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現代に生きる武士道集団
西郷派大東流シンボル

●本文を読むに当たって

 筆者は、克明なメモランダムを後世に残さなければと、筆を執った次第である。メモランダムを残すに当たり、当時の状況などを踏まえ、出来るだけ公正に、客観的に、自分で感じたままの表現をした積りである。また、世間では誤解されている要因になった、『合気ニュース』の西郷派に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)や、こうした外部事情ばかりでなく、わが流の内部もその指摘の箇所を見つけ、これを出来るだけ客観的な立場で、報じた積りである。しかし、如何せん、筆者もまた、人間的感情を持ち、非なる箇所があると思うが、これは筆者個人に向けられるべきものであって、西郷派大東流の立場から、他の分野の大東流諸団体などの批判を行ったわけでもない。

 また、西郷派の門人の筆者以外の誰かが、筆者と同じ意見を持っているわけでもない。これはあくまで、今日まで西郷派に対する誤解の面があり、これを改善するように筆を執った次第である。あたらめて言うまでもなく、念の為に、
「ご用とお急ぎでない方」を対象に、真相の筆を執ったという次第であり、読者諸賢のご諒解を願ったわけである。

 もし批判を加えられるべき箇所があるのならば、それは筆者自身に加えられるべきもので、当然の如く、あくまで筆者に帰すべきものであり、今日、各地の各道場で西郷派を学ぶ門人とは無関係である。

 過ちの多い筆者に、武の論を説く資格があるなどと、毛頭考えていないが、然
(しか)しながら、西郷派に対する誤解の疑念は日増しに高まり、何とかしなければという想いで、未熟を顧みず、筆を執った次第である。また、本文中にある筆者の認識不足や考え違いの部分があるかも知れず、それらについては、公平を期す、識者の叱声を謹んで受ける積りである。
 とりあえず、真摯に大東流柔術とは一味も二味も違う、西郷派の実情と、“合気”に関する参考書として、その実情誤解の解明がなされれば、筆者にとって過分のことである。
 本文の偽りのない基本姿勢について、あらかじめ、読者諸賢のご諒承を得ておきたいと考えた次第である。

                                        西郷派大東流合気武術宗家 曽川和翁


●西郷派大東流と、武田惣角の流れを汲む大東流の違い

 「大東流(だいとうりゅう)は武術史上の最大傑作」とも呼ばれた。わが西郷派も、これまでそう信じてきた。しかし、今日の大東流の氾濫と、この大東流を研究する愛好者が、決して「武術史杖最高傑作」を学ぶにあたりの人格に値するか、大いなる疑問が起り、果たしてそうだろうか、という疑念が止め処もなく起ってくる。
 幕末から明治・大正・昭和の大東流の足跡を追うと、果たして
「大東流なるものは武術史上最高傑作であったのだろうか」という素朴な疑念が起ってくる。

 わが流も、かつては、「会津藩の上級武士や奥女中に極秘のうちに伝えられた御式内(おしきうち)を母胎とする総合武術である」という見解で、今までに発表されていない数々の儀法を、愛隆堂や八幡書店の書籍を通じて、あるいはBAB出版の書籍やビデオ・DVDを通じて「大東流」を取り扱ってきた。

ところが、今日に至り、大東流の熟練者は次々に世を去り、今では名前だけで大東流を標榜し、あるいは「自称大東流」の輩(やから)も殖(ふ)え、このレベルに停滞する連中が、様々な表現をもって、自称・中立・公正と称する『合気ニュース』 あるいは、ネット上を通じて、「誹謗中傷合戦」が始まった。

 そして、この「誹謗中傷合戦」の中心軸に居るのは、元わが流の門人達である。あるいは元わが流の門人から、西郷派叩きを遣る絶好の旧資料を手に入れた、「大東流合気武道」と名乗る、一部の集団である。
 かつて、わが流は、「大東流合気武道」なる総ての団体に対し、
「大いなる尊敬」「畏敬の念」をもって、慎み深くあらゆる限りの仁義・礼節をもって接してきた。それは、北海道の武田時宗先生が、人格的にも立派で、武道家とは思えないほど温和で、愚直で、律儀な品性を持たれた方だったからである。

 ところが武田時宗先生が亡くなられた後、この「大東流合気武道」なる一部の集団は豹変した。それは後ほど、詳細を述べるとして、まず、「西郷派大東流」と、明治中期以降の武田惣角以降の大東流との違いを紹介しよう。

 さて、一般に知られる大東流は、武田惣角を中興の祖として、一部の特別な人達の愛好者によって近年に広まった「新興武道」である。
 この近年の歴史を辿ると、大東流は、明治中期、大正、昭和初期の近年、合気道の源流となる武術として知られるようになった、極めて新しい新興武道であるである。大東流を知る上で、ここが
「重要なポイント」である。ゆめゆめ、「大東流の歴史は、平安時代の中期、清和天皇第六皇子貞純親王……云々」などの、日本史を覆すような流派伝説を信じないことである。

 しかし、この大東流の歴史を猛進する者は多い。「清和天皇第六皇子」からの皇胤の中には、様々な誇張が盛り込まれ、未だに大東流を信奉する愛好者は、「大東流は清和天皇第六皇子……云々」を信じている。大東流の起こりを「皇胤(こういん)にある」と結び付けている盲信者が少なくないようである。そもそも、この件(くだり)からして、「眉唾物(まゆつばもの)」ではないか。

 だがしかし、今日の大東流の歴史と、大東流の技が優れていることは「全くの別物」である。是非ここを、誤解なきように願いたい。それは天才武田惣角が残した様々な試合結果からである。これは大東流を表する上で、大いなる武功である。

  大東流の、その内容を紐解けば、一対一の格闘技術に留まらず、剣術、居合、杖術、槍術、拳法、白扇術、等の多岐に亘る技法群で構成され、「護身の術」としても非常に有効な構成になっている。これも「第二の重要ポイント」になる。

 

●西郷派の事上磨錬

 大東流は非常に謎の多い流派です。これをいいことにして、「大東流」の一流派のを登録商標にしたり、自己独占する、武道家と思えない人がいる。一体この道徳は、何処から発する考え方であろうか。
 昨今の武道界では、「西郷派を叩く悪現象」が蔓延(はびこ)っている。

 その一方で、日本人は情報に金を払う意識が低い。また、この意識が低いばかりか、タダのニセ情報に翻弄(ほんろう)されやすく、これに撹乱されて「烏合の衆」に成り下がる一面を持っている。

 そして、こうした日本人の原点を抽出すれば、それは日本の古来からの因習である「ムラ社会」に回帰されよう。
 日本の国情を考えた時、古今を通じて、アジア大陸の極東に位置する日本列島は、特有の春・夏・秋・冬の四季を持ち、季節感溢れる島国である。しかし、この島国がまた、「島国根性」や「ムラ社会」を作り出した。そして、正確なこの国の歴史的根拠のあるところは、縄文時代、弥生時代を含めて二千年余りである。
 そして日本人は高温多湿の湿り気の多い、伝統的なムラ社会を構成し、身内社会と「親の七光り」の威光に凭(もた)れかけて生きて来た。資産家らが、親の溜め込んだ金で、今もぬくぬく生活でき、商売ができるのは「親の七光り」に他ならない。

 日本民族は、基本的には「単一民族」である。単一の言語を持ち、世界には類例のない、何処を切っても金太郎アメ的な、濃厚な均等社会を形成した日本人は、昔も今も変わらず、義理と人情に流され易い、因縁と不公正を背負った寄り合い所帯の中で、日常生活を営んでいる。更にこの民族を探究すれば、不公正な現実の中に平均化や平等化を求め、これを正義の行動規範にしているが、実は日本人の行動の基軸とするものは、明らかに社会正義の貫徹ではない。

 この事実は、戦前戦中にも見られたし、今日の戦後の民主主義の中にも見られる。社会正義などと称するには程遠く、日本人個人を更に探究すると、この単一民族の個としての正体は、まぎれもなく「自分主義者」の集合が、日本と言う国家を形成していることになる。

 つまり、「自分主義」とは、家族や親族にとって、自分に役に立つ人間や、頼りになる人間を取り巻きに置き、利用できる人間を利用する、「自分が大事」と思う考え方こそ、自分主義の特長であり、多くに人間を動かす行動原理には、決して大義名分等ではない。また、キリスト教徒などのように、愛に殉(じゅん)ずる自己犠牲なのでもない。

 自分の生命も顧みず、無償で自分の身を捧げたり、あるいは生き態(ざま)の情熱などではなく、最後は自分をどのようにして物質的に豊かにさせるかの、「珠盤(そろばん)勘定」で動いていることは明らかである。
 日本人が考える、「幸せになりたい」とか「出世して偉くなりたい」あるいは「金持ちになって世間に認められたい」などの欲望は野心は、結局の所、「向う三軒両隣」に負けたくないと言う見栄の意識であったに他ならない。
 そして、こうした意識が働いていることが明確に顕れている場合、ムラ社会で観(み)る「世界観」は正しいだろうか。
 また、こうした意識が働いている以上、自分たちだけが正しくて、対する一方は総(すべ)て悪と看做(みな)すことが出来るだろうか。

 これこそ、片手落ちの傲慢(ごうまん)偏見ではないか。もし、世間大衆に対して流し続ける情報が、一方だけを取り上げ、一方を無視した遣り方は公正ではない。また、公平でもない。これを独断と偏見というのだ。そればかりか、一方に焦点を当て、これを讃え、また、一方を侮蔑(ぶべつ)の文字を並べ立てて罵倒(ばとう)するのは、人間的な道義にも劣ろう。

 世間流の常識で、西郷派叩きは、武道界では常識になりつつある。また、陽明学などを研究し、これを行動思想としていることは、危険思想と看做され、ご丁寧に「極右」のレッテルまで貼られている。少なくとも、こうした西郷派叩きの元凶となったのは、『合気ニュース』や『剣道日本』(近藤勝之氏は剣道雑誌に中に、わざわざ合気武道を取り上げさせ、西郷派に対して、インチキの証拠は幾らでもあると息巻いている)のような、一方的な取材によって書き上げたガセネタ記事が元凶になったことだ。

 そして、特記すべき事は、現在『合気ニュース』で、大東流の第一人者のような顔をして、解説を論じている九州総支部長を名乗る西龍一郎が、電子辞書でも「インチキの西郷派」と評されている、「もと、わが流の弟子」であったことを、ご存知だろうか。
 世の多くの合気系の武道を愛好する人達は、『合気ニュース』の掲載記事をそのまま信じるのもいいであろうが、今では、「インチキの西郷派」といわれる、かつての弟子も、「もと西郷派の門人」であり、こうした「もと弟子」に論評させている。こうした類(たぐい)に、大東流の何を語らせようというのであろうか。

  もし、武道界が良識の眼で公正・公平・中立の立場に立って西郷派を判定し、その結果、更に西郷派が歴史的根拠のない「インチキ流派」だとすると、この男も、インチキ流派の基礎の上に、大東流合気武道の「柔術百十八箇条」を積み重ねたことになり、土台は、やはりインチキということだろう。
 更に、かつてこの男がわが流の在籍したとき、素質も才能も決してあるようには思う得なかったが、今では、大東流の第一人者のような顔をして『合気ニュース』に能書きを垂れている。

 西龍一郎に対しては、次の疑問が起る。
 なお、念のため申し添えておくが、これは、かつて西郷派の門人であった西個人に恨みを投げつけるものでないので、その点は呉々も間違いのないように、ご了承願いたい。

わが流に在籍したとき、才能も素質も決してあるように感じられなかったが、どうやって第一人者の位置まで達しえたのか。あるいは西の身に、「ダーウィン進化論」の如く、偶発的な突然変異が度々起り、進化したのか。
また、「九州総支部長」などという仰々しい肩書きを有するまでになった、時間は、昭和60年代前半【註】この年、八幡大学合気柔術部を引き連れての造反があった)の造反から考えて、あまりにも早すぎる。この早いのし上がりの裏には、何か裏取引があったのか。
この造反に対し、武田時宗先生は「西氏【註】熊本で九州総支部長なのるこの男だが、ここではNとしておこう)も、進龍一【註】わが流の関東方面指導部長で、習志野綱武館の名誉館長。大東流合気武道からの大同団結の誘いに乗らなかった)氏も 、将来のことを考えて、是非、長い目で見てやって欲しい」と云ったが、この「長い目」とは、西郷派を徹底的に叩いて、自分らがのし上がる為の叩き台に、西郷派が使われたのか。もし、そうだとしたら、他を喰ってのし上がろうとする道徳は、いったい何処から生まれたモラルなのか。
既に述べた通り、西郷派だインチキとすると、西の土台もインチキということになるが、この西の今日の力量は、西郷派の土台の上に、大東流合気武道の柔術百十八箇条を積み重ねたことになりなりはしないか。
八幡大学合気柔術部【註】現在の九州国際大学)を、手土産に造反させておきながら、その後、なぜ指導を怠り、放置してしまったのか。その後、この部の部員が、西郷派に再加入してきている。しかし、当時一年生であった学生が、四年間の学業を終え、各地に就職していくと、部員集めが振るわず、休部の状態になってしまった。おそらく、西が指導を怠らず、きちんと指導していたらこうした状態は免れただろう。そして、この「放置した」というモラルはいったい何処から起ったものか。これについて、西の人格が問われなければならない。

 大東流とは、非常にスキャンダラスな流派であることが、これでお分かりいただけるであろう。また、『合気ニュース』のジャーナリズムとしての信憑性も、決して中立・公正・公平の論から行くと、常識の眼から検(み)て、あまりにも他方に偏っているといえよう。

 そして、上記の「西郷派大東流の武術・30儀法」「西郷派大東流の思想・5思想」は、「清和天皇第六皇子……云々」や「武田惣角を中興の祖とする……云々」と、全く関係のないことである。
 また、わが流の「西郷派大東流」の「大東」は、大東流合気柔術や大東流合気武道の大東ではない。
 わが流の説く、「大東は、大いなる東(ひむがし)から来た大東であり、西郷頼母の唱えた極東一の優れた武道の大東」を、西郷派の大東としているのであり、これを「西郷派大東流」の流派名の象徴にしているだけである。

 大東流は流名自体の起源に謎(なぞ)が多く、また、作り話や伝説が沢山ある。「新羅三郎源義光説」も、「大東の館説」も、またその大東の館で、平安後期から鎌倉初期にかけて、戦死体解剖が行われた歴史的事実もない。
 そしてこれらは総て、明治中期から昭和に掛けて作り出された後世の仮託である。
 あるいは新興武道なるが故に、天皇家や皇室と繋(つな)がりがあるかのように見せかけた「皇胤(こういん)」を持ち出して、流派に重みを加えようと創作したのかも知れない。その可能性は大きい。
 そもそも、大東流の武技(柔術百十八箇条と直心影流の表の型)の優秀性と、歴史は無関係であり、双方をこれに絡めて考えることは別問題である。

 西郷派を除いた、何処の大東流の講習会でも大変に繁盛をしている。おまけに、「大東流○○会」と、大東流とは全く関係のない、西郷派の書籍やビデオを入手して、これを「型真似(かたまね)」し、それで大勢の講習生を集めている素人団体もある。今や、三人集まれば、「大東流○○会」である。

 こうした「大東流○○会」を語る団体の中には、一回の講習料につき一人一万円を徴収して、一回の講習で100人も200人も集める団体がある。仮に、一回の講習で100人として、ざっと100万円の収入が転がり込む。そして必要経費といえば、武道館や体育館の貸切使用料だけである。収入から貸切使用料を差し引いても、かなりの収入がある。荒稼ぎをする、暴利団体としか言いようがない。

 多くの会員を集め、盛会を見る大東流がある一方、『合気ニュース』の誤報記事や、マイナーな武道雑誌で講釈を垂れ、西郷派叩きで漁夫の利を狙う輩(やから)が居る。西郷派を叩けば叩くほど、自分らは儲かるというシステムである。西郷派の各道場では、「閑古鳥(かんこどり)が鳴いている」というのが実情である。それは、「西郷派叩き」という営業妨害と名誉毀損に由来する。

 しかし、こうした実情でありながら、わざわざ西郷派を指定して、入門してくる人がいる。こうした人達は、西郷派叩きが行われていることを知りながら、西郷派を指定して 入門してくる人である。西郷派の良さを正しく評価できる人たちである。
 陽明学の思想に基づけば、「事上磨錬」であり、志を持ち続ける為には、心に痛みがある方が、より強い信念が抱けるということだ。
 人間は生まれたその日から、凄い能力をもっている人間など一人も居ない。また、達人や名人が一見全知全能の能力を持っているように見えるのは、外見だけに眼を奪われて、そのように映るだけである。したがって、日々精進の地道な努力が要るのである。

 わが流では、重量3.1キロの合気揚げ用の素振り木刀を「朝晩最低100回以上振る」ように申し付けている。これにより胆力が出来る。振れば振るほど、無駄な力が抜け、木刀を腕力で振るのでなく、「魂で振る」ことが分かってくる。これを毎日朝晩、五年も十年も続けている人がいる。何も考えず、黙々と振るのである。100回で振り足りなければ、200回、300回と振り続ける。黙々と、まるで「動く坐禅」をするが如きである。こすると、すっかり肩の力が抜ける。また、ボディビルダーのように、肩に盛り上がった無駄な筋肉は必要でなくなり、肩が骨と皮だけになり、武張った強圧的な威圧体型がなくなり、それに代わって、橈骨と尺骨が発達し、この腕の部分が「ヘラブナ」のような形になる。
 これが合気揚げを行う場合の、正しい体型である。こうした合気揚げに隠された秘密を一番最初に公開したのは西郷派だった。一人の天才すら、その実はこうした精進努力で造られるのである。

重量3.1キロの合気揚げ・素振り用木刀の朝晩の精進。
 
正しい素振りをすると、肩の筋肉や脂肪が落ちて、一年を過ぎた頃から、腕の構造断面は楕円形(だえんけい)で、腕自体は「へらぶな形」となる。
 木刀の柄
(つか)を握る場合は、力で握り込むのではなく、「卵」を握るように「柔らかく」握ることが大事である。この時、人差指は柄を握らず、中指・薬指・小指で握り、最後に拇指(おやゆび)で握って止める。人差指は、自然の儘(まま)に伸ばし、無理にピンと伸ばす必要はない。そして、小指側ほど締めて握る。
 また、斬り結ぶときは、「茶巾
(ちゃきん)絞り」の要領で、剣筋が正中線を正しく通るようにする。一振り一振りに唸魂(ねんこん)を込め、霊肉倶(とも)に動かすことが大事である。

 これは正統性が正しいか否かではない。精進努力をするかしないかの差である。ここに知ることと行い事が同一であるという、陽明学の「知行合一」がある。西郷派を除いて、他の大東流や大東流を語る「大東流○○会」に、果たして、思想と行動が一致するという団体があるだろうか。
 わが流では、演武会では客受けによい、高級儀法も、実戦では絶対に掛けることが出来ないと常々論破し続けている。

 また、毎日驚異的な稽古をする大相撲の力士や、過酷な練習をするプロレスラーに、空手家の剛拳も、プロボクサーのパンチも、殆ど通用しないことを雄弁に物語っている。しかし、プロボクサーの強烈なパンチを、一般素人同様の武道愛好者が、これを顔面でもボディーでも食らえば、ひとたまりもないだろう。所詮、時代遅れの古武道では、プロ格闘技選手のテクニックには勝てるはずがないのだ。それはキックボクサーですら同じだろう。況(ま)して、古武道の愛好者が、素手で勝てるチャンスは1000の1もありはしないだろう。

 昨今、世界最強の格闘技と自称する「総合格闘技バーリトゥード」という過激なスポーツをご存じだと思うが、これは近年では全く存在すら知られなかった、凄まじい格闘技である。これと対抗する人間業(にんげんわざ)が、素手の状態で果たしてあるだろうか。大東流の一箇条も二箇条も三箇条も、全く通用しないのは請け合いである。もし、「大東流柔術百十八箇条」で、これに対抗し、勝てるという流派があったら、是非お目にかかりたいものである。
 西郷派では、別の角度から武器を研究して、ギリギリのところに追い詰められたとき、命をとられる最後の最後で勝てる方法を模索しているのである。これに勝つ方法は、合気空手ではないことを断言しておこう。

 かつて武田時宗先生から、「武田惣角が、着物などの衣類の至る処に、小刀などの刃物を隠していた」という話を、わが方に来館したとき、聞いたことがあるが、こうした「隠武器(かくしぶき)」についても、追い詰められ、絶体絶命になって、命をとられる最後の最後で勝てる方法ではなかったかと思料している。この話を洞察して考慮すれば、最後の最後で、「九死に一生を得る」のは、大東流柔術百十八箇条ではなく、「隠武器による勝ちだ」ということになる。
 わが流が、真剣に隠武器や毒術を研究し始めたのは、昭和56年、武田時宗先生がわが方を来館してからのことであった。爾来、わが流は「隠武器や毒術」の研究の没頭することになる。

 これは人殺しを図ってのことではない。むしろ、人命尊重の立場から、命は何処までも尊重しなければならないという思想に基づくものである。ちょうど、平和を論ずる時に、幾ら平和論を強調しても、平和を知ることは出来ない。平和を知る為には、むしろ、戦争の恐ろしさを知らねばならないのと同じである。戦争を知り、武器を研究すればするほど、実に平和が尊いものだろ分かってくるのである。命は尊く、粗末にしてはならないと分かってくるのである。

 ちなみに、バーリトゥードとは、ポルトガル語で「なんでもあり」という意味である。その為、ほぼノー・ルールで行う、総合格闘技である。
 ブラジル格闘技の「カポエイラ」を母体として、柔道、ムエタイ、その他の世界中の格闘技の長所を吸収して作り上げられた凄まじい格闘技である。カポエイラは、400年前、アフリカから奴隷として連れて来られた人達が、手首を縛れてたまま、この状態で格闘したことからはじまるという。
 バーリトゥードは基本的には、頭突き、肘打ち、脊髄、金的以外の攻撃ならびに噛み付く事や、眼潰しは禁止であるが、それ以外の攻撃は「総てあり」とする、激しくて、過酷なスポーツ格闘技である。

 素手で闘った場合、リングに入り、ゴングとともに格闘が始まれば、大東流を十年、二十年、三十年、四十年と遣ったアマチュアレベルの大東流選手でも恐らく、持ちこたえてせいぜい30秒であろう。それに近年は、大東流の某大師範が、打撃系の選手を挑発して、試合に挑み、30秒でノックアウトされたことがインターネットに流されたということもあった。また、合気系武道の低迷は、世間様からの目で見て、「十把一絡げ」でもあるという体たらく振りである。

 そして一方、打撃系の、突きや蹴りを専門とする格闘技は、若者を中心に大ブームを起しているそうだ。
 大東流の一部のグループが、武田時宗先生ご健在のときは、大東流の正式鍛錬法には入っていなかったが、近年、「合気拳法」を上げ、「合気空手」を上げて組手をやる理由は、昨今の格闘技ブームの集人力を狙って、それに肖(あやか)ろうとしているのかも知れない。しかし、所詮(しょせん)は焼け石に水のお湿りである。無駄な努力である。もし、こうした最強格闘技と張り合いたいのなら、こうした合気拳法や合気空手など遣らずに、最初から総合格闘技でも遣ればいいではないか。

 では、西郷派はこうした時代の流れを、どう考えているのか。
 それは「古人の智慧」に回帰し、そこからまだまだ活路があると考えている。幾ら巨体と雖も、あるいは鋼鉄のハンマーパンチを持っているものとはいえ、彼等も同じ人間である。特別な肉体を持ち、「頭」も「目の玉」も「咽喉玉」も「金玉」も、みな鋼鉄というわけではない。此処を一撃すれば済むことだ。手足で一撃して駄目なら、武具を遣えば済むことである。これこそ明瞭簡単な、古人の智慧ではないか。

 アタマ・メンタマ・ノドタマ・キンタマの「四タマ」は、鍛えようがないのだ。但し、強いて言うなら頭と胴体を繋ぐ「クビタマ」というのは、などからも分かるように柔道・サンボ・レスリングあるいはブラジリアン柔術からも分かるように、ブリッジで頸(くび)周辺の筋肉だけは鍛えられるが、咽喉笛(のどぶえ)だけは鍛えることが出来ないのである。つまりここが、「咽喉タマ」である。

 果たして、こうした研究を西郷派以外の大東流が、時代の則(そく)した研究を重ねてきただろうか。あうりは「所代われば品代わる」の喩えから、道場と言う畳屋板張り以外の野外での野稽古を真剣に模索し実践してきたことがあるだろうか。
 険しい山道では、柔術百十八箇条などという、骨董品的武技は全く通用しないし、膝行・膝退・膝側も出来るわけがなく、第一、平地しか役に立たない前近代的な武芸が大自然の中で、どの程度まで通用するか、非常に疑問である。

 会津藩では、五百石以上の武士を「上級武士」と呼んだが、上級武士は弓馬術の心得があった。それにちなんで、わが流では古くから馬術を修練してきた。武術というのは、弓矢の儀からはじまり、弓馬術がその起こりだった。柔術が起ったのは江戸時代である。戦国期の普段でも甲冑を身に着けて生活する非日常では、絶対に「素肌武道」などという柔術は起りえなかった。あるとしたら、戦場での格闘組打であり、これも鎧甲冑(よろいかっちゅう)を着けての組討だった。
 どうして、日々戦場の世界に、「素肌武道」など登場しよう。

 骨董品や伝説に振り回されず、日本人は日本人として、無国籍武道や格闘技に振り回されず、日本精神で修行の道を一歩一歩着実に進みたいものである。そして、修行の根本は「心」である。心を鍛えることこそ、修行の目的なのである。
 骨董的武技を、約束演武会で、技の複雑さ品評会のように、その演技のできばえを評することではない。実戦と約束演武は全く違うことを知らねばならない。実戦に役立つのは「胆力」であり、「鍛えた心」である。

 では、「心」は、いつ鍛えることが出来るのか。
 陽明学では、「事上磨錬」を上げ、この時機(とき)に鍛えられるという。では、「事上磨錬」とは何か。
 それは問題が起ったときだという。問題が起り、心配事が出来たときこそ、心は強靭(きょうじん)に出来るというのである。
 端的に云えば、つまり、不幸の真っ只中にあるときこそ、心は強靭になるというのだ。

 筆者は、長男が中学一年のとき、大病をして生死の境を彷徨ったときがあった。原因不明の、体内にブドウ球菌が発生し、それが体内を循環し、長男はこれにまる一週間苦しめられた。筆者はこの連絡を受けたとき、「息子が危篤」ということで気は動転し、心配のあまり、居ても立ってもいられなかった。

 しかし、陽明学では、こうした時機に「自分を鍛えなければならない」と教える。ある意味で、これこそ絶好の機会だというのである。医者でない筆者は、幾ら息子を助けたくても、医学の勉強を遣っていないし、医師の資格もないので、医療行為の面からは、一切助けることが出来ない。

 だが、若いときから陽明学を勉強していたので、普段勉強したことがこの時機に本当に役に立たなければ、「知行合一」でないと悟った。父親が、子供を愛し、その危篤状態を心配するのは、「自然の情」である。しかし、天の理(ことわり)にも、自ずと中和し、「中庸(ちゅうよう)の位置」を保てないようなら、これが偏りすぎて、愚かしいまでの「私意」になってしまう。私意から起る想念や感情は、決していい方向には働かない。

 したがって、こうした時機には、天の理から云っても、心配することが当然でとしても、心配が過ぎれば、心に憂いをつくり、その抱えた意識は正常な働きが失われるだろう。
 感情というのは、「過ぎてはならない」のである。これが、陽明学の云う「事上磨錬」の心の修練法なのである。最近は、こうした「心法」が知りたくて、あるいは基礎から学びたくて筆者の許に通い詰める遠方からの来館者も居る。こうした人は、個人教伝で筆者からマンツーマンで教わるのである。そして、筆者がこうした来館者に対し、最後に力説するのは、「病気などで、仮に躰(からだ)が窶(やつ)れてしまったとしても、命は窶れてはならない」と付け加えるのである。そうすると、来館者達は、西郷派の儀法以外にも「心法」を理解して、来たときとは打って変わって、元気になって帰っていくのである。そして、またこうした人は、次も遣(や)ってくるのである。

 こうした来館者の中には、過去に武道経験や運動経験、スポーツ経験など、一切ない人までが遣ってくる。勿論、他武道を十年・十年と遣って、中々の猛者も居る。オリンピックで柔道の銅メダルを獲得した柔道家まで居る。しかし、こうした人に混じって、病気持ちの人も遣ってくる。あるいは若い頃はフルコン空手を遣っていて、今は病気で足が悪いからといって、余生の健康法として西郷派の手裏剣と陽明学を教わりに来る老人もいる。

 こうした人がわが流の遣ってくるのはなぜか。それは、わが流の根本精神を見抜き、それに人生の拠(よ)り所を求めて遣って来るのである。決して骨董品的な、柔術百十八箇条を習いたいと思って遣ってくるのではない。こうした人の中には、末期ガン患者で余命幾許(よめいいくばく)もないと告知された老人もいる。こうした人達は、来たときは病魔に威圧されて、よれよれだが、筆者が聞き役になり、喋りたい事を充分に喋らせ、その後に居合いの稽古をしたり、2〜3メートル離れた的に手裏剣を打ち込む稽古をさせたり、あるいは調子がいいと判断したときには、三日ほど宿泊してもらい、登山道具を担ぎ、近くの福智山山頂までの険しい登山道を歩いて、山行きをすることにしている。足は遅いが、結局最後まで歩き通し、また、山頂から降りてくるという修行をやっている。そして、最後に陽明学の一節を講義すると、来たときとは見違えるように元気になって、帰って行くのである。

 西郷派の修行は、修練に仕方も「心法」の探求も、人それぞれであり、心の強化に重きを置く流派が、全武道界を見渡しても、果たして他にあるだろうか。

 単に肉体ばかりでなく、「事上磨錬」として心を鍛えなくなると、人間が勝手なもので、それでもう充分学んだような気になり、そこで安堵(あんど)してしまう。そして、その時点で私欲が起る。自分の前に、まだ修行が残されていることを忘れてしまうのだ。
 その結果、大半も者は、晩年ボケ老人になる。アルツハイマー型痴呆症を患って、この症状と他の病気を並行させ、ボケ老人で死んでいく。探求すれば探求するほど、「道」を踏み行う修行は、奥深いと気付かない為だ。心が鍛えられるという天の理を無視した為だ。
 こうした人は、その人が名人や達人の域にあっても、心を鍛える事を止めた報いとして、アルツハイマー型痴呆症などの病気が頭上に降り注ぐ。少なからず、大東流合気武道という団体の中にも、こうした晩年を迎えた人がいるようだ。

 

●昭和51年から55年にかけての大東流の調査

 昭和51年3月、八光流柔術から転向した、わが流の岡本邦介師範の西郷派皆伝師範に進まれたことを機に、岡本氏の八光流での知人や同門に、福島県会津若松市出身の方が何人か居られたので、こうした方にお願いし、筆者自身も福島県会津若松まで出向き、霊山神社、西郷頼母屋敷(現在、会津武家屋敷になっている)、白虎隊記念館・さざえ堂などを調査して廻った。
 また、地元の多くの方にも大東流のことを訪ねて廻ったが、これを知っている人は一人も居なく、大東流の「だ」の字も知らなかった。

 近年大東流が有名になったのは、津本陽氏の武田惣角を題材にした武勇伝小説『鬼の冠』や、植芝盛平を題材にした武勇伝小説『黄金の天馬』である。
 これはちょうど、昭和30年代まで、全く無名で、当時の歴史教科書には殆ど出てこなかった坂本龍馬が、司馬遼太郎の小説『竜馬が行く』で、爆発的に全国に知られるようになったのと酷似している。余の英雄達は、有名売れっ子作家によって作られるのである。

 筆者は始めて福島県会津若松市の地を踏んだのは、昭和51年10月頃だった。岡本氏の八光流の同門の福島県で八光流の道場を開き、柔道接骨院も開業されていた。また八光流柔術城代(当時は全国に20人だったと聞く)で、錦紫帯を許された桑名利和(くわな‐としかず)師範だった。昭和23年生まれで、筆者と同じ歳だった。

八光流・桑名利和師範の名刺。
桑名師範の父君の名刺。
大越敏夫先生の名刺。

 桑名氏は当時、福島県立会津総合病院で柔道整復師や医療技師もされており、幼少時代から剣道をされていたということで、その剣道の師匠である全国的にも剣道で有名だった陵武館の大越敏夫おおこし‐としお/当時剣道教士で、七段)先生にも知り合う機会を得た。会津若松市に住んでいる人ならば、「陵武館」といえば、知らない人が居ないほど有名な道場である。ここから多くの著名な剣道剣士が育っている。
 また筆者の知人で、元警視庁の特捜部刑事だった、この人(彼の父親も福島県警の警察官で、陵武館の大越先生も、よくご存知だった)も、実は陵武館出身だった。陵武館は多くの有能な人材を輩出した道場である。

 大越先生は、もと警察官(警部)であり、福島県警剣道師範でもあった福島県警察の剣道大会や剣道選手権大会でも、多くの門人を優勝に導いた地元では有名な先生だった。福島大学の剣道師範でもあり、財団法人全日本剣道道場連盟理事や、福島県剣道連盟理事なども歴任されていた。
 ただ、このころ大越先生は眼を悪くされていられ、剣道の大会で優勝し、酒を飲んだ席で門人等から胴上げされて、一番最後に支えの手を抜かれて落とされて頭部を打ち、それ以来、見えるものが総てカラーでなく、白黒になったということであった。

 筆者が、八光流の桑名師範に連れられて大越先生の道場をお訪ねしたのはこの頃で、当時、剣道五段の23歳のお嬢さんが道場生の指導に当たられていた。
 桑名師範を挟んで、大越先生からは、いろいろな話を聞かせて頂き、「技を少し見せて欲しい」というので、道場の板張りの上で、桑名師範相手に投げ技を披露したことがあった。そして、大東流のことや、当時福島県や会津若松市で大東流を遣っている人のことを聞いたが、そんな人はいないということだった。また、大東流のことを、西郷頼母屋敷の係員の方に聞いたが、「大東流などという、流派は知らない」ということであった。昭和51年のことである。
 ただし、大越先生から「武田惣角は会津藩士である」と、確かに聞き止めた。

 桑名師範宅に3、4日ほどお世話になったが、大東流を当時知る人は居なかった。この時桑名氏は、専ら、「鍼灸の技術」に興味を持っておられ、筆者が「大東流には活法として鍼術と骨術(整骨や整体など)がある」というと、「鍼術(しんじゅつ)を見せてくれませんか」というので、では、「私が前代から習った透鍼術というのを披露しましょう」と言ったので、彼は自分の門人であるレントゲン技師らの医療関係者を集めてくれた。

 そしてこの一人の門人を使って、透鍼術の「透鍼」を披露した。鍼は透鍼に遣う、かつて山下芳衛先生から貰った20cmほどの長鍼で、これを手の合谷(ごうこく)から少府に向けてと、足裏の行間(こうかん)から湧泉(ゆうせん)に向けて刺し、この深々と刺された鍼術に驚愕(きょうがく)し、桑名師範は自分が密かに所持していたポラロイドのレントゲンカメラ(彼の言では、患者を治療する場合、レントゲンを撮って診なければ和ならないものもあり、その為に所持しているということだった)で、これを撮影しようとした。この時、レントゲンカメラで何度か撮影したが、ピントのボケているものが多く、被験者はこのとき、数多く撮られて被爆量を超えているのではないかと思われた。それでも一枚だけ鮮明なもの写真が撮れたが、この写真は、平成3年に知り合いになった、著名な武道評論家の平上信行氏に預けてある。彼が紛失していなければ、今も存在するだろう。

 ちなみに、手の「合谷」は手之陽明大腸経(てのようめいだいちょうけい)の経穴であり、「少府」は手之少陰心経(てのしょういんしんけい)の経穴であり、また、足の「行間」は足之厥陰肝経(あしのけついんかんけい)の経穴であり、「湧泉」は足之少陰腎経(あしのしょういんじんけい)の経穴である。

 

●平成3年から11年にかけての大東流の調査

 その後も、知人の福島県人らのお世話により、大東流の調査を続けていた。しかし、大東流の痕跡は、この県にはこの当時、皆無といっていいほどだった。
 ただ一人、福島県会津若松市生まれの、栃木県の柔道整復師で、わが流の栃木県門人・熊坂護(くまさか‐まもる)氏の協力を得て、分からない部分の謎解きに協力して頂いた。熊坂氏は、かの有名な熊坂長範(くまさか‐ちょうはん)の末裔(まつえい)と謂(い)われ、福島県内に多くの知人を有していた。

写真は熊坂護氏が講道館に出向き、山下泰裕選手を治療したときのものである。このことから、熊坂氏の柔整師としての腕前が、いかほど凄腕か、容易に分かろう。

 一般に熊坂長範といえば、義経伝説に出てくる大泥棒と思われ、大盗賊にように誤解されてきたが、これは誤りである。現在は、歴史的にも、「熊坂長範大泥棒説」が完全に否定され、大泥棒の汚名は現在に至って拭われている。また、熊坂長範を祀る神社には、長範に纏(まつ)わる石碑などが建てられ、これまでの誤解は、歌舞伎や芝居の中で作られ、これが真っ赤なウソであったことが証明され、名誉が回復されている。

 歴史とは、誰かが勝手に捏造(ねつぞう)し、一方を悪と決め付け、自分だけが正しいとする論理で展開されたものが、歴史の中には多くあり、特に武道界にあっては、それぞれが誇大と捏造(ねつぞう)の限りを尽くしている為、この捏造の激しさは、歴史の教科書以上である。後世の仮託(かたく)も多い。強いて言えば、西郷派もこの犠牲(ぎせい)の一つであり、捏造により、「西郷派インチキ説」が現在も罷(まか)り通り、武道愛好者の中では定説となっている。

 さて、熊坂氏の紹介により、福島県白河市で柔道整復師(福島県柔道整復師会々長で、渡辺整骨院院長)をしておられた渡辺益治(わたなべ‐ますじ)先生に知り合う機会を得た。
 JR白川駅からタクシーで15分くらいのところに、渡辺整骨院がある。私が熊坂氏から連れられて渡辺先生を訪ねたのは、平成6年の春だっただろうか。白川城は桜の花で満開だった。

 渡辺先生は、もう既に、今は故人だが、「自然医食」と「浄血」で有名な、東京・お茶ノ水の「お茶の水クリニック」の院長・森下敬一(もりした‐けいいり)医学博士と入魂(じっこん)で、国際自然医学会議では、何度もハワイやアメリカに同行している。
 そして渡辺先生からは、平成7年4月20日、森下医博の著書『浄血』を筆者に先生自らの署名入りで下さった。

 渡辺先生は柔道家(柔道五段)で、また白川では資産家で通っていた。先生のご祖父は大変な大金持ちで、白川から100キロほどの距離を馬に乗って、会津若松まで飛ばし、武田惣角から、「惣角流合気術」を習ったということで、武田惣角についても非常に詳しく知っていた。また、祖父伝来という事で、刀剣に明るく、その知識は、刀剣専門の古物商である筆者も顔負けの明るさだった。

 特に注目したいのは、ご祖父が、白川から会津若松まで馬を飛ばして、毎月数回、惣角流を習いに行っていたことである。そして、このとき、大東流ではなく、惣角流とされたのは、渡辺先生によれば、ご祖父から聞いた話として、このとき惣角が大東流ではなく、惣角流だったと念を押された。渡辺先生のお宅には熊坂氏を伴って、その度、三度お邪魔している。
 そのときに、ご祖父のことを話され、「大東流は後世の仮託」というのである。「清和天皇……云々」の話が訝(おか)しいというのである。大東流と謂(い)われだしたのは、植芝盛平が顕れた「昭和の初期である」というのである。ここでも貴重な証言を得ることが出来た。

渡辺益治先生と白川城大手門前で。(平成6年5月19日)

 そして、これらの証言を整理すると、大東流は、別ルートで「武田惣角と植芝盛平の共同制作の合作武道」でもあったともいえるだろう。
 また平成10年、会津若松市で西郷眼科医院を開業されている、この医院のご息子の西郷龍太郎さいごう‐りゅうたろう/当時浪人中で、後に東京理科大の学生)君の父君(当時70歳)は、西郷頼母の孫に当たられる方で、父君の証言によれば、「自分の祖父は合気術の達人だった」ということで、ここにも「違う大東流」が存在していることが分かる。こうして数少ない事実を発掘していくと、大東流は必ずしも、「武田惣角を中興の祖」とする仮説は徐々に崩れてくる。

 筆者は福島県白河市で、渡辺益治先生にお会いできたことを大変幸運に思っている。また、渡辺先生に引き合わせてくれた、熊坂氏にも大変感謝する次第である。
 渡辺先生には、その後も、何度かお電話を頂き、ご祖父のことを話された。そして「祖父が白川から会津若松まで馬を飛ばして武田惣角から習った技は、実は惣角流なのか、あるいは今日に言われている大東流なのか、その真意は分からない」というが、「祖父の習った技は、確かに惣角流と聞いた筈だった」と仰られた。そうなると、武田惣角は明治のはじめから中期にかけて、大東流は名乗っていなかったことになる。

 渡辺先生と熊坂氏を通じて、森下博士とも縁が出来た。後に筆者は、森下博士と何度か電話でお話をし、躰(からだ)を悪くしてから、大変お世話になったことがある。

 

 
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