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西郷派大東流と武士道

■ 武術進化論 ■
(ぶじゅつしんかろん)

●勝って敗者を辱めず

 日本の武士道には敵を賛える伝統があった。勝って奢らず。また勝って敗者を辱めずは日本の伝統であった。
 日本は古来より、戦いが終われば相手に対して敬意を表する風習があったのである。

 この事は楠木正成が、北朝時代、北条方の戦死者を敵と謂わず、「寄手」と謂い、「寄手塚」を建立したことからも窺える。それは味方の「身方塚」よりも大きく、勝って敗者を辱めずという精神から来ている。

 楠木正成は北朝時代の武将である。河内の土豪で、一三三一年(元弘一)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城に籠って幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。のち九州から東上した足利尊氏の軍と戦い湊川に敗死した。一般には大楠公(だいなんこう)の名で知られている。

 これに似た話は織田信長にもある。桶狭間で今川義元に勝利して義元の馘を討ち取るとこれを手厚く葬り「義元塚」を建てたし、また、長篠の合戦で武田信玄軍に勝利すると、武田側の一万余名の死者に対して二箇所に分けて「信玄塚」を建立した。
 いずれも、敵の塚は大きく、味方の塚は小さいのである。

 戦争が終われば敵の将兵の勇戦を賛えるのは武士道の掟であり、こうした敗者を辱めずという精神に欠けると、勝った途端にガッツポーズが出て、有頂天の世界に舞い上がる事になる。
 こうした有頂天の世界に舞い上がった者の結末が、どういう下降線を辿るか、想像がつこう。

 かつて一世を風靡した、藤猛(ふじたけし)というウェルター級の世界チャンピオンのボクサーがいた。
 藤はハワイ出身の日系三世である。
 藤は一撃必殺のハンマーパンチを売り物にして、常にKO勝ちして世界チャンピオンになったボクサーである。片言の日本語で「勝って兜の緒を絞めよ」とは、彼の口癖であった。

 当時、学生であった著者は、藤猛のKO勝ちの場面を期待してテレビに食い下がったものである。そしてこれが、藤が引退する切っ掛けを作る試合とは夢にも思わなかった。恐らくこの試合は、日本中が藤の勝ちを信じて疑わなかった筈の試合であった。
 誰もが、一ラウンドでの一撃必殺のKOパンチを期待した試合だった。

 しかし試合は予想外の展開となった。
 一ラウンドか二ラウンドで、ケリがつくと思っていた試合はズルズルと長引き、最初は嘗めてかかっていた藤は、その意外なしぶとさに驚き、回を重ねるごとに当惑した表情を露にした。

 対戦者は、巧みなフットワークとガードで藤のパンチを躱し、一打も当てさせない儘、回が重なって行った。焦りと恐怖を払い除けようとして繰り出す藤のパンチは、悉々く空を切って対戦者を一発も捉える事が出来ず、体力の消耗だけが加速して行った。

 そんな中、対戦者は小刻みに弱い打法でパンチを繰り出し、然も正確に顔面を捕えて当て続けた。対戦者は射ち続け、藤は一方的に射たれ続けた。やがて藤は自信を喪失して戦う気力を無くし、試合放棄をしてリングを下り、結局無態(ぶざま)なKO負けになった。これは意外な試合展開であったというより、体力主義だけが必勝の条件になるという事を、端から否定した出来事ではなかったろうか。

 小が大を倒す事すらありえるのだ。

 しかし体力主義、肉体主義を信奉する欧米思想は、精神界の世界的視野に乏しく、可視現象だけしか見ようとしないのである。

●太平の眠りの中の体力主義、肉体主義

 今日の日本にはデフレ不況の嵐が渦巻いている。それでもなお、食べる事に飽き足らないグルメの為の飽食の時代であり、国民の大半は比較的裕福であり、そして多くの国民の関心事はレジャーやスポーツ観戦に心を奪われ、これから先、日本がいやが応でも、迎えるであろう試煉については何の危機感も抱いていない。

 日本国民の多くが慎みを忘れ、礼節を忘れ、太平の世の眠りを一人だけ貪り、一方前途多難な近未来に対しては何の危惧も抱いていないのだ。

 明治維新以降、欧米主義が流れ込んで、日本人の物の考え方は欲望の拡散へと趨り、欧米風の処世術に傾いた。
 利権や金脈が複雑に絡み合う唯物思想は、日本人の価値観を物財へと趨らせた。そしてそれ以降、日本では人間の集団は理念や、掲げる志の許に集まるのではなく、利権や金脈や人情の、共通の利害で集合するようになった。会社組織でも、営利団体でも、法人と名の付くものはこうした共通の利害の集合体である。
 そして弱肉共食論が罷り通り、その競争原理において淘汰される社会構造を作り上げてしまったのである。

 かくして官公庁でも民間でも、単に大きさだけの競い合いになり、組織化された日本人気質は、沈黙と忍従に傾き、事なかれ主義とご都合主義が罷り通る風潮を作り上げた。

 欧米流の考え方で行くと、強者は奢り、敗者は完膚無きまでに叩きのめされる。そして強者の軍門に降り、強者の考え方に共鳴の意を示す。今日のスポーツ興行や、格闘技興行はそれを如実に物語っている。

 体力主義、肉体主義を信奉し、可視現象のみを事実として捉え、不可視の部分を斬り捨てる。したがって人間性や人格は問題にされない。勝者のみが英雄であり、常に勝てる強き者が、愚かにも、尊敬されるのである。

 こうした考え方は、今やスポーツや武道の世界のみならず、政治にも軍事にも経済にも見てとる事が出来る。
 日本は国家的に見ても、この国の対米従属の意識は甚だしく、同時に多くの日本人は白人コンプレックスに陥っている。これは強者であるアメリカの文化や、人種的優越感に圧倒された現象である。

 またこれは白人に対しては無条件に屈服しているという、日本人の白人コンプレックスの現われでもある。こうした現象を利用して、この裏返しの傲慢さで、白人は白人崇拝や、白人主導型の政策を、日本やアジアに対して仕掛けてくるのである。

 こうした事を考えると、日本人は明治維新以降から繰り返してきた、白人崇拝をいいかげんにやめるべきである。
 日本は、人類の歴史の中で与えられてきた役割は、こうした白人を崇拝し、その国の文化を百パーセント取り込む事ではなかった筈だ。
 また日本人は日本民族の誇りと伝統を否定して、積極的にそれを忘れる事ではなかった筈だ。

 五十有余年前、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)を戦って、敗れて敗戦国となった。大東亜(欧米勢力を排除して、日本を核に満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄)の意味は消失し、天皇をはじめとする帝国主義、植民地主義、軍国主義は一掃されて、戦争までが進化を見ないまま放棄された。日本が戦争を放棄しても、世界は日本に戦争を放棄させない構造が見抜けないままに……。

 そして日本の中枢を捉えたものは「民主主義」であり、勝者のみが政治や社会の中心に据えられ、権力を担当するという社会システムである。いわゆる体力主義、肉体主義の元凶はここに存在し、個人主義に裏付けされたひと握りの勝者のみが、英雄として頂点の躍り出て、群れに君臨するという社会構造である。

 そして敗戦後の日本に残ったものは、自虐的懺悔と、傷心しか日本人には残らなかった。戦後の日本人に残されたものは、汗水垂らして勤勉に働く以外、道は残されていなかったのである。これを全うする事によってのみ、日本と日本人は、将来のあるべき姿を一応見極める事は出来たといえよう。しかし……。

●日本人は勤勉な人種か

 日本が大東亜戦争に敗れて五十有余年が過ぎ、戦後の日本人は大きな変貌を遂げたかのように映る。そして日本人の労働状況を眺めると、果たして日本人は勤勉で、勤労好きだったかという疑問が浮かび上がってくる。

 さて、人間の勤労とは、資本主義(capitalism)の観点から考えると、他に何の生産手段をもたない個人が、自分の生涯をかけて生活手段を確保する行為に他ならない。

 即ち、あらゆる生産手段と生活資料とを資本として所有する資本家階級が、自己の労働力以外に売るものを持たない個人としての労働者階級から、労働力を商品として買い、それの価値と、それを使用して生産した商品の価値との差額(剰余価値)を利潤として手に入れる経済体制が、近代キャピタリズムなのだ。

 そして剰余価値を増幅させる為には、当然の現象として競争が発生する。
 この意味から考えると、日本人は世界でも熾烈で、苛酷な競争社会でこうした生活手段と、保身をかけて働いているといえよう。

 今日の日本人が勤勉に映るのは、資本主義の競争原理においてのみ、競争社会の中で「ただ勝ちたい為」で、その競争の主体は自分の所属する組織であり、また自分を取り巻く家族の為である。

 そして奮闘する目的は、誰よりも多く金銭を得る事であり、その裏付けとして、自分が優れた人間であることを他人や組織に認めてもらいたいが為の、ただそれだけの奮闘努力である。

 その為には、長時間労働を行ったり、家庭を顧みないという猛烈社員の奮闘があった。日本では、組織の中ではひたすら出世を望み、失敗をする事なく、勝者となる事が一生涯の最大の目的になっている。

 その勝者の第一条件は、政府機関の官公庁のキャリア官僚になるか、あるいは一部上場企業の大会社に就職する事であり、その為に四・五歳頃から進学塾に通い、有名私立小学校、有名私立中学校、有名私立進学高校へと通って、東大を頂点とする一流大学に入学する事である。

 この資本主義社会において、他人との競争は既に幼児期から始まっており、この第一条件を満たして、第一関門のパスポートを取得するのである。
 そして第二条件は、一流大学から自分の希望する、「寄らば大樹の景」という考え方で、キャリア官僚や一部上場企業へ就職する事である。

 つまり日本人の勤勉のように映るその背後には、こうした他人との格差において、大差をつけるという必要条件の範囲においてのみ、その勤勉性が発揮されて、実は勤勉で労働が好きという事とは全く異なるのである。

 日本人の勤勉に映るこの実態の裏には、ただ資本主義競争社会の中で、自分の組織が生き延びるための方法論にしか過ぎず、これは勤勉とは全く種を異にするのである。

 したがって日本人の働き過ぎという事が、実は労働好きという事から来る意識ではなく、競争社会で敗者のレッテルを貼られたくないという「脱落の恐怖感」から、自分自身に否が応でも鞭を打ち、苛酷な残業にも耐えようと、必死に藻掻く姿なのである。

 このように考えてみると、誰もが必死で、自分と自分の家族だけ贅沢な、便利で、豊かで、快適で、優雅で、良い生活がしたいという願望から出発している事が分かる。
 この意味で日本人は勤勉であるという意識は、余りにもお粗末であり、本質的には労働好きの民族でない事が分かる。

 もし歴史を遡って、平安貴族のような制度が今日も存在し、競争をしなくても最高の生活がこの階級に保証されているとしたならば、果たしてこの貴族階級は勤勉だっただろうか。あるいは額に汗する労働を好んだだろうか。
 欧米人は、日本人のこうした点を大きく誤解している。

 日本人がエコノミックアニマルといわれて、既に久しい。そしてこの言葉の裏には、欧米や東南アジア諸国の侮蔑と皮肉が込められている。

 現代の日本人を考えた場合、日本人は画一的な学校の一斉事業と同様、単一価値観しか持ちえず、人生の目的やその喜びを見い出さないまま、個人主義的な人生を全うしようとする人が少なくない。

 今から五十有余年前、日本国民一般大衆は、こうした画一的意識で、戦争目的を持たないまま、日本は陸海軍の戦争指導者の愚行に付き合わされたという、苦い経験を持っている。

●戦争はなくならないか

 かつての軍人の中に服部卓四郎という陸軍大佐がいた。
 服部は、日本陸軍の中でのユダヤ・フリーメーソンの中枢的な存在であり、彼の下に辻政信や瀬島龍三がいた。服部は陸軍士官学校、陸軍大学校と恩賜で卒業した秀才で、作戦課長時代その部下に辻や瀬島もこのグループだった。そして日本に戦争目的を明確にさせない、負け戦を仕掛けた張本人でもあった。

 その背後には世界支配層の影の力が働いており、戦争肯定論者であった。特にガダルカナルの大敗北は服部の大きな責任である。
 服部は、「人間社会に競争原理が働く以上、そこには防衛本能があり、闘争本能がある。したがって戦争は人類からなくなることはない」と言い捨てた。

 しかし服部は、ここで大きな過ちを冒している。それは人間という存在を、生物同様に考え、生物学の中から、生物の習性として防衛本能と闘争本能を持ち出してきている。これは人間の持つ理性を、頭から否定した、単に生物の世界の現象を述べたに過ぎず、人間の理性という事については、完全に見落としているのである。

 果たして人類から戦争はなくならないか。

 この足跡を辿れば、日本では少なくとも明治十年の西南の役を最後に、大きな、国内を二分するような戦争は起こっていない。これは戦争が進化した姿と見る事は出来ないか。

 つまり戦争という悲惨な現実すらも、進化すれば、無くなるという事実を物語ったものと取る事は出来ないか。そしてこの根底には、人間の理性が働いたと取る事は出来ないか。

 もし、こうした原理が働くのであれば、戦争は進化するという事であり、戦争の進化した状態は、戦争そのものが存在しなくなり、それによって政治的決着をつけるという蛮行が否定された姿といえよう。

 これは恰度、山岡鉄舟の剣を捨てた剣術、無刀流に匹敵し、鉄舟の一刀正伝無刀流はこうした戦争の進化した状態、つまり剣を握り合って死闘を繰り返す剣術が、近代武術へと進化した状態であると言えよう。

 この意味で、武蔵の二天一流の二刀をもって、その奥儀とする二刀流とは大きく異なり、一刀流の剣が左右各々に分かれ、その左右の各々を再び一刀流の剣に集約し、その集約の後に、剣すら無用になるという鉄舟の剣術思想は、二刀のままで停止した二刀流よりも遥かに優れているという事になる。

 西郷派大東流には「合気二刀剣」という特異な剣術の鍛練法がある。
 そして西郷派大東流の柔術は、剣の体術から発している。西郷派大東流の修行者は、合気道とは異なり、先ず入門が許されると、剣の柄の握り(茶巾絞り)を教わり、次に振り方(肩の力を抜く)を教わる。これが「手解き」(手解きとは、敵から強く握られた手を解く事の意)に繋がる第一関門となるからだ。

 剣を握る事を覚え、素振る事を覚えると、次に一刀流の剣技に移り、これを徹底的に修練して一刀の剣をマスターする。そしてここでマスターした総ての力を「十」とする。

 次にこの「十」の力を、左右各々に配分して、右に「五」、左に「五」と振り分ける。これが二刀剣だ。

 今まで一刀を左右の手で握っていたのを、左右に振り分け、右と左に各々同じ長さの剣を持ち、「五」から「十」へと鍛練するのである。したがって最初は、一刀の「十」が「五」の力に半減されて、「六」の力以上を有した者には太刀打ちできない状態が続く。しかしこれを日夜の精進で克服し、最初の「五」が「十」に変貌を遂げたとき、左右各々には「十」の力が宿っているので、この各々の「十」を再び一刀剣に戻せば、この一刀流は「二十」となり、かつての一刀流の二倍の力倆を要した事になる。これが一刀流剣の進化した姿だ。

 しかし西郷派大東流はこれだけに止まらない。

 一刀流の進化した剣すらも、最後には捨てて了(しま)のである。この剣を捨てた姿が「無刀剣」なのである。この無刀の境地に至って、剣術は剣を捨てる事によってのみ、進化する事が出来るのである。

 これは鉄舟の一刀正伝無刀流と酷似する。
 剣を巧みに用いる事で始まった剣術は、その剣を最後には、捨てる事で進化するのである。

 即ち、これが剣を無刀にした、剣術の裏技の「柔術」の登場である。これこそが剣を持たない剣であり、自らの手と腕がそれに代って剣となるのである。これを西郷派大東流では「手刀」(てがたな)という。この手刀をもって柔術に磨きを掛け、究極的には「やわら」(和)に変貌を遂げる。これが「合気」である。

 さて無刀とは、自らの手と腕を日本刀に見立てる事で完成する剣術で、これを古人は無刀を以て敵の剣を奪う、無刀捕りを編み出したのである。まさに剣が進化した極地の姿である。

 もし、こうした剣術すら進化する過程において、戦争も同様に進化し、それが無くなるとするならば、その原点は、徹底的に戦争を研究し、人殺し追求した過程が必要になり、単に机上の空論から、平和主義を唱え、戦争放棄をヒステリックに叫び、シュプレヒコールの声を張り上げたり、大衆署名によって戦争が無くなる等という事はありえず、また世界はそれほど甘いものではない。

 物事の事象が、有から無に転ずる過程は、徹底的な有の解明・研究であり、それが極まる事で無に転ずる事象が現われるのである。したがって実践を通じる事なく、いきなり有が無に転ずる事はない。実践を経験する事のみにおいて、有は無に転ずる事が出来るのである。

 戦争は、人間が経験する事によって、繰り返された悲劇である。しかし悲惨な悲劇は、徐々に形を変え、人間の闘争本能や欲望は、やがては無に転ずる。それは戦う事の「空しさ」を直感するからである。

 かくして戦争は人類の頭上から消える日がやってこよう。

 しかしここに到達する為には、人類に多くの課題が残されており、紛争地域の諸問題が山積みされていて、こうした解決の糸口を少しずつほぐしていくという受難の道が、人類には残されていて、犠牲と、生贄を捧げてやがては、戦争すら進化してそれは無に帰すという現象が起こるのである。

 しかしここに辿り着く為には多くの血が必要であり、犠牲と、生贄を避けて通る事は出来ない


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