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●貧困は夢幻の現象に過ぎない

 世の中は平等ではなく、不平等に出来ています。非実在界の人間も然(しか)りです。
 元々、この世の中では不平等であるからこそ、デモクラシーの中で「平等」を標榜(ひょうぼう)して、困窮(こんきゅう)する人々の不満を柔らげようとします。しかし、これは体裁の良い方便に過ぎず、詭弁(きべん)に過ぎません。

 ところがこうした「平等意識」が蔓延(はび)こるようになると、これを猫も杓子(しゃくし)も信じて疑わないようになり、やがてこの非実在界の真理のように考え始めます。多くの人は、これが一種の虚構の理論であるとも気付かなくなります。
 世界の権力支配層が民主主義を標榜し、デモクラシーに大衆を取り込もうとしているのは、こうした特権階級が、自分達の贅沢(ぜいたく)な姿を隠したり、巨額な金銭回収システムを探られない為に、巧妙に一工夫を凝(こ)らしたものであり、「平等」を印象付けることによって、大衆の不満を柔らげる効果を狙ったものなのです。

 さて、貧困状態は、確固たる実在の存在ではなく、自己想念の金銭に対する妬み、羨望、憎悪等の自らの精神の貧困が招いた非実在界の虚像現象に過ぎません。
 また、これは現象全体の中でも、あるべき現象ではなく、むしろあってはならない現象が出現したと言うべきでしょう。真の実在界では、貧困等と言う不完全なものは全く存在せず、これがあるかの如き錯覚を植え付けるのは、まさに異常な悪想念が作り出した、異常事態と言えるでしょう。

 したがって、貧困状態は自己の過った金銭感覚や、物財所有の憎悪に対する想念が作り出したものであり、この貧困想念を消去するには、まず、それが顕(あら)れた原因について、思い当たる事を静かに反省してみるべきであり、この根本的な原因を追求しない限り、幾ら大金運等の書籍を読破して、自分に都合のいいように、神棚(かみだな)を祀(まつ)り、方位をとり、そこから何某(なにがし)の御神体を安置しても、それは全く徒労であり、こうした「困った時の神頼み」に精を出す人は、益々貧困の深みへと墜(お)ちて行きます。

 こうした異常現象が現れた時には、速やかに意を決して、絶対に容認すべき状態ではない事を明確にして、忌み嫌う想念および言動を探り出し、速やかに消去するべきで、ほんの僅かでも、こうしたものを前提とする想念を抱いたり、これに基づく言動を行ってはなりません。

 喩えば、妬みや羨望(せんぼう)からある金持ちの悪口を言ったり、その金持ちにまつわるスキャンダルを井戸端会議的に、面白可笑しく吹聴(ふいちょう)したり、逆に優越感に陥って、「この貧乏人が……」等と、決して口から吐いてはいけません。もう、これだけで金銭に困窮する未来が暗示されてしまいます。

 一時の順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の状態に心良くし、傲慢(ごうまん)になって、自社ビル等の社屋を建てる会社は、未来の倒産を暗示するものです。こうした思い上がりは、金銭感覚を麻痺(まひ)させるばかりでなく、悪想念を呼び込む結果を招き、常日頃の富者の座から転げ落ちる事を暗示します。

 さて貧困から抜け出し、苦に困らぬ金銭を身に付ける貫徹(かんてつ)する為の最良の方法としては、謙虚な気持ちで、厳しい金銭哲学の思考を養い、せめて「貸借対照表」や「損益計算書」の読み方を覚え、自分の所有する「資産の部」と「負債の部」の色分けくらいは出来るくらいの簿記能力を身に付け、最初は「家計簿」等を手始めとして実行して行く事も非常に良い事であり、金銭感覚は薄い人は、幾ら自分が富者である事の想念を抱いたとしても、心の潜在意識の中で「果たして富者になれるだろうか?……」という逆想念の「否定」が発動されて、生涯富者になるチャンスを取り逃がします。

 こうした人の多くは、大ローンで分不相応(ぶんふそうおう)のマイホームを建てたり、大ローンで高級車等を購入して、これを「自分の資産」と思い込んでいる事がよくあります。つまり、借金と資産の区別がつかないのです。また、こうした区別がつかないから、「貸借対照表」の読み方すら知らないと言えます。

 多くの人が富者になるのを夢見ながら懸命に働き、勤勉な労働者でありながら、ついに富者になれず仕舞いの人生を終えるのは、心の何処かに、「自分は果たして、本当に富者になれるのだろうか?……」と言う、疑問と否定の想念が働くからです。また、こうした人に限って、辛抱強く「粘り抜く」ことを知らず、最後はやはり、「自分は駄目だ」と思ってしまう言動に基づいて、失意のうちに貧困状態の人生を終了します。

 こうした状態を脱出する為には「最後の最後まで諦めない事」であり、その準備としての、金銭哲学の一貫である、以上に述べた簿記能力くらいは養うべきです。得てして、貧困に陥っている人の多くは、まず金銭哲学が非常に希薄で、浪費家タイプの人が貧困と言う災難に見舞われます。そして最後は、貧困状態を強く裏付ける想念を抱いてしまい、また貧困になる事を非常に恐れます。
 こうした場合、《恐れるものは皆来るの法則》により、貧困になる事が殆どなのです。貧困は恐れるものではなく、貧困に対して恐怖心を抱かない事です。

 これは経営者にしても同じです。
 恐怖心の為に貧困を恐れ、まだ来ない明日の支払日を悔(く)やんで、あれこれと画策し、金策を始めると、決まって支払日には支払いが出来ないような状態に陥ってしまいます。

 喩えば、約束手形の支払日を気にするあまり、仕事が手につかなくなると言うような中小企業の経営者は、倒産が免れない暗示があります。まず、倒産を恐れるより、本業に打ち込むべきであり、本業以外の賭け事に手を出したり、素人風情で、株屋を呼んで株式に手を出したり、大豆相場等の先物取引やデリバティブに手を出したりすると、更に支払い困難な状態を招き、ついには倒産します。
 そして倒産と言うのも、紛れもない不幸現象であると言う事を認識しなければなりません。
 会社が倒産して、「私はここが甘かった」等と反省しても後の祭であり、同情を煽(あお)るような暴言は絶対に慎まなければなりません。こうした言動は、再起不能の状態を印象づけてしまうのです。

 こうした最悪の状態から立ち上がる為には、あるいは会社更生法を使って再出発する為には、「敗軍の将、兵を語らず」に徹し、黙々と世間の注視に耐えると同時に、再勉強のつもりで、「貸借対照表」や「損益計算書」の読み方を完璧(かんぺき)にマスターすべきで、少しでも資産が溜まり始めたら、「資産の部」と「負債の部」の違いをはっきりと識別する必要があります。こうした事が理解できずに、ドンブリ勘定で、会社経営を行っている経営者は必ず倒産の憂(う)き目を免れないのです。
 何故なら、企業体も霊的な見知から言うと、一種の生命体であり、生き物である以上、これを馭(ぎょ)すには、経営者の経営手腕がものを言うからです。

 また、家庭の日常生活にあっても、家計簿と睨(にら)み合わせて、将来を展望する「見通し」の利(き)かない人は、同じ失敗に懲(こ)りず、何度でも同じ事を繰り返します。
 こう言う人は、発想の転換が出来ない人であり、また逆に、自分の願望の強い悪想念ばかりを招いて、自分中心の考え方に固執している人です。悪想念を感知できず、自分の都合のいいように、物事を解釈する人であり、こうした人は、堂々回りの自転車操業的な貧困からは、抜けだせる兆(きざ)しが見えてこないのです。

 貧困想念のその出現原因になっている事柄には、三つの悪想念があります。
 その第一は、利潤の追求を「人から奪う想念」で、ビジネスと解釈したり、その第二は、「自己の利益誘導の為だけに奔走する想念」を持っていたり、その第三は、「他人の貧困を喜ぶ想念」で優越感を味わっている場合です。これ等の想念は、結局「狭小で貧しい想念」であり、必然的に貧困に陥って行く事は免れません。

 まず、貧困から抜け出すには、積極的に苦労を惜しまず、自己の労力を出し惜しみせず、また富を否定する想念を捨て、「寛大」で「豊かな」金銭に対する想念を抱く事です。したがって「財産の出し惜しみ」をしたり、物品の値段を値切ったり、支払金額を誤魔化(ごまか)したりするのは、自ら与えられない想念と状態を呼び込む事になり、生涯汲々(きゅきゅう)とした貧困の舞台に立たされてしまうのです。

 また、これ以外にも、拾った財布を猫糞(ねこばば/悪行を隠して知らん顔をする事や拾ったものを自分のものにする。猫が糞をした後にこれに砂をかけることに由来)したり、難癖(なんくせ)を付けて大幅に値引きさせたりすると、「狭小で貧しい想念」が浮上して来て、結果的に「愛のない想念」に帰着する事になり、一時的に得をしたと思っても、これは最終的には回収される運命を免れません。つまり運命すらも、想念が作り出しているからです。
 そして、こうした人は自己中心であり、「他人の為に祈りを捧げる」という気持ちが、微塵(みじん)も感じられないからです。



●非実在界は類似想念が集合する

 現世と言う非実在界は《類は類を呼ぶ法則》があって、類似想念は寄せ集まって、それが集合すると言う特性があります。
 同志向、同種類、同傾向、同趣味等の同類想念は、お互いに惹き合い、類似的なグループを形成します。また、こうした類似想念の集合体である場合、喩えば、地獄と言う現象を想起しますと、そこには無かったはずの地獄が突然現れる事になります。

 特に、念仏宗のように、仏の姿や功徳(くどく)を観(かん)じ、口に仏名を唱(とな)えますと、地獄と浄土の二者離別が行なわれています。そしてこの根底には、現世に悪業(あくごう)をなした者が、その報いとして死後に苦果(くか/苦悩を受ける果報)を受ける所の「地獄」という定義と、阿弥陀(あみだ)の西方極楽浄土の「極楽浄土」に往生することを目的とする定義があります。

 これは自力教を排して、他力念仏によって、死して後の平安を求めようとします。
 善導は、法然(ほうねん)の浄土教では、特に、阿弥陀仏の名号を称えることを言い、それにより、極楽浄土に往生できると言うことを説き、また真鸞(しんらん)は阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって、往生成仏できるとし、称名念仏は仏恩報謝の行(ぎよう)であるとしています。

 さて、皆さんは、法然と真鸞の唱える「他力念仏によって極楽浄土に往生する」という俗諦(方便であり、真諦では無い)のウソにお気付きでしょうか。
 果たして、この世に生きている時は、どんなに苦しんでも、一度死ねば、極楽浄土に等ということが、果たしてあり得るでしょうか。生に於てでさえ、楽を得る事が出来ずして、どうして死した後、楽を得る事が出来るのでしょうか。

 まさに、これこそ自殺者の心理ではないでしょうか。自殺者は「死した後に、楽を得ようとして死ぬ」のではないでしょうか。死した後に、法然や真鸞が言ったような、極楽浄土を信じているから、意図も簡単に我が命を捨てるのではないでしょうか。

 自殺者の多くは、こうした極楽浄土の錯覚を描いて死に急ぐのです。
 果たして、未(いま)だに生を得ず、何故、真当(ほんとう)の死を得る事が出来るのでしょうか。

 念仏宗の極楽浄土思想は、「生きている時は、苦しい事ばかりで、何にも良い事はなかったが、せめて死ぬ時だけは、大往生して、その死して後、阿弥陀の西方極楽浄土に行ける」と信じるもので、これは丁度、一年中、年から年中困窮する貧乏をしていて、せめて大晦日(おおみそか)と正月の三箇日だけは金持ちで居たいと言う心理と酷似します。

 あるいは年中病気をして、床に臥(ふ)せている人が、せめて正月の初日に出には、清々(すがすが)しい健康体で、新年を迎えたいと言う気持ちに酷似します。しかし普段から、床に臥(ふ)せる低調な生涯を送りながら、どうして都合よく、清々しい健康体が、ある特定の日に限り、訪れるのでしょうか。

 こうした心理の中には、普段の低調な日と、大晦日や正月のような特定の日と言う、二者離別の心理が働いていて、普段の日々は粗末に過ごすが、特定の日だけは大事に過ごすという両者を隔てる意識が窺(うかが)われます。私たちは、無意識にも、こうした離別を意識して生きているのではないでしょうか。

 また、こうした普通の日と、特別な日の離別が、一生に一度しかない「今日のよき日の連続」を、日々取り逃がしているのではないでしょうか。
 もし、不幸や不運に実体があるとするならば、これこそ不幸や不運の正体であり、実はそれは、自他離別の想念が招いたと言う事になります。

 よく「現世で悪い事をした人は、地獄に落ちると」と言われます。しかしこの地獄と言うのは、自分の我利我欲や利己的利益を得る為に、どんなに道理に外れた事をしても構わないという、想念を有する人達が寄り集まって作り出した想念であり、これは本当は客観的に実在するものではありません。
 したがって、自己の周囲が地獄の様相を呈している時は、必ず自己の想念の中に地獄を具現するような潜在意識が存在しており、この意識が地獄を作り出しているのです。
 そして類似想念の、想念集合意識が混在し、人はこの中に於いて「迷う」のです。



●自信とは自分を信ずる事である

 自信の無い人は失敗すると言います。
 それは自分を信じて、疑う事を知らないと言う想念が働かないからです。
 信ずると言う事は、事実がそうであるから信じるのではありません。そうであるとか、そうでないとかの、優柔不断な気持ちを一掃させて、もう既に「そうである」という事を信じるのです。自分を信じる、結果を信じるということが、「本当に信じる事」であって、既に予定されていたと言う事を、信じれば、それは予定通りに実現するのです。

 繰り返しますが、原因があって結果が生まれるのではありません。最初に結果があって、その結果に沿った、原因が派生するのです。一般には、原因が結果を生むと信じられていますが、こうした考え方は間違いです。原因は、結果を作るように錯覚しがちですが、本当は結果が原因に向かって事物や事象が派生するのです。これこそが、まさに「予定説」の非常に重要なところです。

 だから、成功をした時の事だけを考えておればよいのです。失敗した時に事など、全く考えなくてよいのです。
 私たちは歴史の中で、二つの戦争の事実を知っています。



●日本海海戦と真珠湾攻撃、作戦を指揮した両者はここが違う!

 あなたは歴史の中で、日本海海戦と真珠湾攻撃を、ご存じ他と思います。
 両作戦の共通点は「Z旗」に代表されます。しかし両者は、天地の隔たりがありました。それは何処に於てでしょうか。
 それは戦争目的において、です。

 日本海海戦で勝利したのは、時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将(後に元帥府)であり、かたや真珠湾作戦を航空機で奇襲する作戦を立てた海軍大学校きっての秀才で、同じく連合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将(戦死して元帥府)でした。

 この二人の提督には、決定的な考え方の違いがありました。それは戦闘後の結果から窺(うかが)えます。
 日本海海戦は完全な「勝ち戦」であり、また真珠湾奇襲作戦は完全なる「負け戦」でした。
 読者の中で、真珠湾攻撃を「負け戦」と取ることに不信を持つ諸氏がいると思いますが、真珠湾は、日本が大東亜戦争を負ける為に仕掛けられた無謀(むぼう)な作戦でした。
 では何処が、無謀だったのでしょうか。

 既に1940年代、戦争は立体戦争になっているという手の裡(うち)を見せ、それを敵から研究されてしまったからです。そして、その研究結果は、ミッドウェー作戦に現われます。
 この海戦は、古代の「白村江(はくすきえ)の大敗北」を思わせる「負け戦」でありましたが、真珠湾作戦は、日本を大敗北に導いた禍根であり、全くの愚かな作戦であったと言えます。その上、日本外務省の不手際もあって、宣戦布告が遅れ、騙(だま)し討ちの汚名を被り、アメリカ国民に「リメンバー・パールハーバー」の復讐心を植え付ける結果を招きます。日本全土が焦土と化す、最大の原因は、これに由来します。

 そして乾坤一擲(けんこんいってき)、皇国の興廃(こうこく)が叫ばれている時機(とき、)、二人の提督の違いは、何処にあったのでしょうか。
 総ての力を集中させ、極めて危険度が高く、然(しか)もこちらが劣勢である場合、かかる作戦は、何が何でも成功を収めなければならないのです。これが「歴史の鉄則」であり、これが失敗に終われば、総ては失われるのです。

 織田信長は桶狭間(1560年、永禄三年の奇襲戦)の戦いにおいて、今川義元を討ち取る場合、もし打ち洩したらとか、負けたらとか等と考えたでしょうか。
 また豊臣(羽柴)秀吉は、山崎の戦(1582年、天正十年)において、中国征討中、本能寺の変を知って急ぎ毛利氏と和し、山城国(やましろのくに)山崎で一挙に明智光秀を討滅しました。この時、秀吉は決戦前夜、敗れた時の敗戦収集策を準備していたでしょうか。否、そんなことは全く考えていませんでした。この一戦で勝利を手にし、天下制覇(せいは)の確信をその前夜に抱いたのではないでしょうか。

 「恐れるものは皆来る」と言う法則があります。したがって恐れなければ、不運は自分に跳ね返ることはありません。結果から原因を考える、これは「予定説」です。
 日本海海戦と真珠湾奇襲攻撃の、そもそもの大きな違いは、「敗れたら」ということを全く考えたか、否かにあります。
 では、この真相に迫ることにしよう。



●世紀の負け戦・真珠湾奇襲作戦

 天地を分けた戦争目的。そしてその有無。
 不運不幸解消術の極意の鍵は、この中にこそ、総てが含蓄(がんちく)されています。これが目的論です。この目的論は予定説と同義です。これは決定論とも言うべき立場をとります。

 またこれは、上は国家・政府や大企業から、下は零細企業や個人に至るまで、総てこの中に内包されています。つまり目的意識をはっきりさせることです。人生を生き抜く鍵は、ここにあります。

 乾坤一擲の一大決戦において、失敗した時のこと等、全く考える必要はないのです。この心配こそ、杞憂(きゆう)と言うものです。皇国の興廃が、かかる戦争において、それが決戦の名の付くものであれば、これに負ければ、国家は滅亡するだけなのことなのです。そして起こりうる事実として、可能性はこれ以外にありえないのです。勝利したという結果予定から、奇襲作戦を仕掛けるという原因を導き出すのが予定説です。神が予(あらかじ)め勝者として、予定したことなのです。

 したがって投機性の高い、ハワイ真珠湾奇襲攻撃作戦に失敗すれば、この時点で大日本帝国は崩壊するだけのことだったのです。こうした意識が、果たして山本長官にあったのでしょうか。
 こうした死活の作戦を展開する以上、大成功を収めた時のことだけを考えておけばよかったのです。しかしこの作戦は、戦争目的が不在であった為、勝っても負けても失敗であったと言えます。

 真珠湾攻撃で「勝った」と豪語するのは、当時の戦争を知らない戦争指導者だけだったのです。これは逆から見れば、これは「負け戦」の何ものでもなく、堤灯(ちょうちん)行列をして、国中が湧(わ)き返る大勝利ではなかったのです。
 何故ならば、山本長官は予想以外の戦果に戸惑い、好条件で和平に持ち込むことも可能でしたが、これを見逃した節があるからです。否、それどころか、作戦は続行し、攻撃は繰り返すことが定説であるのにも関わらず、何故か常識を覆えして、第三次以降の攻撃を中断しているのです。これこそが窮地(きゅうち)に立たされた敵に、塩を送る行為ではなかったのでしょうか。



●戦争と言う教訓が本当の歴史を教える

 もし作戦を続行し、第三次攻撃以降が繰り返されていたら、真珠湾の規模からして、一年以上は軍事機能が麻痺(まひ)したはずです。あるいは軍港としては、長い間真珠湾は封鎖されたことでしょう。
 また日本海軍は、太平洋で思う存分暴れ回る事が出来、連合国側の運命は窮(きゅう)したはずです。本来ならば、太平洋戦争の決着は、ここでついていたはずです。

 ところが旗艦「赤城」以下、31隻の大艦隊は、帰途の為にハワイを後にしました。
 そしてこのことが禍根を残し、日本を滅亡の方向にズルズルと引き寄せたのです。

 何故かというと、広島や長崎の人類初の原子爆弾投下を思い出して頂きたいのです。この日本国民の大惨事、大悲劇の引き金になったのは、戦争目的を持たない真珠湾奇襲作戦でなかったのでしょうか。
 奇襲である以上、一種の投機性を持つのは当然です。それが投機であるが故に、勝ちを得た時、驚きが趨(はし)ります。これを八門遁甲術(はちもんとんこうじゅつ)では「驚」(き)と言い、これは驚門(きょうもん)に位置され、この門を持つ性格者は、臆病で、移り気であることを示します。何処か山本長官の優柔不断な性格を能(よ)く表わしているではありませんか。

 そうした事を検討していくと、この作戦は、ただ危険な賭けをして、幸運にも予想以上の戦果を上げ、アメリカが勝たしてくれた作戦ではなかったのでしょうか。
 それ故に山本長官(日本海軍の水行社のフリーメーソン)は、第三次攻撃以降の作戦を中止させたのではなかったのでしょうか。何か裏側で、当時のアメリカ大統領ルーズベルト(フリーメーソン三十三位階)と闇取引のようなものを感じるのは、果たして間違っているでしょうか。

 もし、山本長官が日本国民の為に戦争目的を持ち、国民の利益の為に戦争を考えたのであれば、恐らく航空機による大胆な作戦はとるはずがなく、また広島・長崎の悲劇もなかったであろうと推測されます。

 さて、日本海海戦の東郷平八郎と、真珠湾攻撃指示者の山本五十六の決定的な違いは何処にあったか。
 繰り返すように、それは戦争目的において、です。

 また山本長官の重大な戦争過失は、最も重大なところで決断が出来なかったということです。これも予定説に組み込まれた、予定された結果と言えば説明がつくでしょう。
 では、何においてでしょうか。

 それは戦争目的においてです。
 つまり戦争目的がないから、勝利した後のハワイ占領をしなかったのです。何故、軍政を引いて、ハワイを占領しなかったのでしょうか。また燃料基地は何故、攻撃対象から外したのでしょうか。
 燃料不足で悩む日本海軍としては、一体、これはどうしたことなのでしょうか。

 日本の太平洋戦争の敗北の最大の原因は、戦争目的の不在にあります。これが不在であれば、統一的な戦争計画も立てようがなく、戦争に向けて指導する国家の総力を結集する意味も失われてしまうのです。戦争目的がないから戦争指導も存在しない。したがって、合目的な戦争計画は立てられるべくもないのです。

 だから最初から勝てないように予定されていたと言う、予定説が働いていたことになります。
 これは日露戦争当時の日本海海戦とは、全く逆な結果を齎しています。
 それは東郷と山本の、救われるべき者と、そうでない者との差でありましょう。

 東郷は「日本海海戦で敗れたらどうなるのか」と問われた時に、「一度もそんなことは考えなかった」と答えています。皇国の興廃がかかる決戦において、負けなど考える必要はないのです。
 これこそが「決定論」の真理だからです。
 神は予め、救われる者とそうでない者を選別した。まさに的中していると思いませんか。