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西郷派大東流と武士道

■ 武術進化論 ■
(ぶじゅつしんかろん)

●近代武術の進化

 古人の培った武術は、実戦を通じて、これまで試行錯誤が繰り返され、その技法体系や相伝内容を変化させつつ、進化を遂げてきた。

 それは単に実戦論においての武技的な進化だけではなく、精神的にも乱世の兵法が横行していた十六世紀に比べ、その人命尊重の意識と、武技に付随する精神面は、禅や密教的秘術を駆使して、比べようもなく進化した筈である。こうして進化を遂げた崇高な近代武術を、近年に至って、試合形式で格闘するという新手の新商売興行が始まった。

 この試合興行は人格や人間性に一切関係無く、その勝者を英雄とする考え方で出発しているが、その根底には乱世における白兵戦の死闘も模写した格闘が中心で、これを観客が観戦するという芝居形式になっている。

 しかしこうしたスポーツ格闘術興行の観戦は、一方において有害であり、その有害性は人命を軽視し、人間そのものを軽視した欠陥格闘術であり、金銭を得るという行為によって、今まで進化を遂げてきた近代武術を、十六世紀の戦国期の乱世の格闘技に逆戻りさせただけであった。これはまさに退化であった。

 現代人は商魂逞しい様々な仕掛人達によって、流行が仕掛けられファッションが目紛しく移り変わっていく。 

 またこうした流行に乗って、暴力マンガが一世を風靡し、またテレビゲームの格闘遊戯において、人間同士が抗争を繰り返す低次元の世界を模擬体験する現実が生まれたが、これは原水爆が開発され、大量殺戮が可能になったハイテク兵器が登場した今日において、こうしたゲーム感覚で戦闘を疑似体験し、あるいは格闘技の傍観者となって、人の命の遣り取りや、生き死にを観戦するという行為は、人間同士の憎しみや、妬みを増すだけであって、人類にとってこれほど有害なものはない。

 古人の知恵と叡智によって切り開かれた人殺し武技格闘、及び戦争行為は、日本においては、明治十年の「西南の役」を以て、一応終了している。
 以降、国内においては戦争は起こらず、また西南の役の一年前の明治九年(1876年)には武士階級に対して廃刀令が敷かれ、日本においては国を挙げての大きな戦争は一度も起こっていない。これはある意味で、「戦争が進化」した姿といえよう。

 こうした、戦争すら進化して、最後に戦争が無くなる「戦争進化論」は、当然、近代武術においても進化を遂げるべきはずで、これが未だに、空手と柔道はどちらが強いか……、防禦中心の合気道は空手に勝てるのか……、空手の華麗な蹴業はレスリングと対戦した場合、一旦脚を捕られれば役に立たないのでは……、空手よりグレーシー柔術の方が優れている……等の「武技強弱論」が、格闘技愛好者の中に囁かれている。

 また、かの武技は「先手必勝」を唱え、制空圏を展開し、また、かの武技は「後の先」「先の先」を唱えて、「先を捉える」ことが勝ちを収めると説く。しかし、こうした勝ちにこだわる低次元の話題は、まさに暴力マンガの世界であり、また、テレビゲームの遊戯を通じて格闘の疑似体験をする低次元の空想に過ぎないことを、現代人は特に認識する必要がある。

 日本人は欧米の文化様式を取り入れたことにより、欧米の民主主義に習った。
 民主主義とは基本的人権を謳った個人主義であり、その一方において、戦いを通じて強者が選出され、その強い者がリーダーとして群れを率いるというアングロサクソン的な弱肉強食理論が働く理論である。その弱肉強食理論の裏付けになっているのは、肉食の伝統が生み出した、弱い者は強い者に屈し、軍門に降るという意識である。

 こうした肉食文化は、一方において日本人の食生活に大きく関与し、古来からの日本人の食体系を乱した。その乱れから、慎みを忘れた青少年が今もなお増加の一途にあり、傲慢で、好戦的な人間を作り出した。これが「力は正義なり」の誤った考え方を作り出した。

 昨今の青少年の傍若無人な起居振る舞いは、一体何処から起こったのだろうか。日本中何処へ行っても、汚い若者の傍若無人の態度が目立つのは、どういう分けだろうか。
 そして彼等の喋っている日本語の貧弱さ。暴力的な言葉使い、一体何を目的に生きているのだろうか。

 電車に乗っても、街を歩いていても、コンビニエンストアの前を通っても、こうした類の若者がしゃがみこんだままの姿でたむろし、大声で騒いだり、インスタント・ラーメンをすすったり、弁当を食べて喰い散らかしたり、自分の出したゴミは片付ける事を知らず、自分達仲間内だけでへらへらと、毎日面白おかしく、その日暮らしを送っている。

 一体、あの秩序の無い、無規範な態度は何処から発するものであろうか。
 人間として抵抗力を持たない、人間ブロイラーとしての彼等は、一人では何も出来ないが、集団になると「乗り」で噛みつくあの傍若無人な傲慢な態度は、一体何処に由来するか。

 そのくせに、忍耐力も洞察力の思考力も薄っぺらで、運動不足とカルシウム不足で、脳の「我慢中枢」が冒されている。家庭では乳幼児期から過保護な母親に甘やかされて育ち、我が儘放題で十余年の生活を送り、何処までやってよいのか、何処までが悪いのか、それを自分で判断する事が出来ない。

 また、こうした子供の親に当たる四十代五十代の戦後世代も、我が子の躾を放任し、自然と、自然の有難さを教えないばかりか、自らも現実逃避を企てて、事あらばその隙を窺って、妻に内緒の不倫に走ったり、良人(おっと)に内緒の不倫に現(うつつ)を抜かしている。親子ともども、地球に生きる人間としての資格を既に喪失しているのである。

 子供は親のやる事を真似する生き物だ。大人のやる事を真似して非行少年や少女が出来上がったに過ぎない。今日の青少年にはモラルが失われ、その背後には夜遊びも自由にさせるという親の放任主義がある。異性との交際も、僅か三度目に性交に走るという十代前半の未成年は決して少なくない。

 親は襟を正すべきである。

 また男女のセックス行為においても、本能のままに行為するモラルの低下は、ついに男性以上に女性を狂人化する禍根を残留し始めた。一方において男性は女性化をはじめ、女性は男性化をはじめた。総て肉食が原因だ。そして男女の、エイズや性病に見られる不運は、今や救いようのない方向へと進んでいる。

 こうした現代を評して言えば、五人中四人が非常識となり、四人に一人が狂いはじめ、日本は益々亡国の暗示を強めたかのように見える。しかし多くは、こうした現実に絶望と悲観と溜め息を漏らすばかりで、もう一度原点に戻り、真の人間たらんとするには、どうあるべきかという模索をせぬまま、迷いぱなしの人生を選択しようとしている。

 その元凶は何処から始まったか。

 日本人の食生活の狂いからである。肉食と乳性食品と添加物加工食品の大量摂取で、脳の「進化中枢」を冒された現代の青少年は、些細(ささい)な事で「切れる」という現象が起こっている。

 この「切れる」という現象は、そのまま暴力マンガの世界に結び付き、また、テレビゲームの格闘疑似体験に通じるものであり、こうした今日の社会風潮から考えると、この世界は益々退化を続けているという現実がある。
 その証拠に、背広を着込んだ青年サラリーマンが、アタッシュケースの中から少年雑誌を出し、暴力マンガに読みふけるという姿は、まさに脳の進化中枢を冒された現象といえよう。

 現代人は気怠い毎日、退屈な毎日、不況不安が永遠と続くかのように思える毎日において、現実逃避を企てる現象として、あるいは刺戟材料として、暴力マンガが持て囃されている。

 叩けば良い、斬れば良い、突けば良い、刺せば良い、打てば良い、投げれば良い、そして最後には殺せば良いという無謀な暴力は、やがて脳を退化させるばかりでなく、自らも堂々巡りのジレンマに陥って、抜き差しならぬ結果を招く事は必定である。

●仮初の平和、うたかたの幸せ

 さて、二十一世紀は世界が平和に向かって一斉に動いているかのような錯覚を抱く。人類が平和をこよなく愛し、平等で、友愛的な世界が近未来に出現するような錯覚に陥る。愛が地球を救うように錯覚を持つ。しかしそんな薄っぺらな愛で、どうして地球の貧困が、飢餓が、不幸が、救う事が出来よう。

 以上を総じて、これが国際連合の平和への、幸せへの主旨だと信じて疑わない人は少なくない。
 しかしこれは国連(英語では「United Nations」といわれ、日本では 国際連合として誤訳されている)の画策する表皮的な、見せ掛けの世界のアピールでしかない。

 「United Nations」といわれるこの組織を、多くの日本人は、第二次大戦後、平和と安全の維持、各国間の友好関係の促進、経済上・社会上・文化上・人道上の問題について、国際協力を達成するために設立された諸国家の組織で、国際連盟より一等上の組織と認識されている、が……。

 しかし「United Nations」とは、その訳からすれば「国際連合軍」であり、これは第二次世界大戦当時、日本、ドイツ、イタリアを敵と称していた「連合軍」の事ではないか。

 日本人の多くはこの誤訳に気付かず、その組織規模から判断して、心底、「United Nations」を「国際連合」と信じ込み、第一次大戦後、アメリカ大統領ウイルソンによって提唱された国際連盟より一等も、二等も上の組織と信じ込んでいるのである。
 これこそまさに、短見的な認識といえよう。?

 さて、ここで国際連合と国際連盟の違いを述べよう。
 国際連合とは第二次大戦後、平和と安全の維持、各国間の友好関係の促進、経済上・社会上・文化上・人道上の問題について、国際協力を達成する為に設立された諸国家の組織であると信じられている。

 また1945年10月24日正式に成立し、国際連盟の精神を受け継いだかのような錯覚を植え付け、更に強化した組織であると信じられている。97年現在で加盟国は一八五ヵ国、本部はニュー・ヨーク。日本は56年加盟している。主な機関として総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会・国際司法裁判所・事務局などがある。

 次に国際連盟(League of Nations)は、 第一次大戦後、アメリカ大統領ウィルソンの首唱により、ヴェルサイユ条約の規定に従って1920年1月成立した、世界平和の確保と国際協力の促進とを目的とする諸国家の団体であった。

 当時の加盟国は五〇数ヵ国に達していたが、アメリカは当初から不参加で、日本は33年3月満州事変や満州国建国などの問題が原因で脱退し、後にドイツ・イタリアもこれに習い、また一旦は加入したソ連もフィンランドとの戦争の際に除名され、有名無実の組織となった。本部はスイスのジュネーヴに置かれ、アメリカ不在で運営がなされていた。

 では国際連合と国際連盟はどのような目的の違いがあったのか。まず、これについて述べてみよう。

 さて、われわれ日本人は国際連合の正体を大きく誤解している。それは「United Nations」の日本語訳にある。
 この日本語訳を「国際連合」と訳した為にそもそもの間違いが始まった。「United Nations」は直訳すれば「連合軍」で、何処にも「国際連合」と訳する根拠はない。
 また国連憲章の正文にはイギリス、フランス、ロシア、中国、スペインの五ヵ国語のものがあるが、中国語の正文には「United Nations」をズバリ「連合国」と記してある。

 現在の国際連合の理念は、戦争中、日・独・伊の枢軸を叩く為に戦争を効果的な方法で行うために「連合軍」の協力機関として発足し、第二次大戦後は「敗戦国管理機構」に変わっただけのものでる。したがって「United Nations」として名乗る今日の国際連合は、第一次世界大戦後に出来たウィルソンの首唱した国際連盟より、理念の上では大きく退化したものなのである。

 「United Nations」を、歴史上から例を求めるならば、ナポレオン戦争当時の「四カ国同盟」に匹敵する。
 ナポレオン戦争は、約二十五年間に亙りヨーロッパ全土を戦争の火の手で包み込んだ。
 こうした戦争トラブルメーカーのナポレオンを封じ込める為にイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの四カ国が協力してナポレオン打倒策に乗り出し、ナポレオンを封じ込めてからも、再びナポレオンが暴れ出さない為にこれを管理した機構が、実は四カ国同盟だったのである。現在の国際連合は、これに酷似しているのである。

 したがって、今日の日本が「United Nations」に加盟しているという現実は、この四カ国同盟で喩えるならば、12年モスクワ遠征の失敗に続いて、プロシア・ロシア・オーストリア連合軍に敗れ、14年退位してエルバ島に流されたナポレオンが、四カ国同盟に加入を申し込むようなもので、非常の奇妙な形になるのである。

 「United Nations」の元々の素性は「連合軍」であり、国連憲章の中には「敵国条項」という項目がある事も見落としてはならない。

 敵国条項とは「合法的に戦争が出来る場合」が述べられ、国連憲章五十一条にはその第一として「自衛の場合」を上げ、その第二としてに同五十一条「集団自衛の場合」、その第三として同三十九条と四十二条に「国連自身の強制行動」を上げ、例えば「安保理事会が決議した場合」を上げている。

 また第四としては、同五十三条と百七条に「敵国条項」という不思議な項目があり、ここに上げられた「敵国」とは、「United Nations」の目的意識に合わせると、第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツがこれにあたる。

 「United Nations」において、その主導権を握るアメリカを始めとする連合軍は、再び日本やドイツが不穏な行動をとるならば、つまり第二次世界大戦の終戦処理に反する行動をとるならば、これに攻撃を加える事が出来ると規定されているのである。

●戦後日本の復興の裏側

 日本は戦後、驚異の復興を遂げた。太平洋戦争に敗れ、焦土と化した日本列島は、その焼け跡から見事に復興を成した。

 敗戦当時の闇市の不思議な活気と混乱。当時の日本は騒然としていた。しかしこうした混乱の中から日本人は見事に立ち直り、復興した。
 そして、その復興の立役者は自由民主党の政治家であり、あるいは明治・大正・昭和一桁生まれの努力と汗が報いられた結果だと信じられている。しかし果たしてそうだろうか。

 広島と長崎には、人類初の原子爆弾が投下され、日本人は人類の悲劇を一身に受けるような、大きな苦痛と受難を受けた。
 ちなみに原子爆弾には二つのタイプがあり、ウラン235とプルトニウム239などに核分裂反応を爆発的に行わせたとき発生する熱線、衝撃波、各種放射線で人間を殺傷し、建物を破壊する爆弾である。この当時、広島にはウラン235が、長崎にはプルトニウム239の物が用いられ、大惨事を齎した。

 そして今日、広島と長崎は当時の面影を残す事がないほど、見事に復興を遂げ、日本でも有数な観光地として美しい街へと生まれ変わった。原爆の悲惨を残すのは、広島では原爆ドームと原爆記念館であり、長崎では平和記念像と原爆記念館だけである。

 かつてこの地で、アメリカ陸軍の戦略爆撃機B29(アノラゲイ号)が飛来し、落下傘に吊された原爆が投下され、恐ろしい、総てを焼き尽くす光と、夥しい放射能の有害物質を捲き散らしたという事実は、最早日本人の記憶から薄れようとしている。

 またこの背後に、原爆の街・広島、長崎を復興させる為にアメリカの膨大な経済援助があった事も、一般には知られていない。
 アメリカの経済援助の意図は原爆という悲惨な人類大量殺戮兵器の、自国がそれを使用したという、歴史上の封印にあった。したがってこの地には、日本で最初に、逸速く経済支援が行われたのである。

 歴史は、近代において、このように歪曲される事実がこうしたところに存在している。

 日本の繁栄は自民党の政治家の政治手腕でもなく、また明治・大正・昭和一桁年代の血と汗の結晶でもない。こうした事は極めて小さな出来事であり、背後にはアメリカの巨額な経済支援があり、この支援によって日本は経済大国に導かれて行ったという形跡があるのだ。
 その経済繁栄の図式は、世界には絶対にありえない不可思議現象であり、異常事態でもあった。

 それはあたかも、スキピオ・アフリカヌス(小アフリカヌス/Publius Cornelius.S. Aemilianus Africanus Minor Numantinus/古代ローマの名族。前185頃〜前129)麾下のローマ軍が、グラックス派の政敵国家であったカルタゴ(Carthago/アフリカ北部、チュニスの北東12キロメートルの地にフェニキア人が建てた古代の商業植民都市)の城壁を守り、カルタゴ船の地中海の安全航行を約束したような図式となるのである。

 カルタゴは前6世紀以来、西地中海を制覇した古代の商業植民都市である。しかし前3〜前2世紀ローマと覇を争い、第三次ポエニ戦争の際に敵将スキピオに囲まれて前146年に滅亡した国家である。

 この図式を現代に当て填めて考えれば、まさに日米安保条約を彷彿とさせるではないか。

 われわれ日本人の今日の繁栄は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの指令を受けて、傀儡国家アメリカが意図的に日本に繁栄を齎したといえる。勤勉な日本人に、競争させて良い物を作らせ、最も優れた物を安値で買い叩き、「良い物を作らせて、アメリカに輸出させて、アメリカ人が安値で買い取る」という自由貿易体制を造り上げたのである。

 しかし、こうした図式は実体経済学上から考えれば、実に不安定であり、それにも関わらず、今日でもアメリカ追随型の政治が行われている。これは極めて危険な事であり、このままでは遠からず、日本には破局が訪れる。

 今日のデフレ不況も、こうしたアメリカの演出によって作り出された結果であり、アメリカの本質を知らない無策な日本の政治家(国際主義を提唱する与野党の政治家)がこれを呼び寄せ、この政策路線によって日本を運営しているという危険な構図がここにある。

 そして現在、日本を支えてきた日米安全保障条約と自由貿易体制は、最早過去の遺物となり、日本人が窮して、これから雪の泥濘を歩く現実が待ち構えている。

 古代の商業植民都市カルタゴは、現在の日本に酷似する。そして歴史は繰り返されるという。
 この構図から考えると、やがて日本の「カルタゴの二の前」になるのは必定であり、われわれ日本人の繁栄は「つくられた」という現実の裏に存在したのであった。

 しかし多くの日本人は、今日の経済大国がアメリカによって「つくられた」という意識を持たず、それを自然発生的な偶然と奇蹟と、そして日本人の勤勉と努力が結実して今日の繁栄を齎したと信じている。

 だがこうした繁栄も束の間のことである。
 日本とアメリカの蜜月は既に終焉を向かえ、そして今、日本は国家的な宿痾(しゅくあ)が吹き上げようとしている。
 それは悲惨な太平洋戦争を過去の遺物と考え、あるいは無謀な戦争だったと自虐的な懺悔の情緒に陥り、この戦争を教訓の材料に全く考えていない事である。

 今日の日本人は、太平洋戦争が何の為の戦争か、誰の為の国家で、何を目的にした国家なのかという事を真剣に考えていない節が表面化しようとしているのである。

 戦後世代は個人主義に趨(はし)り、その家族を持つ戦後生まれの、社会的地位では中間管理職に匹敵するその子弟は、親に輪を掛けて「政治無関心世代」といわれている。

 豊かで、贅沢になった食生活は、かつての日本型食体系から欧米式の食体系に変わり、食卓にはアメリカの星条旗と、フランスの三色旗が並び、食肉や乳製品によって育った世代の、現代の青少年は感情的にも「切れる」という人間的退化を始めている。

 楽な道を選択し、辛抱を知らず、苦痛に耐える事を知らず、根気が無く、何事にも無関心で、自分以外の事は何も考えず、悪しき個人主義で、退屈なその日暮らしを目論んでいる。その思慮は浅く、価値観を物財や金銭や異性のカッコよさに求め、そして浪費型・借金漬け生活を、破綻に向かう、奈落への道と知らずに、浅はかな考えで日常生活を営んでいる。

 またこうした、危機迫る現実を真剣に考える事なく、更には「何故か?!」という疑問を抱く青少年は少ない。

 「切れる」という現象は、一種の脳汚染であり、進化の中枢神経が冒された現象といえる。
 食肉や乳製品、加工食品、添加物食品、化学調味料、インスタント食品に合わせて、ジャンクフードが花盛りで、ハンバーガーショップは軒を並べて、食肉の害を識らない愚か者が店に飛び込むのを待ち受けている。
 こうした肉体的汚染食品は、同時に肉体の中枢を司る脳を退化させ、同時にその古人より連綿と育まれた健全な精神すら蝕み始めているのである。

 現代の若者の、「切れる」という現象は、アメリカの経済支援で齎された日本の経済復興と、欧米食文化が持ち込んだ、誤れる現象の結果であり、これは益々悪しき個人主義に拍車を掛け、対価価値はその比重を肉体へ、物質へと移行して行くことであろう。

 こうした現象を如実に顕わしたものが、現代のスポーツ格闘技には見られ、好戦的に、ストリートファイターとして、戦う事、争う事の代理人として、自分の贔屓(ひいき)する選手に求め、これを観戦し、格闘の疑似体験をこうしたスポーツ試合観戦を通じて、模写するという現象が起こっているのである。

 通勤電車の中では、背広を着込んだ青年サラリーマンがアタッシュケースの中から少年漫画雑誌を、何の憚る事もなく取り出して、その暴力ストーリーによみ耽っている。これはまさに時代を逆も取りさせ、乱世の格闘白兵戦を彷彿とさせるのは、果たして、こうした現象を懸念する者のみであろうか。


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