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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●秘伝書の持つ意味

 さて、秘伝書あるいは極意書というものは、次の三つの違いを持つ形式から構成されたと考えられる。
 その第一は、人脈系統というものを強調し、自己の流派を伝承する為に、人脈伝承の系統図だけを明らかにして、それ以降については、長たる首席師範の力量に任せ、組織造りを中心としたものである。この人脈の中には、伝承系図に歴史的な有名な武術家が登場する。古流武術の形式はこれが最も多い。

 第二に文伝というものを強調し、記録中心で、文章で事細かに記し、同時に歴史と人脈伝承の由来を明らかにし、世に有名を轟かす事を目的にしたものである。これは武技の極意伝承というより、伝承の際、多額の金銭を支払い、そのステータス・シンボルに身を寄せる事で自己満足に浸るというものである。旦那芸的で、八光流等の新興武道によく見られる。

 第三に体伝という形式をとり、人脈系統や文伝を無視して、秘密主義に徹し、密教や古神道に印伝形式に則って、世に広まる事を憚り、極秘の裡に一子相伝として伝わり、一切を門外不出にして持ち出しを封じてしまったものである。大東流はまさにこの中に含まれ、幾多のダミーの伝書(現在残る武田惣角が与えたとされる伝書は、合気道創始者の植芝盛平によって体系の構想が練られ、この筆記については某代書人によって書かれた。また八光流柔術創始者・奥山龍峰や生長の家初代総裁・谷口雅春らも代書を行った)を放出させながら、その中枢は闇に包まれて来た。そしてこれは恐るべき密教の調伏法に則った、怨敵降伏の恐るべき武術であった。

▲植芝盛平が大東流合気柔術の看板を掲げた頃の写真

 では、この怨敵降伏の的にされたものは何か。
 会津藩から見た場合、薩摩・長州・土佐であり、殊に薩摩については恨みが深かった。これは古神道と密教に通じていた西郷頼母の調伏法(ちょうぶくほう)の激しさから窺えるのである。
 また秘密情報を隠す為には有能なダミーが必要であり、その構造には裏と表が必要になってくる。つまり本物を裏に封じ込め、ダミーを表面化する作業であった。

 当時、頼母が福島県霊山神社の宮司であった頃、その元に修行に来ていた武田惣角は、表を徘徊する絶好のダミーであったに違いない。惣角はこの当時、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)の直心影流の剣を学び、大東流を名乗っていない。「惣角流合気術」がその流名であり、頼母が大東流を名乗るのは、大日本武徳会が創設された明治三十一年以降の事になる。

▲直心影流の達人・榊原鍵吉

 会津戊辰戦争で敗れて以来、頼母の怒りの眼は、明治新政府を横領したこれ等の藩閥政治首謀者に向けられる事になる。事あるごとにその反撃の機会を窺っていたが、明治十年の西南戦争が蜂起した際、頼母は薩摩西郷軍に軍資金を送ってこれを援助する。
 頼母の行動は、多くの会津藩士が、薩摩討伐の為に喜んで警視庁隊(会津抜刀隊)に加わり、戊辰戦争の恨みを晴らすべく、九州南国の地に赴いたのとは対象的であった。しかし頼母は真当の敵が誰であるかを知っていたのである。

 警視庁隊に旧会津藩士を起用する事を考えたのは、「征韓論」で対立し、勝ちを収めた大久保利通であり、それに賛同したのは岩倉具視、伊藤博文、木戸孝允らであった。また、その罠(わな)に嵌って槍玉に挙げられ、事実無根の征韓論者に仕立て上げられて野に下ったのが西郷隆盛、江藤新平、後藤象次郎、副島種臣、板垣退助らであった。

▲江藤新平

▲板垣退助

 西郷隆盛と共に、「征韓論」に敗れ、野に下った江藤新平と板垣退助。
  しかし征韓論は、大久保利通や岩倉具視らが企てた卑劣な画策であった。そして西郷隆盛には征韓論者の汚名が着せられ、やがて西南戦争を蜂起させる誘因を作ることになる。そして韓国併合の悲劇も、ここから始まる。影でフリーメーソンや、ユッタ衆といわれる人々が暗躍したことは言うまでもない。

 「征韓論」は、韓国の教科書にも西郷隆盛や、その日本陽明学の明治の伝道者であった吉田松陰を悪と決め付け、韓国併合はこれらの人物でもたらされたかのように宣伝されている。
  此処で明治新政府の、薩長土肥の藩閥で固められた権力闘争が浮き彫りになり、西郷追放後、朝敵としての汚名を西郷一人に被せ、西南の役が蜂起する。
  その後、西欧追随政策をとり、西欧的植民地主義を模倣して、日本は帝国主義路線を直走る事になる。

 明治という時代は欧米的な考え方が雪崩込み、国家レベルで次世代に向かって、その種子が蒔(ま)かれた時代であった。福沢諭吉や森有礼、西周(にしあまね)らの欧米酔心派の文化人や有識者によって、陰謀ひしめく世論操作が行われた。
  福沢らは当時の、残存した「武士道精神」や、武士道をもってなおもその実践に心がける武士階級崩壊のために、廃刀令を画策し、あるいは断髪を決行して、時の明治政府の側面に圧力をかけ、欧米推進運動を繰り広げたのである。この最たるものが、福沢の言う「脱亜入欧」であり、日本精神の秩序を崩壊させ、それに代わって外圧に下る西洋式思考を日本人に培養したのである。

▲フリーメーソンの高級メンバーであり、明治維新というフリーメーソン革命の最後の仕上げとして、日本を「脱亜入欧」政策で欧米化に導いた福沢諭吉

 そして日本人は、日本民族の誇りを積極的に忘却させようとした時代でなかったか。あるいは廃仏毀釈に見られるように、仏教排撃運動を徹底的に遂行し、国家神道に繋がる神道家を中心とした、形を変えた脱亜入欧政策ではなかったか。

 欧米的な文化思考が強まり、以降、日本は極度な白人コンプレックス陥っていく。廃仏毀釈運動からも窺えるように、寺塔放火や僧侶迫害が行われ、その裏で強力な脱亜入欧政策がとられ、欧米従属型の、無条件で欧米に屈服する白人崇拝信仰が布教の嵐となって日本中を覆った。

 頼母はこの発信基地を知り抜いていた。頼母・四郎親子が徹底的な毛唐(欧米人)嫌いであったのは、日本が真の独立国家としての国体を失い、日本古来からの秩序は旧来の陋習(ろうしゅう)と受け止められ、一方的に欧米従属主義を押し進める欧米推進派の自由主義・功利主義を危惧したからであった。
 頼母の頭の中にあったものは、欧米列強に対する日本精神の主権回復であった。「大東流」の流名由来は、これに端を発している。従って大東流は、古流の一流派であるというより、欧米を意識した国家武術的な秘密兵器であった観が強い。


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