉南区志井6丁目11-13に完成する。

開設したばかりの尚道館の稽古風景。

曽川宗家に贈られた、当時日本での陽明学者の大家・安岡正篤先生の書、「一掴一掌血、一棒一條痕」の色紙。

 同年10月……陽明学者として著名な安岡正篤(やすおか‐まさひろ)先生より、東洋哲学の陽明学の祖・王陽明(おう‐ようめい)先生の有名な諌言、「一掴一掌血、一棒一條痕(いっこくいっしょうけつ‐いちぼういちじょうこん)の色紙が贈られる。

 この意味は、一度敵の手を握ったならば、血が滲むかで掴み取れ。また棒で打ち据えたならば、その痕が残るまで打ち据えよ、という意味で、まさに西郷派大東流合気武術にはピッタリの言葉であった。
 ここに武術家の闘魂の心意気が感じられる。