■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●八月十八日の政変
薩摩藩の公武合体派は、保守派の公家や京都に於ける幕府勢力の中心であった会津藩と図り、三条実美(さんじょうさねとみ/幕末・明治期の公家で政治家。実万(さねつむ)の子。尊王攘夷運動の先頭に立ち、維新後、太政大臣。内閣制発足後は内大臣で公爵。毒殺された疑いが強く、原因不明の急病死をする。837〜1891)ら七名を参内に京都から一掃し、謹慎させた。
これによって長州藩の宮内警備の任を解こうとしたのである。これが「八月十八日の政変」であり、三条実美ら七人の公卿は長州に落ち、長州藩の尊皇攘夷派は京都から一掃されるのである。これが「七卿落ち」である。
八月十八日の政変によって主導権を握った幕府・公武合体派は、文久三年(1863)から翌年に掛けて、一橋慶喜、松平容保(まつだいらかたもり/幕末の会津藩主。京都守護職となり、尊攘派を弾圧、公武合体に尽力した。鳥羽伏見の戦に敗れ、幕府軍艦・富士山丸で東帰、征東軍に抗したが降伏。鳥取藩などに幽せられ、後に赦免さる。1835〜1893)、越前の松平慶永(まつだいらよしなが/幕末の福井藩主。号は春岳。将軍継嗣問題および条約締結の件で大老井伊直弼と意見を異にし、隠居・閉門を命ぜられたが、後に赦免。明治政府の議定・民部卿・大蔵卿を歴任。1828〜1890)、土佐の山内豊信(とよしげ/容堂。山内家の分家の出で、藩政を改革し、公武合体に尽力した。のち後藤象二郎の建策を容れて、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白する。維新後、議定(ぎじよう)となり、明治新政府の官制で、三職の一つ。皇族・公卿・大名の中から選任した役職である。酒を好み、鯨海酔侯と自称。1827〜1872)、宇和島の伊達宗城(だてむねなり/伊予宇和島藩主。賢君として知られたが、安政の大獄で隠居を命じられる。のち復活、国事に活動。新政府でも要職を歴任。1871年(明治4)欽差大使として清国に使し、日清修好条規を締結。1818〜1892)、薩摩の島津久光(しまづひさみつ/幕末・維新期の大名・政治家。幼名、三郎。斉彬の異母弟。兄の死後、藩主忠義の実父として藩政を掌握、公武の間に奔走・周旋し、維新後、左大臣に進んだが、欧化政策に反対、鹿児島に退隠。公爵。1817〜1887)らは雄藩大名による参預会議を成立させた。
これは京都に於ける佐幕派の中心雄藩・会津藩と結んで、孝明天皇の攘夷宣戦を回避する為にとった政策であった。しかし、この会議も朝廷統制派と幕権強化派が対立するに至り、僅か二ヵ月足らずで解散の止むなきを見る。これが原因で公武合体派の各大名は帰国し、幕府の権威は急速に衰退していくのである。
そして各地には攘夷の嵐が吹き荒れ、これより先に、土佐藩士・吉村虎太郎(幕末の志士。名は重郷。土佐の人。尊攘の挙兵を企てたが、寺田屋騒動で失敗し投獄さる。翌年藤本鉄石らと天誅組の兵を挙げ敗死。1837〜1863)らは「天誅(てんちゅう)組の乱」を起こして大和五条の代官所を襲撃し、その年の十月には平野国臣の「生野の変」、翌年に二月には水戸の藤田小四郎(幕末の志士で名は信。水戸の人。藤田東湖の四男。1864年(元治1)、同志と共に尊王攘夷を唱えて筑波山上に兵を挙げ、指揮者となる。事敗れ武田耕雲斎らと西上、越前敦賀で処刑さる。1842〜1865)らが筑波山に立て篭(こも)った「水戸天狗党の乱」等が起こり、攘夷派の挙兵が起こり、七卿の免罪を嘆願した事件が、長州藩の指導的立場にあった久坂玄瑞(くさかげんずい/幕末の志士で長州藩士。字は実甫。吉田松陰の妹婿。兵学を松陰に、洋学を藩校に学ぶ。尊王攘夷を唱え、1864年(元治1)兵を率いて京都に入り、蛤御門(はまぐりごもん)の変に会津・薩摩などの兵と戦い負傷し、のち自殺。1840〜1864)や真木和泉(まきいずみ/幕末の志士で筑後久留米水天宮の祠官。名は保臣。通称、和泉守。江戸・水戸に遊学、後に蛤御門変に敗れて天王山で自刃。1813〜1864)が自刃(じじん)するといった、「禁門の変(蛤御門の変/元治元年(1864)7月、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職松平容保の率いる諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件。そしてこれに敗れた長州勢と三条実美らの公家達は京都から一掃されて長州に落ち延びる)」であった。
しかし今まで尊王派として対立していた、長州と薩摩が土佐藩郷士・坂本竜馬の説得に応じ、スコットランド・フリーメーソンの日本支社長トーマス・ブレーク・グラバーの指令を受けた龍馬が、幕府軍と西南雄藩の対立構造を画策することによって、薩長同盟を結ぶ事となり、以後、王政復古に益々拍車が掛かる様相を呈したのである。
本来、会津藩主・松平容保は孝明天皇の信任厚く、また会津藩と薩摩藩は同盟関係にあったが、坂本龍馬の画策によって薩摩との同盟関係は崩れ、会津藩は独り孤立の道を選択するのである。
ここに会津藩の悲劇が始まったといっても良いのである。
|