技術編を読む前に 4



●まず、名を名乗れ

 いやしくも、武術家や武道家と自覚している人ならば、何か質問をする時も、まず、自分の名をフルネームで名乗り、続いて住所・年齢・職業・電話番号・スポーツまたは武術武道歴・流派名などを告げ、少なくとも、他人行儀を徹した、厳格な礼儀を敷きたいものである。

 武は「礼に始まり礼に終わる」と言われる。ならば、こうした礼儀正しく、人に接する場合は、毅然とした態度で、自らの人格と、人間性を下げないように心掛けるべきである。
 しかし格闘技や武術武道愛好者の中には、礼儀知らずで、口の聞き方が横柄で、明らかにレベルの低さを自分から暴露するような愚かしい者もいるようだ。

 だからこそ、武人にとって礼儀正しさは、「己への戒め」と考えて、厳格に再点検して貰いたいものである。

 昨今は武道愛好者や格闘技愛好者の中にも、実に非礼谷(ひれいきわ)まる輩が少なくない。自分の信奉している武道や武技が史上最強と思い上がっているため、こうした武道界や格闘技界を見回してみると、少数の、昔ながらの本格的な、一部の良識派の団体を除いては、その殆どが傲慢であり、横柄であり、傍若無人に振る舞って、謙虚さを忘れている集団が多く目立つことだ。

 また弱肉強食の理論を掲げる格闘技の愛好者などは、他武道他派の先生や先輩に対し、組織や団体が変わると、今まで自分の所属している組織や団体で、先生や先輩達に対して行っていた、礼儀正しい態度?が、掌を返したように変わることだ。
 そして途端に態度がふてぶてしくなる。自分の信奉する格闘技が、世界最強と思い上がっているためであろうか。

 武は「礼に始まり、礼に終わる」というのは最早死語であり、礼儀など、どこにも存在しないというのが、無躾谷(ぶしつけきわ)まる、今日この頃の格闘技・武道愛好者の態度である。

 こうした態度が、武道家や格闘技家への品位を下げ、文化人や良識者から悪しき態(ざま)に侮蔑されているのは、こうした事が原因になっているのである。武道家や格闘技家を見て、礼儀正しいという態度は、単に幻覚に過ぎなくなって来ている。
 その証拠に、青少年が打撃系の格闘技や武道に憧れる第一の理由は、単に「ケンカが強くなりたい」などであり、第二が「学校で苛められたくない」が、その理由と言う。
 ここには明らかに弱肉強食の理論が働いている。これは決して高級な理論ではなく、万人を納得させる説得力は持たない。
 果たして武術や武道はケンカ目的で、生涯を通じて学ぶためのものだろうか。

 また打撃系の武術団体の中で、自分は礼儀正しいと自負している者でも、それはその集団内においてのことであり、その集団にしか通用しない挨拶程度のものである場合が少なくない。
 そして「礼儀正しい」という自負は、恣意的(しいてき)な、単なる習慣になってしまって、礼儀としては実社会に全く通じないものが多い。

 「礼儀正しい」と言っても、その組織や、その団体の先生や先輩に対して礼儀正しいのであって、実態は集団の規律であったり、規則であったりの、人間の自由を制限するものであり、団体幹部の下に対する道具に過ぎないのである。

 そのよき例が、ヤクザという仁侠道に携わる、正構成員でない、修行見習い連中を見れば一目瞭然であろう。彼等の修行は、実に厳しく躾られ、その辺の企業の躾には叶わないくらい、厳格な慣例(しきたり)で実行されている。そして彼等は素直で、キビキビとして礼儀正しい。
 ところが彼等の礼儀正しさは、組織内での組長や幹部に対する礼儀正しさであり、実社会の規範には、何一つ馴染むものが無い。果たして彼等が、一般市民に礼儀正しい態度と、敬愛を込めた敬語を用いた言葉使いをするだろうか。

 これと同じ現象は、武道界や格闘技界にもある。
 一見礼儀正しいと見えても、それは集団内だけのことである。

 しかしさすがに、弓道界や古流の剣術界には、日本の武術武道を代表するに相応しい、立派な方も居られるが、それでも武術界や武道界や格闘技界全般を見てみれば、礼儀作法など、心得ている人はそんなに居ないのが実情だ。

 そもそも武術武道における礼法は、古来より、わが国の文化資産と同格に扱われるべきものだった。
 ところが武術界や武道界や格闘技界全般の愛好者や選手が、「勝つ為」にその目的をおいて練習し始めると、礼儀作法は二の次になり、勝つことだけを中心課題してに練習に励むという姿が見られるようになった。
 勝つことだけが目的になり、強弱論だけが中心課題となる。そして、その価値観も、勝者を英雄と崇める習慣が定着してしまった。

 今日、格闘技選手やスポーツ選手が、芸能人並みに、成功者として英雄になり、羨望の的になっているのは周知の通りである。テレビのコマーシャルに登場するのは、その殆どが格闘技選手であったり、スポーツ選手であったりする。彼等は、まさにタレントのそれではないか。

 そして武術や武道というものが、今日、求道精進(ぐどうしょうじん)の道から掛け離れて、かつての武術家が持っていた行動律や教養や見識というものは、根こそぎ脱け落ちたものになってしまっている。
 これでは名指しで、文化人や有識者から侮蔑され、馬鹿にされる火種を、自らバラ撒いていることになる。
 そして「他人行儀」という、あの清々しい、遠慮深い態度は、一体どこに行ってしまったのだろうか。



●勝つためではなく、負けないための心構え

 幸運にも、事故や事件に出あうことのない人は、他人との上手な接し方に労を惜しまぬ人、自分自身の生き方に積極的な人、精神状態のコントロールがうまい人などの、特徴があるはずである。これは人間関係が円満であることを物語っている。これは中々凡夫には出来ることではないが、つまり「敵を作らぬ」ということでは、卓絶(たくぜつ)である。

 逆に、人間関係や自己中心的な人は、浅はかで挑発され易いから、何らかの形で、事故や事件の遭遇するものである。

 つまり、幸運タイプの人は、単に、マグレや偶然が生じて、幸運であるというのでなく、ある意味で、人生におけるプロのギャンブラーとして、生き延びることが出来るとも言える。

 逆に、並み程度のギャンブラーには、根暗で自閉的で自立心のない人というイメージがあるが、このタイプは、ギャンブルで身を持ち崩すタイプだと言えそうだ。
 負け将棋を、もう一番もう一番と繰り返す人が、このタイプである。

 また、勝負ごとでは、勝ちを狙う人よりも、負けない人の方が怖い。幾ら、こちらが手を尽くしても、勝負に出て来ないから、ともかく負けることがない。
 そんな相手を前にすると、ついカッと熱くなって我を忘れてしまい、最後にはこちらが負けになるのだ。

 吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草』(つれづれぐさ)にも、「双六(すごろく)の上手」の中では、こう記されている。
 「勝とうとして打ってはいけない。負けないように打つべきである。どの手だったら早く負けないかを思案して、一目でも遅く負けるように手を尽くすべきだ」と。

 負けない人というのは、冷静な人、すなわち精神状態の自己コントロールがうまく出来る人だと言えよう。

 また「けじめ意識」は自他の境界意識であり、『礼記』には「楽は同じを統(す)べ、礼は異を弁(わか)つ」とある。
 異とは自分の相手の立場の違いであり、これは決して同じことではないという認識をすることが大事だと言っている。つまりこれが「けじめ意識」だ。
 自分が今、相手に対して、どういう立場にあるかということを自覚することによって、自(おの)ずからとるべき態度や、行動が存在すると言っているのである。
 これこそが「礼」の意識であり、これを知る者は、得てして戦いを避け、負けない境地に達していると言える。

 そして他人の行動やマナーを評価する場合、その基準となるものは、その評価する側の、人間としての主観であり、また、見識である。したがって評価する側の人間の教養や、これまでの経験が働くことは明白であり、当然の結果として、ある人は礼儀正しいと評価を下し、またある人は無躾で無礼で見苦しいという評価が下るのである。

 また勝つ事と、態度が立派であるという事を、どちらに重点を置くかという考え方は、これ事態が誤った見解であるといえよう。
 何故ならば、両者は車輪としての両輪であるからだ。

 よく、一言で、「勝てばいい」と言う。勝ちさえすれば、後はどうでもいいと言う。果たして、この考え方が正しいのだろうか。

 相手を叩き、打ち据え、突き、蹴り、殴り、投げて、勝ちさえすればいいと言う。そして礼儀など、どうでもいいではないかと言う人がいる。礼儀作法を一々行う暇があったら、それだけ練習に打ち込んで、勝つ工夫をすることが大事であり、勝ちさえすればいいと言う。

 繰り返し言う。この考え方は、果たして正しいだろうか。
 勝つという目的に対して、礼儀を正すということが、ブレーキとして作動をするならば、その人の「武の道」に向かう態度は、再点検する必要があるだろう。

 礼というものは、互いに犯さず、犯されずのためのものであり、武術というものは、習い覚えた武技を揮(ふる)って、あるいは風雪に鍛えた拳を振るって、どちらが強いか競い合い、闘争し合うことではない。万一の場合の、国家的有事に当たり、己の全人格の代表して全うすべきもものである。それをケンカや小事に費やすことは、愚かしいことである。
 しかし残念な事に、欧米人の弱肉強食主義の精神構造を真似した昨今の日本人は、動物的に強弱を争って、「力こそが正義」という欧米人の理論を取り入れ、闘争に奔走する現実が生まれた。
 格闘技の試合は、その最たるものであろう。

 さて、相手と対峙し、その緊張した状態の中には、「今」の状況判断と、危険に対する感覚が働くものである。相手からの手出しを誘発したり、あるいは消したり、また外したり、去(い)なしたりするのは、必ずしも槍や刀だけではない。
 言葉や態度でも、これは同じことなのだ。安易に挑発に乗らず、自制心を働かせることが大事である。

 昔から、武の達人と言われて来た人は、ただ単に、力の行使で相手を打ち破ったのではなく、「礼儀の体得者」としても達人の域にあり、礼儀というものは、つまり用心のためであるから、それは同時に「武の道」にも通じるものなのである。
 何故ならば、「武」という文字は「戈を止める」と書くではないか。

 百錬千磨で、百練百勝という武人は、一々挑発されて戦い、勝ちを収めた人ではなかった。戦うべき時機(とき)は戦い、逃げるべき時機は逃げ、外したり、去なしたりの礼法の心得を知っていたから生き残ったのであり、些細(ささい)な挑発に熱くなって、それに挑んでいたら、とっくに命を落としていたはずである。

 つまり百錬千磨で磨き上げた、百練百勝の境地は、実は勝つためではなく、負けないために、それを熱心に探究したことによるものである。