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古人の叡智が集約する護身武術
宗家/二人捕り

■ 大東流の歴史観には問題があり!■

●大東流柔術の伝承体系は「太子流軍法の写し」の可能性が高い

  武士の興りは、平安中期、農村で発生したが、ここから武士団は、やがて「土豪」や「豪族」という形態を取りつつ、武力を以て、社会支配層に伸(の)し上がって行く基盤を築いた。
 土豪や豪族を中枢とする武士団は、中世の鎌倉時代に至って隆盛(りゅうせい)を見る。こうした現象は十一世紀頃から全国的に発生し、鎌倉幕府創設から江戸幕府の終末までの、約六百七十有余年の間、武家政治の中枢を担った。そしてその存在形態は、武士団をはじめとして、「党」「一揆」「大名家臣団」等を構成し、これ等は時代や各地域によって様々であった。

 さて、そもそも「武士」を定義すると、広義に解釈すれば、百科事典などの本では「武芸を習い、軍事にたずさわる者を広く指す」とある。
 この専業者は、武技を職能として生活する「職能民」の事であり、後に独自の武家政権を構築し、平安後期頃に登場したとある。しかし、武士が興った平安中期の武士は、半農半兵の従事者であり、武士の起源と、半農半兵として歩いた足跡を理解しなければ、「職能民」としての武士団の興りは理解できない。

 しかし、武士が武芸を専門職として身に付け、職能民化するのは鎌倉時代に入ってからである。それまでは、平将門(平安中期の武将。摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴き、伯父国香を殺して近国を侵し、939年(天慶二年)居館を下総(しもふさ)猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。生年不詳〜940)の従えた武士からも分かるように、半農半兵であった。
 そして、血族の「血」というものを重んじて、武士間の階級構成は、内部的なヒエラルキーを構築させつつ、一個の戦闘的権力組織を築き上げたのである。これを「武士団」と言う。

 次に、半農半兵の武士団を形成し、侍(さむらい)が登場することになる。そして平安時代後期に至ると、皇族や貴族などは、身辺に常時伺候する侍を身辺警護に当てるようになる。
  侍の本分は、「武勇の士」として高く評価されることになり、皇族並びに身分の高い貴族らの護衛を任務として、これを専業化することになる。

 ちなみに「大東流」と言う流名の名称は、大東流合気武道や大東流合気柔術や会津大東流柔術ばかりでなく、江戸時代、関口流柔術から出た「大東流柔術」(関口流柔術第九代の関口柔心氏胤から出て、関口万平氏柔に至り、一方柔心氏胤から枝別れして、半田弥太郎に至り、門人の上村義雄、伏見辰五郎、池田為治、山本精三、松田栄太郎、雑賀寅応に至り、広島藩士の松田栄太郎は大東流柔術から真貫流柔術を創した)や、手裏剣術の「大東流手裏剣術」、あるいは合気術ならびに導引術を技法を名称とする村上源氏(村上天皇の子孫から出た源氏。源師房(もろふさ)に始まる。清和源氏とともに著名で、院政期以後の朝廷に活躍し、久我(こが)・土御門(つちみかど)・六条・岩倉・北畠などの諸家に分れる)の伝承を標榜する「大東流合気術」がある。この村上源氏伝承の大東流は、堺市在住の大高坂清を宗家とし、茨城市在住の早島正雄がその後を継いだ形となっている。

 また、「武田大東流」という流派があり、この大東流は会津藩の大東流柔術の伝統系統とは異なる別伝を挙げている。武田大東流は武田勝頼の二男・武田竜芳が伝えた大東流で、現在、第十五世宗家・小林大竜がこれを継いでいると言う。
 この他にも、「大東流合気柔術山本角義派」や「大東流幸道会」や「大東流琢磨会」、また甲斐武田家の重臣・大東久之介が伝えたとする「大東流合気道」や、新羅三郎義光が興し武田信玄が伝えたとする藤原会の「大東流」、更には伝承や技術体系には関係なく、大東流の技法研究のみを重点においた、単に大東流の名称を用いる「大東流○○会」がある。

 以上の共通点を分析すると、多くは清和天皇(平安前期の天皇で、文徳天皇の第4皇子。水尾帝ともいわれ、即位した時が七歳で、幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。三十歳の若さで崩御。850〜880)に起因している事が分かる。あるいは清和源氏を標榜し、あるいは村上天皇(平安中期の第六十二代の天皇で、醍醐天皇の第14皇子。在位が946〜967年。後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」あり。926〜967)の子孫から出た村上源氏を標榜している。
 更にこれ等が、新羅三郎源義光(平安後期の武将で、清和源氏の流れを組むという。1045〜1127)、後に甲斐武田を経由して、武田家滅亡後、そこから秘伝としてある特定の人に伝わり、伝承しているという説である。

 しかし、ここで重要視しなければならないことは、平将門を武士発祥の中心人物と考え、これに第五十六代の清和天皇と第六十二代の村上天皇を考えた場合、武士が武芸の専門家として職能民化されるのは鎌倉時代になってからであり、これが平安末期にその兆候が顕れたとしても、まだ数十年から百年も後の事である。

 更に、平将門を平安中期の武将としてここに起点におき、考えを進展させると、清和天皇朝時代(清和天皇在位は858年から876年まで十八年間)は、これよりも六十年程前であり、この時代は、まだ武技や武芸なるものは一切存在しなかった事が分かる。それは武士団が専業者として存在していないからであり、この時代の武士は、季節労働者的な半農半兵であったからだ。

 平安時代は、桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立まで約四百年間を指す。政権の中心が平安京すなわち京都にあった時代を指すのである。この時代区分は、初期・中期・後期の三期に分かれ、初期を律令制再興期(律令国家が形骸化した後も官制などは京都の朝廷に存続)とし、中期を摂関期(日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、平安初期の清和天皇は幼少のため、外戚の藤原良房が任ぜられて後は、藤原氏が専ら就任した)とし、後期を院政期(上皇が院政を行なった時代で、白河・鳥羽院政期、後白河・後鳥羽院政期、後高倉から後宇多までの三期に大別することができる)または平氏政権期に分けることができる。こうして考えて来ると、少なくとも武士が武芸をもって、職能民化するのは、平氏政権期から兆候が見え始めたことは容易に想像が付こう。

 したがって平安初期の清和天皇や、平安中期の村上天皇に流派伝説の起源を求めることは、非常に不自然になって来る。
 では何故、清和天皇や村上天皇に流派伝説の起源を求めるのか。
 それは、まさしく「皇胤」こういん/天皇の血統をいい、皇裔(こうえい)ともいう)への誘導であろう。

 清和源氏の流れを見れば、天皇の皇子貞固・貞保・貞元・貞純・貞数・貞真の六人の親王に賜(たまわ)ったが、第六皇子の貞純親王の子と称する源経基(平安中期の貴族で武人。はじめ経基王と称し、のち六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。「平将門の乱」にその謀反を奏し、のち小野好古(おおのよしふる)に従って藤原純友を滅ぼした。生年不詳 〜961)や、孫の満仲は鎮守府(古代、蝦夷(えぞ)を鎮撫するために陸奥国(むつのくに)に置かれた官庁)将軍に、その子孫の頼朝は征夷大将軍に任ぜられているということが分かる。つまり皇胤の血統がものを言っているのである。

 こうして考えていくと、武士としての重要な条件は、その元を糺(ただ)せば、源姓や平姓を持ち清和源氏や村上源氏、あるいは桓武平氏を名乗り、比較的に近い先祖が皇胤に繋(つな)がると言う事が、また一方で、貴族社会の仲間入りをする事実を作り上げていた。
 ここに武士団の首領が貴種性を主張し、権威を重んじ、天皇と血族関係にあり、こうした事が重視され、周囲がそれを信頼し、「都の武者」として、源姓や平姓の威厳が保たれたと言えよう。したがって「清和源氏」「村上源氏」あるいは「桓武平氏」などの名称を用いることは、武士の格を引き上げる必要条件であった。日本人の思考は、天皇に拠(よ)り所を求める考え方が根強いのである。

 そしてこの貴種性は、都に於てだけではなく、地方にあっても、なおこれが尊ばれ、平将門は貴種性と地方豪族としての伝統的勢力との結合によって、私営田領主の支配を行い、また地方豪族の一大勢力として成功した第一人者と言える。

 その後の土着した中央貴族の子孫は、大なかれ少なかれ、父系における貴種性と、母系における在地性とをもって、これを在地支配の上に活用したのである。そして、これが在地小武士団の組織を統合する原理となった。将門より一世紀遅れて登場する豪族的武士は、この貴種性を持つ武士団であった。

 以上を整理すれば、大東流に限らず、流派伝説は意図的な皇胤誘導に辿り着く。天皇の血族として、その血を曳いていると言う事が政治的にも、軍事的にも必要不可欠であったと思われる。その為に、清和天皇やその親王達が登場する。また、村上天皇が登場し、清和源氏や村上源氏が登場する。更にこれ等の流れを受け継いだ、新羅三郎源義光や、義光が女郎蜘蛛の態(さま)を見て、武術に没頭とした「大東の館」が必要になって来る。
 そして次に、甲斐武田家伝説が必要になって来る。

 では何故、武田家伝説が必要になって来るのか。
 これは武田家が伝承したとされる、「甲州流軍法」に拠(よ)り所を求めようとしている事である。
 甲州流は、江戸初期に小幡勘兵衛景憲(かげのり)によって説かれた軍法・軍学の一派である。武田信玄や山本勘助の兵法を祖述したものと言われている。この流派は別名「武田流」とか「信玄流」と謂(い)われた。

 この歴史的な流れを観(み)て行くと、これに太子流が少なからず、関わっている事が分かる。
 そして出来上がった後世の仮託が、その皇胤を求めて「清和天皇」「天皇の六人の親王」「清和源氏」「新羅三郎源義光」「甲斐武田家」「会津藩上級武士の軍要・太子流軍法」という図式が描かれたことが浮かび上がって来る。
 そして大東流を考えた場合、大東流は幕末から明治に掛けて創作された「太子流の写し」である可能性が高い。

 結論から言えば、大東流は会津藩家老・西郷頼母のよってその流名が名付けられ、幕末から明治に掛けて創作された「新興武術」である可能性が強い。また太子流の流統や体系と、非常に酷似し、太子流の清和天皇第四皇子貞元親王と、大東流の清和天皇第六皇子貞純親王は、皇子同士の「第四皇子と第六皇子」の兄弟関係を、そそまま武芸に移行した後世の仮託が見て取れ、大東流柔術は「太子流軍法の写し」である可能性が非常に高いからだ。
 あるいは歴史の偶然の一致だろうか。

 大東流は明治末期、西郷頼母の命名後、武田惣角から大東流を学んだ人々によって、戦前・戦中の大正から昭和の初期に掛けて、多くのダミーが作られた。本来ならば巻物を書き記さないのが秘密情報を秘密として保つ唯一の方法であるにも関わらず、幻の武芸として、多くの巻物が作られ、またそれが一般に公開されていった。

 この巻物は武田惣角が代書人に依頼したものや、教授代理を得た人達によって創作されたものであり、当時惣角の講習会に同行していた八光流柔術(当時は紳士道と称した)の創始者・奥山龍峰(おくやまりゅうほう)や、生長の家(大本教より分派した宗教教団で、信者には八光流や植芝合気道の人が多い。【註】大本教は正しくは「大本」)初代総裁・谷口雅春(たにぐちまさはる)らが、『英名録』などの代書に当たったもので、他にも達筆の代書人(代書を職業とする某氏)らで次々に代書されたダミーが作られていった。

 また、大東流より出たとする八光流柔術は、初代奥山龍峰(吉治)師が宗家であり、大東流を武田惣角の門人・松田敏美豊作に学び、のち旭川などを巡回指導していた武田惣角の代書を手伝いながら講習会の巡回を蹤(つ)いて廻った。その後、旭川市二条通に大日本士道会竜武館を創設し、流名を「大東流士道」とした。
 更に東京に出て、神田お玉ヶ池に八光流講武塾を構え、この時に「八光流」を名乗り、独自の指導法を創始した。また、昭和十三年頃、「大日本士道会」を創設している。現在、大宮市に二代目・奥山龍峰が八光塾本部を構えている。

 また植芝盛平の戦前の呼称であった「武産(たけすむ)合気道」は、植芝盛平が「常盛」と名乗っていた頃の合気道で、植芝流合気道と称する以前の旧称であった。これは武田惣角の大東流と一線を画する試みが見て取れる。

 今日に見られる、『大東流合気杖術秘伝』『大東流合気槍術秘伝』『大東流合気太刀秘伝』『大東流合気二刀秘伝』等の巻物は、植芝盛平が惣角から去った後の戦中に作られた、惣角自身の直心影流を母体にした武術観が記されたもので、西郷頼母の小野派一刀流を研究した「忠也(ちゅうや)派」や溝口派一刀流、それに太子流兵法【註】正しくは「聖徳太子流」といい、「軍法」として名高い)の軍法・軍学が欠落している。
 この太子流は、軍法の他に、剣・薙刀・長太刀・入身を得意とし、その祖は、望月相模守定朝と言われているが定かでない。相模守定朝はなぞの多い人物で、一説には甚八郎重氏(じんぱちろうしげうじ)ともいわれる。

 相模守定朝は伝説によれば、清和天皇第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊の裔孫(えいそん)で、信州望月の人で布尾山城主で六万石の大名であったと言われる。
 望月相模守定朝は、夢の中で聖徳太子を見た。そして聖徳太子の軍要をこの夢の中で悟り、奥旨・奥儀を得たとされている。

 本来、聖徳太子は内外の学問に通じ、深く仏教に帰依た人物として広く知られている。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽し、多くの寺院を建立、「三経義疏(さんぎようぎしよ)」を著すと伝えられている。そして、その他に軍法にも卓(すぐ)ぐれた一面をもっていて、『上宮聖徳法王帝説』にはその一部が記されている。

 相模守定朝はこうした事を、夢の中で聖徳太子に教えられ、太子の「太子」から「太子流」と名乗ったとされる。後に、相模守定朝は太子流をもって甲斐武田家に仕え、屡々(しばしば)奇襲戦法などを用いて軍功を立てたと言われる。
 また、相模守定朝は楠木正成の軍略の流れを受けると言う。
 楠木正成(1294〜1336)は「楠木流軍学」の宗家であり、千早城攻防戦は楠木流の軍法の采配するところが多い。

 楠木正成は、南北朝時代の武将で、河内の土豪であった。1331年(元弘元年)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城に籠(こも)って幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。大阪府南河内郡千早赤阪村の金剛山の中腹にあった千早城は、坂路極めて険峻(けんしゅん)であり、守るに易く攻めるに難なる城であった。この地の利を、能く知り抜き、縦横に駆使したのが楠木正成であった。
 1333年(元弘三年)楠木正成は千早城に籠城(ろうじょう)した。そして多勢に無勢の北条氏の軍を防いだのであった。しかし1392年(明徳三年)楠木正勝の時に落城する。

 後に楠木正成は、九州から東上した足利尊氏の軍と戦い、湊川(みなとがわ)で敗死した。後世、正成は「大楠公(だいなんこう)」と言われるようになった。こうした大楠公の道統を、相模守定朝は継ぐと言うのである。そして相模守定朝は、長篠(ながしの)の合戦(1575年(天正三年)織田信長と徳川家康の連合軍が、新兵器の鉄砲を使用して武田勝頼を破った激戦。これにより武田家は滅亡に向かう)によって、天正三年五月二十一日に戦死したと言う。

 相模守定朝の、聖徳太子を夢見て悟りを開いたこの流派を「太子流」あるいは「聖徳太子流」といい、武田家滅亡後、太子流は会津藩や仙台藩が、後にこの流儀を起用する事になる。
 この流派の事は『日本武術諸流集』にも記されており、尾州の人で、江戸神田に棲(す)んでいた小山流の達人・飯坂庄兵衛にも伝授された。また飯坂庄兵衛の門人・御小人(こびと)黒田七三郎にも伝授され、後に黒田は仙台藩にもこれを伝えた。また明治初期に至っては、北原竜久が軍学者として有名であった。

 太子流の戦闘思想の中には、多勢に無勢の大集団の軍を、軍法によって敗る秘策が存在しているというのである。この思想は、大東流の『多数捕り』や『多敵之位』の戦法に相通じるものがある。大東流は、太子流の軍法体系が模索され、充分に加味されていると言う事が推測される。
 そして、大東流伝説の「清和天皇第六皇子貞純親王」の流祖なる説までも、非常に似通った歴史観を持っている。太子流が「清和天皇第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊からはじまり、……云々」と、挙げるところなどは極めて酷似する内容である。

 以上二つを、歴史的に観(み)て行くと、「清和天皇」と言う皇胤(こういん)を誘導しようとする痕跡の跡が見られる。そして伝説は、皇胤に結び付ける事により、その素性を天皇の血統、または、その血統の流れとして、皇裔(こうえい)がそれを受け継いでいるとする意図的な働きが背後に浮かび上がって来る。

 したがって、大東流の「清和天皇第六皇子貞純親王の流祖説」ならびに「新羅三郎源義光の大東の館伝説」は、皇胤への意図的な誘導があるものと思われる。しかし、断っておくが、流派の歴史観と、卓(すぐ)れた高級技法は別問題であり、技が卓れている事と、歴史を古く見せ掛け、皇胤に繋がるとする流派の意図的な誘導は、決して同じものではない。
 技法が卓れている事はそれだけ「洗練されている」ということであり、洗練は歴史を経なければ洗練されることはない。古い流派ほど、技法が原始的で、これが古くから伝承されたのであれば、その「原始的技法」が存在していなければならない。
 ところが大東流は、近代でも稀(まれ)な、極めて洗練された技法を有しているのである。この事は、非常に時代が新しいということを示している。

 そして「清和天皇起源説」を考えると、清和天皇の二人の親王が、一方に大東流を作り、また、もう一方に太子流を作り、十六世紀の戦国時代、甲斐武田家を経由して、しかもそれを伝承した武家集団の中では、会津藩だけだったとするこの偶然は、果たして武家の歴史の結果から「偶然の一致」で、そうなったのか、あるいは意図的に誘導して、「会津藩だけが、両方の卓れた流儀を引き継いだ」と考えるのは如何なものか。

 あるいは会津藩だけが、皇胤的にも軍法的にも、同じ天皇の、二人の親王の血の流れを曳(ひ)いたものだとする二つの偶然は、何とも奇妙で、いまなお疑問の残るところである。
 推察すれば、これらが明治後期から昭和初期の近代に、後世の何者かによって創り出された仮託である事は、まず間違いなかろう。

 まず事実としては、会津藩には御留流と言う武技は存在したが、これが大東流であったか否かは判定が難しい。そしてもう一つは、太子流は実際の会津藩に存在し、軍法として上級武士に学ばれ、会津藩祖以来、これが伝承して来たと考えられるが、太子流の歴史は、望月相模守定朝に或ると思われるが、太子流が会津に伝わったのは、藩祖・保科正之ほしなまさゆき/江戸前期の大名で、会津23万石の藩祖。徳川秀忠の庶子で保科氏の養子なる。1611〜1672)以降の事であり、太子流に「浦野派」「中林派」があることから、この二つの流派が存在した、約百年前から会津に流れたものと推測される。

 太子流浦野派はその流統が、会津藩士・浦野喜右衛門直勝によって興(おこ)されている。
 直勝は最初は流右衛門と名乗り、当時存在した太子流の望月新兵衛安勝の高弟であった中林弥三左衛門尚堅に、太子流中林派を学んだ。しかし直勝は僅か三十三歳の若さで、宝暦八年(1759)十一月八日に死亡している。
 宝暦年間と言えば、江戸中期頃で、西暦では1751年10月27日〜1764年6月 2日を指す。天皇朝で言えば、第百十六代・桃園天皇(1741〜1762)から第百十七代・後桜町天皇(1740〜1813)の頃である。

 また、直勝が死亡した宝暦八〜九年にかけて、江戸幕府が尊王論者の竹内式部敬持たけのうちしきぶたかもち/江戸中期の神学者。垂加流軍法の祖であり、橘家神軍伝や太子流軍要にも通じ、尊王思想を説き、幕府の忌諱に触れて重追放。世に言う「宝暦事件」である。更に明和事件に連座し、八丈島に流される途中三宅島で没した。1712〜1767)を処罰した事件が起り、世の中が騒然となった頃である。

 式部敬持は尊王論の大義名分を掲げ、一方、山崎闇斎やまざきあんざい/江戸前期の儒学者で、土佐朱子学(南学)の谷時中(たにじゅちゅう)に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。後に吉川惟足(これたり)に神道を修め、垂加(すいか)神道を興した。1618〜1682)の橘家神軍伝を学び、太子流軍要にも、また橘家神軍伝にも通じていた。そして明和事件にも深く関わっていた。
 明和三年十二月、式部敬持は山県大弐(やまがただいに)や藤井右門らと尊王論を説き、これに対して幕府は彼等を弾圧した。この弾圧により、三十余人が処刑されたとある。

 垂加流軍法は竹内式部敬持を流祖とし、正木正英より、垂加流神道を学び、堂上家(二条家歌学の流派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ堂上家の系統)でこれを講じた。
 式部敬持は武技に長じ、扇子で弾丸払いを行い、あるいは飛んで来る矢を掴み捕ると言った秘術を持っていたと言うが、荒誕こうたん/「誕」は、いつわりの意で、「荒唐」とも)の観が強い。
 式部敬持は後に、京都宇治に引退するも、山県大弐の事件に連座して八丈島に流されるが、その船中病気になって三宅島で、明和四年(1768)十二月五日、五十六歳で没した。

 浦野直勝が生きた時代は、こうした時代であり、江戸中期は全般的に見て平穏な時代であったが、また軍学や軍法を学ぶ者は、幕府から目をつけられた時代でもあった。
 太子流浦野派は、その祖を浦野直勝とし、剣術と軍法を得意として浦野伊左衛門直景浦野喜右衛門直元浦野喜右衛門直景浦野喜左衛門村武と伝承された。

 一方、浦野直景の師匠筋に当る太子流中林派は、会津藩士・中林弥三左衛門尚堅を祖とする流派である。
 弥三左衛門尚堅は、最初、望月新兵衛安勝に安光流を学んだ。安光流の正称は、太子伝安光流といい、流祖は会津藩士・望月新兵衛安勝で、望月三清入道優婆塞(うばそく)安光の子として生まれた。父から太子流軍要ならびに太子流剣術を学び、父の名にちなんで安光流を名乗った。新兵衛安勝は七十六歳で、享保三年(1718)閏三月二十五日に死亡している。

 中林弥三左衛門尚堅は安光流の他に、小荒田吉兵衛に心清流剣術を学んだ。
 心清流は小荒田吉兵衛時定を流祖とし、時定は福島近郊に棲(す)んでいた武芸者であった。門人の中林弥三左衛門尚堅が元禄二年、会津藩剣術師範となってからは、心清流と太子流を併伝させ、太子流の剣術流派として有名を馳せた。

 弥三左衛門尚堅は後に太子流中林派を確立させ、太子流軍法を伝承し、この門からは多くの門人を排出した。享保十六年(1731)二月二十一日、七十四歳で生涯を閉じている。
 享保年間と言えば、第百十四代・中御門天皇(1701〜1737)から第百十五代・桜町天皇の頃であり、「享保の改革」や「享保の飢饉」(1732)の頃であり、徳川第八代将軍吉宗(1684〜1751)がその治世(1716〜1745)を行って居た頃であった。

 会津藩において太子流が研究され始めたのは、江戸中期頃と推測される。
 太子流は望月相模守定朝を流祖とするが、一説には甚八郎重氏ともある。
 会津藩では中林派と浦野派が二つに分かれて広く行われていたが、文化八年(1812)三月に丸山左平治胤征(たねまさ)が両派を合わせ一流に戻した。時代は江戸後期に掛かった頃で、文化文政時代を目近に控えていた。徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の治下で、町人芸術が爛熟(らんじゅく)の極に達した頃で、世は文化・文政年間を中心とした時代である。

 会津藩では、江戸中期頃に、太子流が軍法並びに剣術として伝承されたことは事実であるが、太子流軍法はまた、会津藩では、軍法を講ずる為、上級武士がこれを学んだとされている。当然、御留流(おとめりゅう)として、その奥儀は門外不出として一子相伝(いっしそうでん)の形が取られたに違いない。
 そして幕末、公武合体政策で、会津藩は公武合体に尽力し、藩主・松平容保は京都守護職となり、尊攘派を弾圧する。しかし容保は、鳥羽伏見の戦に敗れ、東帰、後に征東軍に抗したが降伏し、その後、鳥取藩などに幽せられる運命を辿った。

 一方、西郷頼母は、会津木本派軍法を高津久左衛門忠懿(ただよし)に学び、剣は溝口派一刀流を学んだ。
 会津木本派軍法は祖が、会津藩士の木本九郎左衛門成理で、岡田甚右衛門正勝に長沼流を学び、享保二十年に免許を得た。九郎左衛門成理は明和八年、七十四歳で死去している。
 会津木本派軍法は長沼流木本派ともいわれ、また師匠筋に当る岡田甚右衛門正勝は同じ会津藩の室田金左衛門政良にも宝暦十年に免許を許し、岡田甚右衛門正勝は長沼流室田派を興している。

 室田金左衛門政良は元々幕臣で、書院番与力であったが、長沼流室田派軍法を会津に行って教えた。金左衛門政良は初め杉島甚兵衛氏成に学び、後に岡田甚右衛門正勝を請うた。
 長沼流室田派からは、金左衛門政良を祖として、室田主税政映江口新兵衛常好福王寺伴六繁勝桜井弥一右衛門政思らの門人が出た。

 一方、長沼流木本派からは、九郎左衛門成理を祖として、黒河内十太夫成揮篠沢仁右衛門秀雅丹波織之丞能教片峰四郎左衛門勝興高津久左衛門忠懿西郷頼母近悳と続いた。そして間接的には、西郷頼母も、太子流と関わり合いを持っている。
 以上の一連の流れを観て行くと、会津藩には太子流軍法と関わった形跡が強く、その伝承や、清和天皇の各親王(太子流は第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊。大東流は清和天皇第六皇子貞純親王)から伝わったとする点もよく似ている。

 伝説によれば太子流は第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊からはじまるとされ、大東流は清和天皇第六皇子貞純親王を流祖に立て、両流派は非常に似通っており、清和源氏の流れを意図的に誘導しているように思える。そして大東流の流祖伝説は、太子流をそのまま映した意図的な構図ともとれる。

 元々、武田惣角は自らの惣角流に、榊原鍵吉の直心影流を加え、これに柔術、合気術、棒術、捕手を加えて惣角流合気術あるいは惣角流柔術を名乗っていた。ところが、西郷頼母の指示に従い、一方で大東流柔術を名乗った。
 武田惣角は字学のない人であった為、頼母は騒客の為に伝書の形式的な原本を作成してやり、惣角が以降、剣を捨てて、柔術で自立出来るように武田家伝説とともに、清和源氏の伝説を付け加え、次のように認(したた)めた。

 「大東流は代々源家古伝の武芸として伝わり、新羅三郎源義光に至って、一段と技に工夫が凝らされた。新羅三郎義光は、戦死した兵卒の死体を解剖して、人格の骨格と経穴と謂(いわ)れる医術の研究をした上、女郎蜘蛛(じょろうぐも)が獲物を雁字(がんじ)絡めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた」という、清和源氏伝説を付け加えたのだった。
 そして、特に注目していただきたい箇所は、戦死した兵卒の死体を解剖して、人格の骨格と経穴と謂(いわ)れる医術の研究をした上の一節である。そして、多くの新羅三郎義光の「大東の館」支持者は、大東の館で兵卒の戦死体が解剖され、ここに大東流の柔術の基礎が、医術的に研究されたと信じているが、日本で最初に人体解剖を行ったのは、江戸時代中期に入ってからである。それよりも、千年前の昔に、人体解剖が行われたというのは、明らかに後世の仮託である。

 日本で初めて、解剖の許可が許されたのは江戸時代の中期である。当時の元号で言えば、宝暦四年(1754)であり、歴史的に見れば近世になってからの事である。
 では、なぜ解剖が禁じられて来たのか。それは大宝元年(701)刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らが編纂した法律の「大宝律令」による。
  大宝律令は日本の法律の「もとじめ」である。その中に、「人間の解剖は行ってはならない」とある。以来、江戸時代の半ばまで約千年以上、解剖はしてはならない事であった。つまり、ずっと禁じられて来たのである。

 江戸時代半ばになって、日本で初めて人体を解剖したのは、山脇東洋やまわきとうよう/江戸中期の医家で解剖医学の先駆者。刑死体を解剖し、その結果を「蔵志」に記述し、旧説の誤謬を指摘した。日本で医学的に腑分けをした最初の解剖学者であった。1705〜1762)と言う医師であった。この時、解剖された者の名前は、屈嘉(くつか)という名前が残っているが、この者のは打ち首になった死刑囚だった。

▲オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の扉絵

▲解体新書。4年間の苦労を重ねて、翻訳された日本で最初の西洋医学の翻訳書。

▲解剖する図の『ふわけ』

 そして解剖は、これより遅れて杉田玄白すぎたげんぱく/江戸中期の蘭医。1733〜1817)がオランダの解剖医学書『ターヘル・アナトミア』を手本として、人体解剖の様子を翻訳する事になる。有名な『解体新書』は、この時に翻訳本として発表されたものである。また、日本ではこれ以前に体系的な人体解剖を行ったとする痕跡は一切ない。それは、「大宝律令」で、人体の解剖が禁止されていたからである。況して、戦死体解剖など以ての外であったからである。

 さて、頼母により作られた謄本を元に、惣角は頼母の言を墨守(ぼくしゅ)し、会津藩出身の名を辱(はずかし)めない為に、最初は大東流柔術本部長を名乗り、後年に大東流合気柔術総本部長を名乗った。そして惣角は、生涯を通じて、宗家とか、家元とか、第何代目あるいは第何世などの名称は一度も名乗らなかった。しかし武田惣角は、武田国次(国継)の末孫とされ、会津御池の御伊勢の宮の屋敷で生まれたとされている。

 また惣角は文盲であったので、新聞を読んだり、書かれた文字に何が記されてあるか理解できない人であり、しかしその記憶力は抜群で、それに頼り、近年に代書された巻物が作られたのである。その時、合わせて捺印された印鑑が「宗武」の印であった。そして惣角流並びに大東流合気武道なる流派は、剣を直心影流の「表の型」に寄せているようである。

 これを考えれば、惣角の大東流は西郷頼母の大東流と業を異にして、一人歩きし始めた事が分かる。西郷派大東流はこの異なる事を踏まえて「西郷派」と名乗る所以であり、剣術その他の激剣斬殺に於て、その方法論が異なるのは当然といえよう。

 更に、「新羅三郎源義光」の伝説に端を発すれば、合気・柔・杖・鉄扇を得意とする「武田流合気」も、新羅三郎義光をその祖としている。そしてここにも、やはり清和源氏を挙げ、皇胤の誘導が見隠れする。
 「大東の館」や「大東久之助」も、清和源氏の流れの誘導に繋がり、その先には正しい歴史観とは別に、天皇の血筋と言う皇胤の流れを意識する意図があるようだ。


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東京支新宿部長・
椎名和生
 
大東流柔術/腕掛胡座
習志野綱武館長・
岡谷信彦
History
   
    
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