●負けない境地とは、最後まで生き残ることだ
ある東京都下の体育館で、著名な中国拳法の先生の講習会(講習会費一万五千円)があり、講習会員が五十名ほど揃う中で、一人の若い白人系外国人の男が、中国拳法の先生の前に進み出て、早口の英語で、何かを捲し立てた。
この先生は何を言っているやら理解できず、首を捻って思案中のその隙に、ボカスカ顔面を殴られ、血だらけになってその場に倒れてしまった。外国人の男(実はこの男は、革の手袋をして拳の中にが石を握っていた。逮捕後の供述で判明)は直ぐさま逃げてしまい、姿を晦(くら)ましてしまった。あッという間の出来事だった。この先生の側近の取り巻きも、何一つせず、中を割ってやめさせる事もなく、ただ呆気にとられて呆然としていた。
これに唖然としたのが、ここに集まった講習会受講の生徒達である。
先生は殴られる、取り巻きの指導者格の門人は何もしない。こうした状態の中で、受講を希望した生徒達の眼には、信じられない光景に、戦慄を覚えるような驚きがあったはずである。
先生は救急車で運ばれ、講習会は中止になった。その後の容体を、後で指導者格の関係者から訊くと、先生は前歯を二本ほど折ったそうである。そしてこの外人は警察の事情聴取に、この中国拳法の先生の腕前が、どの程度か試したかったと、悪びれずに答えたそうである。
この場合、殴った外国人が責められるべきか、あるいは中国拳法の先生に隙(すき)があったことに、不覚の責めが負わされるべきのか、という問題が残る。
サシて闘えば、恐らく中国拳法の先生が勝っていたであろうが、一瞬、何かに心を奪われ、不意を攻められれば、名人といえども、こうした末路が待っているのである。
また、この先生の人を見抜く見識眼と警戒の未熟も責められて、可然(しかり)であろう。
今迄の経験からすると、外国人にはこういう手合いが多く、外国人だと、白人コンプレックスに陥って、彼等にちやほやとした甘い考えで接すると、油断を作るばかりでなく、最後は取り返しのつかない事態が生じ、結局、煮え湯を飲まされて、最悪の結果を招くことがある。
そして以降、この先生の本はすっかり売れなくなり、講習会にも人が集まらなくなったという。
まさにこれは「仁義無き闘い」であり、無躾・非礼の限りは否めないが、もし、この中国拳法の先生が技術のみならず、「礼儀の達人」であり、具体的に礼節というものを知っていたら、この外人は直接先生に近づく機会は失われたであろうし、こうした事件も起こらなかったはずだ。
礼節とは具体的には、人間の行動の中に、単に「おじぎ」を意味するものではない。また試合の手合わせの前後にする「おじぎ」を言っているのでもない。
礼儀や作法を深く追及すると、実は「武」というものが、何も、槍や刀に対峙(たいじ)して、これに対戦するというだけでないことが明確になってくる。
明敏な人は、既に不穏な気配を感じ取っていなければならない。何も戦いというのは、リングに上がり、ゴングと共に開始されるものではない。審判員の号令の「はじめ」で開始するものではないのである。既に、不穏な気配を感じ取った瞬間から始まっているのである。これに鈍感で居ると、優秀な技術を持ちながら、この中国拳法の先生ような末路を辿ることになる。
「油断があれば、名人といえども素人に敗れる」とは、武田惣角の言葉である。
そして武田惣角に、こう言わしめた起因は、惣角が札幌で、ある若い柔道家と口論の挙句、掴まれて押さえ込まれ、絞め落とされたことに端を発している。
これ以降、惣角は体内の至る処に、刃物や隠し武器を隠し持ち、身内の者が躰を触れようとしても一切触れさせなかったと言う話を、かつて武田時宗先生から聞いた事がある。
あの天才惣角にして、この心構えだ。惣角の、八十六歳という、客死するまでの長寿は、実は単に、健康に任せて生きただけではなく、「礼儀の達人」としての経験と風格を身に付けていたのではなかったか、と思われる。その意味で惣角は決して、馘(くび)から下が頑丈で、ただ人を投げたり、打ったり、蹴ったりすることだけしか知らない類とは、大きく違っていたことが分かる。
しかしこうした事も、苦(にが)い経験があって、初めて体得するものである。
「油断大敵という」まさに明言である。
心に余裕が失われ、思考の視野が狭まれば、非日常と日常の区別もつかなくなる。そして隙をつくる。隙がもとで油断が生じ、素人にも負ける原因をつくる。
そして忘れてはならないのが、「素人は手が早い」と言う事である。
手の早さでは素人考えの方が敏速で、ゴングとともに開戦しないから、いつ襲ってくるか分からない。緊張を緩め、油断した時に災難が降り掛かるのである。
かつてプロレスの王者・力道山がそうであったように、名もないチンピラに刺され、数日後、腹膜炎で息を引き取っている。
一言で「礼儀」という。
しかしこの意味は、実に奥深い。単に日常茶飯事に繰り返される「おじぎ」ではない。目配りであり、目付も含まれ、不穏な動きを察知する、人間の行動を窺(うかが)う護りにもなる。安易に「礼儀」と言う勿れ。
武術家や武道家は、四方から取り囲まれてみられる、見世物小屋の轆轤っ首(ろくろっくび)や蛇女の「出し物」ではない。もっと誇り高くあるべきだ。
文化人や有識者から、一等も、二等も見下され、侮蔑の対象になるべきではない。自分の名に恥じぬ、「武の道」の実践者として、名誉ある威厳を示さなければならない。
裁判で法廷に引き立てられた方ならば、既にご存じであろうが、裁判所の法廷は見世物小屋ではない。法廷に附設して設けられている、傍聴席は客席ではない。
その証拠に判事は、傍聴席の傍聴人に向かってお辞儀もしないし、挨拶もしない。
儒家の祖・孔子が景公に仕えたとき、政事(まつりごと)の手始めとして、何を遣(や)るかと訊ねられ、まず、「名を正す」と答えている。
自分の名というものは大事なものである。
かつて無能な芸能歌手が「お客様は神様です」と言った者がいた。客が金に見えるからそう言ったのであろうが、武術家や武道家の場合、客を大事にすれば、その人物のレベルの程度と人種が知れてしまう。
競技武道や格闘技の試合も、その催し物興行が、観客のためにあることは明白である。観客を意識すれば、観客に媚(こ)びを売らなければならなくなる。
今日は、ある一部の打撃系格闘技の試合に限らず、柔道も剣道も空手も、あるいは競技合気道もスポーツ・チャンバラも、その他の試合形式の武道も、その催しが観客のためにあり、観客に退屈させないために、勝ち負けを分かりやすくするために明確なルールがあり、対戦時間の制限があり、対戦相手との約束があり、分かりにくい判定が生じた場合の準備に審判員を用意している。まさに客に媚びうる体制ではないか。これは明らかに興行の世界のものでないか。
この点については、居合道の発表会も、合気道の演武会も同じである。
また「大日本武道祭」という仰々しく銘打った、各流派の大演武会も観客あっての武道祭である。新たな裾野を開発し、一般市民から選手や、古武術の後継者を探すと言うのは、むしろ歓迎すべき事である。しかしこれが何らかの木戸銭を取って、興行収益や大会運営のために、利益をはじき出すと言うことを目的にした場合、これは非常に問題がある。
相撲のように、興行と言う形を取らないのであれば、こうしたものは無料にすべきであるし、その方が一般市民の、武術や武道への理解も、指示も高まると言う物である。あるいは会員制にして理解者だけを集めるべきである。何も客におじぎしたり、客受けのために媚びうる必要はないのだ。
この点が大相撲の興行や有料格闘技との、決定的な違いである。したがって客に媚び売るものでないから、客に対して頭を下げる必要もない。
わが流自体、かつてはこの事が理解できず、有料で演武会を開き、某かの木戸銭を取った事がある。しかし、これも今になって考えれば、大きな間違いであったと反省している。
試合や演武会と言うものは、幾ら経費がかかるからと言って、これを観客に求めるべきでない。あくまで自己調達が原則であり、それでも足らなければ、自分の財産の一部を処分して、これに充(あ)てるべきである。
それが不可能ならば規模を小さくしてでも、出来るだけ負担のかからないようにして、大掛かりなものにしない事である。
そして十六世紀の乱世の兵法を解脱した、近代武術は、その求めるべき課題は、すなわち「武の道」だったのではあるまいか。
●「武の道」ただ一条
武道や武術は現代の世において、「武の道」のただ一条(ひとすじ)に、その心の拠り所を求めるものである。したがって武技を練り、その活動をすることと、観客というものは、あくまでも切り離して考えるべきものである。
しかし一方で、観客が居なかったら、練習するにも張り合いが無く、練習事態が無意味になるという反論する人もいる。
もともと武術や武道と言うのは、誰にも見られず、誰にも知られず、秘密を厳重を固持して、一人孤高に耐え忍び、黙々と地道に稽古を重ねるものではなかったか。
それがいつの間にか、寄席芸人か漫才師(決してこの種の職業の人を、卑しんだり、馬鹿にするものではない。しかし彼等は、観客に媚びを売らなければ、人気者にもなれないし、生活も成り立たない現実がある。その意味で、武術家や武道家がこの職業上の人とは異なることを指摘したい)の演武場如きに成り下がっている。そしてこの裏では、入場料で興行収益を稼ぐという背景がある。
これは今日の日本武道が抱えている大きな矛盾点の一つである。
そして日本人が心の拠り所として大切にしてきた、精神的支柱の固有の生活圏が、独自の文化と、独自の戦闘思想を持っていた頃は、こうした矛盾点も生じなかったが、武家社会が崩壊し、身分制度が崩壊してしまった今、真の意味での武士道は廃れ、かつての武家の文化も、町人の文化も、また河原乞食と蔑まれた、今で言うタレントや芸能人の文化も筋目が分からないほど見事に混乱してしまっている。
いわば筋目を見失い、礼儀を見失い、負けない事を求めるよりも、勝つ事を求めて、荒稼ぎして金持になり、英雄視されることが問題であるようだ。
また現代の日本文化をソロバン勘定に置き換えて、商業主義の背景を背景として、「稼ぐ」ということが英雄の代名詞であるようだ。
そして国旗が蔑ろにされ、国体が卑しめられ、神州日本の文化が敗退し、これに代わって無節操なご都合主義がはびこるようになった。
こうして日本人の根幹部分を為(な)していた品性は益々卑(いや)しくなり、些末(さまつ)なマナー違反や、モラルの低下が表面化している。
そして今急がれることは、青少年の品性教育であるのではあるまいか。
●礼儀という護身術
礼儀というのは一種の護身術であり、天地大自然並びに、大宇宙の玄理がこの中に一切包含されている。
競技武道やスポーツ格闘術の一辺倒の人は、こうした礼儀・礼法の中に、まさか護身術など含まれていよう等とは思いもいないだろうが、「礼」というのは歴(れっき)とした宇宙の摂理(自然界を支配している理法)であり、護身術の総てが礼儀という形で内包されている。
まず「礼」は行動の規範である。
礼に遵(したが)って、節度ある行動規範を決定しなければ、他人に無用の辱(はずかし)めや罵(ののし)りを受け、あるいは恨みを買って犯罪や事件や事故に巻き込まれる結果となる。
また強引に割り込んでくる侵略に対しても、到底防ぎ切れない。
一言で、「毅然」と、口で言うのは易しい。
しかしこれを態度に顕(あら)わして、侵略者に対し、意志が強く、物事に動ぜず、しっかりとして立ち向かうというのは非常に難しい事である。
礼法の修行をした事の無い人は、礼儀の何たるかも知らないために、極めて「お人好し」で、間抜けな面がある。今の日本人の殆どがそうであろう。
人情絡みで物事を頼まれたり、義理で仕方なく連帯保証人の判子(はんこ)をついて、財産を根こそぎ取られてしまうという人は、たいていがこうしたお人好しであり、義理と人情に絡め取られて、一文無しにされたり、最後は筆舌に尽くし難い、辱め(多くは女房や娘を風俗に叩き売られる。自身も返済の奴隷になる)と拷問を受けて、腎臓バンクに腎臓の片方をタダで提供したり、肝臓バンクや骨髄バンクに各々を切り売りし、それでも足らなければ、眼球や睾丸に及ぶ虐待が強(し)いられる。
そして経済ヤクザの、よき鴨になる人である。武術家や武道家、格闘技家やスポーツマンも同じである。
では何故、礼儀は護身術になるか。
それは人間の行動の規範が、この中に総て含まれているからだ。
幾ら武技に優れ、試合上手でも、あるいは喧嘩上手でも、道場やスポーツジムの先生や先輩には頭が上がらない。乱れているとは言え、師弟関係や先輩後輩関係は、まだ崩壊していない。だから、頼まれれば「イヤ」と一つ返事で突っぱねる人は、殆どいない。
したがって連帯保証人を頼まれたり、金銭の借用を頼まれたりすることがある。
また、頼む側は決まって「絶対に迷惑を掛けないから」とか「絶対に大丈夫だから」というような決まり文句を言って、何とかかんとか言って、丸め込み、頼んだが最後、姿を消してしまう道場主やジム経営者、指導筋の先生や先輩が少なくない。
そしてトンズラされて、泣きを見るのは、これを信じて連帯保証人になったり、金を貸した「お人好しの自分」ということになる。
義理人情絡みで頼み込まれたらどうするか。
これを明確に答えられる人は、少ないであろう。
しかし物事を頼む場合、あるいは頼まれる場合、その基準なるのは、その人の持つ人間性の背後にある「礼儀正しさ」であろう。
実例で示せば、親族や親戚、先生や先輩らから物事を頼まれる場合の基準は、頼む側の「礼儀」があるか、否かということである。
礼儀知らず、あるいは礼儀の面が少しでも欠けていれば、こうした頼まれ事は一切受けるべきではない。断固、「礼儀正しくない」という理由で断るべきだ。
もし断る事が出来なければ、貸した金はやったもの、ついた連帯保証人の債務責任はその時点で自分の譲渡されたものと覚悟すべきである。絶対に返してくれるのでは……とか、絶対に間違いないかもしれない……というのが、そもそもの誤りなのである。断れなければ、こうした腹を括るべきだ。
したがって、万一こうした事を頼まれたら、その人間を過大評価するのでなく、「礼儀」という物差しで計る事だ。
人に物を頼む時は、頼む側の、それなりの礼儀としての形と、礼儀を尽くす手順があって可然(しかるべき)である。
人間は自分が可愛いから、どんなに大きなことを言う人でも、自分に都合が悪くなると、不履行に対し、言い訳をして誤魔化したり、最後は逃げてしまう人が多い。それも当然であろう。
第一ドンブリ勘定で、貸借対照表の読み方一つ知らない者が、金銭的に窮するのであるから、そうしただらしのない人間に対し、本来金を貸したり連帯保証人になるべきではないのだが、これに義理人情が絡めば、断われなくなってしまうのである。
人は、困った時には苦し紛れに調子のいいことを言ったり、急に物わかりのいいような口ぶりで、お追従(ついしょう)をして、何とか持ち上げようとする。そういう小細工に、お人好しはコロリとやられてしまうのである。
「煮え湯を飲まされる」という諺がある。
頼まれて、調子のいいことを言われ、そうした言葉についほだされて、気軽応じたところ、頼んだ側は逃げてしまい、自分に残されたものは借金ばかりだったという、実例は掃いて捨てる程あるのである。
これなどは双方が、「礼儀の何たるか」ということを知らなかったためである。要するに自他共に、「無礼」だったのである。
もっと日常的に言うと、こうした貸借関係の他に、人にアポイントメントの依頼、入門して学びたいという依頼などがあり、やはりこうした依頼事も、礼儀の形を踏み、自分の方から相手の所まで出向く必要がある。中にはこうした形を踏まず、電話で呼び寄せ、頼み事するという無礼な目上の者も少なくない。
こうした一連の流れを読んでいけば、必ず「どこかおかしい」という局面があるはずで、こうした裏側に潜む、落し穴を即座に読み取れば、こうした「煮え湯を飲まされる」という、最悪な局面は避けられるのである。
要するに「礼儀が無い」とか「礼儀を知らない」という人間は、次元もレベルも低いということで、こういう人間に対し、恩師だから、先輩だからと、義理人情に絡まれて、安易にその裏側も読まず、金を貸したり保証人になると、後で飛んでもないことになるのである。
「お人好し」という性格は、「礼儀」と言う物差しで、個々の人間を計れるようになれば、自然と改善されるものなのである。人間を計る基準は「礼儀」である。
幾ら武術家や武道家と言っても、日々の生活を、カスミを喰って生きている分けでない。生活の糧と、それに必要な金銭はやはり必要である。その命の次に大事なツルを、安易に礼儀知らずに投げ出すべきでない。
礼儀が一つの護身術というのは、こうした意味からである。無礼者の頼み事は、断るべきだ。最初から聞く必要が無いのである。もし、礼儀正しい人物ならば、日々の生活に困るようなことにはならず、自分の門人や後輩に金を借りたり、保証人を頼んだりはしないはずである。
●わが流の技法に関する質問や問い合わせについて
以上、事細かに述べた結果から、わが流に関する技法や道場に対する質問や、問い合わせ事項がある場合は、次の礼儀を徹底させた上、他人行儀でお願いします。
氏名(フルネーム)・年齢・職業(就業者は企業名、学生は学校名や学部名)・郵便番号・住所(都道府県市町村並びに町名や番地まで正確に)・電話番号・道場名か団体名・武道歴(流派名を含む)やスポーツ歴がある方は、こうしたものも一切ご記入の上、毅然とした態度でお問い合わせ願います。
こうした条件に対し、一つでも抜けている場合は、お答えできませんのでご了承下さい。
また、お差し支えなければ、師事されておられる道場の先生のお名前を、ご記入ください。
わが流は、なん人に対しても、「他人行儀」であることを旨とし、これに帰ることを武人の礼儀と心得ます。どうぞご理解の上、ご協賛ください。
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