尚道館少年部 4



●尚道館では子供たちに何を教えるのか

 空手や拳法や、その他の格闘技を習う青少年の第一の目的は、まず「ケンカに強くなりたい」ということが第一の理由に上げられます。学校で苛(いじ)められないために、打撃系の武道や格闘技を習い、ケンカに強くなりたい。ケンカが強いから、苛められないという図式の上に成り立ち、暴力を暴力で遣り返す、低次元の発想が横行しています。
 こうした結果が、学校や街中や夜の盛り場で、簡単に暴力に結び付く要因を作りました。

 最近では中・高生や未成年の不良グループの、オヤジを狙った「オヤジ狩り」や「ノック・アウト強盗」が頻発しています。
 更に拍車を掛けて、戦後のアメリカ型の民主主義導入と、ウーマン・リブの影響下で、家長としての父親の威厳が崩壊し、かつての父親の威厳は地に落ちてしまっています。母親主導型のライフ・スタイルが常識化され、何処の家庭にも「強い父親」を見ることは稀(まれ)になってしまいました。

 そのためこうした家庭では、父親が家族から尊敬されないばかりか、中学生の息子を持つ父親の60%、高校生の息子を持つ80%が、息子から殴り倒されるという、間抜けな父親が増えているのです。

 週末は家族揃って、マイカーに乗って郊外レストランに食事に行く、あるいはショッピングに行くといった家庭ほど、子供らが成長するに隨(したが)い、父親の威厳が段々と低下する家族構造になっているようです。

 マイホーム主義家庭の構造は、子供が幼少年期にある時は、和気藹々(わきあいあい)として、うまく機能するのですが、子供が思春期を迎える中学・高校の頃に入ると、全く機能しなくなります。こうしたマイホーム主義家庭に大きな落し穴のあることを、現代の若い夫婦達は気付いていません。

 アメリカの中産階級・下層域の家族構造が、今日の日本では多く持て囃され、この階級を「中流階級」と称していますが、日本の場合はアメリカと異なり、男女同格ではなく、男女同権が主流なので、この家庭内権力は夫人の方が主導権を取ることになり、女尊男卑の家族構造が生まれます。この男女同権という進歩派的思想は、夫婦それぞれで仕事を持つ家庭の場合が多く、家事も同権思想から、等しく二分の一化され、育児も、掃除も、洗濯も、総て二分の一化されます。何から何まで、夫婦は二分の一化されて、家長不在の家族構造が出来上がります。

 中心は子供を産んだ母親であり、次ぎに子供が位置して、父親とペットは同格という序列が決まります。こうした家族構成をマイホーム主義家庭といい、日本では現在一番多い形となっています。

 マイホーム主義家族構造は、新婚の蜜月期を経て、子供が生まれ、子供溺愛期に入り、夫婦間は次第に狎(な)れ合いから第一次倦怠期へと突入します。この間、結婚から約十年です。
 また子供に手が掛からなくなり、小学校高学年から中学校に入る頃になると、夫婦間は次第に冷めたものになり、第二次倦怠期に突入します。

 そして第三期の倦怠末期になりますと、夫は長期出張などが切っ掛けとなって、風俗に出入りしたり、妻以外の女性を求め、妻は逆に、新たな刺激を求めて夫以外の男性を求め、これが半ば常識化かされて、不倫という不幸現象が蔓延しています。何から何までの二分の一化の欠陥部分が、ここに来て表面化するのです。

 こうした夫婦は、我が子の行動に無関心で、究めて進歩的文化人の権威を信用して、放任主義に趨ります。自分の息子や娘が、深夜まで夜遊びしても、決して咎(とが)める事なく、自らも異性を求めて風俗に足を運んだり、隙(すき)あらばという、虎視眈々とした目付きで、不倫に趨(はし)り、異性漁りに奔走します。
 そして統計的に見て、こうした放任主義に趨る多くの家族構造が、実はマイホーム主義に入れ挙げる、夫婦の間から出発したものだったのです。

 さて、至る所で暴力が吹き荒れる今日、尚道館では、ケンカや闘争に役立つものは指導していません。またこうしたものには、全く役に立ちません。
 むしろ普段の心得を体得して、かつて会津藩では「御留流」と称された、秘術の二、三手ほどを指導しているに過ぎません。しかしこのちょっとした「秘術の二、三手」を遣わなくても、それ事態で「切り札」になる特長を持っているのです。

 そして昨今の犯罪は、昔と違って、犯罪者が狡猾(こうかつ)になり、卑怯になって、そのターゲットは老人や婦女子や不具者ばかりでなく、弱小の幼児や小学生児童を襲う犯罪が多くなってきました。そうした犠牲にならないような、毅然(きぜん)とした心構えを指導しているのです。

 また少年少女は、単に犯罪ばかりでなく、交通事故にも対応できる反射神経を養成することを目的に稽古しています。昨今の少年少女は、母親の過保護や、「牛乳の骨太カルシウム神話」【註】実際は牛乳からカルシウム摂取は期待できません。乳幼児が牛乳を飲むと、水分・電解質代謝の混乱が起こって、歯や骨が弱くなるということも医学的に証明済みです。またウルトラプロセス加熱システムという殺菌方法を用いているため、乳酸菌の99%は既に死滅しています。牛乳神話は無能な親達を狙った食品産業の流行に踊らされた結果からでした)もあって、牛乳をお茶代りに、一本も二本も飲む家庭がありますが、こうした家庭に限って、転べば直ぐに骨折するなどの、軟弱な躰をした子供が多いようです。上手に転ぶこと、一つ知りません。
 ポケットに手を突っ込んでいたら、手を出さないまま顛倒(てんとう)する子供もいます。こうした事は、昔は絶対に考えられないことでした。
 それだけ親達も無能になって来ているわけです。

 そこで尚道館では「転がる」という全身運動から始まる、シンプルな「受身」を徹底しています。
 人間の反射神経が鈍感になるメカニズムは、大人の場合もそうなのですが、まず「転がる」という動作が欠けると、老化の速度が益々早くなります。前後に転がるということは、躰全体の血液を全身に巡らす事になりますから、人間は時として、上下を逆にする必要があります。

 人間が更年期障害という年齢に差し掛かり、肩凝りや腰痛が多発するのは、全身に巡らす血液が肩や腰で停滞し、これが鬱血(うっけつ)を起こしているためです。自分の肩より、上に手を挙げる動作をしないと、肩凝りが発生し、静坐(せいざ)をせずに椅子の生活一辺倒になりますと、背骨が腰骨の上に、垂直に立つ機会が失われて、腰痛を起こします。

 これと同じように、子供にも、「転がる」という運動が欠けますと、鈍感で、血の巡りの悪い子供になってしまいます。子供が鈍感になったり、頭の回転が悪くなるのは、脳に有効な食物を摂らないからではありません。決して魚の食べないからではないのです。逆に、魚の身の部分だけを食べても、頭はよくならないのです。
 問題は、第一が運動不足であり、運動をしない子供は思考能力が鈍ってきます。また運動していても、その武道なり、スポーツが全身運動であるか、否かに掛かるのです。
 スポーツをしていても、足だけ遣う、手だけ遣う、躰を一方方向にしか遣わない、右なら右、左なら左で、左右孰れかに偏った運動をするというものは、躰に歪みを作り、畸形(きけい)体型を齎(もたら)すばかりでなく、近い将来、故障箇所を作る原因になります。腱鞘炎手や指の過労などによって起り、疼痛・腫脹を主徴とする疾患)などはその最たるものです。

 人間は幾つになっても、上下の血を入れ混ぜる全身運動をしていなければならないのです。
 こうした事を考えますと、「受身」という動作は非常に大事であり、かつて交通事故に遭遇し、危うく轢(ひ)かれそうになるところを、前方に飛び込んで、空中で回転し、「受身」をした子供が道場に居りましたが、この子は掠(かす)り傷一つしないで事故を免れました。これなどはハッキリ言って、常日頃から全身運動をしていた成果であり、反射神経の機敏さと、受身を知っていたということが幸いしたのです。

 以上のことから、ケンカや闘争に役立つものと、自分の身を護るということの意味が、全く違うということがお解り頂けたと思います。

 そして尚道館では、次ぎの心得を子供に指導しています。

1. 自分の身の周りや、掃除をするということを子供自身に自覚させる。掃除をし
  て自分の環境を清潔にすることは幸運に繋がります。

2. 自分のことは自分でし、決して手伝って貰わずに最後までやり抜く、根気と集中力を養う。

3. 「受身」という全身運動で、機敏な反射神経を養う。

4. 我が儘や不平や不満を言わずに、将来のために希望や夢を語る、明るい少年少女像を目指す。

5. 子供が非行に趨って加害者になったり、事件に遭遇してその被害者になるのは、実は親にも責任があり、この事について、親にも家庭教育の中でその義務を求める。

 事故や事件に遭遇しないことが実はベターなのですが、一寸先は闇で、何が突然起こるか分かりません。
 万一の場合、被害者にもなるし、あるいは加害者にもなってしまうのです。自分自身とは無関係などと、安易に考えるのではなく、常に備えていなければなりません。そうした備えを怠っている人が、事故や事件に巻き込まれるのです。

 子供は親を見て育ちます。親自身が自分の非に気付き、襟を正さなければ、子供は益々、親の願いとは180°違った正反対の方向へ行ってしまいます。



●学歴偏重社会から、個々の才能が評価される社会へ

 世の中は学歴偏重社会と言いますが、果たしてそうでしょうか。
 高度な高等教育を受け、一生懸命に勉強して、知識派の人間が持て囃されるというのは、果たして本当なのでしょうか。

 確かにキャリア官僚などの、国家公務員第一種試験などの合格者を見てみますと、旧態依然とした学歴偏重ばかりでなく、学閥偏重傾向で、東大を頂点とした、それに準ずる国公立大学や有名私立大学出身者が多く採用されています。しかし民間企業では、一部の大手銀行や上場企業などを除き、既にこうした傾向はなくなりつつあります。
 そして最早、「学校でいい成績が取れなかったら、いい就職先には就けないぞ」という、子供への脅しは効かなくなっているようです。

 この世の中には、「金銭哲学の何たるか」を知らない公認会計士や税理士がいることを、あなたはご存じでしょうか。
 その他、銀行員や株式歩合渉外員、医者や弁護士にしたところで同じです。

 さて、多くの親達は子供の、学校での成績を気にする傾向にあります。三十年前も、二十年前も、十年前も、そして現在も、この意識は全く変わっていません。

 今でも安易に、「学校でいい成績を取って一生懸命に勉強すれば、いい高校、いい大学と進み、いい会社や官公庁の高級官僚になったり、医者や弁護士になって、沢山収入を得れ、金持ちになって裕福な生活が出来る」と思い込んでいる親達が実に多いようです。そのために、子供の塾通いが始まり、いい大学に進んで、いい大学教育を受ければ、人生で成功を収められるのではないか?……と錯覚している親達が少なくありません。教育こそが、成功の鍵だと信じて疑いません。

 果たして今の学校教育の中で、子供達が実社会に出るための準備が、充分に整っていると言えるのでしょうか?
 そして逆に、いい大学を卒業できなかったら、いい仕事には就けないのでしょうか。

 こうした考えで、子供の時から勉強一筋で来た今の親達が、果たしていい仕事に就いているのでしょうか。
 「勉強して、頭のいい人間になる」だから「一部上場の大企業は、頭のいい人間を雇う」という図式には、甚だ疑いを抱きます。

 多くの中流意識を持つ親達は、少しでも、人よりはいい大学、そして駅弁大学よりは国公立大学や有名私立大と進むことを我が子に望みます。そして就職した先で我武者羅(がむしゃら)に働いて出世し、高給取りになることを熱望します。
 しかし仮に、それが叶ったとして、給料が上がるに従い、税金も上がり、それを払うために、また働くという繰り返しが、堂々巡りの構造になっていることに気付きません。
 結局、高給取りになっても、税金を払うためにだけ働いて、一生を終わるという人生を余儀なくされている人が少なくありません。要は、それに自覚症状があるかないかの違いです。

 一旦大手企業に就職すれば、一生困らないで定年まで働けるという時代は、既に過去のものになりつつあります。年功序列も覆えされ、終身雇用は、神話に近い存在になりました。
 多くの企業は、その規模の大小を問わず、二年に一回の職能試験を実施し、適性審査を実施し始めました。企業側としては、不景気が吹き荒れる中、至極当然な選択です。不適合者は意図も簡単にリストラされてしまいます。その上、社会保障にしても、企業年金や国民年金にしても、決して充(あ)てになるものではありません。

 「小・中学校に通い、授業をちゃんと先生から教わり、テストにはいい点数を取り、学力評価にはいい成績を収めて、いい高校、いい大学に進学して、安定した仕事に就きなさい」などと、安易に子供に諭(さと)した時代は終わりました。
 今からは、やはりある程度の智慧ちえ/単に知識ではない、物事の理を悟り、適切に処理する能力)と、行動力と、洞察力と、創造力と、発想の転換と、企画能力と、自己管理能力と自己責任能力に長(た)けていないと、人生を有意義に生きられなく時代になってきています。
 そして世の中は、既に、複合性と融合性の、多角的かつ、多目的な能力の持ち主を求め始めるようになりました。

 中流階級と思っている家族構造の中には、ある種の一定した旧態依然の固定観念がはびこっています。それは中流階級と思っているが故の、宿痾(しゅくあ)です。つまり「普通意識」です。決して上ではないが、また、下でもないという中間意識です。この意識が今日の社会構造を形成しているのです。そして一億層中流は、これに回帰します。

 平均的な家庭に育ち、平均的な教育を受け、真面目に働いている人を見てみますと、そこには共通した一定のパターンがあることに気付きます。
 これは家長不在の、マイホーム型家族を構成し、子供が生まれて、やがて幼稚園などに通い始める過程の中に、両親の勝手な願望が忍び寄ります。この頃から、親達は有名私立の小学校の受験を試みます。しかしこうした学校は定員が少なく、お金も掛かるし、知能指数も半端ではないと気付き、仕方なく公立学校に入学することになります。以降、両親は公立学校でいい成績を取るよう、子供をけしかけ、少しでも成績が上がれば、大喜びして、これを何とか中・高・大学まで持続させようと、子供の塾通いが始まります。

 塾で、そこそこの成績を取り、それなりの高校に入ると大喜びし、子供のことを誇らしげに思います。その後、何とか国公立大学か有名私大に進めば、更に卒業までいい成績を維持させ、あわよくば学業を続けさせて、大学院への道を模索させます。
 今日の社会は、誰もが大学卒になり、こうした出身者が一般化され、平均化されると、その時点で、実は大卒が常識となり、これがまた、大卒者である事自体を無学的社会へと格下げし、新たな学歴社会の構造を生みます。
 つまり学歴とは、大学院出身者を指して言うのであって、大学院出身者以降を、学歴と評価する事になります。

 とにかく、いい条件で、一部上場の大企業か、キャリア官僚の道へ進ませ、最終的には安定した職業、安定した大企業に就職させて、他人より安定した収入を貰う生活を送ることに奔走させます。
 ところが運良く、こうした仕事に就いても、お金を得るために、結局は働き続けなければなりません。
 一生懸命に働き、会社に貢献して出世していくためには、家庭を犠牲にして働き続けなければならず、逆に出世を諦めて、マイホーム主義に徹底し、家庭サービスに貢献するためには、給料の格差を覚悟しなければなりません。

 いずれにしろ、給料が上がったら上がったで、累進課税制度が厳重な日本では、そのために税金も増え、子供が大きくなり、手狭になった家を増築すれば、固定資産税も増えることになります。その他、もろもろの社会保険料や健康保険料も増えることになります。
 確かに、給料は増えていますが、その増えたお金は残る程のものではありません。

 さて、こうした中流と思い込んでいる家庭の特長は、まず会社に貢献し、企業主に利益を齎すために働き、無能な政府(実際に日本政府は丸腰外交、弱腰外交を展開させて、日本政府が世界の数ある政府の中で、最も優柔不断であることは、知らぬ者がありません。そのため外交政策で脅されれば、どんな法外な金銭援助でもやってのけるのです。その借入金が将来返済されることが無いと分かっていても。そしてこれは国民の膏血を搾り上げた税金から出ているのです)に税金を払うために働き、銀行から借りた住宅ローンの元本と金利を返すために働き、VISAカードやその他のクレジットカードで買物をした支払いと、その利息を返済するために働きます。

 親達は子供に語り続けます。
 「一生懸命勉強して、いい大学に入り、いい成績で卒業して、安定した職業に就きなさい」と。
 しかしその親達が、安定した職業に就きなさいと言いながらも、自分自身は全く金銭感覚が無く、我武者羅に働き続けるだけです。
 金銭出納帳(金銭の収支を記録する目的の帳簿)の仕組すら知らず、その出し入れで始まる損益計算書(一会計期間における、その期間に属する総収益と総費用を対応させ、当期純損益を表示した損益表で利益計算書ともいう)や、貸借対照表(時点における財政状態を明らかにするために、総ての資産と、総ての負債・資本とを対照表示した書類で、バランスシートともいう)の見方も知らないまま、人生を閉じてしまう人が殆どです。

 したがってこうした殆どの人は、「国の貸借対照表」はおろか、自分個人の貸借対照表の「資産の部」や「負債の部」の読み方も知りません。
 大ローンで買ったマンションや建売住宅、それに車などを自分の資産と思い込み、苛酷な借金返済レースに否応なく与(くみ)されていきます。否、こうしたレースに参加している自覚症状の無いまま、与された事にも気付きません。

 脇目も振らず、マイホームパパとして、マイホームママとして、働くことは決して悪いことではありあせん。こうした人は、恐らく優秀な労働者であることは間違いありません。
 しかし有能な金銭哲学の持ち主でないことは明白です。

 昨今激増しているサラ・クレ地獄は、損益計算書や貸借対照表、更には金銭出納帳の仕組すら知らない国民の無知が招いた必然的は悲劇であると言えましょう。

 子供を持つ多くの親達は、自分のマイホームを守るために働き、余れば銀行に預金して、不足すれば銀行VISAカードこの実態は年利が27.8%という、サラ金カードの29.2%とほぼ同質のものです)どから借金して、必要以上に税金を払い続けている現実があります。
 すなわち、これが「中流階級」と思い込んでいる人達の、偽わざる実像なのです。
 そしてこの道を、盲目のまま、再び我が子に今迄の自分と同じ道を歩ませようとしている親達が少なくありません。暗い固定観念から抜け出せない現実があるのです。何とか、一日も早く、目覚めて欲しいものです。