ストーカー対策 2



●問題は、外にあるのではなく、あなた自身の心の裡にある

 一般にストーカーは、外に派生する事件や問題として片付けられています。しかしストーカー被害は果たして「外で起こった問題」でなのでしょうか。
 あなたの裡側(うちがわ)に「害される想念」があればこうした事件は派生します。

 「恐れるものは皆来る」という恐怖心が巻き起こす、「恐怖想念」と言うものがあります。心の中で「怖い!」と思った瞬間に、それはあなたを襲うのです。

 例えば、心の中の潜在意識に「石に躓(つまず)いて転ぶのではないか」という想念あったとします。こうした想念を抱き、これが心の中の潜在意識の片隅にしまわれたとすれば、これは直ちに具現化されてしまうのです。

 実際に「石に躓いて転んだ」という現象が起こり、これによって怪我をしたとします。あなたはこれをどう解釈するでしょうか。
 この場合、必ず三つの種類の「どれかの想念」に該当するはずです。

 その第一は、「転んで怪我をしたのは不運だった」と思い返すだけの、物理的な結果論として片付けてしまう解釈です。

 その第二は、「いつか転ぶのではないか」という恐れが齎したとする解釈です。

 その第三は、過去において「転んだ経験」をもっていて、それが現象に具現されてしまったとする解釈です。

 さて、これを順に説明していきましょう。
 「第一の解釈」は、単なる「運・不運」の問題で片付けてしまうのですが、実際に運・不運という現象は、想念とは無関係に起こるのではなく、これらも自分の想念が生み出した非独立の現象・事象として考えねばなりません。全く無関係で、想念に関係なく、偶発的に起こる事件というものは一件もないのです。
 その意味で、「第二の解釈」は的中と言えます。「恐れるものは皆来る」の法則が働くからです。

 現象界に生起する事象、あるいは現象の中で、自己の思い抱く想念とは全く無関係に、偶発的に起こる事件というのは、未だかつて一件も起こったかとがなく、またこれからも絶対に起こり得ない事です。
 本来ならば、「偶然」あるいは「運・不運」という概念は、生起した事件と、その原因となった想念が、無関係に非独立の現象として起こる事は絶対にないのです。

 多くは「いつか害されるのではないか……?」という疑念と、恐怖心が招いたもので、こうした原因想念が自分自身の中に存在していれば、やがてはこれを介して現実に具現化されてしまうのです。
 更に「第三の解釈」も同じく、過去に転んだ経験を持ち、その経験の記憶によって、ふと前にある石を見た途端に「危ないのでは……?」と思った瞬間に、これは直ちに具現化され、現象として「現在」に現れてしまうのです。

 ストーカー被害者の多くの体験談から検討しますと、被害者の全員が「自分は何者かによって害されるのではないか……?」という、「自分が害される」という想念を持っていたことが共通事項としてあげられます。
 この場合、自分自身の裡側にある心の潜在意識は、「自分が害される」ということを積極的に望んだ形になるので、「自分が害されること」を常に印象した結果、「想念通りの事象が現れる」という法則を導き出しているに過ぎないのです。

 これがストーカーに遭う根本原因であり、「自分が害される事象」が、単に実現化されたという事によるものです。

 総ての事象は「想念」によって呼び込まれます。想念が呼ばないものは何一つとしてありません。襲われて、殺される?のではと想ってしまえば、これはやはり具現されますので、本当に殺されてしまいます。被害者の心理には、こうした想念が常に働き、これは次の展開として、無惨な結果に至ってしまうのです。

 絶対に理解していなければならない事は、ストーカー行為という現象は、実は肉の眼で見て、外に存在するように映るのですが、これは自分自身の心の中にある想念の仕業であり、総ては想念が導きだした結果から起こっているのです。そうした想念に上手く同調させて、ストーカーは次々に狂った愛情を注ぎかけ、これに乗じてその行為を楽しんでいるだけなのです。

 したがってこうした「自分が害されるのでないか?」という想念を、まず完全に消去しておかなければならないのです。
 多くのストーカー被害者は、自分の外にばかり眼を向けて、「自分の裡側」に全く眼を向けていない事実が窺われます。敵は外から害すると思い込んでいるばかりでいて、ちっとも自分の裡側にある「害される想念」を消去させていません。

 本来、私たちの生存するこの地上において、私たちを害するものは全く存在しないのに、この事実を知覚せず、他人や多物を、自分とは無関係な全く別のものとして考え、然(しか)もそれらが、盲目的に勝手に運動し、衝突しあっているという、全くあべこべな誤った考え方を抱くところから、こうした被害が続出しているのです。

 自分に対し、「他から害される事を望む」想念されなければ、絶対に害される事象は出現しないのですから、この事だけに注意を払っておれば、恐れるものは何一つないのです。
 敵は、あなたの外に居るのではなく、あなたの裡側に「害されるのではないか?」という盲目的な「こだわり」です。これが実は、あなた自身を恐怖に駆り立てている元凶なのです。



●なぜストーカーに狙われるのか


後ろからホルマリンの液を含ませたハンカチを口に当てられたら、あなたはどうしますか。

 ストーカーに狙われる場合、まず男性より、女性の方が圧倒的に多いようです。では何故、女性はストーカーに狙われるのでしょうか。

 それはストーカーの狙った、男としての視線が、実は女性の眼に届き、女性が意識的あるいは無意識的にかかわらず、ストーカーの眼を、何かのはずみに見てしまった場合に起こります。これは「蛇に睨まれたカエル現象」を作り出します。

 何時か何処かで、ストーカーの眼を見てしまうと、これが意識的・無意識的にかかわらず、眼が合った場合、そこからストーキングが始まります。実際に眼を見た意識がなくても、既に相手側から「見られた」というストーカーへの意思の現われが伝播されれば、ストーカー自身をストーキングへと駆り立てる要因を作ったことになります。彼等の狂った愛情はここから寄生を始めます。

 何時か何処かで、眼を見た途端に、一目惚れならぬバーチャル恋愛が始まり、それがやがてはストーカーをエスカレートさせていく結果を招きます。

 では、眼を見る。あるいは眼と眼が合った。視線が合ったとは、一体どう言うことなのでしょうか。
 これはプロ力士同士が対決する、大相撲で説明するとハッキリします。

 力士は仕切(しきり)をする時、よほど気の強い人でない限り、相手の眼を見ないそうです。相手の貌(かお)を睨(にら)み付けているようなふりをしながら、実は相手の土俵に映っている、その影を見ていると言うのです。
 これは鋭い視線に対して、射(い)すくめられないように、また、逆に穏やかな顔付きの相手に拍子抜けしない為に、それを防ぐ方法として、土俵に映っている相手の影を見ていると言うのです。

 武術の経験者は、その経験を豊富にすればする程、「人間の眼は、実に怕(こわ)いものだ」と感じるようになります。
 よく、人と話をする時は「誠意の証(あかし)として、相手の眼をよく見て話しなさい」等と、学校の先生や親が安易に言いますが、これは実は間違いなのです。眼は「心の窓」といいます。心の窓を覗く事のできる人は、人格者に限り許されます。
 凶暴な人、好戦的な人、争い事を好む人、勝負に欠けて奔走する人の眼は絶対に覗いてはなりません。彼等の多くは、闘争本能を司る、かつての「爬虫類脳のR領域」で物事を考え、「縄張り争いする」「格闘する事を好む」といった前葉体の未発達から起こる意識で思考を繰り返しますから、眼を見る事は即「不吉」に繋(つな)がります。
 「相手の眼を見なさい」とは、人生の表皮だけを見て、教育者や道徳家のような人以外には全く接触した事の無い、人生経験未発達な人の言う事です。
 安易に、こうした習慣に染まってしまった人は、不思議にもストーカーとして狙われる対象者になっていることが、実に多いのです。

 「眼は口ほどに物を言う」という諺(ことあざ)があります。
 それは一々口に出して言わなくても、目付きで気持ちを相手に伝える事が出来るから、眼は時として、口以上に物を言う喩(たと)えです。
 それと似た、欧米の諌言に、love undestands love,need not talk.というのはあります。つまり「恋は、恋を知る。語ることは必要としない」という意味です。

 特に後者は、欧米的な諌言であり、ある意味で強引と取れます。それはもし、相手の女性が「近眼」だったら、どうなるのでしょうか。あるいはメガネやコンタクトレンズを忘れてしまって、遠くのものがよく見えないとしたらどうでしょうか。近視で、確かに相手の男性を見ているのですが、しかしそれは見ているのではなく、その方向を見ていると言ったらどうなるのでしょうか。

 こうした勘違い的な、視線の投げ方は、日常でもよく起こります。実際は近視で、相手の方を向いているのですが、肉眼では見えていない。あるいは近視でなくても、たまたま視線を向けた先に相手が居たなどは、実際に、相手の方向を見たのですが、それは相手の眼を見るまでには至らなかった、また、眼は確かに視線を向けたが、それは無意識からだった。こうした場合に、大きな誤解が生まれます。

 武術家にして、「相手の眼は怕いから」と言って、相手の眼を見ず、視線の鉾先(ほこさき)を躱(かわ)します。しかし貌を反(そ)らすことは憚(はば)かられますから、実は眼を見ずに、相手の口や髭などを見て、眼を完全に、相手の視線から外しているのです。これは、よき教訓になるので、覚えておいても損はありません。

 敵を見据えることを、武術では「目付」と言い、西郷派大東流合気武術では「八方の目配(はっぽうのめくばり)」と言います。前を見つつ、細目(瞼を軽く閉じたような目)にして、左右の270°までをギリギリ一杯展望して、パノラマのような広角度で、敵前を見ますが、これは視野を狭めて相手の眼だけに、心を奪われないようにするための、古人の智慧(ちえ)を教訓としているものです。

 敵の眼を見て、「一瞬怕い」と思えば、相手如何にかかわらず、自分より実力が下でも、負けてしまいます。これが「蛇に睨まれたカエル現象」です。

 したがって武術の心得のある人は、絶対に相手の眼そのものを見ないのです。相手の眼を見ているようなふりをして、実は相手の顎を見たり、咽喉仏(のどぼとけ)を見たり、胸あたりを睨みつつ、八方に眼を趨(はし)らせ、相手の眼には絶対に意識を置かず、頭から足先までの全身を把握して、なおかつ、どのように行動するか、その行動半径までを、想像力を巧みにして、冷静な計算しているのです。

 顎(あご)や咽喉仏を見ている限りでは、射すくめられることはなく、しかし素人考えでは、これが眼を見ているように映ります。ここで素人は、相手の眼から視線を外さないのではと、安易に考えてしまうのです。
 ところが武術の心得のある人は、相手の眼を直視しない限り、怯(おび)えることもないし、殺気立って、荒々しい気持ちになることもない、という事を知っていますから、本当は相手の眼を見ているようで、相手の全身を捕えているということになります。眼だけを見ていたら、相手の動きを洞察することが出来ないからです。

 一方、喧嘩上手とか、喧嘩師という連中は、眼を見ることが発端で格闘を始めることが、よく知られています。
 ケンカの始まりは「喧嘩」(双方が「クチヘン」であることに注意)という言葉からも分かるように、眼を絡み付かせるだけ絡めつかせ、眼だけを四つに組んだような精神状態から、相手に対し、罵詈雑言(ばりぞうごん)を投げつけ、「口から始まる」から「喧嘩」というのであって、無言の儘(まま)のケンカというのは、まだ一度もお目にかかったことがありません。

 したがってケンカや傷害事件に巻き込まれない為には、絶対に相手の眼を見ないことです。
 武術家は長年の経験から、こうしたことを逸速(いちはや)く悟り、被害を最低限度に抑える智慧(ちえ)を身に付けているのです。そして人間は、心も、躰も、射すくめられて相手を意識し、圧倒されれば、堅くコワバッた状態になって、非常に脆(もろ)くなり、弱い存在になってしまうということを知っているからです。これが武術家の「人間洞察術」です。

 もし、あなたがストーカー被害者として、何者かに付け回され、毎晩、嫌がらせを受けているとしたら、実は、何時か何処かでストーカーとの、眼と眼がバッタリと合い、バーチャル恋愛が始まった考えなければなりません。あなたは全く記憶になくとも、相手側はちゃんとあなたのことを知っているのです。



●ストーキング行為とは

 一般にストーキング行為とは、女性を狙うストーカーのみではありません。
 ストーキングには様々なものがあり、最近では電話(無言電話が最も多く、次に時間の間隔をあけた「ワンギリ」電話、ファックス音発信電話などで、度々電話番号を変えても、執拗に追跡される)や電子メール(異常性欲を訴える性交をほのめかすような内容が激増している)やファックス(過激な性交を促すような内容が最も多く、次にラブレター的な内容の物)によるストーキングが挙げられますが、陰湿なストーキングは、何もこうしたものだけではありません。

 雑誌などに投稿して、相手の名誉毀損(めいよきそん)になることも承知の上で、これを平然と行う人間もいます。
 この種の陰湿なストーカーは、もともと心が狭いため、名誉毀損や嫌がらせをするという行為によって、敵対関係を作り出し、徹底的に誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)することで自己満足や優越感を得る手合いです。

 相手を徹底的に叩き、過去のちょっとしたスキャンダルや、誤解や誤文などを楯に、それを雑誌社に持ち込み、独断と偏見で傲慢(ごうまん)な意見を述べ、これを記事にして、この誹謗中傷が痛烈であれば痛烈であるほど、自己満足度が高まり、相手側に致命的なダメージを与えるということ生き甲斐にしている人種もいます。

 そしてこうした手合いは、何も軟弱な、精神分裂病スレスレの陰湿な弱虫男とは限らないのです。
 その意味で、少しでも態度を誤れば、誰もがストーカー擬(まが)いのことを平気で遣(や)る可能性があるのです。




●マイナーな『武道雑誌』に登場する著名な、自称「武道家」ほど、心が狭い

 「出る杭は打たれる」あるいは「出る釘は打たれる」という諺があります。
 世間には、優れて、抜きん出ている人、あるいは彗星(すいせい)の如く現われる人は、とかく憎まれるの、喩えがあるようです。

 また、差し出て振る舞う者は、他から憎まれて制裁される喩えが、この諺には含まれています。
 順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の人生など在り得ない。苦労なく、何事も計画通りに運びません。もし、こうした幸福の女神が微笑むような、得意絶頂期の悦に入っていたら、それこそ妬みの対象になるはずです。

 また「好事魔多し」とも言います。
 一時の順風満帆、あるいは善い事や、うまく行きそうな好事には『琵琶記』びわき/後漢期のその妻、趙五娘を主人公にした貞節の物語)にある通り、とかく邪魔が入りやすいもので、こうした状況下、他人からの中傷誹謗や羨望(せんぼう)が入り込んでくるものなのです。 半世紀以上、武術修行に打ち込んでいると、そのお陰で色々な種類の、武術家や武道家、格闘家やスポーツ選手を見る機会を得ることが出来ます。人間の見る目も肥えてきます。

 また武は、「礼に始まり礼に終わる」とも言われながらも、それを豪語する人ほど、意外と礼儀知らずであったり、強い嫉妬(しっと)の持ち主だったりすることが少なくありません。

 武術や武道の世界は、この世界だけが特別な世界ではなく、この領域は、俗人のそれと変わりなく、ありとあらゆる種類の人間が吹き溜まっていて、ドロドロとした穢(きた)なさすら感じられる羨望の世界です。
 一端(いっぱし)の武道家として、あるいは著名な武道家として名の通っている人が、実は非常に心が狭く、また嫉妬深い人で、他流他派を中傷誹謗したり、最もらしい理論を並べて、自己顕示欲を曝け出した自慢話をするのは、よく知られていることです。
大東流柔術の基本技・小手捻りをかけて暴力の手を封じる。

 そしてこういう心の狭い武道家が、一度嫉妬に狂うと、それが直接中傷に変わり、誹謗に変わります。

 その妬みの深さは、過去の歴史を引っ張り出したり、系統図を引っ張り出して、全く現在を相手にせず、過去に拘わる憎悪で、妨害し、マイナーな雑誌に投稿して、徹底的に詰るという見苦しさすらあります。まず、自分はどうなのか、という反省の気持ちすらありません。

 また、こう言う類(たぐい)の武道家が、弟子や会員の前では、「人の道」を説いたり「礼節謙譲」を論(あげるら)うのですから、全く、空いた口が塞がらないとは、このことです。

 現実に武術・武道界には、純粋な人間の求道精神の壮挙に対して、ありとあらゆる手法を用いて、背後や側面から横槍を入れ、その誹謗・中傷をもって、自分を大きく見せようとする類がいることは、実(まこと)に悲しむべき事実です。

 今日、日本には数社のマイナーな武道雑誌がありますが、特に試合のない古武術系で、演武形式の、著名な武道家の一人に祭り上げられている人で、師範として取り巻から傅(かしず)かれ、人格者のように思われている人が、実は、大変心の狭い人で、全く場違いな武道雑誌に、他流他派を中傷誹謗記事を載せているのを見ることがあります。

 内容の中心は、他流他派を過去を得意げに暴き、全く現在という「今」の次元を問題にしていない記事で埋め尽くされていることです。
 そして一方で、自分の自己顕示欲を満足させるお追従記事を、編集者に書かせているという、恥知らずな行為を憚らないという御人もいます。

 こうした手合いも、実はストーカーであることは間違いないのですが、残念な事に、彼等は自身がストーカーであるということに気付かず、逆に世の中をリードする人格者と思っているから、何とも始末の悪い限りです。こうした手合いの、ストーカーのストーキング行為というのは一種の病気であり、死ぬまで治らないものなのでしょう。
 この意味で、陰湿な青少年のストーカーよりもっと悪質と言えるのではないでしょうか。