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西郷派大東流と武士道

拝師の礼 ■
(はいしのれい)

●薪水の労をとる

 師に仕える事を「薪水(しんすい)の労をとる」と言う。
 しかしこの言葉ほど、中々実践するには容易ならず、「言う」と「行なう」とでは天地の差である。

 私は先代の山下芳衛先生に、中学三年の頃から大学受験の当日の朝まで約四年以上、仕(つか)えた事があった。
 勿論、四年間「完全住み込み」でという事ではなかったが、それでも学校の休みの日や、夏休み・冬休み・春休み・開校記念日には、住み込みで、朝晩仕え、昨今では想像を絶するような、緊張した日々を送った事がある。

 西郷派大東流合気武術総本部・尚道館に於いても、最近はホームページの「内弟子制度」を見て、多くのメールが届くようになり、また直接内弟子志望者が道場に訪ねて来る事が多くなったが、その殆どが、ダメな若者ばかりであり、事実これまでに、わが西郷派大東流合気武術の門を、内弟子として出た人間は、まだ一人も居ないのである。
 過去に数名の若者が厳格な内弟子審査に合格し、二年間の修行をはじめる事になったが、この二年間を、誰一人も耐え忍び、「内弟子の門」を卒業した者は、ただの一人として出ていない。それだけ、内弟子としての認識を甘く考えているのである。

 したがって、やがては自分の甘さに気付き、多くは途中で挫折し、結局自分の目標を見失い、郷里に空しく帰って行くのである。
 最高に長く持った者が、一年一ヵ月で、最短は僅か二週間と言う者までいた。しかしこの二週間の者を、笑うなかれ。この二週間でギブアップした者は、「なぜ、一年一ヵ月も耐え忍んで、あと一年足らずの期間を我慢できなかったのでしょうか。もう少しだったではありませんか」と言った人間であり、この人間が、内弟子とは如何なるものかと覚悟しながら、挑戦して、僅か二週間でギブアップしたのである。
 彼等は、相当な覚悟をし、二年間、働かずに喰って、学べるだけの金銭を用意しながら、「奴隸覚悟」という堅固な意志で参加するのであるが、その覚悟を以てしても、やはり二年間と言う修行の期間は辛く、そして長いものであったに違いないと想像する。

 中には、「たった二年間で何が学べるのですか?」と問い合わせて来る者がいるが、こうした者こそ、「たった二年間」を耐え忍べず、一日と言わず、半日、いや一時間と持たないのであろう。自分の願望や欲望は強いが、これを実践に移して、自らの躰で、「過酷さ?を体験する」という意識に欠けた若者が増加しているのは事実である。

 だがこの程度の、苛酷(かこく)とまでは言えない内弟子制度の修行など、私が骨身に滲(し)みて経験し、体験した真物(ほんもの)の「薪水の労をとる」の修行に比べれば、現在行なわれている尚道館の内弟子制度は、単なる「お遊び」であり、かなり弛(ゆる)めた、楽なものであるに違いないのだが、現代という時代はどうした事か、こうした本当の修行を求めて、道を学びに来る者が極めて少なくなった。

 確かに、我が西郷派大東流の門を叩き、尚道館の内弟子になる志望者は、かなりの数に上るが、全般的に言って考え方が幼稚であり、「某(なにがし)かの憧(あこが)れ」を抱いて来ている為、実社会の人間として通用しない一面を持った若者が多いのである。こうした若者は、外国在住の日本武道に憧れる日本人や、外国人の若者(多くは日本武道に憧れながらも、実に不勉強で、日本語を勉強しないのはどうした事か)にも見られ、我が西郷派大東流を「スポーツ武道」と看做(みな)して、やって来る若者が少なくないのである。派手な面ばかりを夢に見て、まるで昨今のスポーツ・タレントにでもなるかのような、浮わついた考え方で、多くの若者は遣って来る。何と言う「無駄」、何と言う「徒労」。

 「練習」という、反復トレーニングには何とか耐えて行けそうなのであるが、肝心な「薪水の労をとる」という意味を、さっぱり解しないのである。
 ここに現代の若者の「挫折」が存在する。価値観が小手先ばかりに集中している。

 私の経験からすると、本当の「薪水の労をとる」とは、現代人が、「ヤワ」な頭で考える程、生易しいものではない
 朝早くから、夜遅くまで「我が師の世話」をするのであるが、既に朝起きた時から、「今日一日の戦場」となる。朝の洗面には、手拭いや歯磨き一式を用意し、その介助まで行なわねばならない。食事の用意は勿論の事、買い出しや調理一切まで行ない、その気配り給仕は当たり前の事である。着替えの介助、外行きの随伴、そして「三歩下がって師の影を踏まず」を地で実践し、一切の気配を全身で感じ取り、万一、有事ともなれば、まず師の楯(たて)となって外敵に当たらねばならないのである。
 仁侠道の世界にも、これと似た徒弟制度があるが、私の行なった内弟子修行は、もっと厳格な、命賭けのものだった。

 外行きの随伴(ずいはん)の際には、師より「三歩下がる」ことは常識であるが、同時に、この随伴の時には、武家の作法として左後方に位置するのが正しいのである。
 これは本来、武家の随伴の作法としての代々厳守されてきた上級武士の御式内(おしきうち)の随伴の作法(「御式内」の作法によれば、随伴者は一人ではなく複数であるが、各々に配備され、各々の役割が決まっている)でもあり、帯刀(大小二本の刀を指している)している為に、師の右側随伴では、師の抜刀を容易にさせない恐れがあり、したがって左側を約三歩下がって随伴し、有事の際は、即座に師の左前に出て、師の抜刀を容易にさせつつ、自分は自ら敵の楯になる位置に配して、敵と命を賭けて戦うのである。

 こうした配置をするのは、まず師の利(き)き腕(多くの場合は右腕であるが)を妨げない為と、背後から忍び寄る敵に、右抜刀で斬らせない為や、師の鞘(さや)を掴ませない為であり、こうした有事の際には、まず弟子の位置が、自らを楯として敵の死角となり、敵に斬り込む隙(すき)を与えない為なのである。

 しかし昨今は、こうした師に対する作法を知らない者が多く、師と随伴するにも、こうした事を全く考えず、自分勝手に師の前を歩いたり、師と歩調を合わせると言った事もせず、自分勝手な動きをしている者を多く見かけるようになった。そして師の有事に際して、危機に陥れるのである。
 また、こうした事を仕出かしながら、これが「無礼である」という自覚症状を持たない武道愛好の若者が増えているのも事実である。これは若者に限らず、かなりの年配者でも、こうした間違いは多く、こう言う人に限って、「武術だ」の、「武士道だ」のと意気巻いているから、甚(はなは)だ恐れ入る限りである。

 さて、こうして師との随伴が終わり、帰宅すると、食事の下準備は勿論の事であるが、今度は風呂掃除から風呂沸かし、入浴の介助、背中流し、浴衣等の着付け、肩揉(かたも)みや腰揉みや足揉みの奉仕、床延べの用意等と、朝から晩まで、てんてこ舞いであり、その上、師が眠りに就くまで緊張にしっぱなしであった。
 そして夏場は、畑に茄子(なす)を植えているので、川から水を汲(く)んで来て、これに朝晩水を掛けなければならなかった。茄子は、水を切らすと直ぐに枯れてしまう植物であり、天秤棒(てんびんぼう)で前後両脇に水桶を吊るして、川と畑を行き来するのは、非常な重労働だった。
 腰がふらつき、足許(あしもと)を取られると、せっかく汲み上げた水は、大半が零(こぼ)れてしまい、往復する回数が増えるのである。これを、苗を植える三月終わり頃から、九月半ばまで毎日繰り替えした。確かに辛かったが、このお陰で、多少の足腰の強さには自信がある体躯は養成できた。今でも、毎年夏の季節ややって来ると、よくこの頃の事を思い出す。

 私はこうした日常行動の約四年以上に亘り、師と供に随伴し、あるいは朝から晩まで、まるで住み込みの「飯炊き女中」の如き奉仕をして、総ての局面に亘り、気を配り、あるいは用心して、師に近侍し、薪水の労をとったのである。

 洗面の介助一つにしても真剣勝負であり、ただ介助する為に、後ろに、ボサっと突っ立つていればいいというものではない。こうした時は、右後ろに構え、手を差し伸べれば直ちに手拭いを渡さねばならないのである。こうした事は、朝だけの事でなく、昼間でも、夜中にも及ぶ事がある。夜中に及ぶ時は、自分が疲れたからといって、うっかり寝込むわけにもいかず、いつ洗面に立たれても、直ぐにこれに対応できなければならなかった。そしてこれこそが、そのまま武術に通じたのである。こうした日常の中にある、茶飯事の行為を、全う出来ずして、どうして武の臨機応変の対処ができると言うのか。

 その中で一番難しかったのは「着替えの介助」であった。
 何故これが難しいかと言うと、介助を受ける師としては、最初から最後まで何もせず、これは着替えの際の基本になるからだ。ただ、案山子(かかし)のように直立に突っ立つているだけであり、着付けの一切は、こちらがしなければならないからである。帯の結び加減も、こちらが遣るのであり、師はつっ立ったまま、何もしないのである。結び加減が悪ければ、着付けた形は、だらしなくなり、「これがお前の着せ方か?!」と、きつい叱責が疾(はし)るのである。
 足袋を履かせるにしても、足許(あしもと)に自らの膝を突いて履かせ、腰を低く屈めなければならない。
 外出の際には腰を屈めて玄関に先回りし、履物を揃え、再び身を屈して履かせる段階が終了するまで気配りを行なうのである。

 入浴にしても、その湯加減を見なければならない。この湯加減を見る時、自らの手を湯の中に差し伸べて、これを検(み)てはいけない。湯の温度を探ろうとして、自らの手を湯に突っ込めば、師よりも自分が湯の中には言った事になり、こうした愚を犯さない為には、まず、手桶(ておけ)で湯を汲(く)み取り、これによって湯加減を検れば濟むことなのである。

 床延べにしても、敷布団を敷き、その上に乗って、掛け布団をかけるような事をしていては、敷布団に自分の足跡がつき、こうした延べ方では駄目である。したがって、掛け布団を掛ける時機(とき)は、敷布団に乗ってしまっては、自らがそれを用いた事になり、この事を理解できれば、掛け布団は敷布団を踏まずに延べる事が出来るのである。

 昨今では、こうした過去の常識も廃れている為に、こうした凄まじい内弟子修行があった事を語れば、はじめてこの現実を知る人は驚きの貌(かお)をするが、昔はこれが当たり前の事として、武術や武道に限らず、芸道の世界でも、こうした事は日常茶飯事に行なわれていた。そして今は、武道界からこうした作法は完全に消え去っていると断言できる。

 何故ならば、武道は、今やスポーツ武道・格闘技と成り下がり、スポーツ・タレントの領域を驀地(まっしぐら)に驀進(ばくしん)しているからである。芸能タレントとしてちやほやされ、有頂天の舞い上がる類(たぐい)のものに成り下がった。柔道等のスポーツ格闘技も然りである。「勝つ事」が目的であり、勝つ為には、こうした昔ながらの作法は必要無いからである。試合に勝って、マスコミに取り上げられ、有名を馳せる事が先決問題なのである。

 だがしかし、本来の修行と言うのは、試合に「勝つ為」に行なうものではない。修行の原点は「礼法」に叶っているかどうかであり、これが抜け落ちた場合、修行は根底から崩れてしまう。
 修行の目的は「強弱論」にあるのではない。臨機応変さにあるのである。
 試合の上で、強いか弱いかは、実戦には余り問題ではない。それは実戦と試合が大いに異なるからだ。

 ある著名な武術家の著書に、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)と、その弟子の山田次朗吉(やまだじろきち)の話が出て来る。
 榊原鍵吉は天保元年(1830年)十一月、麻布広尾の榊原邸で生まれたが、天保十二年の十三歳の時、男谷精一郎(おたにせいいちろう)の門に入り、直心影流剣術を学んだ。以降、研鑽十年、天性の素質と才能に加えて、稽古熱心であった為、免許皆伝を得て、安政三年築地の講武所剣術教授に抜擢(ばってき)され、また小川町の講武所剣術師範として、師の男谷精一郎とその門下十三人衆と共に名を連ねる程の腕前になっていた。

 こうした鍵吉の得意絶頂にあった頃に、入門したのが山田次朗吉であった。
 山田次朗吉は師匠の榊原鍵吉と共に、雪の九段坂を歩いて来た時の事が、この話には出て来る。この話は、ある咄嗟(とっさ)に起った事を取り上げている。
 雪の為に鍵吉の履いていた下駄が滑って鼻緒が切れ、我が師・鍵吉が顛倒(てんとう)しようとした瞬間、山田は鍵吉の躰を咄嗟に支え、残る片手で、今度は自分の履いていた下駄を素早く脱いで、師の足許(あしもと)にあッという間に差し出したのである。一瞬のうちに踏み履かせ、顛倒を防止すると同時に、我が師の足許に、自らの下駄を踏み敷かせたのである。

 これこそ、まさに臨機応変の最たるもので、これ以上の「妙」はない。
 顛倒しようとする人を支えるくらいなら兎も角として、咄嗟に自分の履いている下駄を脱いで、その足許にさっと差し換える妙技を行えるのは、凡夫には中々できる事ではなく、つまりこれはその人の持つ、才能と素質が、このような妙技に至らせるのである。しかし内弟子として修行に励む人間は、このくらいの気配りを行ない、それが例え叶わぬにしても、この気配りは必要ではないかと思う。

 雪に滑って、鼻緒が切れ、顛倒しかかると言うこの事件は、ごくありふれた事では或るにもかかわらず、その根底には、予期できない偶然性は秘められている。こうした現象は偶然に起るから、「咄嗟」と言い、こうした出来事に、対応できるから、「臨機応変」と言うのである。そして偶然性と言う、予期できない事象は、そう簡単に、気配だけで感じ取れるものではない。
 それでいながら、咄嗟の出来事に対し、師の顛倒を支え、下駄をすかさず差し出したと言う、随伴者として当然の行為は、心の在(あ)り方を如実に教えるものである。
 漫然(まんぜん)と師の伴(とも)をしていては、こうした事は出来ないはずである。こうした働きができるのは、その根底に「薪水の労をとる」という心構えが、普段から常に備わっている為である。

 しかし「薪水の労をとる」とは、門人の上に胡座(あぐら)をかいて君臨し、師は弟子に対し指導者面(づら)する事ではない。また、こうした事を現代の若い門人に要求する事でもない。しかし、修行するという日々精進の世界は、有事に際して咄嗟の措置が出来なくては、その人は武道愛好者の域で止まる人なのである。
 また精進する世界を、単に勝ち負けにこだわって練習する人間には、こうした「切実」かつ「純真」な心が理解できず、ついには有事に際して、何一つ役に立たない禍根(かこん)ばかりを積み上げている人なのである。

 後に、鍵吉の高弟・山田次朗吉は『日本剣道史』を著わすが、この中には、明治20年(1887年)11月11日の伏見宮邸での、我が師・榊原鍵吉が、兜割りの天覧を供にした事を述べている。
 「此の日、この場に招かれた剣客は皆一流の聞えある者のみであった。我が師榊原は前々より斎戒沐浴し、鹿島明神を祷(まつ)り、出入りの刀剣商より取り寄せたる胴田貫(どうたぬき/肥後の刀工の一派で慶長の頃)の一刀を携えて出頭した。(中略)兜は名に負ふ明珍鍛えの南蛮鉄桃形、合図に任せて一順、二順、警視庁の逸見宗助(へんみそうすけ)、上田馬之允(うえだうまのじょう)腕を鳴らして進み出て、曳(えい)ヤの声は勇ましかったが、刀はカンと跳ね返って兜は掠(かす)り傷がも負はず、或いは刀を辷(す)べらして危うく倒れかかった者もある。榊原は徐々と傍近く歩み寄って、すらりと抜きたる胴田貫を真っ向に振り翳(かざ)し、気合いの充(み)つると同時に、エイと叫んで打ち下したる手練(てだれ)の冴えは、ズカリと斬り込む鉄兜に、三寸五分を喰い入ったのである。あな斬ったり。割ったりと(中略)嘆美の容子(ようす)は各人の色に形(あら)はれてあった時に鍵吉、五十八歳であった」と記されている。

 こうした鍵吉の偉業の裏には、弟子の「薪水の労をとる」影の力があった事は、言うまでもない。
 榊原鍵吉は剣に長じた人物であったが、理財の才に欠け、惜しいかな、明治の世になってサーカスの曲芸師まで遣り、また不肖の異腹の兄弟の多かった事が災いして、鍵吉自身の晩年は、必ずしも恵まれた人生とは言えなかった。

 日清戦争の宣戦布告の翌月の明治二十七年九月十一日、鍵吉は六十五歳の人生を閉じた。そしてその亡骸は、四谷南寺町の西応寺に葬られた。
 鍵吉は逸材の人物として、才能並びに伎倆に優れ、しかし理財には欠けていた為、人間としての身を律する方法を知らなかった。もし、鍵吉に理財の才があれば、かくも惨めな死に方はしなかったであろう。
 しかし唯一の慰めは、山田次朗吉の、あの九段坂のちょっとした事件であろう。
 あの事件こそ、鍵吉自身も弟子の山田に救われたはずで、心から凄い奴がいるものだと、心服したに違いない。随分と救われたはずである。

 さて、わが西郷派大東流も、随分と遠くから、わが流派を学びに来る人がいる。しかしその人達の多くは、単に儀法(ぎほう)の修得を目的に来るのであって、「薪水の労」をとりに来るのではないようだ。技だけ学べば、大半はサッサと帰ってしまう。しかし中には、一日、二日と寝食を共にする人もいる。そして稀にではあるが、「薪水の労をとる」ような事をする人がいる。
 恐らくこうした人は、目指す目的が一般の門人とは異なっている事が挙げられる。

 ある事を精進して、努力を重ね、ついに高次元なものを会得する者がいる。こうした人を「名人」と呼ぶ。高手(こうしゅ)の人間でもある。しかし高手の人には二つのタイプがある。
 一つは幼少の頃から何等かの武術を学び、日や精進して師の教えを守り、人間として仕事に精を出すと共に、また、武術も練る。弟子に慕われ、人格も優れ、技もよく切れる人だ。そして生涯をこれで終わる人である。

 一方、もう一つの高手は、やはり同じように幼少の頃より武術を学び、然(しか)し乍(なが)ら、よき師に出合わず、技術面ばかりにこだわって、強弱論を論じ、喧嘩三昧を好み、好戦的になって、自己の強い事を誇示したがるようになり、「喧嘩○○」と称して、自己の能力を過信する人である。このタイプの人は、実力があるが、人格が伴わない為に、狂暴で自惚(うぬぼ)れの強い人間となり、普通の人間が持っている人格さえも失っていく。こうしたタイプに憧れて、格闘技を志す若者も少なくない。勝てばよいと言うタイプである。

 こうした人は本当の意味の「薪水の労をとる」と言う事を嫌い、ただ練習に明け暮れ、必殺法のみを修得しようとする。
 わが西郷派大東流に於いても、遠くから学びに来る人には、こうした二通りのタイプの人がいる。
 前者は必殺法習得法のみを学びに来る人で、高級儀法(高級の場合は「儀法」の文字が使われ、低級の場合は「技法」の文字が当てられる)ばかりを好み、後者は技の全般を見抜き、高級儀法が低級技法から成り立っている事を知っている。
 また前者は「いいとこ取り」を狙い、後者は「地道に地固め」をする。しかし前者のタイプの人は、内弟子としては不向き・不合格であり、生涯それ止まりの人である。

 武技には二通りのものがある。高級儀法と低級技法である。
 低級技法は簡潔で単純で、敵に悟られ易い欠点を持っているが、万人向きで非常に使い易い。
 もう一つの高級儀法は、難解で複雑で、修得困難であり、非常に使い難い。そして高級儀法の欠点は、それだけを修得しても、決して実戦に役に立たないことである。
 何故ならば、高級儀法は低級技法によって誘導されるからである。この事を後者はよく知っており、観察眼が鋭いと言える。しかし此処まで観察眼の鋭い人は稀であり、多くはこうした観察眼を持たない。目先の強さを追い求め、小手先の器用な技ばかりに固執しようとする。そして薪水の労など二の次だ。

 これは「薪水の労をとる」と言う事が、如何に難しいかを現わした、子弟関係の粗密の難しさである。
 しかし薪水の労をとった経験の無い者に、名人は決して生まれない。
 名人は、「習う」の段階で、既に、薪水の労をとる努力をしているのである。そしてこの努力の開きは、十年、二十年と年を追うごとに大きな開きを見せ、かくして何十年遣っても凡夫の域を出ない者と、やがて弟子に慕われ、名人の名に相応しい隔たりが起るのである。


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