尚道館少年部 3



●生兵法は大怪我の基(もと)

 被害者にならないためには、日頃から地道な訓練をして、武術の心得を身につけておかなければなりません。
 しかし少しばかり、生齧(なまかじ)りの護身術を身につけていても、それが即席のものであっては、イザという時に、全く役に立ちません。

 かつて、某武道の初段の腕前を持つ女子高生が、無慙(むざん)に暴行され強姦されてしまったという強姦傷害事件がありましたが、これなどはやはり、「生兵法は大怪我の基」を地で行くような事件でした。
 スポーツや一対一で格闘する競技武道と、武術というものは根本的に違いますから、この違いも区別して覚えておく必要があります。

 そして最近は不景気が吹き荒れているせいか、道場の先生の中にも、一介の武道屋に成り下がった人が少なくなく、お金で段位を売り渡している現実があります。黒帯の実力がなくても、お金で簡単に免状を出す武道指導者が多くなっています。
 特に弱年者の黒帯は、実力から言っても要注意であり、最近は小学生の男女が黒帯をしているの、体育館や試合場で見掛けることがあります。

 そのため、高々、初段程度の腕前では、やはり、ささやかな抵抗に終わってしまいます。そして、威力がないためにこうした結果に終り、かえってこの程度では邪魔になってしまいます。
 この女子高生は、自分の習う競技武道を過信したところに、大きな判断ミスを侵してしまったのです。

 また空手は「一撃必殺」を豪語しますが、この言葉は最早死語であることは明白です。
 襲う側の賊も、モノにしようとして必死で襲うのですから、少女が繰り出す、突きや蹴りの一撃で、戦闘不能になるということは、まずあり得ません。

 素人考えで、空手は「瓦を割る」武道を錯覚します。しかし今日の空手家の中に、本物の屋根瓦(強化セメント瓦)を割る人は、数える程しかおりません。試割用瓦(しわりようがわら)は既に、特殊に細工されたセメント貫の瓦が用意され、ブロックも、試割板も、野球のバットでさえも、「試割用」として造られ、空手愛好者を対象に武道具店で販売されているのです。

 競技武道は実戦を無視した試合形式で、ルールによって試合が展開されますから、ルールにない方法で攻撃された場合、最悪の結果を生じます。また演武形式の武道も同様です。

 喩えば強盗に遭遇して、自分は普段から空手を稽古している。しかし賊も空手か拳法をやっていて、自分以上の腕前であるかも知れない。そう思った瞬間に、戦意は失せてしまいます。結果から抵抗する気持ちすら起こらなくなります。

 脅しに挑発されて、ナイフを握っている賊に、自分の一撃必殺のパンチが躱された場合、それ以上の抵抗は無駄と悟り、抵抗は益々萎えてしまいます。一番危険なのは、こうした状態に陥ることです。

 巷間には格闘技や競技武道として、剣道、柔道、空手、テコンドウ、競技チャンバラ、競技システム合気道、各種拳法や、新手の格闘技道場が処狭しと乾板を掲げています。こうした武道の本来の目的は、何もケンカ用のものでなく、精神修養として、心を鍛えることを目的としています。

 またボクシングやレスリング、素人相撲はスポーツであり、リングの中や土俵の中で、両者が同じ状態にしておいて試合をするという形式をとっているため、普段の稽古も、こうした試合形式の稽古が展開されます。

 現代でも、柔剣道の猛者で、敵が刃物で振り掛かっていたら、どうしようか。ピストルを出してきたら、どうしようか。眼潰しなどの、巧妙な方法で攻撃をしてきたら、どうしようか、と普段から実践的な工夫を研究されている人も、おられるに違いありませんが、そうした人は非常に少ないようです。

 この事は、警察官で、柔剣道いずれかの高段者でありながら、犯人逮捕の際に、犯人の隠し持ったナイフで刺され、あえなく一命を落として殉職するという結果を見ても、試合形式になれてしまった選手は、高段者といえども、狂人の刃に斃(たお)れてしまうのです。



●武器を遠ざけるばかりで、研究しなければその犠牲になる

 少しくらい武道をかじっていても、普段から常に実戦を意識し、心にも躰にも、何の準備もないところに、準備万端に整えて用意周到をした犯罪者に対し、不意打ちを食らえば、一溜まりもありません。
 悪意に満ち、普段から人を傷つけることを何とも思わない残忍・凶悪な犯罪者に対して、心も躰も準備が整わない状態で、抵抗しなければならないとなると、これは中々容易ではありません。

 しかし普段が、「重い荷物を背負い、遠い道を行くが如し」の、稽古を毎日続けている人は、普段の、そのもの事態が実戦であるので、これに対し研究を続け、常に損害を最小限度に止める方法を模索する事ができます。仮に危険な事件に遭遇しても慌てることがありません。

 また、実戦を想定して稽古しているので、試合形式や演武形式とは異なり、その日頃の研究成果はイザという場合に活かされます。

 ところがこうした研究をせずに、試合形式で「勝つ事ばかり」を念頭に置いて稽古している選手達は、実戦を研究するよりは、試合に勝つ為の練習が中心になり、日本刀やその他の、アイスピックなどで攻撃された場合、戸惑いを覚えて、全く用をなしません。

 まず、ナイフなどの「刃物とは何か」という事を知らなければなりません。そしてこれに、我が身が傷つけられた場合、どうなるのか、という事も知っておかなければなりません。こうした事を知っておけば、むざむざ命を落とすことはないのです。

 かつて栃木県黒磯市で、某中学校の女教師が中学一年の生徒から、バタフライ・ナイフで脇腹を刺されて死んでしまいました。こうした事件の裏側には、心と躰の準備できない状態で襲われたという事もありますが、刺された場合に反射的に、刃物を避けるために大きく躱(かわ)せなくても、躰を転身(左右孰れかに躰を廻す)させるという事を知っていれば、大怪我をしても、死に至るようなことはなかったと思われます。

 さて、刃物で斬りつけられた場合のことを説明しましょう。
 喩えば最悪のケースとして、腕の動脈を切断された場合、出血多量のために14秒で意識がなくなります。勿論この間に、止血を施せばよいのですが、たったの14秒間では、素人にとってこの止血は非常に困難です。

 また武道の心得があっても、刃物を相手に稽古を積んだ経験のない人は、気が動転して呼吸が乱れ、更に出血が酷くなります。その上に、斬りつける賊の刃物を奪い取り、除去しなければならない二重の行動難が課せられます。
 こうした情況下では、どう考えても護身術など、ムリな話となります。

 ではこうした局面に遭遇した場合、一体どうすればよいのでしょうか。
 まず斬られたり、刺されたりしないように「転身する」(左右孰れかに捌く)という事が重要課題となります。そうすれば万一、何処かを斬られても、あるいは刺されても、垂直方向に向かって斬り込まれないので、表皮に傷を受けるかもしれませんが、致命的な傷は負わないので、まだ賊の暴力に抵抗する事が出来ます。そして最初から斬られると覚悟を極めて掛かれば、刃物に対する恐怖心は半減します。

 最悪の場合は、戦意を消失して、自らの戦闘意識を放棄した場合です。絶対の抵抗の手を休めてはならないということです。
 そして自分の身を護ることが目的なのですから、人間の人体急所を把握しておいて、そこに一撃を加えるという事を繰り返し試みるこのなのです。

 この条件を満たす事柄として、


1. 常に抵抗の手を休めてはならない。大声で助けを呼ぶ。

2. 武道の型に捕らわれてはならない。そんな虚仮威(こけおど)しに加害者は絶対に屈しない。

3. 相手の刃物にひるんではならない。ひるめば心の余裕が失われる。

4. 「四タマ」を主体的に攻撃せよ。他の処は攻撃するな。

 ちなみに「四タマ」とは、頭・目玉・咽喉玉(咽喉仏)・金玉(睾丸)の四つのことで、ここは如何に手練の武道家でも鍛えようがない箇所です。こうした箇所への攻撃を試みつつ、抵抗を繰り返すのです。そうすることで、新たな生還への隙間(すきま)が生じます。

 また以上のことを総合しますと、ある程度の武器になりうる物を常日頃から研究しておくことです。子供には、親がこうした事を常々教えておく必要があります。
 現在警察庁では、ナイフなどの刃物以外に、鉄パイプ・バット・角材・ドライバー・アイスピック・金槌・モンキーレンジ・ガラスの欠片・陶器の植木鉢・鍋・釜・茶碗・コップなどの日用品も、凶器になりうると想定しています。
 これはこれらの凶器を使った犯罪が多発しているからです。

 私達日本人は、長い間、平和惚けの中に、天下泰平の眠りを貪り、平和主義と反戦主義に入れ上げて、シュプレヒコールの唱和を張り上げ、これによって世界は平和になると信じて疑いませんでした。

 ところが太平洋戦争終結後、既に五十有余年を過ぎましたが、世界の至る所で戦争の火種(ひだね)は燻り続け、その後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内紛、湾岸戦争、ユーゴスラビアの民族浄化運動、そしてイラク戦争と繰り返し、その火の手の消えることはありません。
 結局、武器を遠ざけて、平和主義と反戦主義に入れ上げても、人間の争いは減ることはなく、益々それに乗じて、争いが増える一方だったのです。

 そして今日、日本の秩序破壊もアメリカ並に激しくなり、アメリカに次ぐ犯罪多発国となりつつあります。
 「安全と水はタダ」という神話は、もはや遠い過去の寝物語になってしまいました。
 これからの日本の進む道は、辛い冬の、雪の泥濘(ぬかるみ)であり、不況に合わせて、青少年犯罪は更に多発すると思われます。
 人倫が見られ、世の中の大人達が子供を放任して、自らも不倫や風俗産業に趨(はし)るといった姿は、決して健全ではなく、大人自ら、親自らが、今こそ、子供の前で襟(えり)を正すべき時機なのです。